第8話

 バセード寺院は、レン市街地から南にある原野の只中にあった。

 背の高い雑草が生い茂る中、樹木がぽつりぽつりと点在するのみの寂しい光景が広がり、目に付く人工物といえば古ぼけて崩れかかった寺院の聖堂跡のみである。

 人通りが絶えて久しく、半ば獣道と化した原野の一本道を、アイザックはひとり歩いていた。

 平原の向こう、寺院跡から漏れ出た光がアイザックの視界に入ったちょうどその時である。

「アイザック・ローウェルだな」

 道の両脇から、三人の男たちが現れてアイザックを誰何した。

「……いかにも。ノーマは無事なのだろうな」

「もちろんだ。指一本触れてないぜ。まあ、自分の目で確かめるがいいさ」

 アイザックを前後から挟み込む形で、男たちは彼を寺院跡まで誘った。

「よく来たな。なかなかの度胸だ。学者にしておくのは惜しいぜ」

 聖堂跡の奥、かつては祭壇であったのだろう台座に胡坐をかき、バーレットが尊大に言い放った。傍らには、後ろ手に縛られ猿轡を噛まされたノーマの姿もある。

 バーレットの手の者は、ヴァートを含めて総勢二十三人。内訳はバーレット直属の手下が十九人、ヴァートのように金で雇われた用心棒が四人となっている。

「言いつけを守って、警備部には知らせなかったようだな。俺たちを舐めてはいねぇようでなによりだ」

「つまらぬ前置きは止してくれ。ノーマを返してもらう」

「その前に確認だ。あの本から何を知った」

「シンクレアー家当主の犯罪の証拠、だ」

「なるほど、学者ってのは大したもんだ。たかが書物の書き込み程度でそこまで掴めるとはな。はじめは随分心配性な依頼人だと思ったが、依頼人のほうが正しかったようだ――で、他言はしてねぇだろうな」

「無論だ」

「いいだろう――おい」

 バーレットが合図すると、手下の一人がノーマの背中を小突いた。

 アイザックがノーマに駆け寄り、その肩を抱きとめようとした瞬間である。バーレットの手下が、一斉に得物を抜いて二人を取り囲む。

「手前らにはもう用はねぇ。仲良くあの世に行け」

「待て! 彼女は無関係だろう!」

「阿呆が。今更その女を生かしておいても俺たちに利はねぇ」

「――ノーマが定時までに戻らない場合、信頼できる人間にすべてを暴露してもらえるよう手配してある。私はどうなってもいい、ノーマを離せ」

 アイザックの揺さぶりに対し、バーレットは動揺を見せない。

「ふん。証拠の書物はもう灰になったし、それを見たってのもお前だけだ。ほかの人間がいくら喚き散らしたところで、それを裏付けるものはなにもねぇ」

 と、余裕たっぷりの笑みを浮かべた。

 あわよくばノーマをこの場から遠ざけようというヴァートたちの策は、空振りに終わった。

(駄目だったか――アイザックさんとノーマさんを同時に気遣いながら戦わなきゃならない。集中しなければ)

 ヴァートは、ちらりと寺院の窓を見やる。密かに見張りを打ち倒したマーシャとアイが、突入の機を見計らっているはずだ。ヴァートはさりげない動きで寺院の入り口側に位置取った。

「お喋りはここまでだ。れ――」

 その瞬間である。寺院の外から飛来したふたつの石くれが、寺院内部を照らしていた篝火に命中した。

「なんだ――!?」

 バーレットが言い終わらぬうちに、寺院にふたつの人影が突入した。小柄な人影は突入と同時に跳び蹴りでひとりを倒し、長剣を手にしたもうひとりは早くも二人目を斬り伏せている。

「アイザックさん!」

 ヴァートも同時に動いた。

 アイザックとノーマを囲む男たちのうち一人に狙いを定めると、背後からそのふくらはぎに斬りつけた。男が仰け反って倒れたのを足蹴にして囲みの中に分け入ると、アイザックとノーマを背に庇う。

 アイザックはすかさずノーマの手を引き寺院の入り口を目指す――が、その動きは闇を切り裂く剣閃によって阻まれた。

 アイザックは、とっさにノーマを床に引き倒す。幸い、二人に怪我はなかった。

「そいつの動きが怪しかったゆえ警戒していたが――裏切り者であったか」

 ヴァートを顎でしゃくってそう言ったのは、用心棒のひとりであった。互いに自己紹介したとき、カールトンと名乗っていたのをヴァートは覚えている。この作戦を成功させるのに、一番の障害となるのはこの男だろう――そうヴァートが実力を評した男が、扉の前に立ちはだかっている。

