萌芽の刻(とき) 第2話
嫌な霧が、行く手を阻むように四人の前に立ちはだかる。
いつも神殿で身に付けている、裾を引きずる貫頭衣を脱ぎ捨て、軽装で森の中を歩いている四人とはパンディオン、ムスカリ、マウリーン。
そして一番後方を歩いているオステオス。
四人が向かっているのは、かつて自分たちが封印したウルマのいる池だった。
タナソツームの発生の発端がウルマであると分かった以上、放置しておくわけにはいかない彼らは、彼女の説得に池へと赴いたのだ。
そしてその説得の役目を担ったのが、彼女を封印した、兄でもあるオステオスだった。
忘れてしまいたいその記憶は、池が近くになるにつれ鮮明に思い出されて、当時と変わらない独特の湿気臭さが四人の鼻を衝く。
澱が凝ったような陰鬱な記憶が、彼らの進む足を鈍くさせていく。
生きるものを感じさせない森。
ここは以前からこうだっただろうか。
そんなに古くもない記憶を手繰り寄せ、そうさせてしまった原因に行き当たると、それぞれの顔が暗く沈みこむ。
ようやく繁みを抜け、拓けた場所に出ると、そこがウルマの池である。
波紋ひとつない水面に、辺りの木々が映り込んでいる。
さあっと、まるで雨でも降り出したかのような音が立ち、水面を瞬く間に霧が覆い尽くしていく。
それは周囲を取り囲むように、ざわざわと拡がりを見せ、拓けて明るかった池の周りはやがて暗くなる。
ふふ、と楽しげな笑い声が聞こえた。
少女のようなその声。
「何とも懐かしいお方々が、こんな場所へ揃ってどのような御用でしょう?」
その声は、恭しく彼女を出現させるべく、霧が掻き消されていく池の中央から聞こえ、やがてそこにウルマの姿が現れた。
四人は彼女を見ると途端に顔を顰める。
彼らの記憶に残るウルマの面影が、そこにまったく残っていなかったからだ。
幼い面差しはそのままであるのに、清楚で純粋だった彼女は欠片も見えない。
きちっと結われている髪が、却ってその異様さを増幅させているようで、口の端から零れているなにかの液体に、四人は一様に寒気を感じた。
ごくりと誰かが唾を飲んだ。
異様な彼女が、にい、と笑む。
まず一歩足を踏み出し、ウルマに声を掛けたのはオステオスだった。
「その様はなんだ、ウルマ」
毅然とした物言いである。
しかし、ウルマは小首を傾げ、尚も笑う。
「あら、お兄さま。ごきげんはいかが?」
「すこぶる悪い。お前のその様を見たら尚更だ」
「それはそれは。私なんて四人の顔を見たら、心が乱れて大変ですわ。
今すぐそちらへ行って、その首を掻き切ってしまいたいくらい。
──でも無理ですわ。
だって私の足にはお兄さまがこの池の底へと繋いだ鎖がしっかりと巻きついているのですもの。
これ以上、私にどんな苦痛を与えようというのです?
マリールーを奪って、私を鎖で繋いで……。
それでお兄さまは満足?」
ぐ、とオステオスが言葉に詰まり、眉間に皺が寄る。
ウルマの白くて細い指が、紅で光る唇をゆっくりとなぞっていく。
「私をここに繋いで得たものはなに?
永遠に繰り返し巡る一つの環?
それは永遠ではないわ。
この世で終わらないものなんて、なにひとつないのですもの。
──そうでしょう?
だからマリールーの命は終わった……いいえ……終わらせられた。
けれどね、お兄さま。
また、始まるのよ?
それはマリールーではないけれど。
私ではない別の誰かと……新しい永遠を紡ぎ始めるの。
だから──今のガーデンの永遠など、ただの幻影に過ぎないわ。
澱んだ世界には破滅が必ず訪れるもの。
──喜んで?
お兄さま?
