第2話 手に入れた者・失った者

『教祖を狙ったかつてない大規模なテロは、教団側に多数の死者を出しましたが、教祖の命を奪うまでには至らず、テロは失敗に終わりました。テロの首謀者は、神岡 修侍(四十二歳)とみられ、警察は被疑者死亡のまま―――』

 テレビの朝のニュースから流れるその音声を、暁花は何かおとぎ話でも聞いているような感覚で耳にしていた。

 父さんが…死んだのね。

 ―――――覚悟はしていた。

 そもそも、結果は二拓しか無かったのだ。

 父さん達が死ぬか、教祖を殺すか。

 ……そして、死んだのは父さん達だった。

 ―――うん、そう言うものなのだろう。

 誰かの命を奪おうとするのならば、自分も命を奪われる覚悟がなければおかしい。

 父さんもきっと、その覚悟があったのだろう。

 アタシにも、それは解っていた。

 だから、アタシにも覚悟は有った。

 有ったと――――思っていた。

 なのに、今のアタシはまるで、脳みそを冷水で煮込まれているような、言葉で表現するのが困難なくらい動揺していた。

 ………出来てる筈ない…!

 父さんを、家族を、大事な人を失う覚悟なんて、出来てる筈ないよ…!!

「う・…うぅぅぁぁあぁ・・…!!あぁぁぁあああああああぁぁぁぁぁあーーーーー!!!」

 吠えた。

 吠えて、叫んで、声を嗄らす位に絶叫した。

 早朝の、厭味なくらい爽やかな朝日と、ムカつくくらいに優しくて暖かい風が、邪魔で仕方なかった。

 鳥の声も、外を走る車の走行音も、普段通りの日常が動き始めた人々の喧噪も、全てが暁花の感情を逆なでする。

 くそっ!くそっ!!!くそぉぉぉぉおおぉぉーーー!!!!

 なんで!なんでこんな事になるんだ!

 私が、私達が、父さんが何をした!

 普通に生きたかっただけなのに、何が敵だ!何が味方だ!

 何の権利があって人をそんな物に分けるんだ!

 悔しさ、悲しみ、怒り、後悔、様々な感情が心の中に溢れかえり、感情の器を今にも壊してしまいそうだった。

 行き場のない感情の濁流が、肉体を動かす。

 壁を叩き、床を蹴り、無駄に大きな音をたて、拳と踵に鈍い痛みが走る。

 手に触れたものをなぎ倒し、投げ、踏みつける。

 こんな事をどれだけ続けても、気持ちが晴れる事が無いのは暁花本人も解っていた。

 それでも、自分が止められなかった。

 ……と、不意に、インターホンの音が耳に届き、一瞬冷静さが戻ってくる。

 ―――――――そんな訳は無い。

 無いのだが…暁花は、思ってしまった。

――――父さんかもしれない――――

 そんな筈がないと思っていながらも、頭に浮かんでしまったイメージは、そう簡単に消えてくれない。

 玄関の扉を開けたら、そこに父さんが居て、「ただいま」って、そう言って笑顔を見せてくれるような気がして―――

 ゆっくりと、鍵を開け、ドアノブに手を……かけようとしたその瞬間、

「警察だ!」

 その声と同時に、乱暴にドアが開かれ、外には刑事と思われるスーツ姿の男たちが、今にも中へ踏み込まんと構えていた。

「な……」

 なんですか?そう言おうとしたが、暁花は声が出なかった。

 そして同時に気づいた。

 理由なんてわかりきっている。

 父さんの事を調べに来たんだ……。

 …だが、先頭の刑事が発したのは意外な言葉だった。

「神岡暁花だな?キミにはテロの共犯の容疑がかかっている。署まで同行願おう」

「――――――――――――え?」

 アタシが……共犯?

 確かにアタシは、父さんがテロを行うつもりなのを、なんとなく察していたが、それを通報はしなかった。

 それが、共犯と言う事……なの?

