第11話
先手を取ったのはアイである。
マーシャをも瞠目させる凄まじい速度でグレンに肉薄すると、挨拶代わりとばかりに、右拳をグレンの腹めがけ真っ直ぐ突き込む。
しかしグレンもさるもの、左の手の甲でアイの拳を打ち払うと、右拳、左拳と続けざまの二連撃だ。
「なんの!」
膝を沈めてそれをかわしたアイは、そのまま水面蹴りでグレンの両足を薙ぎにかかる。
「ふんッ!」
グレンは水面蹴りを避けようとはせず、両足に力を込めて床を踏み締めた。体重差が災いし、アイの水面蹴りはグレンの足に弾かれる。
下がったアイの顔面めがけ、グレンが前蹴りを放った。アイは上体を反らして蹴りを避けつつ、後に大きく跳んだ。
互いに間合いを外し、仕切り直しとなる。
(グレンという男、かなりやる)
グレンならば、ドレイクをはじめとする四人の剣士を一人で屠ることも可能だろう。そうマーシャは見て取った。
俊敏性ではアイに分がある。しかし、膂力と手足の長さはグレンが上である。双方に有利不利があり、いまのところマーシャの洞察力を持ってしてもどちらの実力が上か判断しかねる状況だ。
(ろくな師もいなかっただろうに、よく鍛え上げたものだ)
グレンがいかなる環境で育ったのか、マーシャには知る由もない。しかし、グレンが血反吐を吐くほど厳しい修練を積んできたのは容易に想像できた。
道場の中央では、ふたたび二人の拳が交錯している。
グレンが、左拳で顔面を打つ――そう見せかけた
退いてかわしたアイは、軽やかな踏み込みでグレンの左側面を取ろうとするが、そこにすかさずグレンの裏拳が飛んだ。
「しいッ!」
身をかがめてそれを回避したアイ。がら空きになったグレンの腹に、右拳の一撃を突き刺した。
「ぐうッ!」
グレンは、アイの拳を受けても怯まなかった。アイの一撃は巌のような腹筋に阻まれ、グレンを負傷させるには至らなかったのだ。グレンはそのまま腰を回転させつつ踏み込むと、アイの側頭部めがけ鋭く肘を振り抜いた。
アイは横に倒れこみながらグレンの肘を避けつつ、二連続の側転でふたたび大きく距離を取った。
二度目の仕切り直しである。
「なかなかやるではないか、小娘。ケヴィン伯父の弟子だという言葉、いまなら信じられる」
「そちらこそ、独学にしては
それなり、というアイの言葉に、グレンの眉間に皺が寄る。
マーシャも感じ取っていたことだが――グレンの技は、一見アイのそれと遜色ないように見える。しかし、あと一歩のところで完成に届いていないのだ。
技術の完成度に劣るグレンが、ここまでアイと互角に戦えているのは、その体格差によるところが大きい。
間合いを制するものが勝負を制する――シーラントの武術家がよく口にする常套句だ。常に自分が相手に対して優位に立てるような位置取りをすること、どんな武器を扱う場合においてもこれが肝要だ。同じ速度で扱うことができるという条件下ならば、射程の長い武器が有利であることは言うまでもないだろう。
膂力と耐久力の差もある。
アイの打撃は決して弱くない。そのアイの打撃に耐えたのだから、グレンの耐久力はかなりのものだ。山のように盛り上がったグレンの筋肉が、打撃から身を守る鎧となっている。
一方のアイにはそこまでの筋肉はない。そして、グレンの豪腕である。まともに一撃を喰らえば戦闘不能はまず免れまい。
この状況は、アイにとってかなりの心理的重圧になるだろう。グレンの打撃は全てが必殺の一撃となりうる。ひとつグレンの攻撃をかわすたび、アイの神経はすり減らされているはずだ。
(長期戦になればアイが不利だ。しかし――)
戦いを見守るマーシャは、疑問を感じずにはいられない。
(恵まれた体格、そして生まれ持った運動能力も相当に高い。しかし、『彼と彼の父は決定的に資質を欠いていた』とはいったい――)
それはかつて、ケヴィンがアイに語ったという言葉。グレンは、むしろ武術家として人並み外れた才能を持っているように見える。彼に欠けている資質とはなんなのか――考えるマーシャの目の前では、二人が三たびその間合いを詰めつつあった。
さらに打ち合うこと十数合。その間アイは二度、グレンの胴に打撃を叩き込んでいる。しかし、グレンに膝をつかせることすらできないでいた。
固い樫の手甲で首から上を打ち抜かれれば、さしものグレンもただでは済まないだろう。ここでも壁として立ちはだかるのは体格差だ。グレンの頭部を狙うには、アイの身長は低すぎるのだ。
(拙いな。グレンはアイの速度に慣れてきている)
グレンは、優れた眼も持ち合わせているようだ。アイの驚異的な踏み込み速度に対する反応が、徐々に良くなってきている。
