記憶の礎 第3話

 花の匂いは苦手だ……。

 舐めるように丘を駆け上る風も嫌いだ……。

 身体の中心が時折、こうやって些細な日常に対して疼いた。なぜ苦手なのか、どうして嫌いなのか。

 そもそも嫌悪を感じることを口にする、この行為にすら疑問を感じずにはいられなかった。

 なぜなら、カスケードの同胞は、さしたる言葉を持たぬまま戦場へと赴き、その土塊の身体を粉々に粉砕させることがこの世に存在する唯一の意義だったからだ。

 カスケードも本来ならば、エクセイシアが持つであろう軍隊の一兵力として、国を守るための戦場へ向かわなければならないのに、彼はそうならず、影のようにぴたりとその身を主に添わせ、宮殿で生活をしていた。

 そのことが主への誹謗中傷へ繋がるということを……カスケードはわからなかった。



 エクセイシアは──カスケード以外の泥人形は造らなかった。

 その技術をとうぜん持ち合わせてはいたが、元来、争いを好まない彼は、頑なにそれを拒み続けたのだ。

 このエクセイシアの思いもまた、カスケードには理解できない。

 いつかわかるよと、なんども、呪文のように主に繰り返されても「土塊の私には…」と目を逸らすほかなく、ただこの平和なフェルフォーリアの世が続けばよいと、現状の幸せを願う時でさえ虚ろだった。

 それは自分が主たちとは違う、心を持たぬ「土塊なのだから」とカスケードは思う。

 主が自分にどんな魔法を施したのか。想像もつかない。

 それが苦しいものでなければいい。

 悲しいものでなければいい。

 チチチと鳴くヒヨドリの軽快な声。主がよく口にする甘みさえも感じるという森から吹く風。

 主が綺麗だというものはすべて美しいのだろう。主が心地よいと感じるものはすべてそうなのだろう。ただ自分が……そう感じない。それだけだ。



 ベッドから下りたばかりの主は未だ寝巻き姿で、「カスケード。そろそろ何か変化を感じないか?」と小首を傾げてカスケードの顔を覗き込んでくる。

 主に上着を着るよう促しながら、カスケードは困ったように微笑み、その柔らかな藍錆色の瞳が暗く沈んでいく。

 変化──とはなにか?

 両腕を袖に通させ、襟を正す。

 襟の縁を飾る重厚な刺繍に指を滑らせながら、カスケードは、低いがとても優しい声音で答える。

「いいえ、まだ何も……。我が主……」

 伏せた長い睫毛が、悲しみを湛える藍錆色を隠す。

 自分の瞳に、そんな色が宿っていることをカスケードは知らない。ただ、ふいに見上げてきた主の顔が、ぱっと明るいものに変わったことを不思議に思うだけだった。

 小さな唇を僅かばかり開けて、鈴の音のような可愛らしい声で笑う。

「いいや。その顔が何よりの証拠だ。──ふふふ。早くカスケードの笑顔が見たいよ」

「命じていただければいくらでも──」

「違うよ、カスケード。でも、まあいい」

 エクセイシアがそっと腕を伸ばし、細い指先をカスケードの頬に宛がった。

「いつかきみの笑顔がぼくに注がれるのを楽しみにしているよ」

 主の楽しげな声とは裏腹に、落とした視線の先にある白い柔肌をカスケードはぼんやりと眺めていた。

 きっとこの白くて柔らかい肌も綺麗、というのだろう。

 泥人形である自分には持ち合わせないもの。目覚めたばかりの主の掌は温かいのだろうか。それとも部屋の温度に負けて冷たくなっているのだろうか。

 胸の中央に小さな痛みが走った。

 カスケードは胸を押さえて眉根を寄せる。崩れてしまうのかと小さく漏らした。泥で出来た土塊の自分の身体が音を立てて崩れていくのかと思った。

 エクセイシアはすでにカスケードの傍から離れていて、テラスへと足を踏み出そうとしている。

 眩しい朝陽に当てられて、主の身体が透けるように輝いて見えた。

 胸に小さな痛みが走ったことを主に告げれば、彼はどんな顔をするだろう。さっきのように嬉しそうに微笑んでくれるだろうか。

 白い頬を朱に染めながら「ほらね」と笑ってくれるだろうか。

 エクセイシアの笑った顔が見たいと、カスケードは望んだ。

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