「で、でも私は!」

「話は署で聞く。おい、連れて行け!」

 刑事は暁花の言葉に聞く耳を持たず、後方にそう指示すると、後ろから体格のいい刑事が歩み出てきて、暁花の腕をつかみ、連れ出そうとする。

「ちょっ…ちょっと待って下さい!」

 暁花抗おうとするが力の差は歴然で、抵抗も虚しく引きずられるように体が動いて行く。

「放して!放してよ!」

 それでも抵抗を続けていると、

「大人しくしろ!今は形の上ではあくまで任意同行だから手錠は掛けんが、あまり暴れると公務執行妨害で逮捕、強制連行にするぞ」

刑事の凄味のある声と表情が、暁花の心に恐怖を与え、力を奪う。

 ……なんなのこれ?

 どうして、こんな事に――――。


 神岡暁花の人生最悪の日々は、こうしてこの日、この朝から始まった―――――。



    ・



「……これは、どういう事なのかね?掘村 佳奈恵君」

 三十人は並んで座れそうな大きな円形の机。

そこには、全員揃いの教団の法衣で身を飾った、いかにも地位の高そうな人間が、少し窮屈なくらいに大量に座っている。

円形の机の一番奥、いわゆる上座には「最高幹部」のプレートだけが置かれていて、誰も座っていない。

最高幹部は確か……陶松とかいう男だったハズ。キレ者で、なおかつ死ぬほど性格が悪いとの噂だが……今は出張に出てるんだっけか。

そんな、最高幹部不在の会議室で、私はけだるく口を開く。

「どういう事…と言われましても、私にもさっぱり解らないと言うのが正直な所でして…」

 こっちが説明して欲しいくらいだ。

 まあ、あんた達に説明出来るとも思っちゃいないけど。

 会議室中がざわざわと喧騒に包まれる中、気の抜けた、空気の読めない声が響き渡る。

「かなえっていうの?じゃあ、ん~…かえちゃんってよんでいい?いい?」

 私の腕に絡みつくように寄り添っている、教祖様の声…。

 問題の恋人宣言から半日。

あの後、隠し通路の中に有った部屋で、事態の収束を待っていると、数時間で助けが来て、テロは鎮圧された事を知った。

 裏切り者も発見され「処罰」を受けたと言う。

 幸い、男に貫かれた私の肩の傷も、神経や筋肉を外れていたようで、大した痛手ではなかったし、多数の犠牲は出した物の、教団側の勝利でテロは収束した、と言う事だ。

――――だが、そこからが問題だ。

私にぴったりとくっついて離れない教祖様の態度を不審に思った警備責任者に問い詰められ、私が「恋人」に選ばれたことを告げると、テロの時以上に、建物中をひっくり返したような大騒ぎになり、さらに数時間後には、この緊急会議が開かれた、と言うわけだ。

「そもそも、『敵』でも『味方』でもなく『恋人』とはどういう事なのかね?君達は、女同士だろう?なぜ君が恋人なのだ?」

「……と言ってますが、どうなのですか教祖様」

 何の答えも持ち合わせていない私は、まんま質問を教祖様へとスルーパスする。

「・・・・・・・・・・・ん~?」

 教祖様は、首を曲げたり体を揺らしたりとしばらく考える様な仕草を見せたが、最終的には「わかんない」に落ち着いた。

「……だそうです」

 その答えに、私もお偉いさん方も頭を抱える他ない。

「ともかく、そう言う事は困るんだよ君」

「はぁ…」

 困る…か、つまり、教祖様の「恋人」ともなれば、それは当然特別な存在で、それはイコール、教祖様以外に、自分たちの上の立場の存在が生まれる可能性を示している。

 教祖様は、シンボルとして存在しているが、教団の運営などには口出ししていない。

 そもそも、この教団の人間が何をしているのかも、ろくに知らされてはいないのだろう。

 それをいい事に、教団の幹部達は、かなり好き勝手な事をしていられるのが現状だ。

 主に金銭面で。

 教祖様に送られるお布施や貢物の大半は、彼らが私物化していると言う噂だ。

 まあ、教祖様が欲しいと言った物は渡されているし、一人の手の中に収めるには膨大すぎる量なので、管理する人間が必要なのも確かなのだが―――教祖様の「恋人」が存在するとなると、話が変わってくる可能性がある。

