第三章「敵地にて」
第34話「脱出を目指して」
暗がりの中、労働区の北を壁沿いに歩く集団があった。集落のかがり火からは遠く、その足元はおぼつかない。
よろめきながら歩くうち何人かは足首をやられていて、他の者に肩を借りていた。その多くが女子供であり、血や泥にまみれた顔は憔悴しているようである。集団の脇にはまともに動ける男たちがおり、それぞれ武器を手に周囲を警戒していた。
「もう少し行けば貯水槽からの水路があるはずだ。踏ん張れよぉ」
先頭を行くマーティは後ろを振り返りつつ、息子たちに声をかけていた。向かうのは水場である。通常なら、そこは低層区の貯水槽から流れてきた水でいっぱいになっている場所だ。
しかし奪還作戦において貯水槽は破壊され、水のほとんどが労働区東を水没させるのに使われてしまっている。
そのため、今なら水量が落ち、水路は一人ずつなら通っていける空間が出来ているはずだった。そこを伝って低層区に行くか、最悪その水路に身をひそめていれば、労働区で隠れているよりは助かる可能性があるだろう。
マーティが保護した捕虜の数はゆうに50を越え、正確な数は数えていなかった。その多くがゴブリンたちにとって食用の女性と、売買用の子供となっている。
逃亡防止のために何人かは足の腱をやられていたが、戦士でない相手の分警戒が薄いのか、その対処は徹底されていなかった。
何よりマーティにとって幸いだったのは、息子が二人とも生きていたことだ。
ハウエンに頼まれていたレティアとヘンリーは探したものの見つからず、そこは気がかりだったが、マーティは深く考えないことにしていた。
今は自分の息子たちが無傷だったことにひたすら感謝し、この幸運が出来れば脱出まで持ってくれればと願っている。
風切り音がした。
「伏せろ!」
マーティは後ろにいた息子たちを庇いながら、その場へと伏せた。
飛んできたもの。音を発していたものは、その後ろに居た女性の腕へと突き立った。かがり火からも遠く、薄暗い中で腕から飛び出たものを抑えて女性は悲鳴を上げる。それは一本の矢だった。
「やめろ! お前らの副将がどうなってもいいってのかぁ!?」
マーティはすぐに腕に巻きつけて引き摺ってきていたゴブリン、イワンを前へと放り、その首に左で持った剣を突き付ける。
この暗がりで弓を使ってくるゴブリンが居るとは。それ以前にどうして見つかったのか。敵はどのくらいの規模なのか。向こう見ずで何も考えていないようなゴブリンなら人質は通用するのか。いくつものことが頭をよぎる。
「イワンよぉ。てめぇ、なんて様だ。ええおい」
ゴブリンにしては達者だが、どこか濁ったような、そんな喋りが前方から返ってきた。マーティは必死にその姿を探すが、この暗がりではどのあたりにいるのかもよくわからない。
「姿を見せやがれ!」
「断る。そして今も、弓手が狙っていることを忘れるんじゃねぇぞ人間。出来の良い頭でよく考えろ。そのゴブリンを殺して俺らに殺されるか、大人しく渡して捕まるかをなぁ」
マーティは声の出どころを探すが見えない。同時に、これだけの暗がりなら弓だって正確には狙えないはずだと考える。
「はったりはやめろ! こんな暗くちゃ弓だって」
言いかけたところで風切り音が鳴った。地面を穿つ音と、振動に震える矢の音が暗がりからしてくる。おそるおそる足下を見れば、そこに突き立つ矢がマーティの目にも見て取れた。
「足下。人間。びびった?」
「見ての通り、お前らと違って俺らぁ夜目が効くんだ。諦めて従うんだなぁ」
「くっそ、ここまできて」
「パパ、ぼくたちまた捕まっちゃうの?」
悪態をつくマーティに、すぐ後ろにいた長男が弟を抱きかかえながら不安そうに問いかける。そんな事態にだけはしたくない。
「大丈夫、大丈夫だ。パパが悪りぃゴブリンどもをすぐに倒してきてやる」
マーティは不安がる息子たちを前に、撫でてやることも抱きしめてやることもできない自分を口惜しく感じていた。
半分潰れた右手でイワンを押さえ、左手はそこへ突きつける剣で塞がってしまっている。マーティはこんな事態を引き起こしたゴブリンたちを心底憎み、知らずのうちにイワンの鎖を力の限り握りしめていた。
「マーティさん、どうします?」
武器を持った男の一人が、マーティの隣へ屈み込み小声で話しかけてくる。この暗がりで相手がどのくらいの距離にいるかもわからなかったが、弓手が構えている以上近すぎるということはないだろう。
それに、不謹慎だったが矢を受けた女性が呻いていたので、こちらの声はおそらく向こうには届かない。マーティは未だこちらを見上げてくる息子たちを見て覚悟を決めた。
「俺らでやるしかねぇ。後ろにも伝えてくれ。武器もった奴は前へ出ろ。このイワンとかいうゴブリンを盾に、できるだけやる。その間に女子供は逃がす、いいなぁ?」
「パパ……?」
「大丈夫だ。ちょっとあいつらにお仕置きしてくるだけだ。皆は先に行くだけ、俺らもすぐに行く。わかるな? わかるよな?」
「正念場っすよね」
男は震えた声でそう言うと、列の後ろへと向かっていった。
「何してやがる。しょうがねぇな。弓手、先頭の男を狙え」
「イワン近い。危ない。大丈夫?」
「構わねぇやれ。当たったらそれまでだ」
返事がない集団に苛立ちを募らせ、グランは弓手へと指示を出す。捕虜の集団自体もそうだが捕まっているイワンのドジさ加減も、そのイワンが自分から副将であると喋ってしまっていることにも怒りがわいていた。
イワンを失えば軍の進行に大きな支障が出るとわかってはいたが、それよりも自分の苛立ちが勝っているあたり、自分もまたゴブリンなのだとグランは自嘲気味に考える。
そしてそれにすら苛立ちながら、グランは弓を射るよう手を振って示した。
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