ヒューマナイガンとのキスについて3

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 スーツ姿のまま台所に向かうと、トロツキーネとレニッコがいた。二人して火がかかった鍋を見守っている。美味しそうな匂いが僕の鼻腔をくすぐった。


「いい匂いだな。どれくらいで出来る?」


 トロツキーネが振り向いて答える。


「あら旦那様、おかえりなさい……そうねえ、あと15分ぐらいかしら」

「そうかそうか。じゃあ出来上がったら呼んでくれ。僕は書斎にいるから」

「何?仕事?」

「うん。さっき代筆屋の人と一緒に報告書を仕上げたんだけどね。不安だから、念のためもう一度チェックしようと思う」


 僕の言葉を聞いて、トロツキーネが呆れたようにため息をついた。


「それはまたお忙しいことで……。しっかしまあ、日曜にスーツ姿なんて狂っているわね。ヒューマンは働かないと死ぬ生き物なの?」

「それは知らないが、僕が働かなければ君たちが餓死することは確かだ」

「はいはいそうでした。旦那様には死ぬほど感謝してやってるわよ」

「ああ、それで十分だよ」

「あっ、そうだ旦那様」

「何だ」


 振り向きざまにトロツキーネの手が僕の胸をかすめる。何事かと思ったら、トロツキーネが右手でネクタイを振り回していた。胸元を眺めると先程まで身につけていたはずのネクタイが消えている。


「もう窮屈なスーツを着る必要はないんでしょ。お着替え手伝って差し上げましょうか?」

「結構。大昔の貴族じゃないんだ。着替えくらい一人で出来る」

「まあ!それはすごいでちゅねー」

「ふん」


 僕はトロツキーネからネクタイをひったくって自分の部屋へと向かった。


───────(7)───────


 僕のネクタイをほどいた彼女の名前はトロツキーネ・レフ・ブロンシュテインという。紫のウェーブしたセミロングの髪が特徴的だ。いつもいつも、挑発的な目で僕を見つめている。いつもいつも、僕を挑発するような発言をしてくる。要するに、彼女は僕を馬鹿にするのが好きなのだ。マルカとレニッコを馬鹿にしてる姿もしょっちゅう見かけるので、単純に性格が悪いだけなんだなと僕は常々思っている。


 いつのことだったか、僕と彼女はこんな会話をした。


「トロツキーネ、君は事あるごとに僕を馬鹿にしたような態度を取るが、君にそんな態度を取る資格はないぞ」

「あらまあ、もしかして旦那様を馬鹿にする権利が持てる国家資格とかあったりするのかしら?それって私でも受験できる?」

「そんな国家資格なんてあるわけないだろう。僕が言いたいのは、君は僕より馬鹿なんだから僕を馬鹿にする資格がないと言いたいんだ」

「へえー。旦那様のほうが頭がよかったなんて初耳だわ。じゃあちょっと頭のいいところ見せてくださいな」

「むっ……。ちょっと待ってろ」


 僕は工具箱から歯車をいくつか取り出して机に並べた。


「見ろ。全部歯車だけど、どれも微妙に形が違っているだろう」

「ええ、違っているわね」

「歯車にはいろいろな種類があってね。種類ごとにちゃんと名前もついてるし、それぞれの形に応じた使い道がある。でも君はどれをどうやって使うのか全く知らないだろう」

「……そうね」

「でも僕はこいつらの使い方をちゃんと知っている。名前だってね。ほら、どうだ。僕のほうがずっと賢いだろう」


 僕が鼻を鳴らすと、トロツキーネがくすくすと笑い出した。


「何がおかしい」

「くすっ……ううん。何もおかしくないわ。旦那様は本当に賢いわねえ。ご褒美にナデナデしてあげる」


 そう言ってトロツキーネは座っている僕の頭を遠慮なく撫でた。


「……だから、君に僕を馬鹿にする資格なんてないって言ってるんだけど」

「ぜーんぜん、馬鹿にしてませんよぉ?」


 だが僕を見つめるその目にはやはり、いつもの挑発的な気持ちがこもっているのが見え見えだった。


 三人の中で彼女が一番嫌いである。嫌いなのだが……憎めない。いや、憎んではいるが嫌いではない。嫌いだけど嫌いではないのだ。むしろ、三人の中で一番好きな気さえもする。恐らく、彼女の僕に対する行動は全て計算ずくなのだろう。僕が心の底で許すギリギリの範囲で、彼女は挑発的な行動を取っているのだ。あるいは単に、僕が彼女のことを気に入っているから、無礼な行動その全てを許しているだけなのかもしれない。出来れば前者であってほしい。


───────(8)───────


 書斎で報告書に目を通していると、レニッコが夕食の準備が整ったと僕を呼びに来たので書斎から出る。ダイニングキッチンの机には美味しそうなハンバーグとミネストローネとサラダが並んでいた。マルカとトロツキーネはエプロンを外して既に着席している。


