第6話
ここ数日、昼は睡眠をとり、夜はスタンリー一家の用心棒、という生活を送っていたヴァートである。そのため、剣の稽古も数日行っていなかった。
数日で腕が急激に落ちる、ということはないけれども、稽古を継続していないと不安になるというのは、特に若い武術家の誰もが抱く感情である。
木剣を手に取り、素振りを始める。
ハミルトン道場に行く以前、マーシャに教わった基本稽古だ。一振りごとに、頭の上から爪の先に至るまでの動作を細かく確認する。
四種の素振りをそれぞれ三百回ずつ、合計千二百。朝から午前いっぱいまでの時間を費やした。
「ふう。久しぶりの稽古なのに、一人きりで相手がいないってのは残念だなぁ。せめてデューイ君でもいたらよかったんだけど」
デューイ・カミンは、マーシャに剣指導を受けている子供たちの一人だ。子供、とは言っても年はもう十六で、ヴァートとは一つしか違わない。五年ほどマーシャに教わっているし、最近では身体も大きくなって膂力もついた。本気のヴァートには及ばないが、軽めの乱取りの相手ならば十分務まる実力がある。
「とりあえずは、昼食にするか」
ヴァートは、まず桜蓮荘地下にある食料庫に向かう。ここはマーシャ、アイ、ミネルヴァ(とパメラ)が共同で使っているものだ。ヴァートも、ここにある食材は自由に使っていい、と言われている。ただし、マーシャ秘蔵のワインに無断で手を付けることは厳禁だ。
ヴァートは数個の芋と葉物野菜、にんにく、ベーコンの塊を籠に入れると、今度は一階の中庭側に面した場所にある炊事場に向かった。
桜蓮荘は、もとは単身者向けの官舎として使われていた建物であるため、共用の炊事場が造られているのだ。
ヴァートはまず竈に火を入れる。火力が上がるのを待つ間、芋の皮を剥き、火の通りが良くなるよう薄切りにする。葉物野菜はざく切りに、にんにくはみじん切りに。ベーコンは大き目の短冊に切る。
薪が勢いよく燃えてきたのを見計らい、鉄鍋を竈にかける。鍋が白い煙を上げ始めたところで油を薄く引き、ベーコン、にんにく、芋、葉物野菜の順に食材を投入する。食材に程よく火が通ったところで、塩と幾許かの乾燥香草と香辛料を入れ、最後に鍋を大きく振って味を馴染ませる。
ごく簡単な料理ではあるが、ヴァートはなかなかに手際がいい。ハミルトン道場では、門弟たちが交代で食事を作っていた。ヴァートも、数日に一度の割合で七人前の食事を作っていたため、手際も良くなるというものだ。
「本当はスープの一つでも欲しいけど、今日はもういいや――しまった、パンがもうないんだった」
さすがにこの一品だけでは、ヴァートくらいの年齢の男の腹を満たすことはできない。
「仕方ない、買いに行くか」
小銭を手に桜蓮荘を出たヴァートだが、そこで思いがけない人々と出くわした。
「あっ、アイさん――に、アイザックさんも? お仕事中じゃ――と、そちらは」
二人の後ろからおずおずと顔を出したのは、ノーマ・シャイファーであった。現時点で、ヴァートはノーマのことを一方的に知っているに過ぎない。ヴァートは務めて初対面を装った。
「ヴァート、芝居はいらぬよ。アイザック殿が、ノーマ殿にすべてを打ち明けたのでござる」
「なるほど……で、仕事中に出てきたってことは」
「ああ、彼女がスタンリー一家とのこと、すべて話すと言ってくれたのでござる」
「話を聞くなら、グレンヴィル先輩が一緒のほうがいいと思ってね。上司に無理を言って抜けてきたのだよ」
「ヴァート、先生は?」
「それが――」
ヴァートは、マーシャが出かけてしまったことを話す。
「ううむ……それなら、われわれも急ぎローウェル道場に向かうのがよろしかろう」
アイの言葉にヴァートが同意しない理由はない。手ずから作った料理に未練がないわけではないが、仕方ないだろう。空腹を抱えつつも、ヴァートは桜蓮荘を後にするのだった。