「カールトン、そいつらを逃がすんじゃねぇぞ!」

 バーレットの怒号が響く。不意の乱入に加え、ヴァートが裏切り者だと発覚し、怒り心頭に達しているようだ。

「ヴァート、早く二人を!」

 マーシャに言われるまでもない。マーシャとアイが、アイザックたちに迫ろうとするならず者たちを押し留めている。退路を切り開くのはヴァートの役目だ。

「はあッ!!」

 気合声とともに、ヴァートは一気にカールトンとの間合いを詰めた。

 左からの横薙ぎ――しかし、途中でヴァートの剣は曲線的に軌道を変化させる。

「ぬうッ!」

 金属音が響き、火花が飛び散った。

 マット・ブロウズが用いた『半月ハーフ・ムーン』と呼ばれる剣技。あの対決ののち、マーシャに教わって身につけた技であったが、カールトンはそれを受け止めて見せた。

 鍔競り合いの状態から、双方いったん間合いを外す。

「ふッ!」

 次はカールトンが打ちかかった。まず、遠目からの突き。大きく退いてこれを避けるヴァートに対し、追撃のもうひと突き。速いが、何の変哲もない突きである。ヴァートはさらに一歩下がった。これで、カールトンの剣はヴァートに届かないはずであった。しかし瞬間、ヴァートの背筋に悪寒が走る。

 転げるように、大きく横に跳んだ。カールトンの間合いからは完全に外れたはずのヴァートの肩に、浅い傷ができている。

「なかなか勘がいいな」

 カールトンがにやりと笑う。

 間合いの外からの、ありえない斬撃――いや、違う。ヴァートは見抜いた。

 まるで間合いが伸びたかのような男の攻撃だが、そうではない。腰の回転や足運びを工夫し、最初の突きの間合いを実際よりも短く錯覚させたのだ。これにより、カールトンの追撃は実際よりも伸びて・・・見える。そういうからくりだ。

 さらに、カールトンの追撃がヴァートに迫る。先ほどと同じ突きだ。よほど自分の技に自信があるのだろう。

(下手に間合いをとって避けようとすれば向こうの思う壺だ)

 特定の部位に集中せず、全体として相手の姿を捉えるのが武術の基本である。しかし、このときのヴァートは逆に、ただカールトンの剣先にのみ意識を集中させた。

「そこだッ!!」

 ヴァートの剣が、カールトンの突きを大きく弾いた。幻惑に惑わされることさえなければ、カールトンの攻撃は愚直な突きにすぎない。

 カールトンとしては、この技によほどの自信があったのだろう。しかし、続けざまに同じ技を繰り出すのは愚策だ。

「なにッ!?」

 カールトンが慌てて跳び退ろうとするが、もう遅い。ヴァートはカールトンの腹に強烈な前蹴りを叩き込む。たまらず、カールトンが蹲ったところで、後頭部に柄頭の一撃である。カールトンは昏倒し、その場に崩れ落ちた。

「さあアイザックさん、早く――」

 振り返ったヴァートは、アイザックとノーマにひとりの男が迫るのを見た。バーレットだ。手下がマーシャ、アイを取り囲んだ隙に、その脇を抜けてきたのだ。

 カールトンとの戦いで、ヴァートとアイザックたちとの間には若干の距離ができている。剣を振りかざし、アイザックたちに突進するバーレットを止めるには遠すぎた。

 バーレットは、剣を振りかぶってノーマに斬りつけた。アイザックが庇おうとするも間に合わず、ノーマの肩辺りの着衣が斬り裂かれた。

「ヴァート、アイザックに剣を!」

 マーシャが叫ぶ。ヴァートはすぐさま剣を床に沿って転がすように投げた。アイザックは靴底でそれを受け止めると、手に取った。

「舐めた真似しやがって――てめぇだけは許さねぇぞ」

 バーレットの手下たちは、その八割方がすでにマーシャらによって倒されている。敗色濃厚のバーレットは、その憎しみの矛先をアイザックとノーマに絞ったのだった。

「死ねやあッ!!」

 バーレットが大上段から振り下ろした剣を、アイザックは受け止めた。

「アイザックさん!」

 駆け寄ろうとするヴァートだったが、マーシャの鋭い声がそれを制止した。

「ヴァート、手助けは無用!」

「し、しかし……」

「先生の仰るとおり、これは男の戦いにござる!」

 アイにも言われ、ヴァートはその場に留まらざるを得ない。

「これが『清流不濁』の一人息子か。他愛もねぇ」

 バーレットは、鍔競り合いの状態から、その膂力と体重をもってアイザックを圧倒する。アイザックの剣は次第に押し込まれ、バーレットの刃はアイザックの首筋まで皮一枚、というところまで迫った。

 マーシャたちには止められたが、ここへ至っては指をくわえて見ていられない。走り出たヴァートの眼に、信じられない光景が映った。

 アイザックを押し込んでいたはずのバーレットの体が空中で回転し、聖堂の床に叩きつけられたのだ。そして剣を握っていたその手首は、あらぬ方向に捻じ曲がっている。

「っ!? っぎゃぁぁぁーーー!!」

 バーレットは、いまだ自分の身になにが起きたのかも理解できぬまま、手首の痛みにのた打ち回った。

「いまのは――」

 ヴァートはローウェル道場で一度だけ、マイカの剣を見たことがある。相手の力を受け流しつつ、それを自らの攻撃の力に転化する受け流しの妙技――アイザックは、それを再現してみせた。

