第11話

「せいッ!」

 ミネルヴァの木剣が唸る。

「はッ!」

 長大な剣の重量さを生かした、強烈な一撃。しかし、イアンはそれを片手で打ち払う。

(男の腕力には、やはり敵わぬな……)

 それを見たマーシャが嘆息する。技量はまさに天下一と呼べるものを持っているマーシャだが、こと膂力に関しては生まれ持った性別の差はいかんともしがたい。

「はあぁぁッ!」

 剣をいなされ、体勢を崩したかに見えたミネルヴァ。しかし、彼女は横に流れた身体を無理に立て直そうとはせず、逆にその勢いを利用し一回転。イアンの足元を薙ごうとする。

 やや面食らった表情を見せたイアンだが、それはほんの一瞬のことだ。しっかりと剣筋を見極め、後ろに跳んでこれを避ける。ミネルヴァは、追い縋ってなおも打ち込むが、イアンはどっしりと構えて崩れない。

(あの若さで、冷静なものだ)

 イアンの戦いぶりは、実に落ち着いて堂に入ったものだ。女の細腕の不利を補うため工夫された、やや変則的なミネルヴァの剣。しかし、イアンは惑わされることなく、柔軟に対処している。弛まぬ修練によって裏付けられた技術、やや細身に見えるが引き締まった筋肉が付いている肉体。

(素質は充分、そしてあの真面目な性格だ。このままいけば、相当な剣士になることだろう)

 と、マーシャに思わせるのに充分だった。

 さて、二人の戦いはいよいよ佳境に入った。

 なかなか思うように攻められないミネルヴァは、期せずしてだんだんと攻撃が雑になっていく。そこにできた隙を、イアンは見逃さない。

 上段から放たれたミネルヴァの斬撃を紙一重で避けつつ一気に踏み込むと、イアンは鋭い突きを放つ。ミネルヴァは横に跳んで回避を試みるも、それを追いかけるようにイアンの追撃が襲いかかる。目前に迫ったイアンの剣を防ぐ術を、ミネルヴァは持っていなかった。

「勝負あり」

 ミネルヴァが首筋を打たれ、二人の勝負はイアンに軍配が上がった。

 汗だくになり肩で大きく息をするミネルヴァに対し、イアンにはまだ余裕が感じられる。

 ミネルヴァの実力は同世代の男と比べても遜色ないどころか、上位にあると言ってもいい。しかし、イアンの実力はさらに上を行っている。


 イアンがマーシャの桜蓮荘に来た翌日である。

 この日、いつものように稽古に来たミネルヴァは、せっかくだからということで、イアンと手合わせをすることになったのだった。

「イアン、剣はやはりお父上に?」

 マーシャが尋ねる。

「いえ……たまに帰省したときには稽古をつけてもらいましたが、年に数度のことでしたので。それに、軍を辞めてからの父は、剣を手にしませんでしたし。剣を学んだのは、郷里の村にある道場です。父も若いころ通った道場で、今は父の兄弟子に当たる方が道場主をやっているのです」

 マーシャがそんな質問をした理由は、イアンの剣にどことなく父ヒューゴと通じるものがあるのを見て取ったからだ。甥弟子に当たる関係ならば納得がいく。

「はぁ、はぁっ……見事なお手前でした。完敗ですわ」

 満面に悔しさを滲ませつつも、ミネルヴァは潔く負けを認めた。

「いえ、そちらこそ素晴らしい剣技でした。さすがは誉れ高いフォーサイス家のご令嬢と感服いたしました」

 折り目正しくイアンが答える。力量差を見せながらも、その言葉には皮肉や世辞のような響きは一切なく、実に爽やかであった。

 これにはミネルヴァも毒気を抜かれたようになり、悔しげな表情はどこかへ霧散してしまった。

「と、とんでもございませんわ。あと……剣の修行の場では、家名など関係ありません。それに、限られた間とはいえ私たちは同門となるのですから、どうかミネルヴァとお呼びくださいませ」

