第15話
ヴァートがダンカン姓の人間を訪ね始めて、もう三日目だ。調査は、既に八割方が終了していた。残るダンカンはあと三人となった。
朝から調査に出たヴァートだったが、この日一人目のダンカンは外れであった。
「次はこのヘクター・ダンカンって人か……今日中に全部終わっちゃいそうだなぁ」
ヴァートが掴んだ細い手がかりの糸。それが、切れようとしている。
「いや、まだ駄目だと決まったわけじゃない。急ごう」
ヴァートは足を早めた。
ヘクター・ダンカンなる人物の家は、下町と新市街のちょうど中間辺りにあった。名簿に書かれていた略歴には、「五年前までアトリード領のシアーズ家本宅にて、侍従として勤務。退職後、妻の実家のあるレンに転居。武術愛好家」とある。
短時間に良く調べたものだと、ヴァートも特務の情報収集能力に脱帽するしかない。
「ここだな」
ヴァートも、だいぶ王都の生活に慣れてきた。ヘクター・ダンカンの家を探すのはさほど難しくなかった。
「ごめんください」
ヴァートがドアを叩くと、程なくして一人の老女が現れた。
「え、ええと、どちら様ですか?」
ダンカン氏の妻女であろうか。小奇麗な身なりの六十代半ばの女性である。平静を装ってはいるが――その表情には、激しい動揺の色が見て取れた。
「ヴァート・フェイロンといいます。ヘクター・ダンカンさんのお宅ですよね」
「……はい。少々お待ちを」
女性が家の中に消え、代わりに現れたのは女性と同年代の男だった。白い形のいい口髭が印象的な、温厚そうな老人だ。
ヘクター・ダンカンは、ヴァートの顔を見るなり目を見開いた。そして、その両眼にはみるみる涙が溜まった。
「……お、おお……あなた様はもしや……!」
ダンカンはヴァートの手を取ると、泣き崩れた。
「ちょ……!? その……これは、いったい」
「私めのことは覚えておられなくとも仕方ない。ご幼少のみぎり、あのハタの村で一度お会いしたきりでしたので」
「いや、そういうことではなく……俺には四年前以前の記憶がほとんどないんです」
敵かも知れぬ相手であることは承知の上で、ヴァートはそう打ち明けた。眼前の老人は、確かに自分の過去について知っている。正直に話すのが一番だと判断したのだ。
「記憶が……? おお、なんということだ…………いや、失礼。ともかく中へ」
ヴァートは、ダンカン氏の妻女の手による茶で歓待を受けた。
「俺は、何者かに殺されかけたせいで記憶がなくなってしまったらしいんです。思い出せたのは、両親、姉とどこかの田舎に住んでいた、ってことだけで、自分の名前も覚えていない」
ヴァートは自分の境遇に包み隠さず話した。
「敵から逃げるとき、パーカーという人がダンカンという苗字を口にしたのは思い出せたんです。それで、ダンカンという人を探してここへ」
「左様なことが……実はここ最近、わが主の命によりあなた様のことは調べさせていただいておりました。まさか、あなた様のほうから私をお訪ねになるとは思いもしませんでしたが」
「主……それはシアーズ家の当主のことか?」
「はい。アンドレアス・シアーズ様こそわが主。
ヴァートは一歩下がって警戒する。
「……そのアンドレアスか? 旧貴族街で俺を襲わせたのは」
「襲わせたですと!? いや、あのお方がそのような真似をするはずがない。なにかの間違いでございます」
しかし、あのときヴァートを襲ったのは、明確な殺意を持った職業的暗殺者である可能性が高い。ならば、彼らを動かした者が必ずいるはずなのだ。
「それは、どうにも厄介なことになったやも知れませぬ……申し訳ありませぬが、このあと何かご予定は?」
ヴァートが首を横に振る。
「では、わが主と面会していただきたく存じます。おおい、お前」
ダンカンは妻女を呼びつけると、なにごとか囁き合った。妻女はぱたぱたと慌てて家を出て行った。
「ちょっと、その前に詳しく話を……」
「申し訳ございませぬ、わが主に会っていただいてからということで……すべては、主の口から語られましょう」
程なくして、ダンカン邸の前に馬車が到着した。
「さあ、お乗りください」
