記憶の礎 第2話

 揺らめくろうそくの明かりが生き物のように部屋中を蠢いている。

 勢いよく持ち上げられた濃紺のカーテンは、ベルベットらしい滑らかな光沢を見せながら、すっと現れた人影が通り過ぎた後、ばさりと重みのある音を立てて床へ落ちた。

 濃いオレンジに近い金色の髪を振り乱し、怒り心頭の王子は怒りに任せてなんども大きな溜息を吐く。

しまいには子供のように足を踏み鳴らし、間違っている、と声高に叫び始めた。それを宥めるように、柔らかで落ち着いた声が部屋に響く。

「我が主よ。心をお静かに」

 果実酒が王子の前に差し出されると、彼はその見事なカッティングを施された異国のワイングラスを乱暴に受け取り、気を静めるように一気に喉へと流し込む。

「ああ、口の端から零れていますよ。まだまだ小さいお子のようだ」

 そう言って藍錆色の瞳は笑い「失礼します」と言ってから王子──エクセイシアの口元を指で拭った。

「すぐに綺麗な布をお持ちいたします」

「いや、いいよ。二度も拭いて貰うなんて、それこそ子供のようだからね。ありがとう、カスケード。これで少しは落ち着いた」

 エクセイシアは空になったグラスを持ち上げ、屈託のない笑顔を見せた。

「父上はハブランの言いなりだ。あれではどちらが王かわからない」

 傍にあったチェストの上に、飲み干したばかりのワイングラスを無造作に置きながら、愚痴のようにこぼす。

「そのようなことはありません。王は……王家の人々は皆、神の子なのですから、ハブランさまがどう足掻いたところで王にはなれません。──ハブランさまのお考えは武将の血が濃いドルバドール家独特のもの。王に取って代われるほどのものではありません」

 カスケードの声は、とても落ち着いていて、憤っていた王子の心が少しずつ解れていく。

「そうだといいけど。ハブランの猛々しさはこの国に良くないものを連れて来そうで怖いよ」

 窓辺に歩み寄ったエクセイシアは、差し込む月光に顔を覗かせ、眉根を寄せた。

「庭で話そう。いい月夜だ」少し思い詰めたような声が、庭へ行こうとカスケードを誘う。

 カスケードは頭を垂れ、瞳を軽く閉じると「仰せのままに。我が主」と答えた。

「我が主はよせって言ってるだろう。エクセイシアでいいよ。──何度も言わせるな」

 エクセイシアは呆れたように首を横に振った。王子が廊下へ出ると、主の真意が図れないカスケードは慌てて後を追い、

「我が主をそう呼んでなにが可笑しいでしょうか」と、その真意を問うた。

 エクセイシアは僅かに顔を振り向かせ、

「仰々しすぎる。──確かに。カスケードを創ったのはぼくだけど、だからといってそう呼ばれるのは好きじゃない」と色素の薄い桜色の唇を小さく尖らせた。

「慣例に従ったまでですが──」

「従わなくていい。ぼくは主人と従者の関係の為に君を創ったんじゃない。ぼくの友人として創ったんだから、エクセイシアと呼べばいいんだ」

 カスケードは眉根を寄せ、困ったように、目を伏せた。

「私も他の泥人形と同じく、感情に複雑な多様性がありませんから、そう命じられれば従います。──呼べ、と。どうぞ命じてください」

 エクセイシアはきゅっと下唇を噛んだ。

「友人は命じられて名を呼び合うものじゃない。──いいよ、もう。そのままで……。いつか君の方からぼくの名を呼ぶようになるから──」

 ふふふ、とエクセイシアが笑う。

 カスケードは伏せていた視線を上げ、主を見た。

「それはどういうことでしょうか?」

「それを言ったらぼくの楽しみが減ってしまうよ。そうだね、ヒントをあげよう。君の身体の中に魔法をかけているんだ。いつ発動するかわからないところが、ぼくの術者としての未熟さなんだけどもね」

 エクセイシアは両手を広げ、駆け足で廊下から回廊へ、回廊から庭へと飛び出した。

「ご覧、カスケード。今夜は満月だ。御伽噺に出てくる月の船が、魂を運び出すところだね」

 子どもの頃になんども聞かされた、フェルフォーリアの古いお伽噺を懐かしそうに呟く。

 そして太陽が人々を生む──エクセイシアは両手を夜空に掲げた。中空に浮かぶ満月に、手を翳し、少し悲しげな笑みを浮かべる。

 煌煌と月光が降り注ぐ中、エクセイシアの庭は芳しい花の香りで満たされていた。

 ふわりと舞い上がる花の香りと、散る花びらの中に佇む主をカスケードは見つめる。

 エクセイシアは振り返り、自分に向けられているカスケードの視線を絡め取るように見つめ返した。

 幼さが残るエクセイシアの澄んだ高い声が、静かな夜にそっと囁く。

「いつか、きちんとぼくの名を呼んでね。カスケード」

例え君が泥人形であっても、ぼくにとって君はかけがえのない友人なんだ、と自分より遥かに背の高いカスケードの身体を抱き締めた。

 しなやかなエクセイシアの体躯からは花の香りが立ち上り、カスケードの鼻をくすぐる。

 カスケードは抱き締められるまま、ぼんやりと、天空の月を眺めていた。

 エクセイシアが、なぜ自分以外の泥人形を造らないのか。

 他の王家の者達がそうするように、なぜ軍隊を造らないのか。

 フェルフォーリアの泥人形は使い捨ての駒に過ぎないはずだった。命のないものに魂を吹き込む魔法の国。

 その純然たる血統を受け継ぐ王子──エクセイシアが、たったひとつの泥人形──カスケード──に向ける純粋な想いを、この泥人形は理解できないでいる。

 空に浮かぶ満月を囲うぼやけた環は、まるで月を守っているように見えた。

 カスケードは、自分の存在意義はそれなのだろうかとも考える。

 腕の中の小さな少年を守ることが、泥人形としての生を全うさせる唯一の理。理解できない言葉を紡ぐ王子。叶えられるはずなどない希望を語る王子。

 乾いた砂を魔法で繋ぎとめられているカスケードにはわからない。

 王子を守るという具体的な意義がなければ、この世の意味すらわからない。

 カスケードは肩を竦めた。

「我が主。風が出てきたようです。もう戻りましょう」

 花の香りが風に乗って鼻につく。

 カスケードは眉根を寄せながら、主の背をそっと押した。

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