第9話

 それは、何の変哲もない家族の光景。父がいて母がいて、姉がいる。そして、家族に付き従う老僕がひとり。静かな田舎の村の片隅で、人目をはばかるように隠れ住んでいた。

 母と姉は、美しい女性だった。母は自分と同じ金色の髪、姉は父譲りの黒髪。瞳の色は二人とも自分と同じ、翠色。

 父は、毎日剣を振っていた。剣を振る父の姿は力強く、また美しくもあった。自分も父のようになりたい。そう考えるのは当然だった。

 父に、剣を教えて欲しいとせがむと、父は嬉しそうに自分の頭を撫でた。「血は争えないわね」、そう言ったのは母だったか姉だったか。

 場面が変わった。

 家の庭先で、父に倣って剣を振る。ひたすら基本の繰り返しだ。しかし、稽古は楽しかった。稽古を終えると、かならず姉が額の汗を拭ってくれる。姉からふんわりと香る、花のような香りが何よりも好きだった。優しげに細められる、姉の切れ長の瞳。

 そしてまた、場面が変わる。

 一家は、夜の道を馬車で駆けていた。父は、かつて見せたことのない焦りの表情を浮かべている。

「官憲の手は借りられぬ。どこまでの手が伸びているのかわからないからな」

 父は、そう言った。

「では、どうすれば……あの男・・・のこと、もし見つかればこの子たちも……」

 母の顔からは、血の気が完全に引いている。

「一度レンに行こう。多くの人々の中に紛れ、そこから新たな隠れ家に移ったほうが、奴らの眼も誤魔化しやすいかもしれぬ」

 そして、幾度も夢に見たあの光景。

 十数人にも及ぶ黒衣の襲撃者。父の剣技は凄まじかったが、家族全員を守りきることはできない。まず二人の子を庇おうとした母が、次に自分を庇おうとした姉が凶刃に倒れた。

 月明かりの中倒れ伏す母と姉、いくつもの手傷を負いながら戦う父の背中。

 襲い掛かる敵をまた一人斬り倒し、父が叫ぶ。

「ここは私が食い止める! お前は――」

 敵は、まだ六人が健在だ。父の言葉は、次々繰り出される敵の攻撃によって遮られた。

 父を助けなければ――

「止せッ!!」

 しかし、それを父は厳しく制した。

「パーカー! 息子を頼む!」

 老僕が、自分の肩を抱きかかえ、強引にその場を離れようとする。老人とは思えぬ強い力だった。

「坊ちゃん、どうかお聞きわけ下され! あなたが命を落とせば、旦那様の行為が無駄になります!」

 老僕は涙ながらに訴えた。

 断腸の思いを抱えながらも、老僕に従い走り出す。闇夜の向こうに、王都レンの街並みがぼんやりと見えた。

「ダンカン殿のところまで、なんとしても……!」

 老僕は、うわごとのように繰り返し呟きながら走る。

 最後に一度、振り返る。迫り来る刃を打ち払いながら、父が叫んだ。

「※※※!」


「……っ……はっ!?」

 ヴァートが目を開くと、そこは桜蓮荘の自室だった。出かけたときの服装のまま、寝台に寝かされていたようだ。

「夢……いや、違う……」

 それは、失われた記憶の欠片だ。根拠はないがヴァートにはその確信があった。

 具体的なことは、いまだもやがかかったように曖昧だ。父の名も母の名も姉の名も、そして自分の名前さえもわからないままだ。しかし、あの光景がかつての自分と自分の家族のものだったという確信が、ヴァートにはあった。

 生死の境に身を置くことが、記憶を取り戻す鍵になったのだろうか。

「……そうだ、早くこのことを先生に……」

 一刻も早くマーシャに報告すべく、ヴァートは部屋を飛び出した。


「先生! 聞いてください!」

「ヴァート? しばし待て――」

 勢い込んでマーシャの部屋に飛び込んだヴァートであったが――その眼に飛び込んできたのは、肌色の何か・・・・・であった。

(前にもこんなことがあったような……)

