第14話

 桜蓮荘にマーシャを訪ねて客が来たのは、翌々日の午後のことだ。

 来客とは、髯面の中年男だった。厚手のよれよれのツナギを着て、頭にはつばの短い帽子をかぶっている。ツナギの所々には白や茶のしみが付いており、大きめの鼻は赤く酒の臭いをあたりに撒き散らしていた。仕事をサボった塗装屋の親父が、昼間っから飲んだくれている――そうとしか思えぬ外見である。

 しかしマーシャは男の姿を見るなり、

「まさかあなた直々にお見えになるとは。どうぞ、お入りください」

 と、実に丁重に招き入れたのである。

「ヴァート、お前も入れ」

 ヴァートを部屋に入れると、マーシャは手ずから男に茶を振舞った。これはきわめて珍しいことだ。

「ヴァートよ、こちらは、ええと……スミス殿だ」

「はあ」

 マーシャが言いよどんだことといい、スミスというのが偽名であることはヴァートにも明らかだった。

「ふむ、君がヴァート・フェイロン君か。よろしく」

 スミスなる偽名を名乗る男の語り口は、その外見からは考えられぬほどしっかりしており、どこか気品すら感じさせる。そして、酒に酔っている様子も見えない。ヴァートは、ここで初めて男が変装していることに気付いた。赤い鼻も酒の臭いも擬装なのだろう。

「それで、だ。賭け試合だったな。グレンヴィルからおおよそのところは聞いているが、今一度詳しく話してくれ」

 ヴァートは、あの夜見たことをできるだけ詳細に語った。

「なるほど、手足が不自由な男、か……ありがとう、フェイロン君。実に参考になる情報だった」

 スミスは、満足げに頷いた。

「実は、我々も前々から噂を聞いてはいたが、実情が掴めぬ相手だったのだ。グレンヴィル。まさに渡りに船とはこのことだ」

「お力になれたようです何よりです、ええと、スミス殿」

「われわれも忙しくなるな。せっかくグレンヴィルが淹れてくれた茶であるが、ゆっくり味わっている暇はないようだ。それから、これが頼まれていた情報だ」

 マーシャに何か書かれた紙片を渡し、男は慌しく立ち去って行った。

 わけがわからないヴァートは、マーシャに男が何者なのか尋ねてみた。

「これは絶対に漏らしてはならぬぞ」

 と釘を刺してから、マーシャは語った。

 先ほど訪れた男――それは、王立特務調査部という特殊な機関の一員だという。王立特務調査部とは、王以外の一切の権力から独立し、貴族や高級官僚など、警備部の権限では踏み込めない部分の不正、犯罪を追及するための機関である。

 敵の内部に深く潜入して捜査を行うことも多いため、その正体が明らかにならぬよう常に変装をしているのだとか。

「特務ならば、たとえ相手が貴族だろうとその行為を握りつぶすことはできない」

「なるほど。でも先生、どうしてそんな人と知り合いなんですか?」

 マーシャはややしばらく沈黙したのち、口を開いた。

「……お前には、いつか話そうと思っていた。本題からは少し逸れるが、少し私の思い出話に付き合って欲しい」

 そう前置きし、マーシャは語りだした。


 マーシャはかつて、「蜃気楼」なる組織に所属していた。「蜃気楼」は国に属する組織ながら、公には秘されていた存在である。

 その任務は、国に仇なすあらゆる存在を、この世から消し去ることであった。

 他国の間者、王政打倒を目論む反体制主義者、都市にはびこる犯罪結社、国益に反する商売をしようとする貿易商など――その対象は多岐にわたった。そして「蜃気楼」は、あらゆる手段を用いて対象を消し去ってきたのだ。

 マーシャがこの組織に入ったのは、二十になったころのことだ。彼女の圧倒的な剣技に目をつけた「蜃気楼」の機関員に勧誘を受けたのである。

 当時マーシャは飽いていた。十八で表舞台に立って以来、負け知らずで瞬く間にシーラント武術界の頂点に立ったマーシャには、既に敵がいなかったのだ。生死を賭けた、真剣勝負ができる――その誘いは、マーシャにとってこの上なく魅力的だった。

 「蜃気楼」の任務は、凄絶そのものだった。あるときは圧倒的多勢と、あるときは敵の暗殺者と、鉄砲隊相手に戦うことすらあった。そのような状況下ですら、マーシャの力は圧倒的であった。なにしろ、手傷すらほとんど負ったことがないほどだ。もとより国内敵なしだったその腕前は、任務で人を斬るごとにますます冴え渡って行く。

「あの時の私は、狂っていた。その賭け試合の観衆たちと同じだ」

 最初こそ人を斬ることに大きな罪悪感を感じていたが、お国のためやっていることなのだと自分に言い聞かせ、マーシャは任務を遂行し続けた。そして一年も経つと、「蜃気楼」の仲間らはマーシャのことを「死神」と渾名するようになっていた。それほど、マーシャは仮借なく敵を斬り捨てられるようになっていたのだ。

