第4話 踏みだしたその先に

「ねえ、めーたん、これで大丈夫かな?失礼じゃないかな?」

 メイドさんが運んできてくれた大量の衣裳の中から、あれやこれやと鏡の前で悪戦苦闘すること早1時間。

 一応、派手過ぎず地味過ぎない雰囲気の青いドレスに身を包んでは見たのだが、何せ着なれないので、自分では不自然に見えて仕方ない。

「ねえ、どう?めーたん」

「……」

 だが、淡い黄色のフリフリワンピに身を包んだめーたん(超可愛い)はうわのそらで、何も無い空間に視線を固定している。

 壁に銀のくいで吸血鬼でも打ちつけられているのかと視線を追ってみるが、そんなものは当然無い。

 と言うか私の部屋だ。

そんなものが有ったら怖すぎる。

「ねえ、めーたんったら!」

視界を塞ぐように顔を近づけると、ようやく反応を見せるめーたん。

「え?どうしたの、かえたん」

 ……聞いてませんでしたか…。

「…だから、衣装よ衣装。こんな感じで良い?」

「あ、うん。かえたんはどんなふくでもかわいいよ」

 そう言って見せた笑顔は、やはりどこか覇気が無い。

「……もう…」

 まあでも仕方ないか、と思いなおす。

 何せ今日は、めーたんの両親が訪ねてくるのだから!

 私が「恋人」になってから約三ヶ月、めーたんの両親がここを訪れるのは、初めてのことだった。

 聞けば、半年振りだそうだ。

 なんでも、普段は危険を避けるために別々に暮らしているらしい。

 確かに、めーたんの…「教祖様」の親ともなれば、狙われる事もあるだろう。

 けれど、それならばだからこそ、子供と一緒に居るべきなのではないかと思ったりもするのだが、それを言うとめーたんが悲しそうな顔で、「おとーさんとおかーさんをわるくいわないであげて」と言うので、あまりこの話には触れないようにしてきた。

 そんな両親が、久々にめーたんに会いに来るのだ、めーたんも緊張しようってモノだろう。

 ……ただ、何か違和感も感じる。

 久々の再開に緊張もするだろうが、両親と会うってのはもっと喜ぶべきことなんじゃないだろうか…と。

 私には両親が居ないのでよく解らないが、普通の親子関係がそう言うものだという事は想像できる。

 とはいえ、こんなめーたんは今まで見たこと無いので、めーたんにとっても、両親は特別な存在なのだと理解するのは容易だった。

 だからこそ、私も立派にドレスアップしなければ!と。

 一応「恋人」として、ご両親への初めての挨拶だ。

 印象を良くしておくに越したことはないだろう。もしかしたらそのうち、私の義母や義父になるかも知れないのだから!

 ……この国でも同性結婚が認められたその時には!

 なんて、夢物語を夢見ていると、ドアがノックされる。

「教祖様、御両親が御到着されました」

 外からかけられたその声に、めーたんは慌てて立ち上がり、姿勢を正す。

 緊張のためか、両手で服の裾を強く掴んでいる。

「……」

 私は、その右手をそっと、左手で掴む。

「手、つなご?めーたん」

 少しでも、心を落ち着かせるのが、今の私の役目…なのだろう、きっと。

「…うんっ!」

 それが効いたのか、めーたんは少しだけ落ち着いたように、今日初めての笑顔を見せてくれた。

 ゆっくりと、ドアが開かれる。

 ドアの動きと反比例するように、ドアが開かれていくと、めーたんの手を握る力が強くなっていく。

 私もそれに応えて、痛くならない程度に、手をしっかりと握る。

 繋いだ手から伝わる、めーたんの緊張。

 けれどならば、逆に私の「大丈夫だよ、私が傍に居る」って気持ちも、繋いだ手から伝わってくれますようにと、願いながら力を込める。

 ―――そして、ドアが完全に開かれたそこには、一組の男女が立っていた。

 年齢的には、三十代中盤と言った感じの男女で、何と言うか……こう言ってはなんだが――――嫌な感じがした。

 男の方は、高級なスーツに身を包んではいるが、そこかしこに皺が目立ち、ネクタイも緩んでいて、まるで酔っぱらいのような印象を受ける。

 髪もボサボサだし、不精髭も目障りで、何よりも目つきが気に入らない。

 あの異様に鋭いようでいて、深く淀んだ瞳は、まともで健康な人間の目ではないと、直感できる。

 女の方も、厚化粧と、下品にギラギラと輝く宝石類を体中にまとい、派手なドレスとブランド物の高級ハンドバックを三つもぶら下げていた。

値段の高い宝飾品等を身につける事で、自分が選ばれた人間だと錯覚しているかのような、どこか人を蔑んだ雰囲気のある女だった。

 ―――――これが、めーたんの両親?

 あまりにも想像外の人物の登場に戸惑っていると、めーたんが口を開いた。

「お、おひさしぶりですおとーさま、おかーさま、おあいできてうれしいです」

 ―――それは、両親に対する言葉とは思えない程に、他人行儀な言葉。

 ……その声は、どこか震えているようでもある。

 声に応えるように、めーたんの母がツカツカと歩みよって来る。

「…そうね、久し振りねメイカ。会えてうれしい…わ!」

 と、言葉と同時に、突然めーたんの頬を平手で叩いた!

「なっ!」

 私は驚いて声を出す。

 それは、どう見ても全力の平手打ちだったからだ。

 戸惑っている私をよそに、女は、痛みで座り込んだめーたんを怒鳴りつける。

「あんた、しっかり教祖やってんの?最近ろくな貢物がないじゃないの!もっと高いモノ貢がせなさいよ!命を盾に取ってんだから楽勝でしょ?」

 ――――なにを言ってるんだこいつは…!?

 そして、座りこんだめーたんの頭上から散々どなり散らして、もう一度殴ろうかと手を振り上げた。

「・・・・・・・っ!」

 バチンッッ!