お兄さまが創り上げた澱みを、この私が終わらせてあげる。
お兄さまのその苦しみを──この孤独と苦痛に塗れてきた私が解いてあげるの……!」
青ざめ顔を背けるオステオスやパンディオンたちを尻目に、ころころと鈴の音のようなウルマの笑い声が水面を滑るように駆け抜けて行く。
そして彼女は一層大きな声をあげる。
「私たちは、所詮、神にはなれないの。
覚えておくといいわ。
──私たちは神じゃない!」
ウルマの鈴の音が、耳障りなけたたましい笑い声へと変わった。
彼女の狂った笑い声は、渦を巻くように森中に響き渡る。
神ではないと嘲笑うウルマのその様は、やはりすでに正気ではないらしい。
そんな彼女を直視できないマウリーンたちは、一様に目を逸らし、口唇を噛み締める。
「お兄さまの独占欲がガーデンの理想を取り崩してしまった。
ガーデンはもうお終い。
今の私が紡ぐ言葉はもう愛の言葉じゃないの。
マリールーを失ったあの瞬間に、私のすべては終わった。
──私の言葉はすべて呪い……。
嫌い……嫌い……大嫌い!
理想を押しつけるお兄さまも、それを心の底では否定しているくせに何もしない他の方々も……みんな大嫌い!
返して!
マリールーを返してちょうだい!
そうしたら──たとえ冷たい池の底に沈められても耐えられるから……。
そうしたら……もう二度と……呪いの言葉は吐かないから──」
二度とタナソツームは創らないから、と言葉を結ぶ。
しかし、一度奪った魂は戻せない。
月読で斬られたマリールーはその刀身へと魂を吸い込まれたのだ。
神苑で斬られ、花園で再生を待っている人々とはわけが違う。
それはウルマも承知していることだ。
自分の望みがどれだけ無駄なことであるか。
だから、彼女の声音に一層の凄みが増していくのを一同は肌で感じていく。
「お兄さまの祝福を得たものは花園で再生を待ち、祝福を得ていないものはただ滅するのみだと、あくまでそう仰るのね。
それならば、私はこれからもタナソツームを創り続けていくだけ……。
お兄さまのガーデンが根底から崩れていくまで──お兄さまの選択が過ちであったと認めるまで──私が……マリールーの元に逝けるまで……。
だからお兄さま……。
私はこれからもずっとあなたを呪い続けるわ──!」
兄を呪い、ガーデンの滅びを願ったウルマの叫びがオステオスに襲いかかる。
静かにくずおれるオステオスに、パンディオンとムスカリは急いで駆け寄ったが、二人が抱え上げたオステオスはすでに息をしていなかった。
目を見開き、苦悶の表情を湛えている。
呻き声ひとつ上げるでもなく、まるで赤子の手を捻るように彼の魂は奪われた。
「ウルマ! あなた…いったいなにを。オステオスは兄でしょう。それを呪い殺すなど、酷過ぎませんか?」
パンディオンは、水面で狂人の如く笑うウルマに問うてみたが、すでに正気を失っている彼女にその声は届かない。
人形のように動かないオステオスの傍らで、彼が死んでしまったことを受け入れられずに項垂れる二人の傍へ、マウリーンが膝をつく。
彼女の声はとても落ち着いていた。
まるで、いずれこうなることを先見していたように。
「オステオスは呪いなどで死んだのではないと思います」
「では、なぜ」
「張り詰めていた彼の神経は、もう限界だったのだと思います。だって……愛していたウルマを自らが封印し、その苦しみにずっと苛まれていたのですから。己の罪深さをもっとも呪っていたのは他でもない──彼自身だからです。たとえウルマがオステオスの死を望んでいたとしても、それに彼が答えたのだとしても。──彼は……永遠にその責め苦から逃れられないというのに」
「永遠に?」
「永遠に……です。彼は赦すことも赦されることもないまま」
「永遠に廻るのは──」
ムスカリは震える両手をマウリーンへ差し出した。
しかし、その手を取ったのはパンディオンだった。
「なにも廻らないということでしょう」
「私は時間を操れる……!豊穣も司っている……!」
パンディオンはゆっくりと首を振った。
「止まるわけではないでしょう? 時の流れが一時的に緩慢になるだけで、それを永遠とは言いません」
「もう──終わるときがきた、ということです」
マウリーンが涙をぽつりと零した。
ムスカリは自身の掌を凝視している。
「オステオスが死に、ガーデンが終わる。私たちにもそれはやってくると……?」
重い空気がたち込め、背後で続いていたウルマの笑い声がまったくしなくなったことに、三人は気づいた。
パンディオンたちはゆっくりと視線を水面へと向けた。
その視界に飛び込んできたのは、剣で胸を刺し貫かれ、ずぶずぶと池の中にゆっくりと沈みこんでいくウルマの無残な姿だった。
鈍く光る切っ先から刀身を伝って血が滴り落ち、水面にはウルマの血で出来た波紋が幾重にも拡がっていった。
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