 恋人であるこの私が、運営に口を出そうものなら、かなりややこしい事になってくるだろう。

 そもそも私のような、プロフィール的には二十歳そこそこの女が教祖を一番近くで守る事になったのも、下手に男に任せて手を出されたらたまらない、という思いが有ったのだろう。

 大半の信者…というか、この教団を手伝っている人間は、彼ら上層部ではなく教祖様への信仰でここに居るのだ。

 いち早く「味方」と選別されて、教団の立ち上げに加わったり、単純に教祖様の親戚筋だと言うだけで上に立っている人間と、直接教祖様に選ばれた「恋人」。

 もしも対立が起こった場合、信者が付いてくるのはどちらか、と言う話だろう。

 ……つまり、この会議の目的は、私に対して出しゃばるな、と釘を刺す事…。

…保身か……くっだらない。

「ご安心ください、私は別に教団の運営に口を出すつもりはありませんので、どうぞこれからも存分に私物化に勤しんだらいかがでしょうか」

 思わず、厭味が口を衝いて出た。

「な、何をいっとるのかね教祖様の前で!私物化とかそんな事有る筈がなかろう!」

 ははっ、ムキになってるし。

 次から次へと、あちこちから同じような声が飛んでくる。

 解り易い連中だ。

「そうですか、失礼しました」

「な、なんだねその心のこもってない謝罪は!」

 いやまあ、こめて無いし。

「私は君の雇い主でも有るのだぞ!その私にそんな口をきいて、どうなるか解っているのか!」

 ……なんだかバカらしくなってきた。

 「恋人」に選んでくれた教祖様には悪いけど、権力争いに巻き込まれるのなんてまっぴらだ。

 これで警備兵をクビになるのなら、それはそれだ。新しい仕事を探すとしよう。

 ……なんて思考は、瞬時に打ち砕かれた。

「そんなこと、ゆるさないの」

 ぞわっ……と、全身に鳥肌が立つ。

 何…?今の…。

 声の主は、教祖様。

 それは解っている、けど、こんなにも重厚感のある声は、一度たりとも聞いた事が無かった。

「わたしのこいびとをここからおいだすなんて……ゆるされるとおもってるの?」

 教祖…様?

「…あなたを、『てき』と『せんべつ』しなおしても、いいんだよ?」

 笑っているような、怒っているような、表裏一体の表情で、語られるその言葉は、耳にしただけで心を抉られてしまいそうな恐怖を伴っていた。

「いやっ…!その、お待ちください教祖様!私はそんな事は…!」

 今までずっと上から構えていた男が、醜く狼狽して自己弁護の言葉を吐く。

「あなたたちがやっていることも、わたしがしらないとでも…?めこぼし してあげているのに…あまりちょうしにのらないことね」

 とたっ…と、軽く一歩を踏み出す教祖様。

 それだけで、会議室中の人間が例外なく立ちあがり、二、三歩後ずさる。

 それは私も例外じゃない。

 これが、あの可愛い笑顔でおんぶをせがむ、甘えん坊のあの子なの?

「…し、失礼しました教祖様!立場をわきまえぬ失言、どうぞお許しください!」

 迫力…いや、圧力に押されるように、男は態度を反転させ、私が教祖様の傍にいる事を許可し、新しい個人部屋を与えると宣言した。

そして、それを全ての幹部に通達するように指示を出す。

 それを確認すると…

「うん、ありがとうです!」

 と、またあの可愛い笑顔の彼女に戻っていた。



「…では、これで失礼します」

 一段落ついて、私と教祖様が退室する段に至っては、全員が立ち上がり、ドアが閉まるまで見事な90度おじぎで見送ってくれた。

「……なんだか、凄いですね教祖様」

 教団で雇っているメイドに、新しい部屋まで案内されている途中で、相変わらずべったりと私にくっ付いている教祖様に話しかけてみる。

「なにがなの?」

「いや、振る舞いと言うか、さっきの態度ですよ」

「ん~……それが、わたしも、よくわからないの。きがついたら、あんなふうにしゃべってたの」

……教祖様の不思議な力…って奴だろうか。

 確かに、『選別』をしている時の彼女は、何かに操られているかのような印象を受ける事もある。

 ――――本当に、彼女にはなにか人知を超えた存在が宿っているのかもしれない…。

「そんなことよりもー!」

 なんだ?