「私の命を狙ったことについては、司法の手で裁かれよう。しかし、ノーマを苦しめた罪――それは、この場で購ってもらう」

 ヴァートが初めて見る表情だ。アイザックは怒っていた。

「しぃッ!」

 鋭い呼気とともに、アイザックが五連続の突きを放った。突きはそれぞれバーレットの両肩、両膝、そして最後の一撃はバーレットの股間に突き刺さる。

「ほう、『マッカランの五戒』か。さすがは歴史家なだけのことはある」

 バーレットの手下たちを倒し終えたマーシャが、感心したように言った。

 過去の高名な剣豪であったマッカランは、不忠を犯した弟子に対し、両手両足の自由と、男性としての機能を奪う制裁を下したと言われている。「マッカランの五戒」とは、その故事にちなんだものだ――のちに、ヴァートはアイザックから教わった。わずか一呼吸のうちに五連続の突きを正確に放たねばならないこの技は、かなりの難易度を誇る。

「ノーマ、無事ですか」

 アイザックは、ノーマに駆け寄ると肩を抱いた。

「はい。傷は深くありませんわ」

「良かった……」

 アイザックは、剣を放り出すとその場に尻餅をついた。

「ははっ、見てくれヴァート君。手の震えが止まらない」

 凄まじい気迫でバーレットを倒した男とは思えぬ――いつものアイザックがそこにいた。

 そこへ、エドマンドが現れた。ことの顛末を見届けて証言せよ、とマーシャに指示された彼は、寺院の外から乱闘の様子を見守っていたのだ。

「グレンヴィル先輩の命令だから手出しせずにいたが――相変わらず凄まじいもんだな、先輩の剣は。それに、ザックもよくやったな」

 腰を抜かしたアイザックに、エドマンドが肩を貸した。

「いやあ、本気で剣を握ったことなど何年ぶりだったろう。明日は身体の節々が痛くなるだろうなぁ」

 おどけたアイザックの言葉に、一同は破顔する。

「さあアイ、ヴァート、とりあえずこの連中を縛り上げるぞ」

「はい。それにしても――アイザックさん、凄かったですね」

「無論だ。本人やお師匠様が才能がないと言っているのは、あくまで『清流不濁』の後継者としては才が足りぬ、というだけの話。私やハミルトン殿のもとで十年以上の修行に耐えた男が、やくざ者ひとり相手に遅れをとるなどという話があるはずもない」

 そう言ったマーシャの口元には、どこか誇らしげな、満足そうな笑みが浮かんでいた。


「これは、指定された単語を構成する母音をひとつ、子音をふたつずらすことにより、別の単語を生成する手法です」

 そう種明かししたのは、桜蓮荘に帰還したパメラである。密偵として暗号術にも通じる彼女は、れいの書物に隠されていた暗号をたちまち解読してしまった。

 毒物を入手する手はずは整った。指定の場所にて受け取られたし――文法におかしなところはあるが、生成された単語をつなぎ合わせると、おおよそこのような文章になる。

「実の兄に毒物を盛り、当主の座を奪うとは……嘆かわしいことだ」

 マーシャが嘆息する。

 バーレットの自白により、アイザックの暗殺を依頼したのはシンクレアー家現当主であることが判明した。そして芋づる式に、現当主の罪が暴かれることになった。

 先代当主の弟である現当主は、前々から先代当主の妻と姦通していたらしい。そして、ふたりは邪魔者の兄を排除しようと画策。国許にいる妻と、レン在住の弟は、書物を贈り合うことで暗号をやり取りし、計画を実行したのだ。

「それにしても、所詮は貴族の坊ちゃんのやることか。暗号を使うなど用心したつもりなのだろうが、肝心なところが抜けている――おっとミネルヴァ様、お気を悪くされませぬよう」

 マーシャの物言いに、貴族令嬢のミネルヴァは苦笑する。

「しかし、不在でなければわれわれも力をお貸ししておりましたのに」

 と、ミネルヴァは不満そうに口を尖らせた。

「しかし、あのときのアイザックさんの気迫は凄かったですね」

 バーレットに「マッカランの戒」を放ったときのアイザックは、まさに鬼気迫るものがあった。

「うむ。ザックも男だ。これが『清流不濁』の一人息子か、などと馬鹿にされて腹に据えかねたのだろう」

「いや先生、彼が激怒した原因は別でござろう」

「別? どういうことですか?」

「ヴァートも気付いておらぬとは。いやはや、師弟揃って鈍感な……」

 アイは、ただただ肩を竦めるのだった。

 ヴァートがアイの言葉の真意に気付くのは、半年ほどのちのことになる。

 アイザックとノーマが結婚するとの報せを受け、ようやく合点がいったヴァートであった。


学士アイザックの受難・了

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