 表では最強の剣士として華やかな舞台で活躍し、裏では恐るべき暗殺剣を振るい血の雨を降らす。そんな生活が、三年ほど続いた。

「百や二百では済まないほどの命を、この手で奪ってきた」

 と、マーシャは述懐する。

 しかし、「蜃気楼」に転機が訪れる。

 どうした手違いか、本来の目標とはまったく別の人間を十数人、一切の抵抗を許さぬまま惨殺してしまったのだ。

 そして、その不祥事が明るみに出そうになったのである。王国の上層部は慌てて隠蔽工作を行い、ことは公にならずに済んだ。

「私は、そのときになってようやく、自分がいかに愚かだったのか悟ったのだよ」

 いままで露見していなかっただけで、もしかしたらそれまでにも無辜の命を奪ってきていたのではないか――そう考えると、途端に大きな罪悪感がマーシャを襲った。

 そして、気付いた。「国益のため、やむなく人の命を奪っている」――その建前のもと、愉しみのために人を斬っていたということに。人を斬ることによって剣の腕が上がっていくのが、たまらない快感だったのだ。マーシャは、激しい自己嫌悪に陥った。

 結局「蜃気楼」は、政治的な判断により解散させられることになった。所属していた隊員、関係者に厳しくかん口令が敷かれたのは言うまでもない。

 マーシャは、これを機に表舞台から退くことを決意した。当時すでに肉親をなくしていた彼女は、先祖伝来の家屋敷や物品を処分してこの建物を手に入れ、今に至るのだ。

 「蜃気楼」はその任務の特性上、特務調査室とは密接なつながりを持っていた。マーシャが特務の人間に伝手を持っていたのはそのためだ。

「このことを話したのはお前だけだ。お前を息子だと思うから話したが――お前が私を軽蔑し、家族と思うのも嫌だというなら、二度とお前に関わらないことにする」

 マーシャは、最後は消え入りそうな声で話を終えた。

 マーシャの瞳には、深い悲しみと後悔の色に染まっていた。ヴァートが見上げるほどの長身が、いまは酷くちっぽけに見える。

 かつてマーシャは自分に語った。「私は過去に罪を犯した」と。それは、このことだったのだ。

 ヴァートはしばし考え、口を開いた。

「俺は軽蔑なんかしません」

 きっぱりと、そう言った。

「先生は、俺の命を救ってくれた。そして、空っぽだった俺をヴァート・フェイロンという一人の人間にしてくれた。生きる道を示してくれた。俺にとって、先生はそういう人です。過去のことなんか知りません」

 マーシャはまたこう言ったはずだ。「自分の手の届く範囲の命は助けたい」と。そんなマーシャがいたからこそ、ヴァートは生きていられるのだ。

「俺にとって先生はかけがえのない人です。これからもずっと、変わらずに」

 マーシャの目を見据え、ヴァートは言った。

 マーシャは一筋涙を流すと、

「ありがとう」

 そう言って、ヴァートを抱きしめた。


「さて、ヴァートよ。これを」

 やや頬を赤らめたマーシャが、ヴァートに紙片を渡した。先ほどのスミスがマーシャに残していったものだ。

「これは……?」

 紙は、二十人ほどの人名が記された名簿のようなものだった。名前と併せてその人物の住所と略歴も書かれている。

「先ほどのスミス氏に頼んで、調べてもらったものだ。お前にとって有益な情報になるだろう」

 マーシャはスミスに頼み、賭け試合の情報提供の見返りとしてダンカン姓を持つ者を調べてもらったのだ。王立特務部はさすがにあらゆる情報に通じており、すぐにそれらしき人物を割り出した。

 名簿に名前があるのは、ヴァートが暗殺者に襲われた四年前の時点で、シアーズ家となんらか関わりのあったダンカン姓の人物ばかりである。

「この人たちの中に、もしかしたら……」

 父や、自分の家族のことを知っている人間がいるかもしれない――ヴァートの胸は高鳴った。

「とりあえず調べてもらったのは、レン在住の者のみだ。シアーズの本国アトリードの人間につても調べてもらっているが、こちらは時間がかかりそうだな」

「先生、俺、行ってきます!」

 いてもたってもいられぬといった様子で、ヴァートは部屋を飛び出していった。

 そんなヴァートを見送ったマーシャは、どっかりと椅子に腰を下ろす。

「まったく、生涯でこれほど安堵した日はあっただろうか……それにしても、肩の荷が下りた気分だ」

 いまだその目は赤く充血している。しかし、マーシャの顔は実に晴れやかだった。


 もし、相手が過去のヴァートやその家族のことを知る人間の場合、自分の姿を見て何か感じるところがあるのではないか。そう考えたヴァートは、とりあえず名簿に記されたダンカン氏を片端から訪ねてみることにした。シアーズ家との関わりは、深い者から浅い者までさまざまである。