急に教祖様がご機嫌斜めな感じに!?

「ど、どうしたんですか教祖様」

「それ、それなのーー!「きょうそさま」いやなの!こいびとなのにーー!!」

 ……え?

「そう言われましても教祖様…」

「やーー!!いーーーやーー!!もっとらぶらぶなかんじでよんでほしいのー!よびたいのー!」

 ……さっきまでの雰囲気はどこへやら、まるで小さな子供だ。しかも…ラブラブな感じって……生まれてこの方やった事ないのですよ…。

「ではその、何とお呼びすれば?」

 その問いかけに、ぴたりと動きを止め、考え込む教祖様。

「んっと、あのね、あのね、わたし、めいか、っていうなまえなの、だからね、めーたん、ってよんでほしいの!」

 めいか…メイカ…どういう字だろう…っていうか、めーたん…?

 ……は、恥ずかしいっ!

「そ、それはちょっと恥ずかしいと言いますかですね…」

「それもだめーー!けいごだめーー!えいっ!」

 ぽこん、と殴られました。

 全く痛くはないですが。

「えっとじゃあ、メイカさ…メイカ、その呼び方はちょっと恥ずかしいかなぁ…なんて」

 妥協点を探りつつ、何とか恥ずかしさをせめて半減できるような方向へ……そんな姑息な考えは、あっという間にぶち破られた。

「……だめ、なの…?めーたん、よんでほしい…!」

 …めーたんの、卑怯なくらい可愛い今にも泣き出しそうなウルウルおめめと、震え声によって、私の心の結界は、藁半紙よりも簡単に破られた。

「……わかったよ、め…めーたん」

 おおぅ…口に出すと億倍恥ずい…!

 自分でもわかる。

 私の顔は今、よく熟れたトマトですら黒ずんで見える位に真っ赤な事だろう。

「わぁ!よんでくれた!めーたんってよんでくれたぁー!うわーい!」

 ……けど、まあ、こんなに跳び回って喜んでくれるのを見ると、まあ悪い気はしないと言うか、正直嬉しいし照れる。

 わたしの言葉一つで、こんなに人が喜んでくれるなんて、これまで一度でも有っただろうか……有る筈ないか…私にとって言葉なんて、単なる意志疎通の手段でしかなかったのだから…。

「…どしたの?かえたん」

 少し考え込んでしまった私の顔を覗き込んで、心配そうに声をかけて来るめーたん。

「いや、なんでもないで…ないよ、教…めーたん」

 まだ馴染まないな…。

……いやまて…「かえたん」!?

「ちょ…ちょっとめーたん、その、かえたんってのは?」

 何ですかその恥ずかしいヤツ!?

「え?さっきもいったよ?かえたんってよんでいい?って」

 ……そう言えば会議室でそんな事が…いやでも、あの時は「かえちゃん」だったような…。

「やぱり、めーたん、かえたん、のほうがばらんすいいとおもったの!」

 さいですか……けど…う~ん……どうしよう、正直に言った方が良いのだろうか…この感じだと長い付き合いになる可能性もあるし、今さら知られても私の不利益になる事は無いだろうし……。