「わかりました、ミネルヴァ様。では、私のこともイアンとお呼びください」

 そう言って、イアンはにっこりと微笑んだ。ミネルヴァの頬が紅く染まったのを、果たして当の本人は気付いているのだろうか。

「さて、先生。今度は私に一手ご教授願います」

 と、イアンがふたたび剣を取る。

「よろしい。存分にしごいてやろう」

 このあと、マーシャはイアン、ミネルヴァを相手にみっちりと稽古をつけるのだった。


「いかがだったかな」

「いや……恥ずかしながら……いささか疲れましたな」

 ミネルヴァが帰宅したのち、日暮れになるまでイアンとマーシャは稽古を行った。マーシャに散々打たれ、さすがのイアンも息も絶え絶えな様子だ。

 ようやく人心地ついたところで、イアンはマーシャに一礼する。

「本日はありがとうございました。己の未熟を痛感した次第です。いや……郷里の道場では師範代などを任されるようになり、多少慢心していた自分に気付かされました」

「ふむ。しかし、そなたの剣はなかなかのもだ。自己を過小に評価することはない」

「いえ、勿体無いお言葉です」

「さて……そろそろ晩飯時だな。飯はどうする?」

「そうですね……材料さえあれば自分でなんとかするのですが」

「ほう、イアンは料理ができるのか」

「ええ、辛うじて食べられるものが作れる程度ですが。母は病気がちな祖母の看病に忙しく、自分のことは自分でしなければいけませんでしたので」

「賄いを雇ったりはしなかったのか」

「質素倹約を心がけよ、というのが父の教えでしたので。自分はいつ命を落とすかもわからぬ、そうなったとき母が金に困るようなことになってはいけないと」

 なるほどプライスらしい考えだとマーシャは思う。武家では男子が家事をすることを馬鹿にする風潮が強いけれども、よくよく考えればくだらないことだ。下町での生活の中で、マーシャはそう考えるようになっていた。もっとも、マーシャ自身は料理をほとんどやらぬ。いや、ほとんどできない、と言ったほうが正しい。

「時間も時間だ。今日のところは外で済まそう。私のおごりだ」

「いえ、とんでもありません! 先生にそこまでご厄介になるわけには……」

「遠慮はいらない。前も言ったとおり、プライス殿には言い尽くせぬほどの恩を受けたのだ。どうか晩飯の一食くらいはおごらせてくれ」

「……わかりました。では、ご馳走になります」

「うむ。明日になったらこの近辺を案内しよう。近くには肉屋や八百屋など一通り揃っているから、自炊がしたければそうするがいい」

「は、ありがとうございます」

 そうして二人が向かったのは、いつものごとく「銀の角兜亭」だ。

「おっ、先生が若い男を連れてくるなんて珍しいですな。ひょっとしてコレですか?」

 と、店主が小指を突き出して見せた。

「馬鹿を言うな。彼は恩人の子息だ」

「冗談ですよ。デューイのやつから先生のところに新しい店子が入ったって話は聞いてますからね。で、なんにします?」

「イアン、酒は?」

「嗜む程度には。あまり、強くはありませぬ」

「うむ。では、とりあえずビールを二つ。あと、適当なつまみと、イアンにはなにか腹が膨れるような嵩のある料理を頼む」

 マーシャは、店主の「おまかせ」で料理を選んでもらう。この日一番のおすすめは鶏肉の煮込みだった。鳥のもも肉、人参・玉葱・セロリ・ひよこ豆などの野菜を、たっぷりの香辛料と共にじっくり鍋で加熱する。野菜がとろとろに溶けるまで煮込んだのに、さらに鉄鍋で焼き付けた色とりどりの夏野菜を盛り付け、パンとともに食すのだ。