敏捷性という優位性が失われたなら、アイは窮地に追い込まれることになる。そのことはアイも承知しているはずなのだが――マーシャの目から見ても、アイに動揺した様子はない。
アイはいったん構えを解くと、口を開いた。
「グレン・ウェンライト。どうやってオネガの技を学んだ」
「祖父や曽祖父が残した秘伝書を紐解いた。それがどうかしたか」
「そうでござるか」
そう言って、アイは靴を脱ぎ捨てた。素足で石敷きの道場の床に立つ。
「貴殿は警備部の手によって罪を暴かれ、断罪される運命にござる。オネガ流継承者が次代の継承者と認めた者にのみ、口伝で授けられる秘技。冥土の土産に披露しよう」
「秘技だと……?」
グレンの片眉が、わずかに上がった。
――そのようなもの、秘伝書には一切記されていなかった。伝承者のみに口伝で授けられる秘技。書物には記されていないのはもっともな話だが――
自分を動揺させるはったり、その可能性もある。グレンはアイの言葉の真偽をはかることができずにいた。
――いや、こちらが悩めばが相手の思う壺。相手の力量はおおよそ把握した。いかなる奇策を用いられようと、冷静に対処するだけだ。
と、グレンは構えを取った。そもそも、靴を脱ぐという行為に大した意味があるは思えない。蹴り足を保護する靴がなくなれば、相手に蹴りを受けられた際負傷する確率が高まるだけだ。
しかし、念のためということか、グレンの構えは今までとは異なっている。体を大きく開き、左半身を前にしてアイに対しほぼ横向きの体勢に。左手を伸ばし気味に前に突き出す。間合いを最大限に生かす、防御重視の構えであった。
アイは、やや前傾してかかとを浮かせた。踏み込み速度重視の体勢である。
「参る」
次の瞬間、アイはグレンの目前まで肉薄していた。それまでよりも、さらに速い。足指によって石敷きの床の微妙な凹凸を
「――この程度ッ!」
しかし、それはグレンにとっては想定内。低い姿勢で迫るアイに対し、下段蹴りで迎撃を試みる。しかしその足は空を切った。アイの姿は、グレンの視界から消えている。
「上かッ!?」
果たして、アイの姿は宙空にあった。長身のグレンの頭の、さらに上まで悠々と跳び上がったアイは、空中で回転するとさかさまの姿勢に。ちょうどアイの足の辺りには、道場の屋台骨を支える梁があった。
「いけない!」
マーシャが警告を発する。ローウェル道場でマーシャと対戦したときのように、梁を蹴って勢いをつけ、グレンを攻撃する――現在のアイは、そういう体勢だっからだた。
グレンが嗤う。
羽を持たぬ人間は、宙空でその軌道を変えることはできない。梁を蹴ることで速度は上がるだろうが、それは所詮直線的な動きだ。グレンにしてみれば、受けるにしても避けるにしても、はたまたアイの攻撃に合わせて反撃を繰り出すことも容易い。なにしろ、グレンには手足の長さという優位性があるのだ。
「死ぬがいい!」
アイの顔面に狙いを定め、グレンが右拳を突いた。
必殺の一撃――しかし、その拳に手応えはない。
一瞬遅れ、アイの拳がグレンの鼻面にめり込んだ。鼻骨が完全に砕かれ、大量の血が流れ出した。
「んなっ、なぜだ……」
グレンは、わが目を信じられずにいた。自分が拳を突き出した瞬間、アイは、たしかに
「なんと……!」
マーシャもまた、眼前で起こったことに驚愕していた。拳を振るう体勢に入っていたグレンには、アイがしてのけたことがはっきり見えなかったのだろうが、距離のある場所から傍観していたマーシャの眼には明らかであった。
アイの足が梁に到達したとき、アイは梁を蹴らなかった。代わりに、右の足指を梁のへりに引っ掛けると、足指の力のみでもって梁にぶら下がったのだ。そうすることで、グレンの拳を外した。
「足指の強さ、これこそがオネガ流継承者に必要な資質にござる。貴殿の父がオネガを継げなかったのは、この資質に欠けていたため」
アイは片足を上げると、その足指をグレンに見せ付けた。アイの足指は、平均的な人間のそれより長く、太かった。
「ま、まだだッ!」
グレンは、鼻血を押さえていた手を離し、構えを取った。
アイはふたたび前傾の構えから、凄まじいまでの速度で踏み込んだ。
グレンは構えを崩さず、アイの動きを見極めようとする。そのグレンの視界から、またもアイの姿は掻き消えた。
「上――ではない!? がぁっ!!」
背中の右側に激しい痛みを感じたグレンは、思わず跳び退った。感触から、背を殴られたことだけは理解できる。しかし、アイがどうやってグレンの右側に回りこんだのか――グレンにはまったく理解できなかった。
アイは、全速力で踏み込んだはずである。あの速度での踏み込みの途中、方向転換することなど不可能――常識的に考えればそうだ。