 なにより、この子に嘘を付くのは、なんだか心が痛い。

 ……ははっ、テロ組織では工作員になる為の指導を受けていたこの私が、この子の前では形無しだな…。

 まあ、それさえも少し心地良く有るから困ったものだ。

「――――あのね、めーたん、私は…」

 と、気付くと前を歩いていたメイドさんが足を止めた。

 どうやら部屋に付いたらしい。

「……って、なんだこれ…」

 そこに有ったのは、観音開きの大きな扉。

「……ここ、私の部屋?」

 その問いに、メイドさんはにっこり笑って頷いた。

 ……戸惑いながらドアを開けると……何この絢爛空間…。

 ちょっとした公園くらいの広さの部屋に敷き詰められた、ふかふかの赤い絨毯。

 赤いのに、色がキツくなく、むしろ目に心地良いような不思議な優しい赤なのも高ポイントだ。

 そこに、淡い色の、四人は座れそうなソファーと、ガラスのテーブル。

 五十型は有りそうな壁掛け薄型テレビに、部屋の隅には、小さいけれど使い勝手の良いキッチンと、3段冷蔵庫完備。

 キングサイズのベッドには、何を考えているのか天蓋が付いている。

 さらに、奥の扉を開けると、ゆったりした和室。

風呂は十畳は有りそうな無駄な広さ。

 はぁ~……今までは、狭い空間に二段ベッドで二人部屋、風呂は共同、という学生寮みたいな待遇だったのに…凄い変化だな…。

 ……そう言えば、この建物はもともとホテルだったと聞いたことがある。

 さながらこの部屋は、スイートルームの残骸、って訳か…。

「では、何か御用向きがありましたら、そちらの電話から内線2番に御繋ぎ下さればすぐにまいりますのです」

 呆けている私に、メイドさんはそう声をかけて深く頭を下げる。

「あ、はい、ありがとうございます」

 慣れてない環境に思わず恐縮する私がおかしかったのか、くすりと笑ってから、もう一度深く頭を上げて、メイドさんは部屋を去っていった。

 いまいち落ち着かないでいると、めーたんが私の手を引く。

「すわろ!すわろ!こいびとすわりしよ!」

 なんて言いながら、ソファーへ。

…恋人座り?

「すわって!すわって!」

 言われるまま、ソファーに腰掛ける。

「う~…ちがう。しらないの?あのね、おしえてあげる!あしをね、ちょっとひろげるの」

 足を?

 指示どおりに、足を少し広げると、そこに出来た隙間に、ぽふん、とジャンプして座るめーたん。

「でねでね、くびのところにね、てをね、まわすの!」

 ああ、なるほど、後ろから抱きつくような感じのアレか…。

「これが、こいびとすわりだよ!」

 …実際にこれを恋人座りと言うかどうかは知らないが、めーたんの中ではそうなのだろうし、まあ確かに恋人同士がよくしていそうではある。

 ……甘っ!

 なんか凄い甘い絵面な気がしてならない!

「こーいびとっ!うっ!こーいびとっ!はっふふ!」

 ……くぅ…こんな妙な歌を歌いだすほどに喜ばれると、突き放すわけにもいかない…!

 あーもう!今後この空気に耐えられるのか私!?

 今までの人生はほぼ全てが戦場だったのに、突然こんなのどう対処していいのか解らない!

「うはふ~」

 そんな、笑い声とも息ともつかない音を口から出しながら、めーたんが、くてっ…と私に体重を預けて来た。

 ……柔らかくて…暖かくて、いい匂いがする…。

 そのまま、猫が匂い付けをするように、頭を私の胸や首のあたりにすりすりしてくる。

「ちょっ…くすぐったいよ めーたん」

「うふふふ~。かえたん、かえた~ん…すき~」

 ドキッ……とした。

 さりげなく、けれど確実に…初めて言われた。

「好き」…と。

 その瞬間、胸のなかに風が吹いた気がした。

 めーたんの感触そのままの、柔らかくて暖かい風が。

 ―――――――ああ、私、嬉しいんだ。

 他人から、たった一言「好き」って言われるだけで、こんなにも心が満たされるモノなのか……知らなかったなぁ…。

 めーたんは、兵士としての自分ではなく、私と言う存在そのものを求めてくれている。

 ……正直、まだまだ解らない事は多すぎる。

 なぜ私が選ばれたのか、そもそも、「敵」と「味方」とは何なのか、そして、教祖様…めーたんは、いったい何者なのか。

 全てが不透明で、何もかもが霧の中だ。

 ―――――けど、それでも、おかしいだろうか、めーたんの想いに応えたいと思ってしまっては。

 恋人とか、そう言うのはどう受け止めればいいのかよく解らないけど、そんなこと関係無しに、一人の人間として、この子の傍に居たいと、思ってしまっては、おかしいだろうか。