 食欲をそそる刺激的な香りを放つその一皿に、イアンは思わず腹を鳴らした。もとは大陸の暑い国の郷土料理だという、この熱くて辛い料理を食すと、自然と爽快な気分になるのだから不思議なものだ。

 これは、毎年夏になると出される店の人気メニューである。マーシャたちの周囲でも、常連客たちが大汗をかきながらこの料理をかき込んでいる。

 二人は、酒を片手に料理を口に運ぶ。

「先生、生前の父のことをお聞かせ願えますか」

「うむ、そうさなぁ……」

 と言いかけて、マーシャは口をつぐんだ。

 よくよく考えてみれば、「蜃気楼」の任務以外のときのプライスのことをよく知らぬ。表向きの立場の違いもあったし、「蜃気楼」の隊員同士は普段必要以上の交流をするべからずという規則があったということもある。

 かといって、「蜃気楼」の任務について語るわけにもいかない。

(これは弱った……なにか、適当に話を取り繕うしかないな)

 人格者であったとか、部下に慕われていたとか、できるだけ具体的なことはぼかしつつ語る。

 そうしているうちに、だんだんとイアンの顔が赤くなり、呂律が回らなくなってきた。強くはない、という本人の言葉は本当だったらしい。

 それを見て取ったマーシャは、イアンが小用を足しに行った隙に、店主に頼んでイアンのグラスに強い酒を混ぜてもらった。ぼろが出ないうちに、イアンを酔わせてしまおうという魂胆である。

 効果は覿面であり、イアンの意識は揺らぎ始めた。しきりに眼をしばたたかせ、頭を振る。

「相当酔ったようだな。では、帰るとしよう。それでは店主、勘定を」

 と席を立つマーシャだが、イアンの足取りは相当に怪しい。マーシャが肩を貸そうとするが、長身で筋肉質のイアンはかなり重かった。

「店主、申し訳ないがデューイを借りたい」

「いいですよ。デューイ、お二人をお送りしたらそのまま上がっていいぞ」

「はい、わかりました」

 マーシャは、デューイと二人でイアンを両脇から抱えるようにして店を出た。桜蓮荘に着くと、イアンを部屋のベッドに放り込んでようやく一息つく。 

 デューイに駄賃を渡して別れると、

(明日からのことを考えておかなくては……)

 頭を悩ませるマーシャであった。


 翌日。

 マーシャは、前にイアンに語ったごとく、生前のプライスと親交があったであろう人物を何人か教えることにした。「蜃気楼」とは無縁の者たちばかりである。

 なにか手がかりがつかめるかも知れぬと、イアンは勇んで出て行った。

 おそらくは、イアンはマーシャが隠しごとをしているのを見抜いている、そうマーシャは睨んでいる。そして、それが故あって話せぬことであるということも。

 イアンは、そこまでわかっていてあえてマーシャに追求しようとしない。本当に、よい若者だとマーシャは思う。

 マーシャは、プライスが殺されたのは「蜃気楼」がらみが原因ではないかと考えている。たんに、異常に腕が立つ押し込み強盗だった可能性もないではないが、それでは今際のきわの言葉が繋がらぬ。

(この件に関しては、慎重にことを運ばねば……)

 「蜃気楼」がらみの事件となれば、うかつに首を突っ込むとどんな危険がイアンの身に及ぶかわからない。イアンにはとりあえず当たり障りのない者を訪問させ、その間自分でもできうる範囲で探りを入れてみようという考えである。

「とはいえ、どうしたものか……」

 思わずひとりごちる。

 プライスが殺された理由に関しては、いくつか仮説は立てられる。しかし、「どこの誰が」やったかということになると、途端にわからなくなる。

 手がかりといえば、プライスの言い残した言葉だ。マーシャの名を口にした理由はなにか。ほかの「蜃気楼」隊員ではなくマーシャの名を呼んだことに、なにか意味はあるのだろうか。しかし、プライスが、マーシャの名前に続いて他の者の名を呼ぼうとした可能性は否定できない。イアンは、意識が朦朧としたプライスの途切れ途切れの言葉から、辛うじてマーシャという単語を聞き取ったに過ぎないのだ。

