第10話
「ヴァート君、ごめん! 今忙しいからあとにして」
診療所では、ファイナが大わらわで立ち回っていた。この日は特に患者が多いようで、待合室は人でいっぱいだ。
「馬鹿者! あれだけ塩辛いものは控えろと言いつけたじゃろうが! お前のような不摂生者にかける時間はないわ! 薬を受け取ってとっとと帰れ!」
診察室のホプキンズ医師は、いつにも増して辛辣な言葉を吐いている。あまりの忙しさに、気が立っているようだ。
患者を患者とも思わぬ言葉遣いの老医師であるが、腕は確かで代金は必要最小限しか受け取らぬ。下町の人々は、彼の口の悪さは表面的なものだということがわかっていて、そんな彼を深く敬愛している。
いかに重要なことであっても、さすがにこの状況でファイナに話を聞くわけにもいかない。ヴァートは診療所の外に据えられた長椅子に座り待つことにした。
ファイナの手が開いたのはいつもの開業時間を大きく過ぎた、夕飯時をやや過ぎたころのことだった。
「ごめん、待たせちゃったね」
「いや、こっちこそ忙しいところに押しかけて悪かったよ」
「それで、何の用事だったの?」
「ああ、実は――」
ヴァートが言いかけたところで、老医師が顔を見せた。
「ファイナ、わしは疲れたからもう寝るぞ」
「でもおじいちゃん、お夕飯は?」
「いらん。お前は外で食ってくるがええ」
老医師はファイナに銀貨を一枚放り投げると、奥の自室へと消えていった。
「そうだ、ヴァート君。話は一緒にご飯食べながらにしない? 私が奢るから」
「えっ、悪いよ」
「大丈夫。今おじいちゃんにお金貰っちゃったから。これ、『今日はお疲れ様』っていう意味のお駄賃なのよ」
ファイナが受け取った銀貨には、豪勢な食事を五回しても釣りが来るほどの価値がある。多忙な一日に対する、老医師なりの労いであった。彼は、肉親にも等しい存在であるファイナに対しても、素直に言葉を伝えようとしないのだ。
「ヴァート君が戻ってきたお祝いも兼ねて、ね。遠慮しないで」
「じゃあ……ありがたくご馳走になります」
ヴァートは一旦桜蓮荘に戻り、マーシャにことのいきさつを告げた。
「わかった。帰りは、くれぐれも丁重にファイナを送り届けるのだぞ」
マーシャは、そうヴァートに釘を刺した。
ふたたび合流したヴァートとファイナは、「銀の角兜亭」に向かった。ファイナもまたこの酒場の常連であった。
「お酒はあんまり飲めないけど、ここはお料理もおいしいからね」
とは、ファイナの弁である。
先に店に入ったファイナを、強面の店主が出迎えた。
「おっ、ファイナちゃん。久しぶりだな」
店の常連たちも、口々にファイナに声をかける。
若い女性が夜の酒場に顔を出せば、卑猥な言葉をかけられたり身体を障られたりと、不快な行為を受けることがままある。しかし、ファイナにそうした行為を働く者はこの酒場にはいない。この界隈で自分や自分の家族が老医師に世話になったことがない人間は皆無だ。両親を失いながらも、健気に働くファイナのことを、みな温かい目で見守ってきたのである。
ファイナに続いて店に入ったヴァートの姿を見て、常連客たちの空気が変わった。ヴァートを見る目はまるで、自分の娘が交際している男を自宅に連れてきたときの父親のそれであった。この野郎、何者だ――先日ヴァートがこの店を訪れたときに居合わせていた者以外は、一様に同じ反応を示す。
そのうちの一人が立ち上がった。両の腕に刺青を入れた強面の男だ。席に着こうとしたヴァートに後ろから歩み寄り、肩を掴む。
「おい青二才、てめぇファイナちゃんと馴れ馴れしくしやがってどういうつもりだ。見かけねぇ面だが、いったいどこの馬の骨だ」
と、大声でまくし立てた。なぜ突然自分が絡まれたのかわからず困惑するヴァートに、店主が助け舟を出す。
「バックの旦那、その兄さんは先生のところの新しい店子だぜ。自分の息子のようなものだからよろしく頼む、なんて言ってたっけな」
店主の言葉に、男の態度が急変した。
「な、なぁ~んだ。兄さん、先生のお知り合いだったのか。そいつは失礼したな、ハッハッハ……」
と、肩を掴む手を離し揉み手を始める。唖然とするヴァートに顔を寄せると、
「頼むから今夜のことは先生には内緒にしておいてくれよ、な?」
などと耳打ちした。