 私はとっさに二人の間に割って入り、代わりに平手を食らう。

「かえたんっ!」

 めーたんが心配そうに、私の腕を掴んでくる。

 大丈夫だよめーたん、この程度なんでもないって。

「……なんなのよアンタ、メイドじゃないの?」

 女は、そこで初めて私の存在に気づいたかのように声をかけて来る。

「……はじめまして、わたくし、めー…メイカさんの警備を任されている、掘村 佳奈恵と言います」

 私は全ての感情を押し殺し、冷静に挨拶をする。

 ここで問題を起こせば、めーたんが悲しむと思ったからだ。

「掘村…?ああ、例の……」

 『恋人』の事が伝わっているのか、値踏みするような視線を向けて来る。

 ……他人にこんな視線を向ける様な人間は、確実に尊敬できないと想わせる下衆な目線だった。

「ふうん……気持ち悪い…。私、ホモとかレズって大嫌いなのよね。あんなのただの変態じゃない」

 ―――――っっ!!

 一瞬で、感情が沸騰した。

 今すぐにでも、こいつをこの場で殺してやろうかと、本気で思った。

 ……だが、めーたんに強く掴まれた腕が、その感情をギリギリのところで食い止めた。

 全ての歯を砕ける程に噛みしめ、皮を裂き肉をエグり骨が割れる程に強く拳を握りしめる。

 そうでもしていないと、自分を抑えきれない。

 せめてもの抵抗として、殺意にまみれた視線で女を射抜く。

「…なによその眼…うっとおしい女」

 女は、一瞬怯んだがスグに高圧的な態度を取り戻し、バッグの中から趣味の悪い扇子を取り出すと、折り畳んだままのそれで、私の頬をバシッっ!と叩いた。

「かえたん!」

 めーたんが心配そうに名前を呼び、腕を掴む力をより強くする。

「……」

 だが私は僅かほどもたじろがず、ただ真っ直ぐに女を視線で射抜く。

 扇子に付けられていた宝石が頬を裂き、血が流れるのが解ったが、それにも構わずただ、ただ視線を送り続ける。

「…な、なんなのよアンタ…」

 言いながら、女は二、三歩後ずさる。

 それでも視線を外さない。

 言葉はいらない。

 私のこの怒りを伝えるのに、そんなものは必要なかった。

 ただこの眼さえあればいい。

「く……なんなのよ…!」

 女が怯んでいると、後ろで見ていた男が、下品な笑い声をあげた。

「きひひひ!ダッセェ!ビビってやんの!」

 そう言って、女を指差して笑った。

「うるさいわね!誰がビビってるって!?」

 女は激昂し、私の血の付いた扇子を男に投げ付ける。

「うおっと危ねぇ危ねぇ、きひひひひ!」

 男は笑いながら、胸元からタバコを取り出し、それに火をつける。

 ちっ…!と私は舌打ちをする。

 別にタバコそのものを否定するつもりはないが、めーたんの前で吸うのは遠慮してもらいたいモノだ。

 もしもめーたんに匂いが移り、あの暖かくて柔らかい太陽のような匂いが消えてしまうのはあまりにも寂しく悲しい。

 なによりも、タバコの臭いが部屋に充満すると嗅覚が鈍り、匂いの僅かな変化が感じ取れないと言う意味で、警備の立場からもマイナスでしかない。

 そんな事は知る由もない男が、「ぶは~っ」と煙を吐くと、こっちまで臭いが伝わってくる。

……くん……ん…?

この臭いは…どこかで…。

「――――――――――――っ!!!」

 思いだした!

 これは…!

「めーたん!」

 私はめーたんを抱いて、男から距離を取る。

「おい!換気扇!急いで!」

 入口に待機していたメイドさんに指示を出す。

「はやく!」

 突然の指示に戸惑っていたメイドさんも、ただ事で無い私の声に、急いで換気扇のスイッチを回す。

「最大で頼む!」

 私は言うと同時に、靴に仕込んでおいたナイフを取り出し、一瞬で男の吸っていたタバコめがけて投げる。

 男が反応するより早くナイフは、タバコに刺さり、明け放したままだったドアからそのままタバコを部屋の外まで運び、壁に刺さって止まった。

「……うおっ!何すんだよお前!」

「てめぇこそ何してやがる!!」

 怒鳴りつけて来る男に、それ以上の怒りで怒鳴り返す。

「今すぐ火を消して!絶対に煙は吸わないで!消したらすぐにその場を離れて!」

 再びメイドさんに指示を出す。

 メイドさんはその通りに動いてくれて、私の心が安堵に一瞬緩む。

 ……が、直後に湧き上がる激しい怒り。

 はらわたが煮えくりかえる、とはまさにこういう事なのだろう。

「どうしたの?かえたん、どうしたの?」

 めーたんが心配そうに話しかけてくるが、私の怒りはもう止まらない。

「その匂い……てめぇ、タバコの中にクスリを混ぜてやがるなっ!!」

 …まちがいない、あれは、組織に居た時に嗅いだ事がある。

 一人、薬漬けの男が居て、そいつの部屋で嗅いだ匂いと同じだった。

 ―――そいつの末路は、それは酷いものだった。

 幻覚と幻聴に悩まされ、最後には、男を心配して助けようとした友人を撃ち殺し、組織の仲間に処刑された。

 私はあの時、絶対に薬物には手を出さないと誓ったのだ。

 だと言うのに……!

「子供の前で何してやがる!めーたんに影響が出たら責任取れんのかよてめぇ!」

「…はぁ?知るかよそんなの、そしたらそいつもやればいいだろ?何せ教祖様だ、警察だった捕まえに来ねぇよ!親の俺だって目こぼしして貰えるんだからよ!きひひひひ!」

 全く悪びれる事も無くそう言い放つ男に、私は本当に限界を超えた。

「この……クズどもがっ…!!!」

 もう一本仕込んでおいたナイフを取り出し、一歩を踏み出そうとした私の足を、めーたんが掴んだ。

 顔を向けると、必死に足にしがみ付いためーたんが、首を横にぶんぶんと振っていた。

 ……どうして?めーたん、こんな奴ら…!