ローウェル道場では、マーシャがマイカ、エドマンドとともにテーブルを囲んでいるところであった。
「む……どうしたのだ? みな揃って。それに、その女性――」
ノーマの登場に、マーシャも驚きを隠せずに入る。アイザックが事情を話すと、マイカはノーマに卓に着くよう促した。
ノーマの顔は、まるで死人のように青ざめている。太股の上で組んだ両手は震え、何度も口を開こうとしては躊躇する、これを繰り返す。警備部の制服を着ているエドマンドの存在が、ことさらに彼女の口を重くしているのだろう。
「仮にあんたが何らかの罪を犯したとしても、事件解決に協力さえしてくれりゃ多少の御目こぼしもある。しかし、もしこのままザックが殺されたなら、あんたの罪はもっと重いものになっちまうぜ」
エドマンドの言葉に、ノーマはますます萎縮してしまった。
「エドよ、怖がらせてどうする。お嬢さんや。この男はわしの弟子での。言葉遣いは悪いが正義感に厚い男じゃ。決して悪いようにはせん。話してくれんかね」
マイカがにっこりと笑いながら語りかける。
「……わかりました」
ようやく、ノーマが口を開いた。
「はじめからお話しするとなれば、少々長くなるのですが――」
と前置きし、ノーマは語り始めた。
事の発端は、父の後を継ぎ城の衛士として働く彼女の兄が、博打で借金を作ってしまったことだという。
彼女の実家は代々衛士を務める家系であるが、格式は高くなく、そう裕福でもない。利子が膨らみ続ける借金に悩んだ兄は、とうとう危ない筋から金を借りてしまった。
「それがスタンリー一家、というわけか」
「はい。しかし――利子は確かに高うございましたが、私たちの給金を合わせれば、決して返済できない金額ではありませんでした。月々の支払いを遅らせたこともなかったため、一家も強引に取り立てを行ってくることもなかったのでございます」
状況が変わったのは、れいの書物がシンクレアー家から城の研究室に届いた、その前日である。
「突然、利子を今までの五倍に上げると一方的に言ってきたのです」
「五倍とは、また無体な話じゃの」
「ですが……スタンリー一家はやくざ者です。正論が通じる相手ではございません。それに、弟の婿入りが寸前に迫っておりましたので。不名誉な噂など流されては……」
次男であるノーマの弟は、縁あってとある裕福な商家に婿入りすることになっていた。一家がそれを知ったならば、婿入り先に強請りをかけにくるのは目に見えている。そうなれば、最悪破談の恐れもある。
「しかし、簡単な仕事を引き受けるなら、利子を上げる話はなしにする、と言うのです」
それが、寄付された書物の中から、特定の一冊を盗み出すことだったのだ。
「なぜその本を盗まなければならないのか、聞かされましたか?」
マーシャの質問に、ノーマは首を横に振る。
「とにかく、盗むだけでいいと。悩みましたが、結局私は――」
「なるほどなぁ。まあ、盗みの罪については置いておく。続きを話してくれ」
「はい。その書物をスタンリー一家のバーレットなる男に渡したところ、こう聞かれました。誰かほかにこの本を見た者はいないか、と」
アイザックが、書物の詰まった木箱を開封し、目録を作ったことはノーマも知っていた。そして、れいの書物にアイザックが目を通していたところも目撃してしまっていた。
「ローウェル様がご覧になっていた、そう伝えますと――」
そいつはちょいとまずいな、と言ってバーレットは舌打ちをした。ノーマはそれ以上何も聞かれることなく、その場を辞去したのだとか。
「すべて私の責にございます。私の言葉のせいでローウェル様の命が狙われたこと、もはや疑いようはございません。この上は、いかなるお裁きをも受ける覚悟にございます――」
そこまで話すと、ノーマは大粒の涙を流し泣き崩れた。アイザックがハンカチを手渡そうとするが、ノーマはそれを受け取ろうともしない。