老人を完全に信じたわけではない。しかし、もはや罠だろうがぶつかって行くのみ。心を決め、ヴァートは馬車に乗り込んだ。
二人が乗った馬車は、一旦下町方面に進んだ。下町の入り組んだ道をしばらく走ったあと、ダンカンは馬車を停めた。そして、別の辻馬車を捕まえる。
「ご面倒をおかけしますが、用心に越したことはありませんので」
二代目の馬車に、ダンカンはわざと遠回りするように指示する。ふたたび新市街方面に近づいたところで、また馬車を乗り換えた。
そうして辿り着いたのは、新市街の外れにある一軒の邸宅だった。新市街の中でも古い部類に属するであろうその邸宅は、長らく使われていないようだ。庭木は伸び放題で、石造りの壁が傷んでいるのは遠目にもわかる。
「ここは、シアーズ家の旧宅にございます。さあ、こちらです」
埃の積もった廊下を、ダンカンの先導で歩く。金持ちのことはわからないが、それでもその内装は質素なものであるようにヴァートには感じられた。
「どうぞ、お入りください」
とある部屋の前で、ダンカンは恭しく一礼しドアを開けた。
打ち捨てられた屋敷の中で、その部屋だけは綺麗に手入れがされていた。応接室のようだ。
シアーズ家の人間が、密かに誰かと会合を持つときに使われる部屋なのだろうか。ヴァートはそう推理した。
年季の入ったソファに、一人の男が腰掛けていた。傍らでは、ダンカンの妻女が茶の支度をしている。
この男もまた、ヴァートの顔を見るなり、翠色の瞳から落を流した。
「こうして見ると、まさに生き写し……そして、その眼……」
男は、ダンカンの肩を借り立ち上がった。覚束ない足取りでヴァートに歩み寄ると、その身体をしっかりと抱きしめた。
「初めて会う……わが甥よ……」
「甥……!?」
ダンカンが進み出る。
「こちらはわが主、アンドレアス・シアーズ様にございます。そしてヴァート・フェイロン……いや、ジュリアス・ナイト様。あなたは旦那様の妹君、クローディア様の実のご子息であらせられるのです」
「ジュリアス……それが、俺の名前……」
かちり。
ヴァートの頭の中で、音がした。鍵を鍵穴に差し込み、回したときのような――そして、扉が開かれる。
「ジュリアス…………そうだ……なぜ、思い出せなかったんだ」
たった一つの言葉がきっかけで、ヴァートの記憶は流れ出す。
「でも……違う。ナイトじゃない。イーガン……ジュリアス・イーガン……」
「それは、潜伏生活で名乗った偽名であろう……思い出したのか」
「まだ、全部じゃない……っ、頭が……」
前に、断片的に記憶を取り戻したときと同じ、激しい頭痛がヴァートを襲う。顔面は蒼白となり、滝のような冷や汗が流れた。
ダンカンがヴァートの手を取り、ソファに座らせた。妻女が茶を差し出す。ヴァートは茶を一気に飲み干し、深呼吸した。
「はぁ、はぁ……もう大丈夫、ありがとう」
ヴァートの顔色は、いくらか良くなってきていた。頭痛も治まっている。代わりに、頭の中でしきりに何かが弾ける感覚が続いている。小さな火花が頭の中全体を飛び跳ねているような、そんな感覚だ。
ヴァートは、アンドレアスの瞳を見つめる。初めて見る、自分と同じ色の瞳――いや、違う。二人だけ、同じ色の瞳を持つ人間を知っている。母と姉だ。
「そなたのその瞳――間違いなくわが一族――否、わが妹クローディア譲りのもの。そして、その顔立ちは父シーヴァー・ナイトそのものだ」
クローディアに、シーヴァー。姉の名前はローラ。イーガン姓を名乗り、田舎の小さな村で暮らしていた。それが、どこの田舎なのかはわからない。あの時・・・まで、ジュリアス――いや、ここはヴァート表記でで統一したい――ヴァートは、物心付いたころから住んでいたその村から、一歩も出たことがなかったのだ。
連鎖的に、ヴァートの記憶が蘇る。その記憶を呼び覚ましたのは、ジュリアスという言葉ではなく、アンドレアスの翠色の瞳だったのかも知れぬ。
「俺は、父さんに剣を習って毎日を過ごしていた――母さんと姉さん、いつも優しかった――でも、母さんが貴族だったなんて知らなかった」
「クローディアもシーヴァーも、あえて語らなかったのであろう」
