第11話

 サディアスを取り囲んでいるのは、ほとんどが貿易商ヒギンズの屋敷の使用人であった。

「サディアス殿!」

 人をかき分け、マーシャはサディアスに駆け寄った。

「グ……グレンヴィル殿……面目、ない……」

 きわめて弱々しい口調ではあるが、サディアスはかろうじて意識を保っていた。

「喋らないでください。体力を消耗する」

 言いながら、サディアスの容態を診る。脈は弱っているものの、まだしっかりしている。直ちに死に直結するほどの負傷ではないようだが、油断はできない。傷が内臓に達していた場合、ちょっとしたきっかけで一気に容態は悪化しうる。

「これは、先生じゃありませんか。どうしてここに……」

 同じロータス街に暮らしている者同士とあって、集まった人の中にはマーシャと顔見知りの者も数人いた。

「たまたま通りかかったのだ。それより、医者は呼んだのか?」

「ええ。今若い者に髭の先生を呼びに行かせてますよ。あと警備部の詰め所にもひとり走らせてます」

 「髭の先生」とは、ロータス街で診療所を営む老医師・ホプキンズのことである。口は悪いが、ところでは一番の名医として知られる。

 医者の到着前に応急処置をしようと、マーシャはサディアスの着衣をはだけさせる。

 傷があったのは右脇腹。鋭利な刃物による刺し傷だ。サディアスは上着の下に薄手の鎖帷子を着込んでいたが、それをも貫通するほどの一撃である。もし鎖帷子がなかったのなら、サディアスはすでに死んでいたかもしれぬ。

 傷口からはいまだ血が流れ続けている。マーシャは屋敷の人間に清潔な布を持ってこさせ、それを傷口に押し当てた。内臓に損傷がある可能性があるほどの負傷となると、医者でもない素人にできることは少ない。

「誰か、この人が刺されたところを見たか?」

 使用人たちは、一様に首を横に振った。

「ただ、この人ともう一人、黒づくめの男がいたのは見ました。すぐに逃げてしまいましたが」

 屋敷の者たちが駆け付けるのがあと一歩遅かったなら、サディアスは止めを刺されていたかもしれぬ――マーシャは、その幸運に感謝する。

 しかし、サディアスが泥棒、と声を上げてから屋敷の者たちが集まってくるまで、そう時間はかからなかったはずだ。その短時間にサディアスを敗北せしめるなど、並大抵のことではない。

「ときに先生、この人はお知り合いで?」

「うむ、このお人は――」

 と、サディアスが弱々しくマーシャの手を握って目くばせした。自分の詳しい素性は秘密にしてくれ――マーシャは、サディアスの意図をそう解釈する。

「――ええと、このお人は知り合いの知り合い、といった間柄だ」

 マーシャはとっさに話を取り繕う。

 そこへ、意識を失った賊を担いだアイが戻ってきた。

「おお、アイ。ご苦労だったな」

「なんの、これしき軽いものでござる」

 アイは、男を地面に降ろした。男の着衣を引き裂いて作ったと思しき紐で、両手両足が縛り上げられている。口にはしっかりと猿轡が噛まされていた。

「先生、その男はもしかして――」

「うむ。どうやら、噂の怪盗のひとりのようだ」

 周囲の人間たちから、感嘆の声が上がる。ひとりとはいえ、これまで証拠すらほとんど残していなかった怪盗を捕らえたのだから当然の反応であろう。

 そのとき、遠くから複数の馬蹄の音が響いてきた。警備部の到着であろう。

 ふたたび、サディアスがマーシャの手を握った。そのなにか言いたげな表情を見て、マーシャはサディアスの口元に耳を近づけた。

「……、…………」

「エイベル……? なるほど、わかりました」

 マーシャがサディアスに囁き返した。もし警備部に詳しい事情を聴かれた場合、自分の本名は明かさずエイベルという名だということにしてくれ――サディアスはそう訴えているのだとマーシャは察する。

 密偵というのは、ふつう自らの素性を隠すための偽名をいくつも持っているものだ。エイベルというのは、サディアスが使用している偽名の一つなのだろう。そしてその偽名には、なにを追及されても答えられるよう、それらしい経歴も付随しているはずである。