 ――――そこまで考えて、ふと、思いとどまる。

 ――――――こんな奴らでも、めーたんにとっては、大切な家族で、生んでくれた両親なんだ……と。

「……くそぉっ!!」

 行き場のない怒りを込めたナイフを、私は投げる。

 ナイフは、男と女の間の空間を切り裂き、開け放たれたままのドアから廊下へ飛び出し、強化ガラスの窓に突き刺さった。

「……てめぇら、帰れ…」

 それが精一杯だった、それ以上の言葉は、絶対に悪意にまみれてしまう。

 そんな言葉達を、もうめーたんに聞かせたくない。

 めーたんを、汚したくないし、傷つけたくない。

「……ふん、まあいいわ、今日は引き上げてあげる」

「また数ヶ月後に来るからよ!たっぷり貢物を集めとけよ!きひひひひ!」

 そう言い残すと、二人は振り返りもせずに、部屋を出ていった。

 メイドさんがゆっくりとドアを閉めながら、深く頭を下げていた。

 ……パタン。

 静かにドアが閉じられると、部屋には静寂が戻った。

 換気扇の音だけが部屋に響く。

 念のため匂いを嗅いでみるが、もうクスリの臭いは消えていた。

 対処が早かったのが幸いしたのだろう、心配はなさそうだ。

 それでも念のため、ドア付近と換気扇から離れられるだけ離れた場所まで、めーたんを抱っこして移動する。

 後で、一応部屋を洗浄してもらおう。

「……ふぅ…」

 めーたんを抱いたまま、壁際に座り込んで、ようやく一息つく。

 もちろん怒りが消えたわけではない。

 それでも、怒りをぶつける相手はもう居ない。

 それだけで、だいぶ精神的には落ち着いてきた。

 ―――ふと、めーたんの頬に目が行くと、さっき叩かれた部分が赤く腫れ上がっていた。

「めーたん、痛くない?」

「うん、だいじょうぶ」

 ……そうは言っても、痛くない筈がない。

 無理をしているのが解る笑顔が胸を刺す。

「ちょっと待ってて」

 私は、お風呂場へ向かい、そこでタオルを冷水で濡らし、戻ってきて、それをめーたんの頬に当てる。

「ひゃうっちめたい!」

「でも、気持ち良いでしょ?」

「…うんっ!」

 しばらくそのまま、じっと座り込む。

 お互いに言葉が無く、ただ嫌な出来事が記憶から消えるのを待つように、そっと寄り添い有った。

 けれど、そう簡単には消えてくれない。

 ……結局は、向き合うしかない。

 そう言う事なのだと思う。

「…あのね、おとうさんとおかあさんをゆるしてあげて」

 めーたんも同じ思いなのか、そう語りかけて来た。

「……めーたんが、そうして欲しいなら、そうする」

 本当は、次に有ったら有無を言わさずに顔面を砕くほどの拳を叩きこんでやりたい気分ではあるけれど、めーたんがそれを望まないのなら、それはただの自己満足だ。

「ありがとう。……あのね、おとうさんもおかあさんも、むかしはやさしかったの」

 めーたんは静かに語り始めた。

 それは、教祖様故の悲しい過去……。

 ごく普通の家族だっためーたんの一家。

 けれど、めーたんが選別を始めるようになり、状況は一変した。

 今でこそ、めーたんを守る環境が出来上がっているが、当初は、ただの一般人でしかない家族に襲い掛かる、数々の悪意。

 いやがらせは日常茶飯事で、命を狙われたことすら一度や二度ではないと言う。

 それでも、しばらくはめーたんを守るために必死に頑張っていた両親だったが……少しずつ、壊れていった。

 常に人の目に脅え、まともな暮らしすら出来ない日々は、人間を壊すには十分すぎたのだろう。

 徐々に、めーたんを全ての元凶だと責めるようになり、暴行、虐待のような事が増え始めた。

 そんな時に、教団設立の話が持ち上がり、両親はめーたんの身柄を教団に預けて自由を得たと同時に、各地から集められる貢物によって、今までなら考えられない程の財を得た。

 絶望のどん底から、急速過ぎる浮上。

 抑制されていた欲望の解放。

「教祖様」の親、という崇められる地位。

 それは、両親の心を救うどころか、むしろさらに壊してしまった……。

「だから、わるいのはぜんぶわたしなの。わたしがいたから、おとうさんもおかあさんも、ふつうのしあわせがなくなっちゃったの」

「でも、めーたんがそれを望んだ訳じゃないでしょう?」

「……うん、でも、そうなっちゃったからしかたがないの。……それに、おとうさんもおかあさんも、ほんとうにわたしのことがきらいじゃあないとおもうの。ほら、なぐられたときに、「あくいのかべ」がでなかったでしょう?」

 ……確かにそうだ。

 だが、「悪意の壁」に関しては不確定要素が多すぎる。

 聞いた話では、過去にも何度かめーたんの命を助けた事があるらしいが、「悪意の壁」と言うのはあくまでも通称で有って、実際にどういう条件で発動し、どの程度の耐久力があるのかは、誰にも正確に解らないのが現状だ。

 それを調べるためには、「悪意を持って」めーたんに攻撃をしなければならない。

 教団内の人間にそんな事が出来る筈がないし、調査の為に「敵」を連れてきたとして、敵の攻撃に対して絶対に壁が発動するという確証がない以上、「教祖様」を無駄に危険にさらすことになりかねない。

 そんな、失敗したら死ぬ可能性のある実験を、唯一無二の存在である「教祖様」に対して行えるはずも無く、そもそも本当に「悪意」に反応するのかどうかさえ、定かではないのだ。

 ……それでも、壁が反応しない事で、あの暴力が「悪意ではない」と、めーたんが信じ、それが僅かでも心の救いになっているのなら、それを指摘する事はきっと正解ではないのだろう。