「多分、その通りだと思います。そして――あの日」
独り言に近いヴァートの言葉を、アンドレアスは黙って聞いている。
忘れもしない。ヴァートが十三歳だったころのこと。
一通の手紙が届き、それを読んだ途端父の顔色が変わった。家族を急かして旅の支度を整えると、慌しく馬車で村を出た。
「レンに身を隠す、父さんはそう言っていた。木を隠すには森の中、大都市のほうがかえって『奴』の目を誤魔化せるかもしれない、と」
しかし――レンまでもう少し、というところで襲撃を受ける。それから先は、既に述べられたとおりである。父、母、姉は殺され、ヴァートはマーシャに救われる。
いままでどこか他人事のように感じていた肉親の無残な死。今ではそれが確かに自分のものだという実感があった。
ヴァートの両目からは、涙がとめどなく溢れていた。亡き家族に対する愛情、懐かしさ、家族が殺されたことへの怒り、哀しみ――複雑な感情が、ヴァートの中で渦巻いている。
「聞かせてください。父さんは何者だったのか、なぜ殺されなければならなかったのかを」
あなたのお父さんは、それは強い剣士だったのよ――母は、父についてそう語ったのみだ。父も、自らの過去について、そしてなぜ隠れるような暮らしを余儀なくされているのか、一切語らなかった。
アンドレアスは一度目を伏せると、意を決したように語り始めた。
「そなたの父シーヴァー・ナイトは、わがシアーズ家の指南役として招き入れられた剣士だった。わが妹は女だてらに剣術を好み、シーヴァーに付いて剣を学んでいた」
シーラントには、マーシャ同様武術を学ぶ女性は数多い。クローディアも、そんな一人だったのだろう。
「シーヴァーは剣の腕もさることながら、人格も非常に優れていた。二人が親しくなるのに、そう時間はかからなかっただろう」
本来ならば、許されぬ関係だ。シーヴァーはあくまでシアーズ家に雇い入れられただけの身分に過ぎない。
「しかし、私は二人が結ばれることに反対ではなかったよ。私自身、政略結婚というものにとことん嫌気が差していたからな。妹には、同じ思いをさせたくなかった」
シアーズ家が国内有数の富豪、サリンジャー家から嫁を迎え入れたのは前述した。実は、その結婚が行われる前、シアーズ家は財政的に厳しい状態にあった。財力はあるが歴史のない成金であるサリンジャー家と、古い伝統を持つ家柄ながら金がないシアーズ家。両者の利害のもとに行われた結婚だった。
しかし、アンドレアスが娶ったイザベルは、夫にまるで愛情を示そうとしなかった。それどころか、財政難を救った立場であるから、アンドレアスのことを初めから下に見るかのような態度を取った。義務的な夫婦の営みの結果、跡継ぎたる男子が生まれてからは、その態度は一層露骨なものとなった。
「きわめて異例なことなれど――シーヴァーとクローディアは結ばれることとなった。無論さまざまなしがらみもあり、簡単なことではなかったがね」
最大の障害はやはりシーヴァーの身分である。結局シーヴァーがとある貴族の養子となることで問題を解決したが、その貴族に対しアンドレアスは少なくない額の謝礼を払ったという。その金は、すべてアンドレアス個人の私財であった。
「そんなときだ。あの男がシアーズ家の本宅に姿を見せるようになったのは」
アンドレアスの顔が、大きく歪んだ。ダンカン夫妻もまた、苦々しい表情を浮かべている。
「ルーク・サリンジャー。妻イザベルの弟だ。私からすれば、義弟ということになる」
ルークは、将来的にシアーズ家を継ぐことになるイザベルの息子を補佐するため、サリンジャー家から送り込まれた男だ。
彼は、姉に輪をかけて尊大で傲慢な男であった。しかも、色と血を好む凶暴な性格だった。
顔が気に入らぬなどと些細な理由で家中の人間や領内の人々に暴力を振るい、気に入った娘がいれば力づくで自分のものにする。
姉のイザベルはルークを溺愛しており、諭すどころかますます弟を甘やかす始末。アンドレアスも寄せられる苦情にほとほと困り果てていた。しかし、危急を救ったサリンジャー家との間に波風を立てるわけにもいかない。