 ………ははっ、おかしいよね、やっぱり。

 ………けど構わない。

 笑いたければ笑えばいいし、軽蔑したければすればいい。

 ただ私は、今この感情に素直になりたい。

 それだけが、優先すべきことだと、そう思ったのだから。

 ―――――――――だからこそ――――。

「ねぇ、めーたん」

「なぁに?か~えたんっ!」

 ……この、満面の笑顔を曇らせるとしても、言わなければならない。

「私ね、本当は掘村 佳奈恵じゃないの」

「………はわ?」

 言葉の意味が解らない、そんな表情でこちらを見るめーたん。

「私は、ここを調べるために来た、テロリストのスパイだったんだよ」



      ・



 暁花が釈放されたのは、勾留されてから二週間後だった。

 証拠不十分による釈放。

 …それは、無実が証明されたわけではない、と言う意味でも有った。

 それでも暁花は、久々の自由に心が躍るのを感じていた。

 父がテロリストだったのは確かなのだから、このくらいは仕方ないのだろう、と拘置所の中で自分を納得させて、気持ちを切り替えていたのも大きかったのかもしれない。

 ……だから、家に戻った時に、ドアに誹謗中傷の落書きや張り紙が有ったのも、一瞬涙がこぼれそうになったが、何とか耐えられた。

 ……けれど、それでも、これは無いだろうと思った。

 家のリビングで、首を吊っている母親の死体は、さすがに想定外過ぎた

…見た瞬間、膝から崩れ落ちた。

 ――――暁花の母は、弱い人間だった。

 同時に、優しい人間だった。

 だから、暁花が学校行事で家を空けている間に、両親だけで「選別」をしてもらいに行った。

 娘が「選別」されるのが怖かったし、自分たちの結果を教えるのも怖かった。

 結果も伝えない方が良いと思った。

 知らない方がこの子は幸せだと、自分をごまかすように信じ込んだ。

 ――――そして、夫を失って、母は逃げた。

 だが、娘が捕まった事を知った。

 こっそり家に戻ると、ひっきりなしに嫌がらせの電話や、警察の見回り……心が少しずつ壊れて行った。

 その環境と、「敵」である限り いつか来る死を待っている時間に耐えきれず、自ら命を絶った…。

 ……だが、暁花はそれを知らない。

 ただ、両親を失った、その事実だけが、暁花の上に重くのしかかった。

「――――どうすればいいの?私はこれから、どう、生きればいいの?」

 神岡 暁花、十五歳。

 その日彼女は、人生に絶望した。



       ・



 半年前、中東のテロ組織本部に居た私に下った指令は、教団の内部の偵察だった。

 外見的に私が日本人らしかったのが最大の理由なのだろう。

 偽の日本国籍を与えられ、入国し、警備兵として侵入した。

 ……だが、その僅か一ヶ月後、組織の本部のある地区で、あの現象が起こった。

 人体消失現象が……。

 結果として、組織はほぼ壊滅。

 家族への手紙に偽装した報告書も、あて先不明で戻ってきた。

 そこで私は、初めて「私」と言うものを考えなければならなくなってしまった。

 物心付いた時からずっと、私には命令が存在した。

 命令された訓練、命令された勉強、命令された仕事……それらをこなすことで、私はずっと生きて来たのだ。

 それが、唐突に失われた。

 不意に手に入った自由。

 私には、それを持て余す以外にどうしたらいいのか判断ができなかった。

 それでも幸いな事に、新しい命令が有った。

 組織からではなく、教団からの、教祖様を守る命令が。

 雇われ警備兵として仕事を続けていれば生活には困らなかったし、命令があることへの安心感も有った。

 私は別に、強い思想を植え付けられながら育てられた訳ではないので、組織からの指令が消えた今、教祖様を殺す理由は無い。

 だから、今は警備の仕事をこなすだけ。

夢や希望を持つでも無く、与えられた仕事を全うすればそれでいい。

先の事は気長に考えればいいし、教祖様を守って死ぬのなら、まあそれはそれだ…。

 なんて思っていた所へ――――


「めーたんから、「恋人」なんて言われちゃったんだ」

 私の告白……と言うか、過去語りに、めーたんは無表情で、けれど視線は決して外さずに、じっ…と耳を傾けていた。