 思った瞬間、ヴァートの視界は暗転した。

「まったく……ハミルトン殿も最低限の社会常識は教えておいて欲しかったな。まさか、あんな勢いで入って来るとは思わなかった」

 またも着替え中の女性の部屋に踏み込んでしまったヴァートは、一撃のもと昏倒させられたのだった。

 マーシャはさほど怒った様子を見せなかったが、ヴァートはひたすら平謝りだ。

「私だったから良かったものの……もしこれがミネルヴァ様の部屋だったら、お前の命はなかったぞ」

 呆れ顔で物騒なことを言うマーシャだが、その声音は決して冗談を言っているようには聞こえない。

「それで、用件はなんだ」

「そう! 実は、記憶が戻ったんです!」

「本当か!?」

「はい。なんというか、酷く細切れではあるんですけど」

 まず、自分が何者かに襲撃され、そののちに頭痛とともに記憶が戻ったことを語る。

 そして、自分がかつて家族四人、老僕とともにどこかの田舎で暮らしていたこと。何者かに家を追われ、レンに逃げ込もうとしたところで敵に襲われ、おそらくは家族全員殺されたこと。断片的な記憶をつなぎ合わせ、推測も交えつつ語る。

 マーシャに昏倒させられたことで、いくらか気持ちが落ち着いている。家族が死んだらしいということも、ヴァートは冷静に受け入れた。

 いや、受け入れたというより、いまだにそれが自分の過去の記憶であるという実感が薄いのである。他人が書いた物語を、絵や音つきで見せられたような気分だ。

「老僕のパーカーとやらに連れられレンに入ったところで、追っ手に追いつかれた。そう考えるのが妥当だろうな」

「はい、俺もそう思います」

 自分や家族の名、暮らしていた場所など、肝心なところはいまだ明らかではない。しかし、

「パーカーにダンカンだったか。それだけでも思い出せたのは幸運だったな」

 このことである。

 父の最後の姿が、よほど強烈な思い出だったのだろう。この二つの名前だけは思い出すことができた。

「しかし、パーカーとやらも、おそらくは……」

 ヴァートを逃がすため囮になったか、それとも逃げるうちに散り散りになったか――いずれにせよ、職業的な暗殺者たちが見逃すはずはない。

「残された手がかりは……ダンカンという人物、ですね」

「しかし、ダンカンなぞレンには吐いて捨てるほどある平凡な姓だ。それだけではまだ雲をつかむような話だ」

 なにしろ、レンは百万近い人口を要する大都市である。ダンカンというありふれた姓を持つ人間は、五十や百ではきかないだろう。

「俺を襲った連中を捕まえられたら良かったんですけど」

「まあ、今回は命があっただけでも幸運だったと思うべきだな、ヴァートよ」

「それは……あの女の人が助けてくれなかったら、今ごろ俺は……」

 ヴァートは確かに三人の男たちを圧倒しかけていた。もしも体調の急変がなければ、男たちを捕縛することも可能だったかもしれない。しかし、真剣勝負に「もしも」はないのだ。

