第5話

 アイザックがヴァートらとともに登城して二日が経った。ということは、ヴァートが『クレマティス』に通い始めて三日目ということだ。

 時刻は夕暮れ時である。この日もヴァートは『クレマティス』に向かうべく、桜蓮荘を出発しようとしていたところであった。そこへ、ひとりの来客があった。たまたま中庭で型の稽古をしていたアイが、それに応対する。

「私、お城に勤めておりますノーマ・シャイファーと申します。アイザック・ローウェル様より、言伝をお預かりしたのですが」

 二十代半ばの女性であった。すっきりとした目鼻立ちの楚々とした女性で、背筋はしゃんと伸び所作は美しい。侍女服ではなく普段着を着用していながらも、彼女が然るべき教育を受けた人間であることは一目瞭然である。

「それはそれは、わざわざお越しいただき恐悦にござる。して、アイザック殿はなんと」

「はい、仕事が一段落したとだけ伝えればよい、と」

 アイの少々変わった言葉遣いに若干戸惑いの表情を見せたが、それも一瞬のこと。ノーマなる女性は、すぐさま表情を正して伝言を伝えた。

「あいわかり申した」

 ヴァートとマーシャは桜蓮荘玄関口で、ドア一枚を隔てて二人のやり取りを聞いていた。

「先生、俺たちも挨拶したほうが……」

「うむ、そうだな――」

 と、マーシャがドアを開けようとすると、なぜだかドアが開かない。どうやら、アイが外からドアを押さえているようだった。

「どうしたんですか、先生」

「静かに」

 人差し指を唇に押し当て、マーシャは黙り込んだ。外では、アイとノーマの会話が続いている。

 アイが理由もなしにこのような行為をするはずもない。ヴァートもマーシャに倣って聞き耳を立てた。

「ちなみにアイザック殿はここのことをなんと仰っていたでござるか?」

「事情あって、しばらく泊まることになったとお聞きしました」

「本当によくお越しくださった。しかしアイザック殿も、このような遠いところまで貴女のごとき女性を使いに出すこともなかろうに」

「いえ……私の実家が下町にありますので。使いのついでに、両親の顔でも見ようかと思い、私のほうから申し出たのでございます」

「なるほど、そのような仔細がござったか。では、これは些少ながらお礼代わりにござる」

 アイが心づけを渡そうとしたが、すでにアイザックからもらっているので、とノーマはそれを固辞した。

「では、これにて失礼いたします」

 一礼し、ノーマは去って行った。ノーマが門の外へ消えていった頃合で、アイはドアを開放した。

「どうしたのだ、アイ」

「申し訳ござりませぬ、先生。しかし先ほどの女子おなご、どうにも挙動が不審にござった」

「不審……?」

「某と話している間も、しきりに目線を動かしてあたりの様子を探っているように感じられたでござるよ。表情や声にも若干の強張りが見られた」

「なるほどな……では、私が尾けてみるとしよう。アイはザックを迎えに行ってくれ。ヴァート、お前は『クレマティス』に向かうのだ」

 言い残すと、マーシャは、慌しく走り出した。急ぎながらも、その足音は驚くほど小さい。

「さっきの女の人、何者なんでしょうか」

「さあな。なんとなく想像はつくが……ともかく、ヴァートは自分のなすことをするべきでござるよ。ヴァートが帰るころには、先生から話が聞けよう」


 『クレマティス』に着いたヴァートは、別の場所に行くよう指示された。行き先は、同じフェナー街で開設されている賭場である。いつもこの賭場を担当している用心棒役が、別口の仕事に取られてしまったため、その代理を任されたのだ。

 そこはとある酒屋の倉庫を改造して作られた賭場で、カードと博徒サイコロ賭博が行われている。ヴァートは片隅のテーブルに陣取って、安酒をちびりちびりと飲みながら賭場の様子を見守っている。

(先生もたまにこういうところにカードをやりに来るって言ってたけど……)

 ヴァートもマーシャ、アイ、ミネルヴァらと何度かカードをやったことがあるのだが、どうしても勝てない。

「駆け引きが大事なのは武術もカードも一緒だぞ」

 とマーシャには言われているけれども、相手にしている三人はみなヴァートより数段上の武術の腕を持っている。ならば、ヴァートが勝てないのも道理ではある。

 ヴァートが二杯目の酒に口をつけたところで、あくまでヴァートにとってではあるが、幸運な出来事が起こった。同じテーブルを囲んでカードをやっていた客が、喧嘩を始めたのである。

 大勝ちしていたひとりが、大負けしていたひとりを小馬鹿にするような台詞を吐いたことがことの発端であるらしい。

 始めは口汚く罵り合うだけだったのだが、ついには掴み合いの喧嘩に発展した。さらに悪いことに、二人が振り上げた手や足が当たったりした他の客もそれに加わり、最終的には十人近くを巻き込む大乱闘となってしまった。