「だから、私は掘村 佳奈恵じゃないし、本当はこんな風にめーたんに好かれる資格も無いんだよ…」

 今私は、どんな表情をしているのだろう。

 笑っているつもりだけれど、うまく笑えていない気もする。

 ……もしこれでめーたんに嫌われて、ここを追い出されたら……その時は――

「じゃあ、ほんとうのなまえはなぁに?」

「……え?」

 意外なめーたんの言葉に、一瞬思考が停止する。

「本当の、名前?」

「うん、かえたんのほんとうのなまえがしりたい」

 めーたんの目には、拒絶や恐怖と言った感情が、一切感じられず、それが私を混乱させた。

「名前は、その……無いの」

 何も考えられず、ただの反射で会話が進んでいく。

「ないの?どうして?なかったらこまらない?」

「全く無い訳じゃなくて……そうね、組織では、レッドって呼ばれてたわ」

「れっど…?あか?」

「……ううん、ハンドレッドのレッド。百って意味よ。私が、組織の百人目の兵士だったから」

 つまりは…ただの番号だ。

 そんなものは、名前ではない。

 偽名は六つほどあったが、どれも自分の名前だと言う自覚は無い。

自己を表現するための第一歩である名前が無い。

それが、自分と言う人間の存在の軽さ、薄さを象徴しているような、そんな気がする。

私には何も無い。

何も無いのが、私なんだ…。

「ふ~ん……じゃあ、わたしがなまえをつけてあげる!」

「……………え?」

その、意外過ぎる申し出に、言葉が止まる。

「えっとね、えっとね、どうしようかなぁ~・……でもね、わたしね、かえたん、っていうのすきなの!」

「…ちょっ…ちょっとあの…めーたん?」

なんだか、ワクワクして楽しそうなめーたんに私の混乱はさらに増量中だ。

「だから、かえたん、ってよべるなまえがいいな!いいなっ!ん~と…か、かえ、かー、えー……かっえー…」

 両手の指先で頭を抱えるようにして、体ごと首を右へ左へ揺らしながら脳をフル回転させるめーたん。

「かえあ、かえい…ん~…かえん、かえんびん…かえんほうしゃ…かぁえぇ~かえ~」

 ……なんだか不思議すぎる方向へ行ってますけど!?

 いかん、このままだと変な名前つけられる!

「ちょっ…ちょっと待とう?めーたん。名前って、そんなに簡単につけたらダメなものだと思うんだけど、どうかな~?」

「そうなの?」

「うん、そう思うよ」

「……でもじゃあ、かえたんのこと、なんてよんだらいいの?」

 う……急に泣きそうな顔に…ど、どうしよう……。

「えっと…めーたんは、かえたん、って名前が気に入ってくれたんだよね?」

「うん」

「……じゃあ、かえたんでいいよ。私も別に、その名前は嫌いじゃないし、これからその偽名でずっと生きていかなきゃならないかもしれない可能性を考えると…慣れないとだしね」

「…ほんとに?いいの?だいじょうぶ?」

 ――――――ふと、気付いた。

 めーたんは、ただ意味も無く名前をつけようとしていたのではない。

 私に、新しい人生をくれようとしていたのだ。

 名前を付ける事で、過去を振りきり、新しい人生を歩むための第一歩を――――。

 私は、めーたんの頭をくしゃっ、と撫でる。

「ありがと、めーたん。でも大丈夫。どんな過去でも、それも含めて私だから、背負って生きていくよ」

「かえたん…」

「でも、どうしても辛くなったら、少しだけ、めーたんの力を借りる事もあるかもしないけど……いいかな?」

 その瞬間、めーたんの表情がぱぁぁ…!っと明るさを取り戻した。

「うん、わたし、ちからになりたい!かえたんのやくにたちたい!かえたんといっしょにがんばりたい!」

 …きっと、この感情を「愛しい」と言うのだろう。

 ただ、心の赴くままに、めーたんを抱きしめた。

「ありがとう…!」

「……うん、どういたしまして!」

 柔らかくて暖かいもので心が満たされる。

 こんな奇跡が起こるなんて、人生も悪くない。

 ――――私は、かえたん。

 めーたんの、恋人。


 ……私は初めて、私を手に入れた―――。

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