「……エドよ、どうするんじゃ」
「まあ……国の財産とはいえ、盗んだのは本一冊ですし……上手くいけば、スタンリー一家の連中をまとめて引っ括れるかもしれない。今回のところは、俺一人の胸のうちに収めておきますよ」
「そういうことじゃ、お嬢さん」
要は、無罪放免ということである。
「あ、ぁ、ありがとう、ありがとうございます……!」
ノーマは、平伏せんばかりの勢いで礼を述べた。
「さて、お嬢さんはずいぶん疲れておるようじゃの。いろいろ気疲れが溜まったのじゃな。奥の部屋で、少し休むといい」
マイカは大声で妻女を呼ばわると、ノーマを案内させた。
「ザック、お前の言うとおりだったな。確かに、彼女は心根の清い女性であったようだ」
マーシャにそう言われ、アイザックは赤面した。
「ん? ザックお前まさか……っと、今はそんなことを話している場合じゃなかったな。それにしても、スタンリー一家の連中、なんで本なんざ欲しがったんでしょう」
エドマンドが首を傾げる。
「察するに、他者に見られてはまずいなにかが書かれていた、そんなところだろう」
「しかし先輩、私がざっと読んだ限り、特におかしな内容ではなかったように思えますが」
「確か、ありふれた詩集、とのことだったな。本当におかしなところはなかったのか? 普通の詩集とは違う点はなかったか?」
「違う、といえば――見返しの部分に書き込みが。あと、本文にもところどころ印のようなものが書かれていました」
「書き込みの内容は」
「『親愛なる
「随分詳しく覚えてるんですね」
ヴァートが驚くのも無理はない。アイザックは、その詩集を斜め読みしただけのはずなのだ。
「こいつは餓鬼のころから記憶力がいいんだ。ちょっと目を通しただけで本の内容を丸々一冊ぶん暗記する、なんてことも朝飯前なのさ」
「エドに持ち上げられるのは少し気持ち悪いな――まあ、この特技のおかげでアカデミーに入ることができたし、今の職に就くこともできたのだから、父上、母上には感謝せねばな」
「まったく、妙な才能を持って生まれたものじゃ。これで剣の才はないというのだから因果なことよ」
マイカが大きく嘆息した。
「してアイザック殿、印というのは?」
「ところどころ、単語を丸で囲ってあったのですよ、アイさん」
「単語を丸で、か」
マーシャは腕組みし、しばし考える。
「ひょっとしたら、だが――それは、一種の暗号のようなものだったのではないか」
「暗号、ですか……あぁ、そういや俺も警備部の先輩から聞いたことがあるな。特定の本を使って、秘密の連絡を取る方法があるって話を」
それは、情報伝達の手段としては古典的な手法であるという。ごくごくありふれた書物――聖書などが多く使われる。暗号を送る側は、本のどの頁、どの段のどの単語を使うか指定し――この指定のことは『鍵』と呼ばれる。暗号を受け取る側は、『鍵』をもとに指定の単語をつなぎ合わせ、意味の通る文章を完成させるのだ。
使われる本、『鍵』――そのどちらか片方のみでは暗号は完成しないため、敵に一方を奪われただけでは解読される危険性はない。また、本文と『鍵』を別に用意するやり方は、味方の裏切りが起きた場合も情報が漏洩しにくいという強みがある。
「しかし、印のあった単語は確か――『戦火』、『強固なる』、『打ち倒し』、『宴』、『麗しの』――といった具合で、意味の通る文になるとも思えません」
「うむ。そこからさらに、何らかの変換を加えて初めて解読できるものなのではないか。しかし、いまは暗号の内容まで知る必要はない」
暗号解読の手がかりとなる書物――バーレット一家に仕事を依頼したのが誰なのかはまだ不明だが、他者に暗号の内容が露見すればその依頼者にとって都合の悪い事になる。だから書物を盗み出した――こう考えれば、すべての辻褄が合う。