「早く座りなさいよ。こっちは腹ペコなんだから」と、トロツキーネが僕を急かす。

「はいはい」


 僕とレニッコは机に座って手を合わせた。そして「いただきます」と言って僕たちは食事に手を付ける。


「美味しい!」と、マルカはレタスを齧って叫んだ。

「流石は私が作ったサラダ……。流石私……」

「あんたがしたのは野菜を適当に切ってドレッシングをかけただけでしょ。褒めるべきは農家じゃない?」


 と、トロツキーネが至極真っ当な意見を述べる。


「確かに農家は凄い。でもこのサラダの美味しさは私にしか出せない。だから私は凄い」

「野菜にドレッシングかけるだけなら私にでも出来るわよ」

「トロツキーネちゃんのドレッシングは不味いから駄目だよ」

「あんたが使ったのと同じのを使えば味は一緒でしょ」

「トロツキーネちゃんには使いこなせない」


 と、マルカがにやりと笑う。


「何の話よ」

「このサラダには愛情という名の見えないドレッシングもかかっているんだよ。私の愛情は最高の調味料だからね。どんな安物でも究極のメニューに乗っちゃうよ」

「……へえ。そんな代物がかかっていたなんてね。目に見えないのが本当に残念だわ」

「あっ、トロツキーネちゃん。ハンバーグにケチャップかけたいからそこの瓶取って」


 と、マルカはケチャップの瓶を指差したが、トロツキーネは瓶を取ろうとしなかった。


「ケチャップいらなくない?自分の愛情ぶっかけて食べれば?」

「……」

「あれれーどうしたの?マルカさんの愛情ドレッシングはサラダ専用なのかしら?」

「ハンバーグにドレッシングかけるわけないじゃん。馬鹿なの?」

「はいはい。取ればいいんでしょ」


 そう言ってトロツキーネは呆れながらマルカにケチャップの瓶を手渡した。


 レニッコは二人の会話をニコニコしながら聞いていた。


───────(9)───────


 レニッコ。本名はレニッコ・ウリヤノワという。背は低く、銀髪でふちの赤いメガネをかけている。見た目は子供っぽいが、どちらかといえば物静かな子で、三人の中で言動が一番大人っぽいと僕は思っている。


 いつのことだったか、僕と彼女は庭でこんな会話をした。彼女は如雨露で花壇に日課の水やりをしていた。


「レニッコ、ここだけの話だけどね、僕は君のことを一番気に入っているんだ。マルカやトロツキーネよりもね」


 僕の言葉を聞いたレニッコは驚いたのか目を大きく見開いた。その後は落ち着き払ってやんわりと僕にこう言った。


「……ご主人、嬉しいお言葉ですが、他の二人の前では絶対に言わないでくださいな」

「言ったらどうなる?」

「二人は絶対に落ち込みます。二人とも、自分が一番ご主人に愛されていると信じて疑いませんからね」

「そうなのか……そうだな。あいつら、いつもよくわからない自信に溢れているもんな。それに比べると君は分をわきまえていて、出来たヒューマナイガンだね」

「ありがとうございます。でも私が思うに、ご主人が本当に好きなのはマルカとトロツキーネのほうだと思いますわ」


 今度は僕が驚く番だった。


「へえ……謙虚なことだね。どうして、そう思うんだ?」

「だってご主人は……私とほとんど会話をしないですから」

「……そんなことはないだろう」


 口ではそう言ったが、図星だった。


「ご主人、私は自分のことをよく知っています。私は口下手ですから、ご主人を楽しませるような会話は出来ません。それに、二人ほどの魅力も持ち合わせていません」

「随分とまあ、謙虚なことで」

「これは冷静に自分を観察して得た結論です。だから、ご主人が私を気に入る理由もなんとなくわかりますわ」


 水やりを終えたレニッコが空を見上げる。


「マルカさんやトロツキーネちゃんは食べ物で例えるならケーキやステーキ。私はこんにゃくといったところでしょうか。ケーキやステーキと毎日一緒にいるより、こんにゃくのほうが落ち着きますもんね」

「レニッコ……その例えは意味がわからない……」

「えっ!」


 レニッコが「しまった!」と言いたげな表情を見せる。


「ケーキもステーキもこんにゃくも、どれも心を落ち着かせる要素はないと思うけど」

「えーと、ええとですね。毎日ケーキやステーキを食べると胃がもたれませんか」

「もたれそうだね」

「でもこんにゃくなら毎日食べても大丈夫ですよね?」

「……なのかな?こんにゃくも消化が悪そうだからなあ。それにこんにゃくだけ出されても食べる気しないよ」

「そ、そうですか……」

「まあでも……君と一緒にいると落ち着くってのはわかるよ。マルカやトロツキーネとずっと話していると疲れそうだからね」

「そ、そうです!それを伝えたかったんです!二人は魅力的であるが故にずっと一緒にいると疲れる。けど、私は無味無臭だから落ち着く、的な!」


 と、珍しくレニッコが力説する。


「無味無臭は言い過ぎなんじゃないかな。それに君も、二人に負けず劣らず魅力的だと思うよ」

「ど、どの辺が!?」

「ええと……も、物静かなところとか」


 僕の答えを聞いて、レニッコは少しがっかりしたような表情を見せた。


「……それが私の魅力ならば、やっぱり私は無味無臭だと思うんですよね。それに物静かなだけなら私である必要はないと思いますわ。熊の人形だって、物静かですしね」

「でも僕は、同じ物静かなら熊の人形より君が良いな」


 僕がそう言うと、レニッコは嬉しそうに、そして恥ずかしそうに少し笑った。こうやって思い返してみると、熊の人形と比べている時点で全く褒め言葉になっていない気がする。とはいえ、とにかくレニッコはとても良い子だと思う。きっと彼女の魅力的な部分というのは、そう簡単に言葉で表せるものじゃないのだろう。

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