 当然、これを収めるのがヴァートの仕事である。

 騒動の渦中に飛び込んだヴァートは、たちまちのうちに五人ほどを叩きのめしてしまった。喧嘩をしていたのは主に酒に酔った中年であり、武術の腕が立つ者もいなかったものだから、ヴァートの相手ではない。

 ヴァートの腕前を見て、残りの者たちの戦意はみるみる萎んでしまったようだ。我先を争うようにして、賭場を逃げ出していった。

 これには、賭場を預かっているスタンリー一家の男も

「いやあ、トワニングから腕利きとは聞いていたが、大したもんだ。今夜のことはバーレットの兄貴にも報告しておかにゃなるめえ」

 と、ヴァートを高く評価した。

 幹部バーレットに近付くためには、一家の中での評価が必要だ。この騒動は、まさにヴァートにとって好都合であったのだ。

 この日ヴァートが桜蓮荘に帰ったのは、空が白み始めたころのことであった。賭場が閉まったあと、スタンリー一家の男たちの酒盛りに付き合わされてしまったのである。

 さすがに皆寝静まったあとであり、ヴァートも自室の寝台に潜り込むと泥のように眠った。


「……と、そんな感じです」

 翌朝、ヴァートは賭場での騒動のあらましをマーシャ、アイ、アイザックに語った。

「一家の者に気に入られたのは僥倖だな」

「それで、先生のほうは?」

「ふむ……あのノーマなる女は、ここを出たあとあたりをぶらついていたのだが――ほら、なんといったか、ダリル通り沿いにある布地屋――そう、『メイソンズ』だ。そこで足が止まった」

 ノーマは、しばらく布地を物色していたが、一人の男がノーマの横に並んで布地を選び始めたという。

「どうやら、小声でなにごとか話しているようだった。偶然隣り合わせになったのではなく、示し合わせて密談を行っていたように思われる」

 マーシャもできる限り近付いたのだが、なにぶん人通りの多い街中のこと、会話を聞き取ることはできなかった。

「やがて、二人は別々の方向へ去って行った。どうすべきか悩んだが、私は男のほうを追うことにしたのだ」

 男は布地屋を離れたのち、とある酒場へと入っていった。

「通りすがりの者にそれとなく聞いたところ、そこはスタンリー一家の息がかかった店である、ということだ」

「ええっ!? それって――」

「ノーマという女、スタンリー一家に依頼されてアイザックの動向を探っていたのではないか、そう推測されるな」

「まさか、彼女が……そんなことを……」

 アイザックの表情が険しくなる。

「アイザック殿、彼女はどういった女性にござるか」

「ノーマは、われわれの研究室付きの侍女です。研究室の掃除や研究員の身の回りの世話をしてくれています。心優しく、気立ての良い女性ですよ。なにかの間違いでは」

「まあ、これはあくまで推測に過ぎない。が、ほら、昨日ザックが語った件も気になる」

「先生、それは?」

「ああ、ザックの研究室から、書物が一冊なくなったというのだ」

 マーシャが、目線でアイザックを促した。

「先日、大量の史料が寄贈されたという話はヴァート君にもしただろう。その中の一冊が、どうしても見つからなくてね。書物一冊といえど、寄贈された以上は国家の財産だ。研究員総出で必死に探したのだが……」

「どんな書物だったんですか?」

「ネヴィル・プラマーという詩人が書いた、二百年ほど前の詩集の写本だ」

「貴重なものなんですか」

「いや、かなり有名な詩集だからね。写本は数限りなく作られているし、最近では印刷版も出ているはずだ。ありふれたものと言って差し支えない」

「しかし、なぜそんなものが寄贈されたのでござろう」

「まあ、中には戦乱期の合戦を詠った詩もあるから、われわれの仕事とまるで無関係とも言えないのだが……おそらくは、史料を寄贈したシンクレアー家のほうで紛れ込んだのだろう。なにせ、量が膨大だったからね」

「ザックよ、その書物は間違いなくなくなったというのだな」

「はい。史料が届いた際、私が荷解きをして目録を作ったのですが、どうやらあまり重要でない書物だと思い他の資料とは別にしておいたのです。間違いはないかと」

「書物がひとりで逃げ出すわけがないのだから、盗まれたということになる」

「はい。ですから、王城の警護担当にはきちんと報告いたしましたよ。おかげで、室長は管理不行き届きを責められ大目玉を食らったとか」

「王城内での窃盗が、異常な事態であることはヴァートにもわかるだろう。アイザックの襲撃と窃盗事件――近い期間に異常な事件が重なること、無関係だと考えるのは楽観的過ぎるのではないか」

