第9話-回
「やっぱり、桂ちゃんはすげえよ」
数日間意識を手放していた僕に、進矢がそう言った。一番最初に飛び込んできた言葉がそれだった。
ずっと僕の看病をしていてくれたのだろう。声に疲労が滲んでいたが、それを消し飛ばすほど強い喜びの色があった。彼はそれに劣らない興奮した状態で次の言葉を出した。
「やっぱり、桂ちゃんは桂ちゃんなんだよ」
「なんだよ、それ」
しゃがれた声で僕は笑った。流石に身体が鈍っている。喉を使うのも辛いし、息をするだけでふしぶしが痛い。
進矢から聞いた話によると、やはり祖谷は和多田病院の乗っ取りを画策していたそうだ。
和多田病院内で、あれほどスキャンダラスな事件が起これば、院長は辞めざるを得ず、院長の息子である進矢はまだ研修医なのでいくら腕があろうと院長にはなれない。そもそも研修医から医師になるのさえ難しくなる。となれば、和多田病院は3番手の祖谷のモノになるという考えだったそうだ。
ドラマのような過激な展開に各種報道機関は連日、この情報を伝え、負けじとよりセンセーショナルな内容に装飾していった。事実を曲げることはよろしくないから、進矢の素晴らしい人柄を取り上げヒーローのように扱い、それに感化されていた親友の僕が探偵役になった、という筋書きができあがっていた。
進矢のカリスマ性と医療の腕については前から世間に取り上げられていたし、寝ている僕に関する脚色はしやすかったのだろう、と推測を立てるのは難しくなかった。
僕はやれやれ、と思った。世間にどう思われても大した事ではないが、進矢が誤解していることだけはどうにかしたい。これ以上、彼が僕の背を見ていてはいけないのだ。止まる僕を追い抜いてもらわないと、世界が困る。何もできない僕に時間を割きすぎだ。
進矢が医師としての職務を全うすることに苦痛を感じているのなら、話は別だったが、そんなことはない。彼は自分の能力を発揮することに何ら不満はなく、誰かを救える医師という職業を天職と思っているのだ。他人に望まれた道を、自身が望んで軽やかに駆け抜けている。その足を僕が止めるのは許されない。
「なあ、進矢」
「どうかした」
「いや、久しぶりにコカコーラが飲みたいな。頼めるか」
すぐ買ってくる、と進矢は笑って出て行った。彼を前にして僕は嘘を告白する勇気はなかった。彼の純粋な眼差しを感じるだけで、喉は締まって、口内は干物のように乾くのだ。身体が訴えていた。そんなことをする必要があるのか、と冷笑していた。
身体のいい分はこうだ。
「親友と自分を悪戯に傷つけるだけだ。これが優しさじゃないとかそういうことはどうだっていい。嘘が悪だとか子供みたいな潔癖を装ってる場合じゃないだろ。損得で考えろよ。お前が多少口を閉じて、微笑んでやれば万事解決するじゃないか。それに引き換え、しょうもない告白をしたばかりに二人とも頭を悩ませてみろ、そっちのほうが苦しいし、痛いぞ。それに、この問題だけで済むわけがないんだ。なあ、どっちが本当の優しさかわかるだろ。現実は綺麗ごとだけで立ち行かないのさ。多様性、臨機応変にって奴だよ。お前が我慢すればいいのさ。ちょっと苦しい程度だ。慣れ親しんだことだろう?」
陳皮でありふれた正論ではあるが、無視することはできなかった。確かにそうだ、と僕は頷いた。
今まで通り、僕が親友に対する劣等感を隠し、進矢の時間を削る痛みを我慢して笑っていればいい。
もしこの親友に抱いている感情を暴けば、僕が今まで重ねた嘘も暴かなくてはならない。積もった気持ちを吐き出さなければ始まらないのだ。
自分の腐った傷を見せつけ、重ねてきた嘘を説明しなければ、進矢はきっと納得しない。
誰のためにこんなことをしようとしているのか。何が正しくて何が悪いのか。そんなことは教わってこなかったし、学んでこなかった。考えてこなかった。誰もが納得する正しさなんてなくて、それぞれの正しさがあるんだ。そんな言葉が恨めしかった。ただただ無力だった。それでも、僕は選ばなくてはならなかった。
選択からは逃げられない。