 警備部の到着とほぼ同時に、ホプキンズ医師が助手の少女ファイナ・スマイサーを伴って現れた。

「まったく、こんな時間に叩き起こしよって。年寄りをなんだと思っておるんじゃ」

 などと悪態をつきながらも、手際よくサディアスの処置を開始する。

「ホプキンズ殿、彼は助かりますか」

「診療所に連れて行ってからでなくては判断はできん。外見そとみからでは内臓がどれほど傷ついているかわからんからの――おい、ヒギンズの家に担架になるようなものはあるか」

 ヒギンズ家の使用人たちが、納屋から大きな板を持ち出し、それにサディアスを横たえる。

「揺らさぬように、静かに運んでくれ」

 ヒギンズ家の男たちの手によって、サディアスは搬送されていった。心配ではあるが、サディアスのことはホプキンズに任せるしかない。マーシャにできるのは、無事を祈ることくらいであった。

 駆け付けた警備部の面々のなかには、マーシャと顔なじみであるシェイン・アボットの姿もあった。

「先生、怪盗をとっ捕まえたってのは本当ですかい」

「ああ。そこに転がっている。早く詰め所に連れていくといい」

「この間の『魔剣』騒ぎのときといい――先生には世話になりっぱなしで申し訳ねえ」

「こちらこそ、コーネリアス殿にはいつも便宜をはかってもらっているからな。それより、私たちにも事情聴取しなければならないのではないか」

「あ、その通りで。できれば、詰め所のほうまでご足労願えますかね」

「無論だ。アイ、行こう。それからシェイン――その男、油断のならぬ相手だ。どうしても必要なとき以外は戒めを解かず、片時も目を離さないよう」

 念を押し、マーシャは警備部の詰め所に向かうのだった。


 詰め所では、分隊長コーネリアスが直々にマーシャの事情聴取を行った。

 サディアス――もとい、エイベルと連れ立って歩いていたところで怪盗に出くわした。怪盗を追おうとするうちに散り散りになってしまい、エイベルは自分が目を離したわずかな隙に怪盗に襲われたようだ――マーシャは、そう説明した。

 コーネリアスとの親交も深く、これまで警備部に多大な貢献をしてきたマーシャである。コーネリアスが彼女の話に疑問をさし挟むようなことはない。

「……ひとつ、お願いがあるのですが」

「なんでしょう」

「賊の手によって負傷したエイベル殿なのですが――ごく個人的な事情により、本来あの場所にいるべきでなかったはずのお人でして。詳しい素性も、私の口からはお話しできないのです。勝手なこととは承知しておりますが、彼のことは内密に願えないでしょうか」

「ううむ……れいの怪盗の手によって負傷したというお話に間違いないのですか」

「それはもちろん。エイベル殿が怪しい人物ではないことも、私が保証いたします」

「あの男性は、純然たる被害者であるということですな……わかりました。捜査上秘密にする必要があると、部下たちにも言い含めておきますよ」

「感謝します、コーネリアス殿。では――エイベル殿のご家族にこのことを知らせたいのですが」

「それなら、うちの者を使いに出しましょう」

「いえ、それには及びませぬ」

 サディアスがフォーサイス家所縁の人間であることは伏せておきたい。そう考えたマーシャは、コーネリアスの申し出を丁重に断った。

 アイとともに詰め所を出たマーシャは、アイを先に桜蓮荘に帰し、その足でフォーサイス家の屋敷に向かう。一度ホプキンズの診療所に寄ることも考えたが、公爵やパメラに一刻も早く報せを届けることを優先させることにした。

 深夜――いや、東の空は白み始めている時刻だ。辻馬車なども見当たらぬ。冬の朝特有の張りつめた空気の中、マーシャは新市街への道を急ぐ。


 他人の家を訪ねるには、いささか非常識な時間である。しかしマーシャはフォーサイス家の門番たちとは顔見知りであるし、なにより火急の用件があるということで、すぐに邸内に通された。

 程なくして、公爵とミネルヴァがパメラを伴い現れた。公爵たちにとってマーシャは気安い相手であるから、寝巻の上に上着を羽織るという格好だ。時間が時間だけに、眠たげな表情を隠せないのも無理からぬことであろう。