「そういや、どうやって俺はこの桜蓮荘まで来れたんだろう」

「ああ、それはだな――お前は辻馬車に乗せられてここまで運ばれたのだ」

「じゃあ、あの女の人が俺を馬車に?」

 ヴァートは首を捻る。ならば、その女性はヴァートの住居を知っていたことになるのだ。

「まあ、とにかくだ。お前も疲れているだろう。今はゆっくり身体を休めたほうがいい。あれこれ考えるのは明日にしよう」

 マーシャの言うとおりであった。かつて感じたことのないほどの疲労が、ヴァートの身体にのしかかっている。

「わかりました、お休みなさい」

 マーシャの部屋を辞し、自室に戻ったヴァートは寝台に身体を投げ出した。一呼吸もしないうちに、泥のような眠りにつく。


 ヴァートが眠りについたころ、また一人の人物がマーシャの部屋をおとなっていた。

「ただ今戻りました、グレンヴィル様」

 その客人とは、パメラ・オクリーヴであった。いつもの侍女服ではなく、明るい空色のワンピースに腰巻きの前掛けを着け、頭には三角巾を巻いている。化粧はきつめで、家事の途中の町娘、といった風情である。どことなく陰鬱な雰囲気のある普段のパメラとはまったく様子が異なっており、一目で彼女と気付ける人間は少ないだろう。

「ああ、ありがとう。で、どうだった」

「周辺に怪しい気配は感じられませんでした。おそらくは一旦引き上げたものかと」

「そうか、良かった。いくら私といえど、わが家を得体の知れぬ連中に監視されるのは愉快なものではないからな」

 そう言うと、マーシャは肩を竦めて見せた。

 ヴァートには伝えていなかったが、マーシャは数日前から桜蓮荘の周辺をうろつく怪しげな気配を感じていたのだ。

 その気配の主が、ヴァートを狙う者なのかどうかはわからなかった。ゆえに、マーシャはひとまず泳がせておくことにしたのである。もしものために保険・・をかけながら。

「詳しい事情も聞かされぬまま私の頼みを聞いてくれたこと、重ねて感謝する。ありがとう」

「いえ、礼には及びませぬ。私も、お嬢様も、グレンヴィル様には返しきれぬ恩義がありますゆえ」

「そう言ってもらえると助かるよ。それで――ヴァートの戦いぶりはどうだった?」

 パメラは一瞬間を置くと口を開いた。

「相手は訓練を積んだ職業的暗殺者三人でした。しかし、彼の実力は三人を完全に上回っていました。おそらくは――五人までなら相手取ることが可能でしょう」

「パメラのお墨付きが得られたなら安心だ。私はどうしても親の贔屓目で見てしまうからな」

 マーシャの頬がほころんだ。

「しかし――差し出がましいようですが――今の彼はまだまだ危うい。敵が更なる人員をもって襲ってくること、また搦め手に出てくること。これは十分に考えられる事態です。そうなった場合、彼一人の力で切り抜けられるでしょうか」