結局、進矢には何も言わず、僕はこの問題から逃げるために別の考え事をした。祖谷を捕まえたことで、事件への違和感はなくなり、スムーズに頭を使えた。
考えなければならないことは、これからどうするのか、ということだ。歩く道筋を決めねば、立つこともできない。
道は幾つもあった。今でも、このガラクタのような身体でもたくさんあった。可能性というのはいつだって測れない。
だけど、一つだけ、異様な輝きを放つ道があった。くっきり僕の前に現れた道。人の道理から外れたイリーガルな道。
できるだけ、そこから目を背けようとしながら、未来を探索した。
しかし、未来という不明瞭なものを見ようとするのは非常に疲れる作業だった。想像の中で色々なものを確実で鮮明に出力しなくては、始まらないし成立もしない高度な作業だからだ。
そのせいか気を抜くと、アマネさんの声がいつもより聞こえる。包帯で目を閉じているから、ぼんやりと彼女の輪郭が浮かび上がってくる。
この現象は彼女が死んでからずっと起こっていた。
桜の木と同じように、徐々に精細さが欠けてくる彼女の像。
それを必死に修正しようとすると、あり得ない匂いがした。香のような鋭い花の匂い。元々、自分の匂いだったもの。
それが呼び水となって、色んなものを思い出した。ささくれのない母親の指先。家族の不安を欠片も感じさせない声。彼らが僕に向ける目。
脳が可笑しくなっていた。今、入院した時のことが関係あるのか? 過去が何の用だ?
視界は閉ざされ、耳と嗅覚は狂っている。味覚と触覚も衰弱のせいで麻痺していた。五感がいかれていた。特に花の匂いがするときは、危ないことが起きる兆しだ。
「私、桂君のことが好きよ。柔らかくて大きな翼を持っているから」
これは幻聴だ。初めて断言できる。
僕はようやくアマネさんの死を深く実感していた。墓参りまでは直視してこなかった。
直視した後にすぐ、刺され、祖谷という敵を見つけたから、今だった。
祖谷を捕まえたことに不思議なほど達成感はなかった。あの時支配していたのは怒りだけだった。後先、考えていない衝動だった。
だから、今、残っているのは不甲斐なさだけ。理想があるのに何もできず、その言い訳を病のせいにして止まっている男。苦しんでいたアマネさんに気づけず、自分の格好悪さを隠すだけで精一杯の愚か者の姿。守ることはできず、ただ嘘をついて、相手を思いやったふりをしていた屑。
いつもそうなのだ。僕はいつも自分自身の不甲斐なさを突きつけられることに怯えていた。それを回避するために、ずっともがいていた。直視しないよう、生活するのに必死だった。
だから、とは言われたくなかった。もしかしたら、と思いたかった。
俺はまだできるのだと、信じたかった。可能性を捨てられなかった。
そうやって、お前は何もできないという事実から、逃げることだけが救いだった。
それを止めようと、アマネさんの墓の前で誓ったはずだった。
僕が考えるタフとは、弱さと立ち向かって進む奴のことなのだ。その場しのぎで繕って、背を丸めて進む奴とは違うのだ。
「けど、もうダメなんだ」
今の僕は死んだのと変わらない。あるのはこの回への絶望だけだった。
いつの間にか、世界に対して回という呼称を用いていた。
もう、いつも通りの生活はできない。モルモットとしてしか価値のない日々。
唯一残された役割を失うことの怖さから、隅に逃げ縋るのは辛い。世界から閉ざされるのはもう耐えられなかった。
絶望が甘えだと頭では理解していた。
だが、立ちあがる前に、立つ地面が信じられなくなった。世界がチープな模型でしかなかった。足を踏みしめれば崩れてしまうのが目に見えていた。
本来ならば、それでも、と言わなくてはならない。何があっても進まなければ道が閉ざされてしまう。
だが、僕には一つだけ脱出する手段があったのだ。イリーガルな道が。
「この世界はどう回っている?」
この世界がどう回っているのか。そのことに僕は気づいてしまった。
一部でも望みがあれば、諦めることはできなかった。光が差せば、そちらを向いてしまように。