「―――そうだね、めーたんのお父さんもお母さんも、きっとめーたんの事、好きだよね」

 それは、私の祈りでもあった。

 両親の存在がめーたんの心に影を落とすのだとしたら、そんなのは悲しすぎる。

「そうおもう?ほんとうに?」

「うん、思うよ。めーたんの事が嫌いなんて、そんな事有る筈ない」

 こんなに、可愛くて愛しいめーたんを。

「……ふへへっ、うれしいな、かえたんにそういってもらえて。あのね、わたしね、こんどあうときまでに、もっとちゃんとけいごをれんしゅうして、おとうさんとおかあさんがおこらないように、がんばるね!」

 ……両親に会った時の、めーたんの必要以上に丁寧な口調を思い出す。

 めーたんはきっと、二人が怒るのは自分の態度にも問題があると、そう思っているのだろう……だから、敬語を勉強して、丁寧で上品なふるまいをする事で、いつか両親が怒らずに、普通に会話が出来ると、そう信じているのだろう…。

 私は、胸を締め付けられるような切なさと、両親に対する怒りが同時に湧き上がってきて、衝動的にめーたんを抱きしめ、頭を撫でる。

「めーたん…私がずっと傍に居るから、頑張ろうね…」

「……うん、ありがとう!」

 そうして、しばらく抱き合った。

 ……と、不意にめーたんが何かに気付き少し体を離すと、私の頬にそっと触れた。

「あ…だいじょうぶ?かえたん、いたい?」

触れた手が、赤く濡れる。

めーたんは、今にも泣いてしまいそうだ。

 ……そうか、私、頬を切っていたっけ。

 怒りで痛みがマヒしていたのか、すっかり忘れていたが、せっかく着たドレスの肩口がドス黒く染まる程に流血していた。

「…大丈夫だよ、こんなの、かえたんには全然怪我の内に入らないんだから」

 組織に居た頃は、毎日の訓練で全身傷だらけだったし、作戦に失敗して死にかけた事も一度や二度ではない。

 それに比べれば、この程度は怪我とも言えないような単なるかすり傷だ。

「でも、ちぃがでてるよ?ちぃがでたらいたいよ?」

 めーたんの手が、私の血でどんどん赤く染まっていく。

「ああ、ダメだよめーたん、手が汚れちゃう」

 私はめーたんの手を離そうとするが、めーたんは離されても、何度も何度も私の頬に手を添えてくる。

「めーたん…?」

「あのね、あのね、てあて!」

「手当て?」

「うん、あのね、てあて、っていうのはね、いたいところに てがふれていると、いたみがおさまるから、てあて、っていうんだって、ごほんでみたの!だから、わたし、かえたんをてあてするの!」

「…そっか、ありがとう。嬉しい…!」

 めーたんの手に、私の手を添える。

「じゃあ、これで手当て二倍、だね!」

「……うんっ!」

 ぱぁっ!と笑顔になるめーたん。

 ……ああ、やっぱりめーたんには笑顔が似合う。

「……めーたん…」

「…なぁに?」

「……大好き」

 自然と、言葉がこぼれた。

 これ以上ない、本心からの言葉だった。

「……うんっ!うん!わたしも、かえたんだいすきぃーーー!!」

 がばっ!と抱きついてくるめーたんを、強く抱きしめ返す。

 めーたんの匂い。

 柔らかくて暖かい、どんな花よりも癒される匂い。

 めーたんの感触。

 ふわふわでぷにぷにで、ずっと触れていたい心地良い感触。

 めーたんの声。

 可愛くて、どこか透明感があって、けれど凛とした所も有って…ずっと聴いていたい、耳と心に優しい声。

 ……他人に何と言われようと、どう言われようと、しったこっちゃない。

 そんなくだらない理由で、この幸せを手放すなんて考えられない。

 どんな軽蔑も、侮蔑も嘲りも偏見も、この幸せに比べればゴミ屑以下で、気にするだけ時間の無駄だと、今ならそう思える。

 めーたんの髪が、鼻先をくすぐる。

 いつかの朝を思い出す、こそばゆくて、でも幸せな朝。

 ……だが、少し違和感。

 ふわふわな髪が、一部固まってしまっている。

「……あっ!私の血が!」

 抱きついた拍子に、私の血がめーたんの髪に付着してしまっている!

「あぁ・・・!めーたんのふわふわさらさらが…!」

 私の動揺に気づいたのか、めーたんが体を離して、不思議そうな表情を見せる。

「…どしたの?かえたん」

「ほらめーたん、髪が…」

「あ、ほんとだ…でもいいよ、かえたんのちだもん!」

「……そう言う問題じゃなくて……そうだ、一緒にお風呂入ろう!洗ってあげる!」

 良く見れば、髪だけでなく、手はもちろん、顔や首、可愛い服にも血がついてしまっている。

 このままって訳にはいかないだろう。

「えっ…おふろ?……いい、の?」

 めーたんが、嬉しそうでありながらも、複雑な表情。

 と言うのも、今までも一緒にお風呂は誘われていたのだが、それは断っていたのだ。

 ただ単に恥ずかしいとか、そう言う事ではなく、それは、私にとってはとても覚悟のいる事だったから。

 けど、もう良いのかもしれない。

 全てを見せる事も。

 ……これからの為に。

「――――うん、入ろ、めーたん」

「……やったぁーー!……けどぉ…」

 両手を上げて喜んだめーたんだったが、一瞬顔を曇らせる。

「……ちょっと、はずかしかも…ふみぃ~」

 上げた両手を今度は顔の前でもしゃもしゃと動かし、真っ赤になった顔を隠そうとするめーたん。

 くぅ…!!もう!可愛すぎるよめーたん!

