第9話

 ときは、十八年前。場所は、レン郊外にある円形闘技場。真夏の強烈な日差しが照り付ける中、一万を超える観衆の視線は残らず、すり鉢状の闘技場の底にある試合場の真ん中に注がれている。

 試合場には、ふたりの剣士の姿があった。

 ひとりは、ラルフ・ハミルトン。当年三十一歳の彼は、剣豪マイカ・ローウェルの一番弟子にして、ローウェル道場の師範代を務める。師匠譲りの確かな剣技と、いかなる事態にも動じぬ鋼のような精神を持ち合わせ、まさに武術家の理想像であるとまで評された男だ。

 いまひとりは、ヴィンス・リゲル。数多くの著名な武術家を輩出してきたラナマン領に生まれ、若くして領主たるフラムスティード家に召し抱えられた俊才である。当代最高の幻惑フェイント術の遣い手であると評されているリゲルは、ハミルトンより四つ若い二十七歳だ。

 シーラント王国において、武術大会の最高峰といわれる三つ大会――俗に三大賜杯と呼ばれる大会のなかでも、もっとも権威があるとされる大会。それが、トランヴァル杯である。その決勝戦が、まさに行われているところであった。

 古の神話に語られる英雄・トランヴァルの名を冠するこの大会が開かれるのは、三年に一度だ。一般に、武術家の全盛期というのはおおよそ二十代後半から三十前後まで、というのが定説である。単純に考えれば、全盛期のうちにこの大会に参加できるのは、せいぜいが一度か二度ということになる。

 なにせ武術家というのは、怪我が絶えない職業である。ほんのわずかな油断から職業生命を左右する怪我を負ってしまう、などということは日常茶飯事だ。大きな怪我を抱えることなく、三度トランヴァル杯に出ることができるような武術家は、きわめて幸運であるといえよう。

 ゆえに、シーラントの武術家がトランヴァル杯にかける想いは強い。ほかのどんな大会よりも熾烈な戦いを勝ち抜き、決勝に辿り着いたのがこの両雄であった。

 試合が始まって、すでに一時間以上が経過している。

 トランヴァル杯では、トーナメントで行われる本戦――六十四強以上の試合は、すべて時間無制限で行われる。しかし、一時間を超える試合というのはごく稀である。

 互いに打撃を三、四度ずつ相手に浴びせてはいる。しかし、どれも浅く、試合を左右するまでには至っていない。

 ここまでは、互角の戦い――観衆たちの九割九分九厘はそう考えていたことだろう。

 しかし、一定以上の力量を持つ武術家の眼からすれば、

「ハミルトンが押されている……」

 ことは明らかであった。

 ハミルトンが劣勢に立たされた原因――まず、試合が長引いたこと。そして、真夏の昼間という環境が挙げられるだろう。

 持久戦ともなれば、若いリゲルが有利なのはいうまでもない。加えて、真夏の炎天下である。体力の消耗は、より激しくなる。

 そしてハミルトンを苦しめた最大の要因が、強烈な陽光が地面に照り付けることによって発生した陽炎かげろうであった。

 ゆらゆらと揺らめく陽炎は、ハミルトンの視界をぼやけさせる。そして、ぼやけた視界というのは、リゲルの幻惑術をより効果的に引き立てる要因となるのだ。

 時間の経過に従い、リゲルの剣に対するハミルトンの反応が鈍くなっていく。

(これは、いかぬ……)

 鋼鉄のごとき精神を持つといわれるハミルトンである。劣勢においてもその表情はまったく揺らがない。しかしその実、ハミルトンはリゲルの剣を受けるのが精一杯という状態であった。

 内心の焦りは身体を委縮させ、身体の委縮はさらなる焦りを生む。ハミルトンは必死に動揺を抑えようとするも、リゲルはその隙は与えぬとばかりに猛攻を加える。

「勝負どころをわきまえている――あの歳で、大したものだ」

 試合場の最前列で観戦していたマイカ・ローウェルが、思わず呟く。

 リゲルとて、体力の消耗は激しい。いまのところは有利だとて、なにかのきっかけで状況は容易に逆転しうる。ハミルトンを落とす・・・なら、まさにこの瞬間をおいてほかにない――リゲルがここを勝負どころと決め、一気に決着をつける心づもりであるのはマイカの眼からも見て取れた。

(来るか――!?)