そして、シアーズ家にとってそれは幸運だったのか不運だったのか――ルークは金儲けに関しては人並みはずれた才覚を持っていた。ルークの助言によって成功した事業も多く、シアーズ家の財政の立て直しに大きく貢献したと言っていい。そのため、アンドレアスはルークの蛮行を黙認することしかできなかった。
「すべては私の力が足りなかったばかりに……そして、あの事件が起きた」
そう言ったアンドレアスの顔に浮かんでいるのは、深い罪悪感。
きっかけは、クローディアの懐妊であった。
サリンジャー家は時を追うごとにシアーズ家への介入を深め、当時は領内政治にも口を出すようになっていたという。加えてルークの蛮行である。いくら財政難を救ってくれた相手とはいえ、シアーズ家の家臣の中にはサリンジャー家に反感を抱く者も少なくなかった。
そこへクローディアの妊娠である。当然、生まれる子を世継ぎに、と画策する者たちが出てくる。イザベルの子を世継ぎにしたいサリンジャー家と対立が起きるのは必定であった。
ルーク・サリンジャーは、おぞましい方法でこの世継ぎ争いの収集を図った。それは――クローディアの殺害である。
ルークの失敗は、自らの手でクローディアを殺害せんとしたことだった。毒殺などの搦め手を使わなかったのは、どの道自分を裁けるものなどいないという奢りがあったからだろう。
クローディアを絞め殺そうと寝込みを襲ったルークだったが、そこで気まぐれを起こした。殺す前に、クローディアを手篭めにしようとしたのだ。結果的にこの気まぐれがクローディアを救った。武術の心得があったクローディアは、自分を組み伏せにかかるルークを跳ね除け、け逃げ出すことに成功したのである。
そこへ、シーヴァーが現れた。
シーヴァーが激怒したのは言うまでもない。クローディアを追ってきたルークは、領内随一と言われたシーヴァーの剣技を、身をもって味わうことになる。
「シーヴァーは、ルークの手足の腱を一瞬で切り裂いたという。そして、暖炉の火かき棒を取ると、ルークの顔に酷い火傷を負わせた」
一思いに殺さなかったのは、シーヴァーなりの慈悲だったのだろうか。
しかし、ルークの顔には酷い火傷の跡が残り、左足と右手はいまだ自由に動かないらしい。
ともあれ、シーヴァーはアトリード領内におられぬ身となった。シーヴァーはクローディアを連れ、出奔した。そのまま領内に留まっていては、ルーク、ひいてはサリンジャー本家から報復を受けるのは必定だったからだ。
ことの真相を知る者は、シアーズ家の中でも少ない。二人は別荘に向かう途中、馬車ごと崖に転落して死亡した。表向きにはそういうことになっている。
「すべては、私がルークの所業を黙認したことが原因。二人には、なんと詫びたらよいかわからぬ」
そう言って、アンドレアスはふたたび落涙した。代わりに、ダンカンが話を引き継ぐ。
「アンドレアス様は、シーヴァー殿とクローディア様の身を常に案じておいででした。幾人かの信頼できる者を通じ、隠れ住むお二人を密かに支援されていたのです」
そういえば、田舎の村で父は労働らしい労働をしていなかったはず。ある程度の年齢になってからはヴァートもその不自然さに気付いたが、両親は生活費の出所については語らなかった。今思えば納得である。
「僭越ながら、私は武術好きということもあり、シーヴァー殿とは懇意にさせていただいておりました。妻ももとはクローディア様の乳母。長年にわたり、傍にお仕えしておりました。そんな縁があり、お二人と連絡を取る役目を仰せつかったのでございます」
足がつかぬよう何人かの人間の手を経由し、シーヴァーに金を送る。シーヴァーも同様に、近況を書き綴った手紙を送った。
「手紙には家族四人、ささやかながらも幸せに暮らしているとあった。本来なら貴族として生きるはずの身分でありながら、市井に混じって暮らすのは辛くないのか――初めはそう思ったものだ」
ようやくハンカチを眼から離したアンドレアスが、しみじみと語る。
「いえ、俺たちは幸せでした。まだ――ところどころ記憶は曖昧ですけど、それは間違いありません」
ヴァートは断言した。