 そんなめーたんをお姫様抱っこで、お風呂場まで連れて行く。

 脱衣所到着。

「はい、めーたん、両手上げて」

 服を脱がしてあげようとしたのだが…

「だ、だいじょうぶだよ!じぶんでぬげるよ!」

 赤面して恥ずかしがるめーたんに拒否されてしまった。残念。

「じゃあ脱いで、先に入ってて。私もあとから行くから」

「うん」

 めーたんが服を脱いでお風呂場の扉を開ける音を背中で聞きつつ、私は呼吸を整え服を脱ぐ。

 …覚悟を決めろ、私!

 半分閉まったお風呂場の扉の向こうからシャワーの音が聞こえてくる。

 ……足が止まる。

 決意が鈍る。

 めーたんに、嫌われたくない。

 それだけが、全てだった。

 でも……!

「ねえ、めーたん…」

 扉の陰から、中に向かって話しかける。

「なあに?はやくおいでよかえたん!」

「私ね……裸を人に見られたくないの」

「……はえ?…そ、そんなのわたしもそうだよ?で、でも、かえたんなら、みせても、いいよ!」

「ありがとう、嬉しい…でも、私は、めーたんに裸を見られたら、嫌われるかもしれないって思うと……怖いの」

「…どうして?わたし、かえたんをきらいになんかならないよ!ぜったいだよ!」

「本当に……?こんな、体でも?」

 私は、重い、何かに押しとどめられているかのように重さを感じる足を、踏み出す。

「こんな、傷だらけの体でも…?」

 お風呂場の明かりに照らされた私の体は、全身に傷をまとった、醜い体だった。

 戦いと訓練に明け暮れて来た私の人生にとって、傷は日常だった。

 この傷だらけの体を、今までは何とも思わなかった。

 こういうものだと思っていたし、誰に見せる訳でもないのだから関係ないと思っていた。

 けれど、ここへきて、めーたんの傷一つ無い柔らかくて綺麗な肌を見ていると、自分の体が恥ずかしくなった。

 この体を、めーたんに見られたくないと、思った。

 でも………。

 ―――めーたんが、驚いたような表情で、ゆっくりと私に近づいてくる。

 そして、私の体にそっと触れる。

「……いたいの?」

 悲しそうに、そう呟いた。

「ううん、もう痛くは無いよ。……けど、傷はずっと残ると思う」

 本当は、傷を消す手術も出来ない訳ではないと思う。

 だが、そもそも偽造戸籍の人間としては、病院にかかるのは極力避けたいし、何よりも、どうして傷が付いたのかを説明する事が出来ない。

 うまくごまかす方法もあるのかもしれないが……結局は、全てをこなす時間も手間もお金も今の私には与えられてはいないし、なによりも、消してしまうのは今までの自分を否定してしまう気がする。

 確かに良い思い出ではないが、それが有ったからこそ私は今めーたんの傍にいられる。

 それを考えれば、傷を、過去を消す事は、何か違うと、思ってしまうのだ。

「ごめんね、こんな体で……もっと、綺麗な体の方がめーたんも良いよね」

 ……視線を下ろせばそこには、初めて見るめーたんの裸。

 すらりと伸びた細い手足に、僅かにふくらんだ胸。

 まだ幼さの残るその肢体は、どこか人形のようでもありつつ、人形ではありえない色気と、不思議な背徳感を感じさせた。

 ……なんて、無垢で綺麗で、脳を揺らすような体…。

 改めて、私の体の醜さが際立つ気がする…。

「ん~、ん~。ん~!」

 …と、めーたんが私の体のあちこちをぺたぺたと触り始める。

「ちょっ…ちょっとめーたん?なにしてるの?」

「あのね、てあて!かえたん、すごくかなしそうだから、わたしのてあてでなおしてあげるの!んしょ!んしょっ!」

 ぺたん、ぺたん。

 高い所の傷は背伸びをして。

 低い位置の傷は四つん這いになって。

 ぺたん、ぺたん、とめーたんは一生懸命私の傷を「手当て」してくれている。

 もちろん、それで傷が消える筈もない。

 それでもめーたんは、ぺたんぺたんと繰り返す。

「……めーたん、もういいよ」

「え?でも、まだなおってない…」

「……ねぇ、めーたんは、傷がある私の体は嫌?」

「………うん」

 ―――やっぱり、そうよね。こんな体―――

「だって、かえたんがかなしそうだから」

「……え?」

「かえたんがかなしそうだから、わたしがきずをけしてあげる!こいつめ!かえたんをいじめるな!」

 めーたんは、傷を消そうとするように、こしこしと傷をこすったり、軽く叩いたりする。

「なんで?きえないよかえたん!わたし、かえたんがかなしいのやだ!だから、ぜったいになおすの!わたしがてあてしてあげるの!わたしだって、かえたんをまもるんだから!」