 リゲルの気魄は、試合場で相対しているハミルトンが、誰よりも強烈に感じ取っていた。膨れ上がるリゲルの剣気に抗すべく、剣を握りなおすハミルトンであったが――不意に、その右膝がわずかに沈んだ。肉体と精神の疲労によって、右膝からちからが抜けてしまったのである。

 右膝のちからが抜けたのはほんの一瞬のことである。しかしここはトランヴァル杯の決勝で、相手は当代最高峰の技量を持つ武術家である。その一瞬を見逃すはずもない。

「いざッ!!」

 リゲルが走り出た。幻影ミラージュと呼ばれる、相手の感覚を狂わせる特殊な幻惑を挟みつつ、リゲルはハミルトンとの間合いを一気に詰める。

(これは――これが『正義ジャスティス』かッ!?)

 幻剣『正義』。リゲルが持つ、奥の手ともいえる剣技だ。

 その正体は、いたって単純な三連撃である。むろん、リゲルほどのちからを持つ剣士によって繰り出されれば、ごく単純な連撃でも生半な武術家にとっては必殺の威力を持つ。

 しかしこの技の恐ろしさは別のところにある。それは、一撃一撃の間に挟まれる幻惑である。

 リゲルは、ひとつの斬撃の間にあたかも別方向から斬撃を繰り出すかのような幻惑を挟み込むのである。これによって、受ける側はリゲルが三度斬撃を放つ間に、五つの斬撃を浴びせられたかのように錯覚してしまうのである。

 この国の国教たるファラ教において、正義を司る神は、三対六本の腕を持ち、そのうち五本それぞれに武器を携えた姿で描かれる。正義の神は、その五つの武器をもってあらゆる悪徳を滅ぼす戦いの化身なのだ。そして残された一本の腕は、悪の心を捨て改心した者に差し伸べられるため、無手であるという。

 人間には不可能と思える速度で繰り出される、幻の五連撃――リゲルのこの技は、正義の神の姿になぞらえ、『正義』と呼ばれるようになったという。

 この試合では、初めて見せる『正義』であった。リゲルは、この勝負どころのために、『正義』を温存してきたのである。

「くうッ……!」

 ここで、ハミルトンはこの試合一番の集中力をみせた。

 リゲルのとっての好機というのは、それを凌ぎきることができればハミルトンにとっての好機へと転じる。まさに、残された気力すべてを振り絞るつもりで、ハミルトンは『正義』を受けんとする。

 一撃、二撃――間に挟まれた幻惑も的確に見極め、とうとう三撃め――

「――見えたッ!!」

 二撃目のあとに繰り出された幻惑を見切ったハミルトンは、右方向から繰り出された横薙ぎを、剣を立てて受け止めてみせた。

 しかし、リゲルの『正義』にはその先があった。

 ハミルトンが一気呵成に反撃に移ろうとした瞬間、素早くハミルトンの右方向に回り込みつつ、剣を引き絞ったのである。

(突き――!)

 自らの右肩あたりを狙った突きが来る――攻勢に出ようとしていたハミルトンは、すでに重心を前に移していた。足捌きでは避けられぬと判断し、とっさに上体を捻り、右肩を引く。瞬間、ハミルトンの背筋に悪寒が走った。

(不味い――)

 身体を右に捻ったことで、必然ハミルトンの頭も右に向く。刹那にも満たぬわずかな瞬間ではあるけれども、ハミルトンはリゲルから目を切ってしまったのである。気づいたとき、すでに彼の視界にリゲルの姿はなかった。

 ハミルトンは、完全に背後を取られていた。土壇場で、リゲルが放った突きの幻惑に引っかかってしまったのである。

 リゲルは、『正義』が防がれてしまった場合にも備え、次の一手を繰り出せるよう備えていたのだ。

(ここまでか――)

 諦観の念が、ハミルトンを支配しかけた。背後のリゲルの姿は見えぬが、おそらくは止めの一撃を繰り出すべく剣を振りかざしていることだろう。

(終わり――本当にここで諦めてしまってよいのか――もしリゲルが手にしているのが真剣であったとしたら、俺は命を落としてしまうだろう)