 この日、七件目までのダンカン氏を回ったヴァートだったが、結果は空振りであった。

 シアーズ家ゆかりの者たちだけあって、ヴァートの瞳の色に興味を持つ者はいたが、それ以上の情報を引き出すことはできなかった。

 しかも、七件のうち二番目に訪問したダンカン氏は既に王都から転居しており、五番目に訪問したダンカン氏は死去していた。

 わかったのは、シアーズ家の当主一族にはヴァートのような翠色の瞳をした者が多く生まれるらしい、ということだけだった。

「そう簡単にはいかないか。でも、まだまだ三分の一だ。これから、これから」

 日は既に西に傾き、空は茜に染まりつつある。

 ヴァートは調査を切り上げて帰宅することにした。


 帰路についたヴァートであるが、しばらく歩くうちに妙な違和感を覚えた。

 時間の経過にしたがって、違和感の正体が明らかになってきた。

(誰かに尾けられている……)

 のである。

 ちょうど、ヴァートは商店街に差し掛かった。夜間に仕事をする者も多い大都市レンでは、日が暮れたからといって営業を終了するような商店は流行らない。一部の生鮮品を扱う店を除き、多くの商店の店先では店員たちが活気のある声を上げている。

 ヴァートは雑貨屋の前で足を止め、店先の商品を眺めるふりをする。素早く自分が歩いてきたほうを一瞥。

 ふたたび歩き出したヴァートは、四つ辻を左折する。さらに、その先の辻をもう一度左に曲がった。

 菓子屋があるのを見つけたヴァートは、そこで焼き菓子の包みを買い求めた。つり銭を受け取る際、数枚をわざと地面に落とす。慌てて店から出てくる店員を笑顔で制し、ヴァートは地面にかがんで硬貨を拾った。さりげなく視線を動かす。

(いる……)

 その男は、先ほどとは上着が変わっている。しかし間違いない。

 武術家には、見るともなしに全体として相手を捉える癖がついている。そうしなければ、小手先の幻惑に引っかかってしまうからだ。ヴァートの眼は誤魔化されなかった。

(さて、どうするか……同じ方向に三度曲がってもついて来るような人間がいた場合、それは高確率で尾行者だとパメラさんから教わったが)

 しかし、尾行術を身につけている相手の場合、ヴァートが三度同じ方向に曲がった時点で逆に「ヴァートが尾行を悟った」ことに気付く。そして、尾行を諦めるかさらに警戒を強めるかするだろう。

 ホーキング男爵邸での試合にあえて出場し、敵が尻尾を出すのを待っていたわけだから、無駄に相手の警戒心を煽るのは得策ではない。

(ついて来るならついて来い)

 探りたいのなら、存分に探るがいい。ヴァートは泰然としたさまで、ゆっくりと桜蓮荘に向かうのだった。

 帰宅までの間、ヴァートは尾行者の気配を感じ続けていたが――一度たりとも振り返ることはなかった。

 桜蓮荘のすぐ近くまで来たところで、尾行者の気配は消えた。

「家を突き止めて満足したってことなのか? さて、敵はどう出てくるか……ん、あれは」

 道の先に、ヴァートはファイナの姿を認めた。

「あれ、ヴァート君。随分遅いお帰りね」

「ああ……ちょっと先生に用事を頼まれてね。ファイナさんこそ遅いんだな」

「うん、急ぎの配達があったから」

 ファイナは、薬箱を掲げて見せた。

「そうだ、ヴァート君。ホーキング男爵のところの試合に勝ったんだって?」

 内々の試合だったはずである。そして、その内容は公表されていない。

「その辺は、いろんなところから情報が入って来るのよ。武術愛好家って結構つながりあるからね」

「そんなもんなのか」

「うん。それに、ホーキング邸の試合ってあたしたちの世界じゃ結構有名なのよ。ヴァート君も期待の新人が出てきたって評判よ。そのうち、大きな大会から出場の誘いがかかるかもね」

「大会、か」

 今回は、自分を狙う何者かに存在を誇示するために試合に出ただけだ。剣士としての栄誉が目的ではない。

 しかし――仮に過去を取り戻したとして、そのあと自分はどうやって生きて行くのか。今のところはマーシャの世話になっているが、いつまでも彼女の厚意に甘えているわけにはいかない。いずれは自力で生計を立てなければならないわけだが、ヴァートの取り得といったら剣だけだ。

 ヴァートは若い。今から何かしらの技能を修得し、職に就くことは可能だろう。しかしヴァートは剣が好きだ。剣で身を立てることができれば、それに越したことはない。

 意図せぬこととはいえ、ホーキング邸での試合はいい機会だったのかもしれない。ヴァートはそう考えた。

「じゃあ、あたしはもう行くね」

「あっ、ファイナさん、送って行くよ」

 時間はもう遅い。ヴァートも、女性を一人で帰らせるほど気が回らない男ではない。

「いいよ。この辺りは顔見知りしかいないし。危ないことなんてないよ」

 ファイナは笑って申し出を断った。

「じゃあ、また」

 ヴァートは手を振り、ファイナを見送った。

 この日ヴァートの取った行動は、まず適切だったといえるだろう。しかしそれは、ただ一つの見落としがなかったならばの話だ。

 ヴァートは気付かなかった。自分を尾行していた何者か――それをさらに尾行する何者かの存在に。

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