 えいっ、えいっ、と泣きながら、両の瞳から大粒の涙を流しながら、めーたんは私の傷を撫でる。

「……めーたん…!」

 私は、めーたんを抱きしめる。

 強く、強く抱きしめる。

「いいんだよ、もういいのめーたん」

 いつの間にか、私の瞳からも涙があふれていた。

「でも、でも…ごめんねかえたん。わたし、かえたんを えがおにできなくてごめんね…!」

「そんな事無い。凄く、凄く幸せだよ。めーたんが、私を想ってくれて、凄く幸せ!」

 止まらない。

 涙が次から次へと溢れて来る。

「でも、かえたんないてる…」

「うん……嬉しいから、泣いてるんだよ」

「…そうなの?」

「……うん」

「……よかった。かえたんがうれしいなら、わたしもうれしい」

 ぎゅっ…と、めーたんも私を抱きしめてくれる。

 お互いの肌が触れ合って、熱を持つ。

 あぁ……こんな幸せな暖かさが、この世界に有るなんて…。

 私はこの体をめーたんに見られたくないと思っていた。

 ……でも……でも本当は、こんな傷だらけの私でも、それでもこのままの私を愛して欲しかったんだよ、めーたん…。

 だから・・・・・

「めーたん…」

「ん?」

 抱きあっていた体を少しだけ離して、私はめーたんと正面から見つめあう。

「ありがとう、めーたん」

 そして、そっと、キスをした……。

 それは、ほんの数秒の軽いキス。

 けれど、私にとっては、誓いのキス。

 めーたんに人生を捧げる、その決意のキスだった。

 すっ…と唇を離すと、めーたんは真っ赤な顔で、目を見開いたまま硬直していた。

「ぴょっ・・・・ぴょっ…きにゅ~!」

 そのまま、変な声出しながら呼吸を荒くしはじめた。

「……めーたん?」

「――――――は、はにゃきゅっ!」

 問いかけると、さらに妙な声を出したが、意識は覚醒したようだ。

「ず、ずるいっ!きゅうにするなんてずるい!」

 赤面しながら、急に抗議の声を上げるめーたん。

「ずるいって…」

「だって、ふぁーすときすはもっと・・・・・あの、ろまんちっくがよかったのに!やけいとか、そういうの!」

 どうやら、めーたんなりに、憧れのキスがあったようだ。

 ……と言うか…

「ファーストキスじゃないでしょ?最初に、「こいびと!」って言った時にキスしたじゃない」

「ちがうの、あれはいきおいでしちゃっただけなの!のーかうんとなの!ちゃんと、かえたんのことをほんきですきになって、こいびとどうしになって、かえたんもわたしのことすきで、それでふぁーすときすなの!」

 ……そう言うものなのか…けど、私だってアレがファースキスだったんだけど…ノーカウントなのか…。

 そうなると、私はファーストキスを自分からした事になるのか……うわ、なんか照れて来た。

「…ん~……じゃあ、今日の夜にでも、どこか夜景が見える場所でやりなおす?」

 照れ隠しに、そんな提案をしてみる。

「………ううん、しない」

 しばらく考えためーたんは、けれどそれを否定した。

「どうして?」

「…だって、さっきのがもうふぁーすときすなんだもん…だからきょうは、ふぁーすときすきねんびなんだもん…」

「……?それだと、どうしてダメなの?」

「だって……」

 めーたんは、既に真っ赤に染まっていた顔をさらに真っ赤っかに染め上げ、言葉を絞り出す。

「だって、せかんどきすは、ちがうひに せかんどきすきねんび つくりたいから、きょうはもうだめなの!」

 ファーストキス記念日に、セカンドキス記念日……?

 ………なにそれ!

可愛いっっ!

「あはははっ!」

 あまりの可愛さに、思わず笑いが漏れてしまった。

「あー!わらったぁー!ひどい!かえたんひどい!もうきらい!」

 するとめーたんは、拗ねてしまいました。

 ぷいっ!と背中を向けて、後ろから見ても分かる位に頬を膨らませています。

 ……しまった、失敗失敗。

「あ、ごめんね、めーたん。違うんだよ、別にバカにした訳じゃ無くてね?」

「ふーん!ぷぷぷーん!」

 怒っている擬音を口で表現するめーたん。

 さてさて、これはこれで可愛いけど、どうしたものか……「ファーストキス記念日」が、喧嘩で終わってしまっては、めーたんも悲しむだろう。

 ……私も寂しいし。

 だがしかし、ここは幸いにも風呂場。

 わりといろんなアイテムであるので、めーたんの気を引きつつ機嫌を直す作戦開始だ!

 ……ん~…とりあえず、シャワーを手にとり、お湯を出す。

 丁度良い温度になったところで、めーたんにえいっ!

「ほーらめーたん、シャワー温かいよ~」

 ……反応なし。作戦は第二フェーズへ移行。

「めーたん、洗い洗いしよっか~」

 手にシャンプーを付けて、めーたんの髪の毛をわしゃわしゃする。

「目、つぶっててね~」

 そのまま髪を洗う。

 ちゃんと気持ち良くなるように頭皮マッサージ付きだ。

「ふんふふ~ん♪」

 他人の髪の毛を洗うのは初めてだが、想像以上になんかちょっと楽しくて、鼻歌なんか歌っちゃったりする。

 めーたんはいまだに無反応だが、なんとなく嫌がってはいない気がする。

「じゃあ流すね」

 再びシャワーで、泡を洗い流す。

 血で固まっていた髪も綺麗さを取り戻し、高級シャンプーなので、洗い上がりもさらさらだ。

「よし、綺麗になったよめーたん。美人度さらにアップだね!」

「…ふ、ふんだ!」

 そう言いつつも満更でも無い様子のめーたん。

 もうひと押し!

 幸いにして、浴槽にお湯が溜まっていたので、それを手ですくって、ぱしゃっ!とかける。

「ほ~らめーたん、お風呂は~いろっ」

 ぴくっ!と反応をみせる。

 いちゃいちゃが大好きなめーたんが、一緒にお風呂、という大イベントに反応しない筈も無し!

 ……だが、意固地になっているのか、動かないめーたん。

「むむ…」

 私は、浴槽の脇に置いてある風呂桶を取り出す。

 大、中、小と三種類あったが、最初は小を手にとり、お湯を汲んでざぱっ!とかける。

「ほらめーたん!お湯気持ち良いよ!」

 ……中の桶に変更、ざばぁ!とお湯を掛ける!

「…めーた~ん?」

 ……ここまで来ると、こっちも意地だ。

 私は、禁断の大の桶に手を伸ばす。

 小さな子供なら、これで風呂代わりになるだろう、と言うくらいの大桶で、それを両手でがっしり掴んで、お湯をたっぷりと汲む。

 ……重っ!

 力を振り絞って持ち上げ、お湯をめーたんの背中に向かって…大放出!

 ざっっっばーーーん!!

「うわわわわ!めーたーーーん!」

 何たることか、お湯の勢いに負けためーたんが、お湯の流れに飲まれて体ごと転がってしまった!

「はわぱばぱぱば」

 そのままお湯に流されて、5mくらい離れためーたんは、今度は水の揺り返しに乗って、こちらに戻ってくる!

