萌芽の刻(とき) 第3話
カスケードの後を追ったケリーの前で、ひとりの村人が消えた。
小さな光りの粒子となった彼は、一筋の白煙の如く空へと昇っていく。
あ、と手を伸ばしてみても空を切るばかりで、消えた村人の残像すら掴めない。彼が持っていた鍬が虚しく路上に転がる。
畑仕事に従事しているほかの村人たちも、次々と姿を消していく。
まるで悪い夢でも見ているような気がしてくる。
あちらからも、こちらからもその光りの筋は空に向かって伸びている。
人であったはずの光の筋が、真っ直ぐに空へと──。
五分と経たないうちに辺りの村人はすべて消え去った。ケリーは様子を確かめるべく翼を広げ、上空へと移動した。
そしてガーデン中から立ち上る光の筋に愕然とした。
大きな街では塔の如く光りが立ち昇っているのだ。
畑の中から。
或いは川辺から。
果てはガーデンから伸びる街道からも光りは天をめがけ伸びていた。
ーーこれはいったい?
どういうこと?
光りは吸い寄せられるように一点へと集中していた。
見上げた中空に──昼の月が浮かんでいた。
いつもは空の明るさに負けて見えない筈の真昼の月が、天空いっぱいにその存在を誇示している。
ーー月は魂を地上から引き寄せる……そして太陽へと運ぶ……。
ピレアで過ごしたカスケードの屋敷で読んだ、古い書物の一説が頭に浮かぶ。
ガーデンが、ガーデンとしてこの場所に存在する前の──栄華を誇った豊かな国フェルフォーリアに伝わる言い伝えだ。
同じ場所だからその言い伝えが生きているとは考えにくいが、それでもケリーは理屈ではなく、あの光の筋をガーデンの人々の魂だと理解した。
だがなぜそんなものが起こったのだろうとケリーは首を捻り、そして脳裏に浮かんだのはカスケードの姿だった。
カスケードはウルマの元へ向かった。
彼女を斬ったところで、こんなことが起こるのだろうか。
ケリーの胸に暗い不安が押し寄せてくる。
ガーデンで暮らす人々は、生を司るオステオスの祝福を受けて生きているのだから、なにか起こったのだとしたら、オステオスの方だと言うのだろうか。
ぐるりと空を見回した。
変わらない澄んだ青空。
変わらない柔らかな風。
変わらない──路傍の白い花。
目に映るすべての風景は変わらないのに、足らないものがある。
きっかけを作ったのはやはり、カスケードなのだろうか。
間に合わなかったのか、遅かったのかと振り返ったその刹那、背後にいたのはカスケードだった。
彼の手に握られた月読の、刀身をしとどに濡らしているのが血であることに、ケリーの視線が釘付けとなる。
いつもはカタカタとうるさく鳴るはずの月読が嫌に大人しい。
ーーカスケード?
虚ろなカスケードの双眸が、眼前のケリーを静かに捉えた。
もう、終わりだなと呟くカスケードの声は掠れていて、酷く聞き辛い。
ーー終わりって?
この光りのことを言ってるのか? なにがあったんだ! なにをしたんだ!
「光りがすべて月の船に乗せられてしまえば、ガーデンは終わりだ。喜べ、ケリー。俺はお前と争わなくて済む。もう、誰とも争わなくて済むんだ……」
自嘲するカスケードの顔は強張ったままだ。
争わなくて済むことを心底喜んでいるようには見えない。
ーーそれってどういう意味?
どうしてガーデンの人たちが光りになんてなるの。月読に付いてる……その血のせい?
カスケードは月読を改めて見つめた。その動作は緩やかで、酷く疲弊しているようだ。
カスケードはだるそうに「いいや、これは違う」と答えた。
「オステオスが死んだ……。ウルマの呪いのせいなのかは知らない。パンディオンたちはそうは思っていないようだがな……。ーーこの血か? これはウルマのものだ。マリールーが望んだことだ……ウルマもそれを望んでいた。これはあくまで憶測だがな。だがーーあの場にいたウルマはもう正気じゃなかった。これでいいんだ。これで……。満足したんだろう。ウルマを殺してからは少しも鍔を鳴らさない。勝手なヤツだ」
ははは、と空笑いしながら、カスケードは血の付いた月読をそのまま鞘に収めた。
光りの筋が立ち上る様をぼんやりと眺め、
「綺麗なものだな、花の魂ってやつは」
独白のように呟く。
カスケードの手は胸に当てられていて、その指先はゆっくりと上着を握り締めていく。
「訪れたのが狂気ではなく、終焉だったとはな。それなら、この胸の息苦しさから解放されるのだろうか? ケリー」
答えはお前が持っているのだろうと、カスケードの視線がゆるゆるとこちらへ向く。
ケリーは質問の意味を解せない。小さく首を振って答えた。
「“与え過ぎればいずれ欲するようになる”か……。俺はお前に答えを求めてばかりだ」
浅い息を吐きながら、カスケードは言う。
緩やかに、朝摘みの芳しい花の香りを嗅ぐように、カスケードは息を吸い込む。
両手を広げ、なにかを迎え入れるように、その顔に笑顔を浮かべた。
「“私はとうとう貴方の名を呼ぶことはできなかった”」
我が主、と囁くように言う。
カスケードの背後では、空の月に向かい、光の筋が煌き、昇っていく。
彼の身体がぐらりと揺れた。月読の柄をしっかりと握るカスケードの身体がバランスを崩し、落下を始めた。
彼の羽根から零れ落ちてくる羽毛が、ケリーの顔に触れては飛んでいく。
まるで時間の早さが変わったようだ。伸ばした手に彼の羽根を握り込む。何枚も何枚も、続けざまに握り込む。
ケリーの顔は必死だった。
カスケードの羽根を毟り取られているようで、ケリーは必死で飛び交う羽毛を集めていた。
そして足元から聞こえる鈍い音に、ケリーの手は止まり、正気に返った。
地面に叩きつけられたカスケードの手には、変わらず月読が握られていた。
土塊の彼は、飛び散った羽毛の中に横たわっている。
ガーデンの人々のように光りの粒子にならない彼の体躯は、ひび割れたただの泥人形と成り果てていた。
綺麗な藍錆色の瞳は、ガラス玉のようにひび割れて、ケリーのいる虚空をじっと見上げていた。
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