「そこなのだよ、パメラ」

 マーシャの眉間に皺が寄る。マーシャは無論ヴァートに対し協力を惜しまぬつもりだ。しかし、いかに天下無双のマーシャといえども個人でできることには限界がある。

「また、お前たちの手を借りることになるかもしれぬ」

「ご随意に」

「ミネルヴァ様にも、危ない橋を渡らせることになるやもしれぬが――」

「お嬢様が自身のご意志でお選びになるのであれば、私は異論を挟みません。では、これにて失礼」

 一礼してパメラは自室に戻って行った。

「やれやれ、私は良い店子に恵まれたよ」

 マーシャは笑みを浮かべながらひとりごちた。


「仕損じたか」

 部屋の主である男は、任務の失敗を報告した暗殺者に対し、特別怒ってもいないようだった。

「まあよい。今日はほんの小手調べに過ぎぬ。にしても、そこまでの腕前だったのか? れいの小僧は」

「……ああ。本気で殺るのなら、あと三人――いや、四人は必要だっただろうな」

「なるほど、いよいよ間違いなさそうだ。忌々しいことではあるが、剣の腕前はあの男譲りらしい」

「それで、次はどうする。命令さえもらえれば、すぐにでも手勢を増やして小僧を殺りにいくが」

 男は腕組みし、しばし考える。

「……いや、それには及ばぬ。小僧が一端の剣士として育ったというのなら考えがある」

 そう言うと、男は下卑た笑みを浮かべる。

「最近は、ただ殺すということには趣を感じぬのだよ。武術家がその矜持を打ち砕いかれた上で惨めに死んでいく――なかなか面白いと思わぬか?」

 暗殺者は小さく肩を竦める。

「俺たちのは趣味でやっているわけじゃないからな。仕事に余計な感情は持ち込まん。まあ、依頼主の希望に沿うようには努力するがね」

 言うと、暗殺者は音もなく部屋を出て行った。

「確か……今の名前はヴァート・フェイロンだったか。私を退屈させるなよ」

 男は暗い部屋でひとり、呟いた。


 翌日。

 身体の疲労は相当なものだったとみえ、ヴァートが目覚めたのは昼も近くになったころのことであった。朝が遅いマーシャですらとっくに起きて身支度を済ませている。

「あら、今日は随分ゆっくりでしたのね」

 慌てて中庭に下りてきたヴァートを見てそう言ったミネルヴァの口調には、はっきりとした非難の色が込められている。師であるマーシャよりも大幅に寝坊してしまったのだから、ヴァートとしては返す言葉もない。

「まあまあ、ヴァートは昨日命を狙われたばかりなのですよ。そう責めてやりなさるな」

「ちょ、先生!?」

 さらりと前日の出来事について漏らしたマーシャに、ヴァートは困惑を隠せない。

「命を……? 先生の縁者を襲うなど、相手はいったいどこの不届き者でござるか」

 物騒な話を聞いておきながら、アイがまず露にしたのは驚愕や恐怖ではなく憤慨であった。それはミネルヴァにしても同様である。

「詳しく話を聞かせてもらいたいですわね」

「それが、どうにも正体がつかみかねる相手なのですよ、ミネルヴァ様」

「待ってください、先生! これは俺個人の問題です。皆を巻き込むわけにはいきません」

 ともすれば、話を聞くだけでその身に危険が及ぶかも知れないのだ。ヴァートは慌てて話に割って入った。

「済みません、今のは聞かなかったことにしてください」

 そう言ってヴァートは頭を下げる。

「それは聞き捨てなりませんわね」

 顔を上げたヴァートの目に入ってきたのは、怒り心頭に達したという表情のミネルヴァである。

「あなたと初めてお会いしたとき、先生はわれわれのことを家族同然と仰いましたわ。お忘れかしら」

 ヴァートは首肯する。

「そしてあなたもまた、先生にとっては息子。ならばわれはれはみな家族ということではありませんか」

「それはそうなんですが……俺は皆さんと出合ってまだひと月も経ってません。そんな簡単に信じてしまっていいんですか」

「私は先生を信じております。その先生が信じるお人ならば、私にとっても信じられる相手なのでしょう。実に単純で明快な論理だと思いませんこと?」

 アイも、大きく頷いた。

「それに、われわれの眼とて節穴ではないでござるよ。ヴァートが信頼に足る人物だということは、ともに稽古をしていればわかることゆえ」

「そう言ってもらえるのは嬉しいんですけど……でも、とても危険な相手なんです。それこそ殺しも厭わないような」

「死を恐れていては武術家は務まりませんわ。もっとも、そのような卑劣な輩にみすみす負けるつもりはありませんけど」

「然り。最終的に勝利し、生き残ることこそが武術の本懐ゆえ。それに――ミネルヴァ様も仰ったとおり、われわれは家族も同然にござる。家族の苦難に気付かず見過ごしてしまったとあっては、亡き師に顔向けができぬ」