 ひどくゆっくりと進む時間のなか、ハミルトンは自問自答する。人間は生命の危機に瀕したとき、時間の経過が遅く感じられることがあるという。ハミルトンの感覚も、それと同じだったのかもしれぬ。

(否、たとえどれだけみっともない姿を晒すことになろうとも――最後の瞬間まで、生にしがみ付く。それこそが武術家の本懐であるべきだ)

 萎えかけていたハミルトンの四肢に、力が戻った。

 そしてハミルトンは、驚くべき行動に出たのである。

 ハミルトン自身は、自身のとった行動について、

「はっきりとは、覚えていない……」

 という。

 しかし、この試合を観戦していたマイカをはじめとする数多くの武術家たち、そして間近でふたりの試合を裁いていた審判員が、揃って証言している。いわく、

「ハミルトンは、リゲルに背後を取られたその時、眼を閉じていた」

 と。

 無防備なハミルトンの背中めがけ、リゲルが剣を振り下ろす――観衆たちの誰もがリゲルの勝を確信した瞬間。

 ハミルトンは、完全な死角から放たれたその一撃を、こともなげにひょいと避けた。

「まるで、背中に眼がついているような……」

 リゲルはのちに、そう述懐する。それほどまでに、ハミルトンの動きは自然なものであった。

 呆気にとられるリゲル。その首筋に、ハミルトンの木剣がすっ・・と疾った。

 リゲルも、そして審判員も、数秒の間なにが起きたのか理解できぬようであった。そして、はっとしたように審判員が右手を挙げる。

 ハミルトンの勝利であった。




「あの瞬間――俺の五体はごく細かい粒となって空気に溶け出し、『世界』の一部となった。そう感じた」

 ハミルトンは、当時のことを弟子たちにこう語っている。

 あまりに抽象的な表現である。弟子たちが首を傾げるが、ハミルトンは

「わからぬのも当然であろう。俺自身も、あのときのことは完全に理解できておらぬのだ」

 と、珍しく苦笑を浮かべる。

「俺自身と、俺を取り囲むすべてのもの、そして見えてはおらぬはずのリゲルの姿――いや、それどころかリゲルの筋肉の収縮、骨格の軋み、そして髪の毛一本一本の動きに至るまで、俺は手に取るように把握することができたのだ」

 不可思議な話だ。しかし、ハミルトンが見えぬはずのリゲルの一撃を簡単に避けたのは紛れもない事実である。

「ローウェル師匠とも話したが、死地に立たされたことによって俺の五感が研ぎ澄まされ、匂い、音、空気の流れ――さまざまな感覚が複合的に混じり合い、俺に流れ込んだ。結果、あのような現象が起こった。そう考えるよりほかあるまい」

 普段は極端に口数が少ないハミルトンだが、リゲルとの試合のことを聞かれたときに限っては、いくらか饒舌になる。それだけ、彼にとって印象強い出来事だったということだ。

「あの感覚を、いかにして再現するか。それが、この道場を設けた動機のひとつなのだ。いまだ叶っておらぬが」

「そうだったのですか――しかし、師匠ほどのお人がこれだけの年月をかけながら、一度も再現に至らぬとは」

 弟子の言葉に、ハミルトンは鼻を鳴らす。

「師匠ほど、とは買いかぶりが過ぎる。本当の天才は、あの時の感覚に近いものを、生まれながらにして会得している」

「本当にそのような人間がいるのですか」

「実際に目の当たりにせねばわからぬだろう。さあ、凡人が天才に追いつこうとするなら、無為に時間を過ごすことは許されぬ。稽古に戻るがいい」

 そう言うと、ハミルトンは口を閉ざすのだった。




 余談であるが――ファラ教には、審判を司る神が存在する。外見による先入観に惑わされることなく、心眼によって人間の内に秘められた善悪を見抜くといわれる審判の神は、常に目を閉じた姿で描かれる。

 眼を閉じた状態から放たれた、ハミルトンの反撃。審判の神の姿になぞらえ、その一撃は盲剣『審判ジャッジメント』と呼ばれることになる。

 『正義』対『審判』――リゲルとハミルトンとの一戦は、武術史に残る名勝負として語り継がれている。

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