「めーたん!」

 慌ててそれを抱き止める!

「だ、大丈夫?ごめんね、ごめんねめーたん」

 体を見回すが、どうやら怪我は無いようで一安心だ。

 ……だが、そんな心配もどこ吹く風。

「きゅふ…!きゃはははは!」

 唐突に笑いだすめーたん!

「あははは!いまのたのしかった!たのしかった!もういっかいやって!かえたん、もういっかい!」

 ……そうですか、お気に入りですか。

「ふふっ、良かった、めーたんの笑顔がまた見れて」

「あぅ……そうだった……でも、たのしかったからいいや!」

 どうやら機嫌は直った様子。

 ミッションコンプリート。

「じゃあ、一緒にお風呂入ろうか!」

「うん!」

 そうして、私達はお互いに、辛いことを全て洗い流すかのように、ゆっくりとお湯に浸かった。

 体と心、どちらもぽかぽかと暖まる、幸せな時間だった。

 ―――――私達はきっと、お互いに幸福な人生では無かったのだろう。

 それでも、今は二人で居れば、すぐに幸せになれる。

 こんな相手と出会えた奇跡を、何処までもいつまでも大切にしたいと…心底、そう思った。

「ねぇめーたん…」

「なぁに?」

「いつにしよっか、セカンドキス記念日」

「……!も、もう!かえたんいじわる~!」



     ・・・・・・・・・



「ひゅーー……」

 目を瞑り、深く、細く息を吐く。

 ……暁花は想像する。

 自らの腕と、手にした刀が細胞レベルで結合し、刀が腕の延長として存在している様を。

 イメージを固め、ゆっくりと腕を振り上げ、上段に構える。

 完全防音の部屋の中はあまりにも静かで、閉じられた瞳の暗闇の中、自分の心音は当然のこと、血液が体内を流れる音さえも聞こえる様な錯覚を伴う。

 その雑音を振り払い、ただひたすらに無を目指す。

 徐々に、己の神経が研ぎ澄まされ、心が研がれ、削がれ、洗練されていく。

「ひゅーーー……」

 もう一度、息を吐く。

 練り上げられていく。

 暁花と言う存在が、少しずつ武器へと練り上げられていく。

 腕と一体化した刀は、今や肩から胸へ、腰へ、下腹部へ……その範囲を広げていた。

 筋肉も、血管も、内臓も、全てが形を変え、ただ、一本の刀へとなっていく。

 そしてやがて、全身が刃先と化した。

 暁花は、ゆっくりと目を開ける。

 訓練場、そう呼ばれている地下の一室は、四方を無機質なコンクリと、鉄の扉で囲まれ、足元には畳が敷き詰めてある。それだけの、五メートル四方程の場所だった。

 そして、暁花の目の前には、一本の丸太。

 直径にして五十㎝は有るかと言う、太くどっしりとした、大黒柱を想わせる丸太が、固定用の器具に据え付けられていた。

 その脇に、流れるような動きで、スッ…と刀を移動させる暁花。

「すーーーー…」

 大きく、息を吸う。

 ……肺に溜まった酸素が、蓄えられたエネルギーへと変換する。

 それを……放出する…!

「ふっ!」

 息を吐き出すと同時に、刀が目に捉えられない速度で、横へと滑る。

 いつの間にか刀は、丸太を挟んだ反対側へと移っていた。

「………ふぅ…」

 張りつめていた全身を弛緩させ、暁花は武器から人間へと戻る。

 慣れた手つきで、腰の鞘へと刀を戻すと、今まで刀を持っていたその手で、丸太の上部を軽く押す。

 …すると、その瞬間に初めて斬られたことに気づいたかのように、丸太が上下真っ二つに裂け、上半分が、横滑りして落下し、重く深い音をたてた。

「……よし、十全…!」

 満足げに微笑むと、ぐっ…と伸びをする。

 我ながら、だいぶ強くなった…と実感する。

 あの夜、篠村圭次郎に出会ってから半年が経過していた。

 それは同時に、修練の開始から半年、と言う事でもある。

 この半年、暁花はただひたすらに己を磨く事のみを追求してきた。

 圭次郎はその方法を教え、見守った。

 教えて、見守っただけだ。

 課題を出したり、強制したり、逆に抑制する事も無く、暁花の自主性に任せて来た。

 だからこそ、暁花は自ら望んで、限界まで自分を鍛えた。

 やらされるのではなく、自ら進んでやるべき事をやった方が上達が早い。

 それが、圭次郎の信念だった。

 そしてそれは、暁花に関して言えば、適切な方法だったのだろう。

 飛躍的な成長を遂げた暁花は、圭次郎の評価として、今や実戦でも十分に通用するレベルにまで力を付けた。

 だが……。

「よう、十全だな暁花」

 突然の後ろからの声に慌てて暁花が振り向くと、そこには圭次郎が立っていた。

「……いえ、まだまだですよ。あなたの侵入に気づかないくらいですから」

「ふん、言うねぇ。気配を消した俺に気づけたら、透明人間だって殺せるさ」

「……そもそも、気配を消して入ってくるのやめてくださいよ、知らないうちに着替えとか覗いてるんじゃないですか?この変態」

「おいおい、やってもいない事で変態呼ばわりは無いだろう?……まあ、確かにうっかり見ちまった事は有るけどな」

「見た…って、着替えをですか!?」

「……いや、もっと凄いものをお前の部屋でな。ちょっと驚かそうと思ってたら、まさかあんなことを…こっちが驚いちまったよ」

「なっ…!!」

 暁花の頭の中で思い当たる記憶がフラッシュバックして、全身が沸騰する位に熱が上がり、赤く染まる。

「こ、殺す!この弩変態!乙女の秘密をぉぉぉ!!」

 持っていた刀を振り回しながら、啓次郎に赤鬼の形相で襲いかかる暁花。

「ははは、まあそう怒るな、それに、お前くらいの年齢なら別におかしなことじゃあ無い、俺だってお前くらいの年齢の時はだな…」

「わーわー!!うるさいこのバカ!殺す!死なす!頭をかち割る!記憶を飛ばす!そして殺すーー!」

「うはははは」

 だが、暁花がどんなに刀を振り回しても、その刀は決して圭次郎には当たらない。

 全ての剣筋を見切り、ギリギリで避ける。

「おいおい、忘れたのか?刀を振るうときは冷静であれ、ってな。感情はどんなに激しく燃えていても良い。だが、常に精神は研ぎ澄ませ。それが出来なきゃ、すぐに死ぬぞ…こんなふうにな…!」

 圭次郎が振り下ろされた暁花の腕を掴んだかと思うと、次の瞬間にはもう、暁花の体は宙を舞っていた。

 そして、畳に大の字で叩きつけられた所に、降ってくる拳!