 それがまったく裏表のない心底からの言葉であることは、ヴァートにもわかった。わずかなぶれもない二人の姿勢に、ヴァートは二人が生半な武術家ではないことを再認識する。

「二人とも……本当にありがとうございます」

 年齢は自分とさほども違わないのに、なんと見上げた心意気であることか。ヴァートは二人に尊敬の念を抱くとともに、自らの未熟を思い知る。

「さて、話はついたようだな。ヴァート、まずは二人にお前の過去を話すことからだな」

 マーシャに促され、ヴァートは記憶喪失であるという自らの境遇、そして昨日の襲撃事件によって記憶の一部が蘇ったことを語った。

「……そんなわけで、俺は自分の過去を取り戻したいんです」

「なるほど……『先生に拾われた』とは、そういうことだったんですのね」

 マーシャがヴァートのことを息子と呼んだ理由も、ミネルヴァは納得いったようである。

「若いのに、まさに波乱万丈の人生にござるな」

 アイがしみじみと言うが、もとは戦災孤児で旅の武術家に拾われたというアイの過去も、なかなかに壮絶なものだ。それを微塵も感じさせぬ明るさが、アイの美点のひとつだ。

「それにしても、記憶喪失とはまた難儀ですわね」

「話はあいわかった。それでは某がひとつ――」

 その瞬間、豪という風切り音とともに、ヴァートの額すれすれをアイの硬い拳が通過した。ヴァートがとっさに首をすくめなければ、こめかみを打たれていたであろう。

「む、今のを避けるとは。やるな、ヴァート」

「ちょっ、なにするんですか!?」

「衝撃を与えれば治るとホプキンズ殿が申されたのでござろう?」

「アイさん、あなたに殴られたらヴァートさんの頭蓋骨が陥没してしまいますわよ」

「無論、手加減はしたでござるよ」

「本当かよ……」

 ヴァートの額には、アイの拳との摩擦で一筋の火傷ができていた。まともに食らっていたら本当に頭蓋骨が陥没したのでは――ヴァートは背筋が凍る思いだ。

「いや、二人とも……衝撃を与えるというのは物理的な話ではなくてだな」

 マーシャが困り顔で説明しようとしたときである。ヴァートたちのもとに、一人の子供が駆けて来た。桜蓮荘の店子の子供だ。

「先生、お届け物だよ」

 その子供が携えてきたのは、一通の手紙だった。

「ああ、ありがとう」

 子供に駄賃を握らせたマーシャは、封筒の表書きを見る。

「ハミルトン殿……? 珍しいこともあるものだ」

 人付き合いが嫌いなハミルトンであるから、当然筆不精だ。ヴァートを彼に託すことを依頼したときを除いては、マーシャもこれまで手紙などもらったことがなかった。

 マーシャはテーブルに戻り、手紙を開封した。内容は、以下のとおりである。

『今日、妙な連中が訪ねて来た。何用かと問えば、ヴァートのことを根掘り葉掘り聞いてくるのだ。当道場にはもうおらぬ、と答えておいたが、どこへ行ったのか、出自はどこだとしつこく食い下がる。煩わしくなったので、叩き出してやった。怪しい連中だったゆえ、一応報せておく』

「ふむ……ヴァート」

 マーシャは、手紙をヴァートに手渡した。

「ええと…………これは?」

「何者かが、お前のことを探っているらしいな。おそらくは、昨日お前を襲った者どもの仲間だろう――だが、腑に落ちないことがあるな」

「それは?」

「考えてもみよ。お前の敵は、どうしてお前が王都にいることを知ったのだ? そもそも、敵はお前が死んだものと考えていた可能性が高いというのに」

 その通りである。マーシャは、敵にヴァートが死んだものと思いこませた上で、秘密裏にハミルトン道場に送り込んだのだ。

「何か偶発的な出来事によって、敵にヴァートさんの存在が伝わった――そう考えるしかないですわね」

「ふむ、ミネルヴァ様の言うとおりかもしれない」

「それでは、敵はハミルトン道場でヴァートのことを知ったのではござらぬか」

 ヴァートがハミルトン道場に行ったことは、マーシャしか知らないことであった。ホプキンズ医師やファイナにすら、詳しい行き先は告げていなかった。敵はヴァートがハミルトン道場に行ったことを知ったのではなく、ハミルトン道場にいるヴァートを見た何者かを経由しヴァートの存在が明らかになった――アイの言葉はそう言う意味だ。