「うーん、それはそうかもしれませんけど」

 ありふれた書物の窃盗と、アイザックの襲撃――二つの事件がどのように繋がるのか、ヴァートにはさっぱりわからなかった。

「しかし――ノーマなる侍女ならば、書物を持ち出すことも容易いことにござろう」

「まあ、確かに……その通りなのですが……」

 よほどノーマの人となりを信用しているのだろう。アイザックはいまだ懐疑的な表情を崩さない。

「まあ、まだ推測の域を出ないと言っただろう。さて、ザックはそろそろ登城する時間だな。ノーマと会っても動揺しないようにな」

 アイザックは、アイとともに桜蓮荘を発った。その表情は浮かないままであった。


 その夜、『クレマティス』の離れに入ったヴァートは、見慣れぬ人物に気付いた。

「おう、お前がカーライルか」

 顎から口元に濃い髯を蓄えた、五十がらみの大男だ。トワニングがその男に接する態度からするに、かなり格上の男のようである。

「客人、こちらはバーレットの兄貴だ。お前も名前は知っているだろう」

 こいつが――ヴァートに緊張が走る。しかし、それを悟られてはならぬ。努めて平静を装う。

「グウィン・カーライルだ。四日ほど前から世話になっている」

「なかなか腕が立つと聞いているぜ。まあ、座ってくれ」

 テーブルに着いたヴァートは、バーレットから杯を受ける。

「トワニングから聞いているかもしれんが――近々、大きな仕事がある。だが、内容が内容なだけに、聞いちまえば断ることはできなくなる。どうだ、やるか」

「報酬は」

「金貨で四〇だ」

「ならば断る理由はない」

「よし。その仕事ってのは、殺しだ」

「標的は」

「アイザック・ローウェルって城勤めの学者だ」

 ――やはりか。予想していたこととはいえ、ヴァートの身体が一瞬強張る。

「学者一人殺して金貨四十とは、美味い仕事だ」

こと・・はそう簡単じゃねぇ。このローウェルという男は、マイカ・ローウェルの一人息子だ。あんたも剣をやっているのなら『清流不濁』の名は知っているだろう」

 ヴァートは頷く。

「実は、一度しくじっちまってな。なんせマイカは天下の大剣豪だ、凄腕の弟子はごまんといるだろう。警戒され護衛をつけられれば手出しも難しい」

「ならどうするんだ。俺も、ローウェル道場の高弟が何人も相手となると、確実に殺れると約束はできん」

「ま、あんた以外にもこれだという腕利きを何人か見繕ってある」

「ひとつ、聞いていいか」

「なんだ」

「どうしてその男を殺すのだ」

「依頼を受けた、とだけ言っておく。ただ、依頼人のことは詮索せぬのが身のためだ」

 バーレットに教える気はないようだ。

「わかった。決行の日は」

「まだ決まっていない。それまで用心棒の仕事は休んでいいから、あんたはせいぜい英気を養ってくれ。日取りが決まり次第、繋ぎをつける」


 翌朝の桜蓮荘では、例によって一同による作戦会議が行われている。

「こんどは相当本腰を入れてくるみたいです。バーレット本人も出張ってくるとか」

 バーレットは、一度アイザック殺害に失敗している。二度目の失敗ともなれば、いかに大幹部といえどもその立場は危うくなる。自らの眼で見届けなければ安心できないということなのだろう。

「ふむ。アイザックのほうはなにも変わりなかったのだな」

「はい。ノーマもいつも通り」

「警備部に知らせ、バーレットとやらを逮捕させればよいのではござらんか」

「いや、まだ証拠がない。今の段階でバーレットを引っ張っても罪に問うことはできないだろう」

 そうなれば、冤罪ということになる。無実の罪を着せたとなれば、警備部の立場が悪くなるだけだ。

「やはり――ノーマに当たってみるべきか」

「グレンヴィル先輩、しかし――」

「いっそのこと、彼女に一切合財打ち明けてみたらどうだ。もし彼女が事件に無関係であるとしたら、事情を話したとしても状況が変わることはないだろう。しかし彼女がこの件に一枚噛んでいるとしたら、何らかの反応を示すはずだ。それによって、事態が好転するか悪化するか――私にもそこまでは読めないが」

 マーシャの言葉に、アイザックは答えない。

 仮にノーマとスタンリー一家に何か繋がりがあるとしても、彼女はこの件に深くは関わっていない、というのがマーシャの考えである。本を盗み出したり、アイザックの動向を探る程度のことは任されても、襲撃のことはおそらく知らされていまい。そう考えている。

 なので、もしノーマにアイザック襲撃事件のことを知らせたならば、激しく動揺するはずである。彼女が人を殺害することを躊躇しないような根っからの悪人だったならば、話は別だが。

「彼女が信頼に足る人物だと思うなら、打ち明けてみることだ。もっとも、強制はしない。判断はザックに任せる」

 結論を出せないでいるアイザックだったが、そろそろ城へ出発しなければならぬ時間となった。思案顔のまま、アイとともに桜蓮荘を出るのだった。

「さて、私も出かけるしよう」

「どちらまで?」

「ローウェル道場だ。お師匠様に、これまで判明したことを報告申し上げにな」

「それなら、俺が行ってきますよ」

「いや、お師匠様にもご無沙汰しているからな。帰りは遅くなるかも知れぬ。留守番を頼むぞ」

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