「ここで考えていても始まらないな」

 マーシャは簡単に身支度をすると部屋を出た。向かったのは、警備部の詰め所だ。

「ふーむ、王国軍の兵士、もしくは元兵士が被害者となった事件ですか」

「はい。詳しい事情は語れぬのですが……」

 マーシャを出迎えたコーネリアスが、顎を撫でながら少し考える素振りを見せる。

「厳密には被害者というわけではありませんが……うちの管轄では一件」

「それは……?」

「一人、二十日ほど前に変死体で見つかっておるのです。ホルバインという男なのですが、

王城第二警護隊所属というから精鋭中の精鋭ですな」

 マーシャの右眉が、ぴくりと動いた。ホルバイン。間違いなく、「蜃気楼」でマーシャの同僚だった男だ。彼は、隊長プライスの副官的立場だった。

「詳しく、お聞かせ願えますか」

「少しお待ち願えますかな」

 応接室を出たコーネリアスは、ややしばらくして調書を手に戻ってきた。 

「ええと……正確には十九日前ですな。朝方、サリー街十三番地の用水路で水死体が発見された、と」

 サリー街といえば、下町にいくつか点在する歓楽街の一つだ。

「前夜、懇意にしていた酒場で一杯やっていたことは確認されています。目立った外傷はなかったので、酒に酔い誤って用水路に転落したというのが妥当なところでしょうな」

「ほかに不審な点はなかったと?」

「一人で呑むことの多い男だったらしいのですが、その晩は珍しく連れがいたという目撃情報があります。時間的に考えて、酒場を出た後のことですな」

 なにぶん夜のことだったので、同行者の人相風体はわからぬという。

 とにかく、ホルバインの死体に争った形跡が見られぬということで、事件は事故として処理されることになった。コーネリアスも謎の同行者の存在が気になってはいたが、警備部には解決すべき事件が山積みになっている。一つの事件に拘泥しているわけにはいかないので、捜査は早々に打ち切られた。

「ほかの管轄の事件となると、調べるのに多少時間がかかるのですが」

「いえ、結構。このような頼みを聞いてくださり、感謝いたします」

「いえ、通り魔の件に酒屋強盗の件と、あなたのおかげで警備部の面子が保たれましたからな。このくらいお安い御用です」

 と、コーネリアスは温厚そうな笑顔を見せた。

 マーシャが桜蓮荘に帰り着くと、そこにはミネルヴァとパメラの姿があった。

「御機嫌よう、ミネルヴァ様。今日は稽古の日ではなかったはずですが」

「あっ、先生。所用で近くに来たものですから、寄らせていただいたのですわ」

「そうでしたか。せっかくですから、稽古をしていきますか?」

「いえ、今日は時間がありませんので……ところで、イアン殿はいらっしゃらないのですか?」

 どこかそわそわした様子のミネルヴァだ。服装も、いつもとは少し違う。白いブラウスに黒の七分丈のスラックスに長靴という、いわゆる女らしい出で立ちでないのはいつも通りだ。しかし、この日のミネルヴァのブラウスは、襟や袖にレースの飾りがついている。そして、ごく薄くではあるが、頬に紅が差してあるのにマーシャは気付いた。

「今日は、お父上の旧友を訪ねているかと。帰りはいつごろになるかわかりませんが、なにか用事があるのならお待ちになりますか?」

「い、いえ、結構ですわ。さ、パメラ、帰りましょう。先生、失礼いたします」

 ミネルヴァは、そそくさと退散してしまった。

(はて、いったいなんだったのだろう……?)