「一理あるな。ヴァート、ハミルトン道場で何か変わったことはなかったか?」

「うーん……あっ、そういや俺が向こうを発つひと月くらい前、師匠に会いに客が来ました」

 食料品を取引するためにやって来る村の農民たち以外、ハミルトン道場を訪れる者はほとんどいない。一人の来客すら珍事であるといえよう。

「マット・ブロウズっていったっけな。師匠の昔の知り合いだそうで」

「武術家か?」

「はい、剣士です。師匠と話をしていっただけなんで本当のところはわかりませんけど、かなり強そうでしたよ」

「ブロウズ、か。聞いたことのない名だな」

 マーシャが現役時代に対戦したことがある剣士ではないようだ。

「そのブロウズとやらが誰かにヴァートの話をし、それが何らかの形で敵に伝わった。あるいはマット・ブロウズ自身が直接敵と通じているか――今の段階では、その可能性が高いということになるな」

「でも、どうして俺が俺だと・・・・・だとわかったんでしょう。自分で言うのもあれですけど、この三年と何ヶ月かで俺の見た目も随分変わったと思うんですが」

「やはり、その瞳でござろう。某も師と二人、さまざまな国を旅して――いわゆる翠色の瞳を持つ者が多く生まれるような地域も目にしたでござる。しかし、ここまで鮮やかな翠色は見たことがない」

 おそらくは、ここにいる中で一番多くの人間に出会ってきたのがアイである。そのアイをして見たことがないと言わしめるほど、ヴァートの瞳は珍しいものなのだ。

 ヴァートは出立に際し世話になった村人たちに挨拶してきたし、道中では駅馬車や宿屋を利用している。多くの人間に顔を見られているはずだ。顔立ちは整っているし、翠色の瞳というわかりやすい特徴もあるため人の記憶に残りやすいだろう。ハミルトンは口を割らなかったようだが、ヴァートの足取りを辿ることは決して不可能ではない。

 あとはハミルトンの交友関係、かつてヴァートが女性武術家によって助けられたという事実――これらを総合すれば、マーシャとヴァートの関係が浮かび上がる。

「それにしても、これは容易ならざる敵のようですわね」

 情報収集能力に長け行動は迅速、そして職業的暗殺者を自由に操ることもできる相手である。ミネルヴァの言葉に一同が頷いた。

「お前をエディーンに送った私の判断は、誤りだったのかもしれぬ」

 マーシャが悔恨の表情を見せるが、これはあくまで結果論だ。数少ないハミルトン道場への来客が、たまたま敵と関わりのある人間だった――そんな確率の低い事態を想定しろというのは、どだい無理な話である。

「しかし、好機と捉えることもできるでござるよ」

 アイが言った。

 ブロウズなる剣士を経由して敵にヴァートの情報が渡ったのなら、ブロウズを調べることで逆に敵の正体に迫れるのではないか。そういうことだ。

「とは言っても、俺もあの人のことは良く知らないんですよ。師匠も、『どこぞの貴族の食客をしているらしい』としか言ってませんでしたし」

「なに、相手が剣士ならいくらでも探ることができるだろう。ヴァートよ、身近に武術界について異常に詳しい人物がいるのを忘れたか?」

「なるほど、ファイナさんですわね」

 ファイナの武術に関する薀蓄は、ときに人を辟易させるけれども、それだけ知識が豊富だということだ。有名どころの重鎮から最近名の知られ始めた新鋭に至るまで、彼女は知らぬ武術家はいないと豪語する。

「よし、早速行って来ます!」

 ヴァートは勢い込んで走り出した。

「……やれやれ、昨日襲われたばかりだというのに元気なものだ。それで、パメラよ」

 それまで一言も発せず、静かに控えていたパメラにマーシャが声をかけた。

「はい。心得てございます」

「昨日の今日で再び仕掛けてくるとも思えないが……念のためだ。またよろしく頼む」

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