またしても、マーシャは見ていた。
アイは、床の凹凸に足指を引っかけ、その指の力でもって強引に踏み込みの軌跡を変えたのだ。
さらにアイがグレンに迫る。一度右に向かうと見せかけ、鋭角に左に切り返す。これを、まったく速度を落とさずに行うという、常人ではあり得ない挙動だ。
グレンの側面に回りこんだアイは、すれ違いざまにグレンの膝頭を蹴り上げた。鈍い音が響く。グレンの膝の皿が破壊された音だ。
「『
「雷電の歩」――それは、強靭な足指をもって踏み込みの軌跡を自由自在に変化させる、オネガ流の奥義とも言うべき歩法である。
オネガ流の拳士にとって、武器を持つ相手の懐を取ることがなによりも肝要だ。しかし、ただ単に速いだけの直線的な踏み込みは、一定以上の技量を持つ相手には通じない。素手という不利を覆すために編み出されたのが、「雷電の歩」であった。
グレンはもはや、アイの動きにまったくついていけていない。足指に着目すれば「雷電の歩」は読めないこともない。しかし、アイが使うのは「雷電の歩」だけではない。突きや蹴りなどのさまざまな幻惑が織り交ぜられたアイの動きは、まさに変幻自在であった。
「これはもはや、人間業ではない――」
マーシャは、呆れに近い感情を抱いていた。
常人がこれを試みようとしても、足指が負担に耐えられないはずだ。「雷電の歩」が失敗に終わるばかりか、指の骨がぽっきりと折れてしまうのは間違いない。
なるほど、これがケヴィンの言う「資質」というものなのだろう。アイの人間離れした足指の強さ、丈夫さは、訓練で身につくものではない。天性の才能だ。
グレンはアイに翻弄され、身体の各所に打撃を受ける。みぞおちに拳を突きこまれ、とうとうグレンは床に両膝をついた。
「くっ、そ、そんな
「わが師も、この技を公の場で使ったことは数えるほどだったとか。知られていないのも当然にござる――まだ、やるか」
苦悶と怨嗟が入り混じった表情を浮かべながらも、グレンは立ち上がった。
「おおおおぉぉぉーーーッ!」
咆哮とともに、グレンはアイに突進した。しかし、アイの打撃による負傷は、その動きを鈍らせる。
突き出されたグレンの右拳――その前腕部を、アイは右掌で横から打った。ほぼ同時に、腕を挟みこむように左拳でグレンの腕を打つ。
「がああぁぁッ!!」
グレンの前腕部がひしゃげた。
「『鍛冶槌』とは、対象の頚骨のみを破壊するものではござらぬ。その原理を理解していれば、人間のあらゆる部位を破壊することができるでござる」
右腕が使い物にならなくなったグレンであるが、まだ戦意は衰えない。丸太のような右足を振りかざし、回し蹴りを放つ。
アイは、今度は両の拳でグレンの脛を挟み込むように打つ。これも「鍛冶槌」の応用だ。グレンの腓骨が微塵に砕かれた。
尻餅をついたグレンに、アイがゆっくりと歩み寄る。
「ここまでのようでござるな。冥土で、オネガ流の先人たちに謝罪すべし」
マーシャには、大きく息を吸い込んで構えたアイの姿が、一回りも二回りも大きくなったように見えた。
アイの右拳が引き絞られる。
「ひッ!?」
とうとう、グレンの表情に恐怖が浮かんだ。
構わず、アイは右腕を振りぬいた。狙いは、グレンの側頭部。
頭蓋が砕け、脳漿が飛び散る――そのような凄惨な事態は起きなかった。アイは手を開き、掌底でグレンの頭を打っただけだったのだ。
しかし、グレンの脳は強かに揺らされ、その意識は刈り取られた。
「見事」
傍観に徹していたマーシャが、賛辞を送った。
「いえ、某はまだまだにござる。師ならば、ここまでの負傷を負わせることなくこの男の戦意を失わせることができたはず」
と、アイは謙虚な態度を崩さない。
「ひとつ聞いていいか」
マーシャは、アイの戦いぶりを見て感じた疑問を口にした。
「このような命を賭した実戦、初めてではないな」
「いかにも。祖国ゲトナーをはじめ、大陸の国々はシーラントに比べて治安が悪い国がほとんどにござる。そんな国々を旅していれば、山賊や盗賊に襲われることもしょっちゅうにござったゆえ」
自衛のため――いや、ケヴィンはむしろ、積極的にならず者たちを倒して回っていたという。そんなケヴィンと旅したのだから、アイは相当な修羅場を潜り抜けてきたに違いない。
「そういうことだったか。さて、これにて事件も解決だ。警備部に通報してくるから、アイはこの男を見張っていてくれ」
グレン・ウェンライトは、程なくして現れた警備部の隊員によって逮捕された。
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