 とっさに暁花は体を硬くして衝撃に備えたが、拳は暁花の体に当たる直前でその動きを止めた。

「……な?言ったとおりだろ?よく覚えとけ、感情で人を殺すのは素人だ。プロは、技術と精神力で殺すんだ。」

 そうして、圭次郎は笑顔を見せる。

「――――それを、教えるために、見てもいないものを見たなんて、嘘をついたんですか?」

 暁花は、あっさり激昂してしまった自分を恥じた。

「いや、それは本当に見た」

「やっぱ殺す!」

 暁花は、自分を恥じた自分を恥じた。

「まあ、そう怒るな……そのうち、殺させてやっからさ…」

「……え?」

 その、唐突に真剣な表情から放たれた言葉に、暁花は虚を突かれた。

「…隙有り」

 その刹那、圭次郎の手が暁花の胸をむにゅう、と掴んだ。

「…ひっ!きゃああああぁぁあぁ!!!」

 あらん限りの叫び声をあげ、暁花は転がるように圭次郎から距離を取る。

「な、な、何をっっ!!!」

 あまりの動揺に、言葉がすんなり出てこない。

「はは、まあアレだ、欲求不満になったらいつでも呼んでくれ。お相手いたしますよ、お嬢様」

「…が・・こ・・・・ぎぐ…っ!」

 言葉を探してパクパクしている暁花をよそに、その言葉を残して圭次郎は部屋を去って行った。

 そして、部屋に一人残された暁花。

 動揺が鎮まってくると、反比例して湧いてくる怒り。

「……な、なんなのよアイツはーーー!!!」

 半年も一緒に居るのに、暁花は圭次郎と言う人間がいまいち掴めずにいた。

 確かに実力は半端ではないし、理にかなった鍛え方のおかげで、実力が付いた。

 それでも、人間として掴めないので、このまま付いて行って良いのかと、たまに不安になるのも事実だった。

 ……だが、他に行く場所なんてどこにもない暁花は、彼に付いて行くしか選択肢は無い。

 それを利用して、妙な要求をして来ない事を鑑みれば、それほど悪人って訳でも無いのだろう。

 と、暁花は自分を納得させる。

 そして、あの日のことを少しだけ思い出す。

 初めて圭次郎と暁花が出会った日。

 知らなかった父の真実を知らされ動揺している暁花に、圭次郎は有るものを見せた。

 ……それは、「敵」の刻印だった。

 その瞬間暁花は、この人に付いていこうと思った。

 刻印に、父と、そして高柳の姿を重ねたのかもしれないし、たとえ何か酷い目にあわされたとしても、この人もいずれは死ぬのだと思えば耐えられるような、そんな気がしたからかもしれない。

 ともかく暁花は、圭次郎に付いていき、ここへとたどり着いた。

 家から車で三十分ほど走った山の中にある、いわゆる別荘を思わせるような、おしゃれな洋風の家。

 内装も、一階は吹き抜けの広いリビングとキッチンが有り、二階にはいくつかの寝室、とまさに解り易く別荘風だ。

 だが、床下の階段を降りて地下へ降りると、そこはまるでシェルターのような頑丈な作りで、通路と部屋が入り混じる、迷路のような入り組んだ作りになっていた。

 元は組長の別荘だったらしく、命を狙われた時に、戦うにも逃げるにも有利になるように設計されているらしい。

 暁花が多くの時間を過ごす事になった訓練場も、その中の部屋の一つに畳を敷いて作られた場所で、最初の頃はたどり着けずに迷子になったことも有った。

 そして、暁花が訓練を終えて地上に出ると、何処から調達してくるのか、毎回しっかりとした食事が用意されていた。

 しかも、確実においしい調理をされて。

「誰が作ってるの?」

そう暁花が質問した時、

「料理は面白いぞ、何処まで行っても極められる気がしないから追い続けられる。そう言う意味では武術と同じだな」

 との答えが返ってきた。

 どうやら、圭次郎が作っているらしい。

 だが、実際に料理を作っている場面を見た事が無いので暁花としては半信半疑なのだが、圭次郎が料理している場面を想像すると、外見とのギャップがおかしくて、少し和んだので、あえて追及しないことにした。

 そんな日常が続くこと半年。

 訓練を続け、確実に力が付いて来た暁花の中には、はやる気持ちが生まれつつあった。

 今の自分なら、もう教祖を殺せるのではないか……と。

 確かに圭次郎にはまだ勝てないが、教祖は別に達人って訳ではない…と思う。

 なら、敵に気づかれないように侵入して、暗殺を狙えば成功するのではないか…。

 だいたい、いつここにも人体消失現象が起こるのか分からないのだし、行動するなら早い方が良いに決まっている。

 そう思い何度も圭次郎に進言したのだが、無碍も無く却下された。

 だが、日が経つほどに、感情を焦りが支配し始める。

 ここでの訓練を、無駄にしたくない。

 父の意志を、自分が継ぎたい。

 高柳の仇を討ちたい。

 だから……!

 暁花は、刀で空気を薙いだ。

 空気を切り裂く、鋭い音がした。

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