ほかの客たちも、マーシャの名を聞くとすっかりしおらしくなり、それぞれの語らいに戻っていった。マーシャを怒らせるとどうなるか、古い常連ならばみな知っている。マーシャがこの酒場に通い始めたころ、か弱い女と思って尻を撫でようなどと考えた不届き者たちが、どのような末路を辿ったか――ここでは詳しく語るまい。バックがその当事者のひとりであるということだけは付け加えておこう。
「ごめんね、バックさんとっても優しいおじさんなんだけど、飲みすぎるとたまにああなっちゃうのよ」
と、ファイナは自分が原因であることに気付いてもいない様子であった。
そんなことがありながらも、二人はカウンターの席に着いた。
「じゃあ、まず乾杯しましょう」
最初に頼んだのはビールである。ファイナは、タンブラーに注がれたビールを一気に飲み干した。
「あぁー、染みるわね」
大きくため息をつきながら、ファイナが漏らす。早速二杯目に口をつけるファイナに、
(あんまり強くないって本当かよ……)
口には出さなかったが、ヴァートがそう思ってしまったのも無理からぬことである。
「こういう忙しい日って、結構あるのか?」
「今日は特別よ。医者なんて本当は暇なほうがいいっておじいちゃんもよく言ってるんだけど、やっぱりたまにこういう日はあるわね」
医者が暇だということは、人々が健やかに過ごしている証拠である。患者の病状を大げさに煽り、必要もない薬を処方し暴利を貪る医師も少なくない中、至極真っ当な考えだ。
「おじさん、いつものね」
二杯目を飲み干したファイナが、店主に何か注文をする。
「あいよ。そっちの兄さんも同じものでいいかい?」
「あっ、はい」
「いつもの」が何かも知らないまま、ヴァートは返事をした。
ファイナが頼んだのは、羊肉の薄切りをたっぷりの葉物野菜・玉葱と共に鉄鍋で炒めた、山盛りの一皿だ。特製のソースとにんにくの香りが、なんとも食欲をそそる一品である。
「こういうの、向こうでもよく食ったなぁ」
味付けは濃い目で量も多い。肉体労働者や武術の修行をしている者にとってはうってつけの料理である。
しかし、うら若き乙女のファイナには少々そぐわないだろう――口には出さなかったが、ヴァートの意外そうな視線にファイナは気付いたようだ。
「お医者さんの仕事って、体力勝負だからね。これだけ食べても、ちょっと今日みたいな忙しい日が続くとげっそり痩せちゃうんだから」
と、ファイナははにかみながら語る。
ファイナは出るところは出ているけども、手足はほっそりとしている。なるほど、無駄な贅肉はほとんどついていない。ヴァートは、ファイナの肢体を観察してそう思った。
「こら、あんまりじろじろ見ない!」
「ご、ごめんなさい」
「もう、ヴァート君もすっかり『男の子』になっちゃたのね……」
その呟きは、ヴァートの耳には届かなかった。
「それで、なにか用事があったんでしょ?」
若干気まずい空気が流れたところで、ファイナが話題を切り替える。
「ああ。ファイナさん、マット・ブロウズって剣士を知ってるか?」
ヴァートの言葉に、ファイナは驚いたような表情を見せる。
「ヴァート君の口からその名前を聞くとは思わなかったわ。ひょっとして修行時代にどっかで知り合ったの?」
「そういうわけではないんだけど……師匠から、ちょっと話を聞いたことがあって」
「歳は今年四十二。かなりの変わり者らしくてね。何年かごとにレンに現れてはちょこっと試合に出て、また姿を消しちゃうの」
「何年かごと? レンにいない間はなにしてるんだ」
「修行の旅をしているらしい、って話は聞いたことがあるわね」
ハミルトン道場を訪れたのは、その修行の旅とやらの途中だったのだろうか。
マーシャが現役として活動した期間は短い。ブロウズのことを知らなかったのも、おかしなことではないだろう。
「その筋の専門家からの評価はとっても高いんだけどね。なにしろ数年に一度しか出てこないし、あんまり大きな試合にも出ていないしで、知名度は高くないわ。知る人ぞ知る隠れた強豪、って感じかしら」
「なるほど……ブロウズって人、今はどこかの貴族のお抱えになってるって聞いたんだけど」
「確か……前回レンで大会に出たときは、シアーズ家召し抱え、って立場だったはず。二年前の話だけどね」
「シアーズ家?」
「あたしは貴族については詳しくないわ。ミネルヴァさんにでも聞いてみたら?」
「わかった、ありがとう」
こと細かに覚えているファイナに、ヴァートは感嘆せずにいられない。