「いったい何者にござろう。暗号でやり取りするとなれば、あるいは他国の間者か」
「いや、アイよ、それはないな。わざわざ書物に印を残したり、書物を外部に流出させてしまったりと、やることなすこと無用心にも程がある。そんな間抜けな間者などいないだろうよ、それに、やくざ者に後始末を依頼することもあるまい」
「まず怪しいのは、本を寄贈したっていう貴族――なんていいましたっけ」
「シンクレアー家だよ、ヴァート君」
「書物が寄贈されたいきさつは知っておるのか」
「はい、父上。先代のご当主は歴史に関する書物の蒐集が趣味だったらしいのです。しかし、急病――これは先代が隠居されるきっかけとなったものなのですが、その病で身体の大部分が麻痺してしまったとか。第一王女のオフェーリア殿下がシンクレアー家のご領地を訪問された際、もはや自らの手で頁を開くことも叶わぬのだから、せめて国王陛下のお役に立ちたい――そうお申し出があり、そのまま殿下ご一行が書物をお持ち帰りになったのです」
「義姉上というのがことに関わっている可能性は高いが――心当たりは?」
「さて……先代が隠居され、後を継いだのは弟君だと聞き及んでおります。もしかしたら、当代のご当主が先代の奥方に送ったものかもしれませんね」
「急病で隠居した先代、先代の奥方に送られた暗号――匂うな」
「匂う、ってどういうことですか、先生」
「まだ推測の域を出ない。詩集が奥方に当てられたものかどうかも決まったわけではないしな。結論を出すのは止しておこう」
考えられることは考えつくした。次は、今後の指針を決めようという話になったとき、ノーマが部屋に戻ってきた。顔色はいまだ酷く青いけれども、足取りはしっかりしている。そして、その眼には光が灯っていた。
「皆様、お願いがございます」
ノーマは、きっぱりとした口調で言った。
「事件解決のため、私にもお手伝いをさせていただきたいのです」
「いやノーマ、君はこれ以上深入りしてはいけない。相手はなにをしてくるかわからない、危険な連中なのだ」
しかしノーマは、アイザックの説得に耳を貸そうとしない。
「私は女ですが、代々城を守護する任を授かる家系に生まれた身。覚悟はできております。それに、私はまだスタンリー一家に味方だと思われております。この立場を利用して、できることがあるのではないかと存じます」
確かに彼女なら、ヴァートとは別の方向から情報を得ることができるかもしれない。そして、こちらの都合がいいように捏造した情報を渡すこともできるだろう。
「なるほど、彼女の協力があれば、われわれは有利に立ち回れることだろう」
「先輩! 私は反対です! もしノーマの身になにかあれば、私は――」
「よろしいのです、ローウェル様。本来ならば、ここで斬って捨てられても仕方のないほどの罪を、私は犯してしまいました。私のこの命、ローウェル様をお救いするのにお使いくださいませ」
あくまで、ノーマの意志は変わらぬ。アイザックは動揺と困惑を隠せないでいる。
「……まったく、情けない息子じゃの。このお嬢さんがここまでの覚悟を見せたのじゃ。答えてやらんでどうする」
「そうだぜ、ザック。男なら、『君の命は俺が守る』、そのくらい言ってみろよ」
「ザックよ、お前の命はわれわれが必ず守る。お前はただ、彼女を守ることを考える。これならどうだ」
マーシャの言葉に、ヴァートとアイも頷いた。
アイザックはしばし目を閉じて考えていたようだが、結論は出たようだ。目を開くと、ノーマに語りかけた。
「情けないところを見せてしまったな、ノーマ。君のことは私が必ず守ろう。ローウェルの名にかけて誓う。どうか、力を貸してほしい」
アイザックの言葉を聞き、ノーマは今一度涙を流した。
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