 パメラはさすがというべきか、その表情からは寝起きだということをまったく感じさせることなく、侍女服の着こなしに一片の乱れもない。

「このような時間にお邪魔して申し訳ございませぬ。しかし、火急の用がございましたゆえ」

「いったいなにがあったのだ」

 マーシャの緊迫した声音に、公爵も尋常ならざる事情を察したようだ。にわかに表情が引き締まる。

「実は――サディアス殿が、大怪我を負ってしまったのです」

 これには、公爵やミネルヴァも絶句する。パメラはわずかに眉を動かしたが、動揺する様子は見せない。

 マーシャは、怪盗の犯行現場に偶然出くわしたこと、そしてその場に現れたサディアスが怪盗の首魁との一騎打ちを望んだことを語った。

「やはりサディアスは、怪盗のことを調べて回っておったのか……」

「父上、怪盗とは?」

「わしも、詳しいことは聞いておらんのだ。サディアスの容態が良好ならば、本人の口から語られようが……」

「まあ――それはひとまず置いておきましょう。先生、サディアスの加減は?」

「私の目からは、十分助かる見込みがあるように見えましたが――なにぶん腹の刺し傷ゆえ、決して楽観はできませぬ」

 ミネルヴァの問いに、マーシャは正直に答えた。

「それでは、私はいったんサディアス殿のもとへ戻ります」

 と、マーシャは席を立った。

「先生、私も参りますわ。父上もお出でになりますわよね?」

 公爵はしばし沈思したのち、口を開く。

「わしは行かぬ」

「父上、それは薄情というものではありませんか」

 ミネルヴァが憤慨する。

「あの責任感の強い男のことだ。わしに醜態を晒すのは、なによりも耐えられぬことだろう。わしがサディアスを見舞えば、かえって傷に障るかもしれぬ」

 すぐにサディアスのもとに飛んで行きたいのは、公爵とて同じ――いや、その気持ちはだれよりも強いだろう。サディアスは公爵にとって、四十年もの間苦楽を共にした盟友なのだ。しかし公爵は、自分の気持ちよりもサディアスの誇りを守ることを優先させた。

「それに――サディアスの奴とはひとつ約束をしておる。わしが息子に爵位を譲った暁には、エージルの片田舎に別荘を建てて、ともに楽隠居しようとな。あの義理堅い男が、このわしとの約束を果たさぬまま逝ってしまうようなことがあろうか」

 侯爵とサディアス、二人の間には揺るぎない信頼関係があった。


「ホプキンズ殿、サディ――いや、エイベル殿の容体は?」

 フォーサイス家の馬車を飛ばし、ロータス街に戻ったマーシャたちは、転がり込むように慌ただしく診療所のドアをくぐった。

「先ほど、手術が終わったところじゃ。いまのところ、容体は安定しておる」

 安心した表情を見せるマーシャとミネルヴァであるが、老医師は

「ただし、縫合した箇所が厄介な癒着を起こしたり、傷口が膿んでしまう可能性はまだある。そうなってしまうと、わしにもどうにもならん。覚悟はしておけ」

 と釘を刺す。

「面会しても?」

「構わんが、いまは眠っておるぞ。それから、くれぐれも騒がぬようにな。ここへ入ってきたときのように煩くされては、患者の傷に障るわい」

 ホプキンズの指摘に、マーシャも思わず赤面した。


 寝台に横たわるサディアスは、小さな寝息を立てて眠っていた。時おり上げる苦しげな呻き声さえなかったならば、健康な人間とまったく変わりないようにも見える。

 しばらくその寝顔を見守っていたマーシャたちであったが、サディアスの様子に変化は見られない。互いに顔を見合わせ、病室を出ようとしたその時である。

「……だ……だれか、いる、のか……」

 不意に、サディアスが目覚めた。

「サディアス、喋ってはいけませんわ」

「そ、その声は……ミネルヴァ様にございますか……」

「ええ。いま、ホプキンズ先生を呼んできますわ」

 ミネルヴァが、病室を飛び出した。

「パメラ、パメラはいるか……」

「はい、ここに」

「う、上着……の、……っと………っ」

 サディアスの声は次第に弱まっていき、やがて途切れた。マーシャが慌てて駆け寄るが、サディアスの息はある。ふたたび眠りに落ちただけのようであった。

「上着――内ポケット?」

 サディアスの着ていた衣服は、部屋の隅の棚の上にまとめて置かれていた。かろうじて聞き取った単語を頼りに、パメラが上着の内側を探る。

「これは――」

 そこから出てきたのは、細かい文字がびっしりと書き込まれた数枚の紙きれであった。

 素早く読み進めるパメラであったが、だんだんとその表情が変化していくのをマーシャは認めた。

 肉親が凶刃に倒れたと聞いたときでさえほとんど動揺を表に出さなかったパメラが、マーシャにもはっきりとわかる形で感情を露わにしている。

 パメラが見せた感情――それは、深い苦悩であった。

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