田舎の村の片隅で、人目を避ける生活。決して裕福ではなく、贅沢もできない暮らしだったが――その家庭には、間違いなく幸せがあった。
「そうか、そうか……」
と、アンドレアスは三たび涙した。
「それで……俺たちの家族を襲ったのは、やはり……」
ヴァートが、核心に迫る。これまでの話を聞いて、薄々勘付いてはいるのだが。
「うむ。ルークの奴めが、そなたたちの居場所を突き止めたらしいのだ。そして――」
ルークの恨みは、十数年経っても消えることはなかった。それどころか、時間が経つにつれ復讐の念は一層激しく燃え上がったのだ。
そして、金で暗殺者を雇い、家族もろとも消し去ろうとする暴挙に出た。
「すまぬ……すべて私の責任なのだ。私のことは、いくら恨んでも恨みきれまい。いっそ、その剣で斬ってくれ。そうすれば、少しは恨みも晴れよう」
アンドレアスは身を乗り出し、懇願するように言った。
たしかに、責任の一部はアンドレアスにある。しかし、諸悪の根源はルークだ。そして――
「俺はあなたを恨みません。もし父さんや母さんが生きていても、そう言ったでしょう」
話を聞いている間も、ヴァートの記憶の奔流はとどまることを知らなかった。母が、父に語っていたことを思い出す。
自分たちのせいで、兄はより辛い立場にたたされたことだろう。私たちだけが、こうして安全な場で暮らしているのが申し訳ない。当時の自分にはなんのことやらわからぬ会話だったが、いまならその意味が理解できる。
「母さんは、確かにそう言っていた。父さんも、恨み言なんか一度も言ってない」
「おお……おお……」
アンドレアスは、もはや嗚咽を漏らすのみ。
「今日は、話を聞かせてくれてありがとうございます。おかげで、俺は失っていたものを取り戻すことができた」
もういいだろう。いまはこれ以上何を語っても、アンドレアスを苦しませるだけだ。そう考え、ヴァートがソファから腰を浮かせかけた。
「待て! まだ重大な話が残っている。そなたの今後のことだ」
「今後?」
「聞くと、そなたは最近何者かに命を狙われたそうではないか。考えたくないが……そなたが生きていること、ルークめに勘付かれたやも知れぬのだ」
ここまでの話からして、暗殺者を使ってヴァートを襲わせたのはルーク以外にありえないだろう。
「ルークは執念深い男だ。そなたを殺害することを、決して諦めたりはすまい。加えて、奴は狡猾にして残忍。どのような策を巡らせているとも限らぬ」
ダンカンが同意して頷く。
「恥ずかしい限りではあるが……私も簡単にルークを止めることはできぬ。れいの事件以降、サリンジャー家の当家への締め付けはますます強まるばかりなのだ」
ルークは当時、シーヴァーが乱心して自分を斬ったのだと主張した。目撃者がいなかったためアンドレアスはこれに反論することができず、以降サリンジャー家ののますますの増長を許すことになる。
「一刻も早く身を隠すのだ。費用や場所は、私たちが都合する。私はシーヴーとクローディアの忘れ形見であるそなたの命だけは、絶対に守りたい」
アンドレアスは、真摯に訴えかけた。
ヴァートはしばし考え、口を開いた。
「いえ……それは、お断りします」
「なぜだ! 命が惜しくないのか!?」
「命は惜しいです。でも――今の俺はヴァート・フェイロンです。母はマーシャ・グレンヴィルで、師はラルフ・ハミルトン。命を狙われているからといって逃げ出すような育てられ方はしていません」
シーヴァー、クローディア、ローラ。三人に対する愛情は変わらない。しかし、今のヴァートはヴァートであり、ジュリアスではない。マーシャによって炉にくべられ、ハミルトンによって叩かれ鍛えられたヴァートのこころは、まさに鋼の剣そのものであった。
「それに……敵が誰であろうと、俺は死ぬつもりはありません。それが、父さんが最後に残した願いだから」
失われていた記憶の最後の欠片。それが、ヴァートの心に蘇った。追っ手の前に立ちふさがりながら、逃げる自分に向けて父が発した言葉。
「生きろ」
そう、シーヴァーは言ったのだ。
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