 これほどわかりやすい反応もないのだが、剣一筋に生きてきたマーシャは、いまひとつそのあたりの機微に疎い。マーシャは一人首を傾げるのだった。

 そこへ、二人と入れ替わるように一人の男が桜蓮荘の門をくぐる。

 男は警備部の制服を着ており、制帽を目深にかぶっていた。見覚えのない男であるが――過去に一度同じようなことがあったため、マーシャはすぐに男の正体を見抜く。

「マクガヴァン殿ですか」

「むう、一目でばれてしまうとは今日の変装は今一つだったか。――済まぬが、また内密の話だ。部屋に上がらせてもらうぞ」

 マーシャの部屋にて、二人は向かい合って座る。

「グレンヴィル、こちらにヒューゴ・プライスの息子が滞在しているな」

「はい。では――プライス殿が殺害されたことは?」

「無論承知している。今日はそれに関して忠告しに来た。プライスの息子、あれはひょっとして仇討ちを考えているのではないかね?」

「……そう思われます」

「ならば、即刻諦めさせることだ」

「危険な相手だと?」

 マクガヴァンは黙って頷く。その表情は、マーシャがかつて見たことのないほど厳しい。

 しばしの沈黙のあと、マーシャが口を開いた。

「詳しく、お聞かせ願えませんか。私もかつて数々の極秘任務に携わった身。秘密を漏らすようなことは致しませぬ」

 顎の付け髭をなぞりながら、マクガヴァンが黙考する。

「……わかった。これは、お前にも大きく関わっていることだからな」

「私が?」

「ああ。春の通り魔事件、あの犯人が服用していた麻薬を密売している組織。これが特務の狙いなのだ」

 それはマーシャにとって意外な言葉だった。特務の任務は、あくまで警備部の手が届かない場所の不正を暴くことだ。麻薬密売の摘発というのは、警備部の管轄である。

「普通はそうだろう。しかし――その麻薬が、貴族や高級官僚など、上流階級の者たちの間で蔓延しているとなると、話は別だ」

 マクガヴァンによれば、この麻薬は少し前から上流階級の間で広まっていたらしい。特務もそのことは掴んでいなかったが、マーシャが中毒者の通り魔を捕縛したことがきっかけで、事件の全容が徐々に明らかになっていったのだという。

「幾人かの中毒者を尋問したものの、出所に関しては誤魔化すばかりで頑として口を割らぬ。薬が切れている間は、いかなる医学的手段を用いても服用の痕跡が見つからぬのも厄介だ。我々としては、大本を叩き根本を断ちたいのだが」

 マクガヴァンが渋面を浮かべる。捜査の進捗ははかばかしくないらしい。

 マーシャはふと、前回のマクガヴァンの訪問を思い出す。あのとき、マクガヴァンは密造酒の摘発について尋ねてきた。それが麻薬事件と関係がある――?

「マクガヴァン殿、もしやその麻薬というのは――」

「うむ。その麻薬はキラートと呼ばれていて、もとは一種の薬草酒だ。お前たちが摘発した密造酒、それがキラートだったのだ。当時キラートを密売していた組織の残党から、証言を得ている」

 ならばその組織が今回の事件の黒幕では、というマーシャの問いに対してマクガヴァンは首を横に振る。

「いや、その組織はお前たちの手入れののち、組織間の抗争がきっかけで壊滅寸前に追い込まれた。もう力はない」

 王都レンの裏社会では、いくつかの犯罪組織が存在し、均衡状態にある。ある組織が少しでも弱体化すれば均衡は崩れ、たちまちほかの組織に呑まれてしまうのだ。当時のその組織の生き残りはごく少数の下っ端のみで、マクガヴァンの情報網をもってしても、キラートの出所を突き止めることはできなかった。

「では、別の組織の仕業では?」

「はじめは私もそう考えた。しかし――『蜃気楼』の当時の記録を調べるうち、不審な点が出てきた」

 当時の報告書には、密造酒取引の現場を押さえたこと、密造酒を押収したことまでは記されていた。しかし、その先の記録がすっかり欠けているというのだ。

 麻薬がらみの事件となると、取引現場を押さえ、証拠品を押収しただけでは無論捜査は終わらない。製造元、流通経路まで解明しなければ、根本的な解決にはならないからだ。しかし、報告書にはその肝心の部分が記されていない。