客観的に見れば馬鹿げたことで、仮にありえたとしても博打に違いない。
だが、その方が良いと思えるほど、僕は毒されていた。
もしも、というあやふやなものを希望に僕は生きていくしかなかった。
それはもはや希望ではなく、呪いであった。 希望と呪いは表裏一体だからだ。
希望というのは追い求め掴み取るもの。しかし、僕はそれしかないと縋り囚われている。そして、自分を憎悪することでしか進めなかった。
僕は何故、自分が生きているのか、という疑問にある仮説を立てていた。その仮説は、直感的で荒唐無稽なものだったが、僕は信じていた。
死んだ瞬間、時が戻るのだ、と。
つまり、僕はあの時本当に刺されたが、時を戻すことでそれを回避したのだと。
死ぬことでまたアマネさんのいる世界に戻れると確信していた。だから、次に彼女にあった時に救えるようになりたかった。
そうやって僕は進むことにした。もう、この呪いからは逃れられない。
まず、僕は医師になろうとした。そのための第一歩が膨大な量の知識の習得だった。昼夜問わず勉強する必要があった。
身体はそれに応えてくれるように、静かにしていてくれた。健常とまでは言えなくても、勉学に耐えうる消耗だった。モルモットの仕事と就寝や食事以外のすべての時間を費やした。
進矢と知識の面でようやく肩を並べた頃、勉強と並行して進ませていた僕と進矢の研究により、甲乙種の違いが判明した。元々、医師の間ではほぼ確定した推測として知られていたことだったらしい。
僕が医者見習いとなってようやく知ったことだ。
それを、世間に向けて発表できるほど高度で密なデータを集めてまとめた。
乙種を知ることは、治療方法の確立に必要不可欠だったから、目的の過程での出来事だった。
研究を要約すると、甲乙種は人間の進化であるというものだった。
乙種は不死といってもいいほどの身体能力を得る代わりに精神面の衰退があるもの。アマネさんのわからないというのはこれが原因だと考えられる。
反対に甲種は身体面の全般的衰弱の代わりに、超能力といってもいいほどの特殊な力が備わることだった。ただし、その能力は一つとして同じものがなかった。そもそもサンプルである甲種の患者が少なすぎたので、解明はできなかったし、治すことも叶わなかった。
そこで、妄想であった呪いは確信に変わった。僕の得た甲種の力は時間を巻き戻すことなのだと。
だから、僕は甲種を治そうと考えるグループの邪魔をした。甲種が人間の進化なのだと、声高々に主張する方々のおかげでずいぶんスムーズに済んだ。
治療されては困る。僕は奇跡さえ起これば原理はどうでもよかった。仮に能力が違ったものや効果が限定的なものであったとしても。
妄想が妄想であると断言されては、死ぬのと同じだった。今更、前提という土台をぶち壊されては、立つこともままならない。また目を背けたのだ。
それと並行して、乙種の治療薬を創るための研究を始めた。甲種は発症原因がわからないが、乙種は判明していたので、研究は容易だった。乙種というのは主に、死んでもおかしくない暴力を日常的に受ける劣悪な環境での生活、虐待などの暴力を受けた人間が生きるために回復能力を高めることで発症するケースが多く、サンプルが多かった。
優れた頭脳を持った進矢と、このことだけに猛進する僕がいたので、研究を始めてから10年の月日を経て治療薬は発明できた。
世界に不治の病を一つだけにした。
その功績を称え、僕と進矢は表彰されたがそんなことはどうでもよかった。あとは、この回からの移行を待つだけだった。
その望みに応えるように、僕の容態は急変した。進矢は頑張ってくれたけれど、本人に治る意思がなければ効果は半減してしまう。精神論というわけではないが、向き合う気のある人間は確実に治る可能性が上がる。ずっと信じ、そのための行動を取れればの話だが。
僕はその逆を行った。そして、治療薬を開発して3ヶ月後、僕はこの回から移行した。
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