「そうだヴァート君、あのラルフ・ハミルトンのところで修行してたんでしょ?」
ファイナが、身を乗り出すようにしてヴァートに尋ねてきた。
「ああ、そうだけど……」
「いいなぁ、私も一度会ってみたいなぁ。三大賜杯の中でも至高と言われるトランヴァル杯決勝――あのリゲルとの壮絶な戦いを制し、国内最強の称号を手中に収めたはずなのに、突如表舞台から姿を消した孤高の剣士――小さいころ一度だけ試合を見たことがあるけど、凄かったなぁ」
ファイナは、うっとりと瞳を輝かせている。
「公式戦四十連勝、御前試合七番勝ち抜きなど輝かしい成績を残し、当時『二つ名』にもっとも近いと言われながら、突然の引退。レンの武術愛好家は、それはがっかりしたものよ。マーシャ先生の引退と並んで、シーラント武術界の損失だと言われているわ」
身振りを交えながら、ファイナは熱く語る。
(また、長くなりそうだな……でもファイナさん、楽しそうだし……まあ、いいか)
何かの知識に長けた者は、概して教えたがり、話したがりであるものだ。ハミルトンに関する薀蓄をさも楽しげに語るファイナを見て、ヴァートはしばらく話に付き合うことにした。
同刻。
桜蓮荘では、マーシャ、ミネルヴァ、アイの三人がひとつのテーブルを囲んで食事を取っていた。
「今ごろヴァートも『銀の角兜亭』で食事をしているころだろうか」
マーシャが、どこか遠い目をして呟いた。
「あの小さかったヴァートが、女性と二人酒を飲みに行くようになるとはなぁ。時が経つのは早いものだ」
「先生、それはいささか年寄り臭い発言にござるぞ」
「そう言うな、アイよ。いやはや、世の子を持つ親の気持ちというものが少しずつわかってきたよ」
「しかし――相手は
「それはそうだな」
三人は、一様に笑った。
一方、「銀の角兜亭」では、ファイナの話が続いていた。
酒で、気分が高揚したせいもあるのだろう。ファイナの弁舌は、とどまることを知らない。
「……そして、超がつくほどの激戦区といわれた当時の王都に突如現れた新星、それが言わずと知れた、われらがマーシャ・グレンヴィル! 王国軍主催の春季大会で優勝を掻っ攫うと、瞬く間に二十連勝を達成して武術愛好家を震撼させ――」
店主は、また始まったかという表情だ。最初はヴァートに敵意むき出しだった常連客たちも、いまではヴァートに同情的な視線を向けている。
(書物も何も見ずにこれだけ話せるのは凄いと思うが……いつまで続くんだ……)
ファイナは、ハミルトンの現役時代から現在に至るまでの二十余年におよぶ武術界の歴史をたっぷりと語り、それは酒場の店主が看板を下ろすまで続くのだった。
「ごめん、あたし興奮しすぎちゃったみたいで……」
診療所へ向かう道すがら、ファイナはそう謝罪した。
「いや、いいよ。凄く面白い話だったし」
この言葉は、半分本当だ。ハミルトンは、自らの過去のことはあまり語ろうとしなかった。高名な武術家であったことは無論知ってはいたが、ここまで詳しい話は聞いたことがなかった。その点では、ファイナの話は実に興味深いものだった。
そして、さすがに最後は辟易したものの――ファイナの活き活きとした表情を眺めていると、ヴァートも嬉しい気分になった。それも確かな事実である。
「ヴァート君が帰ってきたお祝いするつもりだったのに、あたしばっかり喋っちゃって……ほんと、ごめんなさい」
ファイナは深く恥じ入り、店を出てからというもの俯いたままである。
「いや、本当に楽しかったんだって。ファイナさんさえよければ、また飯でも食いながら話を聞かせて欲しいな。今度は俺のおごりで」
「ほんとう?」
ファイナの表情が、ぱっと明るくなる。
「じゃあ、暇ができたら教えてね!」
「ああ。約束するよ」
さて、ヴァートは巷で言うところの「
とりとめもない話をしながら、やがて二人は診療所の門前に辿り着いた。
「送ってくれてありがとう。じゃ、またね――って言っても、うちの患者さんとして来るのはこの間限りにしてくれると嬉しいな」
「それは正直約束できないなぁ……稽古の相手があの三人だし」
「それもそうね」
笑いながら手を振り、ヴァートはその場を立ち去った。
どこか後ろ髪を引かれる思いがするのはなぜなのか――ヴァートは、胸に湧き上がった感情がなんなのか、自分で説明することができなかった。
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