「何者かに報告書が改竄された疑いがある」

「マクガヴァン殿、まさか……『蜃気楼』内部の者が関わっていると?」

「可能性はある。『蜃気楼』関係の文書は、最高級の機密だ。それを閲覧できる人間といえば、特務の長たる私、司法長官と国王陛下くらいのものだ。文書を作成した『蜃気楼』内部のものを除いてはな」

 マーシャは考える。

 上流階級に蔓延する薬草酒を装った麻薬、数年前の密造酒摘発、報告書の改竄――マーシャの頭の中で、歯車がかみ合う音がした。

 国の暗部に関わる人間がキラートに目を付け、犯罪組織が牛耳っていた流通経路を横取りしたうえ、上流階級の者たちに売りさばいている。マクガヴァンの話を総合すると、こういうことだ。

「うむ。まだ仮説の域は出ないがな」

「しかし、マクガヴァン殿。私も元『蜃気楼』です。私がその麻薬密売に関わる側だとはお考えにならなかったのですか?」

「そなたが犯人側ならば、私の命などとっくになくなっているだろう? 大体、中毒者の通り魔を成敗したのはそなたではないか」

「まったく、ごもっとも」

 二人は、同時に相好を崩した。

「そして――そなたも念のため身辺には気をつけることだ」

「と言いますと」

「密造酒摘発作戦の報告書に触れたと思われる者は、すべて死ぬか行方がわからなくなっているのだ。プライスを含めて、な」

 当時の隊員の一人であるホルバインが死体で見つかったことは、コーネリアスから聞いている。ホルバインはまめな男で、どちらかというと筆不精なプライスに代わり書類を執筆することがよくあったため、失われた報告書の内容について知っている可能性があったはずだ。

 そして、ほかにその書類に触れたと思われる人物といえば、当時の指揮官ヘクルートだ。

「ヘクルートには一番に接触を試みたのだが……行方がわかっておらぬ。奴はフェナー街で一人暮らしをしていたのだが、その住まいは酷く荒らされており、室内には夥しい血痕があった。時期としては、プライスが殺された少し前のことになるだろうか」

「では……」

「うむ。正直なところ、ヘクルートの命については楽観視できぬだろう。――実は、例の通り魔事件に関しては、当初さほど重要視しておらなんだ。初動の遅れが影響して、すべてが後手後手に回ってしまった。私がしっかりしておれば、口を封じられた者たちの命も救うことができたろうに」

 マクガヴァンが、深く嘆息した。

「麻薬に限らず、『退廃的な』娯楽に興ずる貴族が後を絶たぬ。高額な金を賭けた賭博、真剣勝負での殺し合いを見世物とするなど、法に触れる場合も少なくないゆえ、特務も捜査の手が足りぬのだ」

「それは、なんとも嘆かわしき事態ですな」

「うむ、まったくだ。……それでは、私はそろそろ失礼する。どんな些細なことでもいいので、なにか思い出したら知らせてくれ」

 マクガヴァンは、マーシャに紙片を渡す。それには、王都レンのとある住所と「雑貨屋ブルックス」という店名が記されていた。

「そこの店主は、私子飼いの情報屋だ。直接連絡をつけるのは極力避けたほうがいいからな」

 そう言い残し、マクガヴァンは去って行った。

 マーシャは部屋に一人、大きくため息を付く。前回のマクガヴァンの訪問時感じた不安は、気のせいではなかったのだ。

 プライスを殺めた犯人は、予想以上に強大な力をもっていることだろう。特務の長としていくつかの超法規的特権を持つマクガヴァンが、あれほど慎重になる相手なのだ。

(せめて、イアンの身だけは絶対に守らねばならない)

 マーシャは決意を新たにした。

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