第10話

 夕闇迫るころ。

 膝丈ほどの雑草が繁る草原で、二人の人間が対峙している。ひとりは、マーシャ・グレンヴィルだ。そしてもうひとりは、若い男であった。歳の頃は、二十を一つ二つ越えたくらいだろうか。背はすらりと高くやや細身。鼻筋が通って均整のとれた精悍な顔立ち。簡素な革の胴鎧と小手以外、防具は身につけていない。マーシャにはまったく見覚えのない男だった。

「なにゆえ、私を狙う」

 マーシャが尋ねる。マーシャは、この見知らぬ男に突如勝負を挑まれたのだ。

 しかし、男は押し黙ったまま口を開かない。代わりに、予備の剣をマーシャに投げて寄越した。帯剣しておらず丸腰であったマーシャに、これを使えということであろう。

「気遣いありがたいが……私はこれで充分」

 と、マーシャは草原に落ちていた棒切れを手に取る。敵が用意した武器など、どのような仕掛けが施されているとも限らぬ。剣士としての本能が、その剣を使うことを拒否した。

 舐められたとでも思ったか、男の眉間に皺が寄る。しかし、マーシャが棒切れを中段に構えると、その表情は一変した。マーシャほどの使い手にかかれば、たかが木の棒とて必殺の武器となる。構えを見て、男もそのことを感じ取ったのだろう。

「さて、どうあっても沈黙を貫くつもりか」

 マーシャの身体から、剣気が噴き出した。しかし男は怯まず、正眼に構えていた剣を上段へ掲げた。まるで、剣をもって語るのみと言っているかのようだ。

 遠くで鴉がひと鳴きすると、これを合図に男が一気に踏み込んだ。

「覚悟!」

 空気を切り裂くような鋭い斬撃である。半身でこれを避けるマーシャに対し、手首を返しての斬り上げた。

(これは、なかなか……)

 基本中の基本ともいえる技であるが、マーシャを内心驚かせるほどの二連撃。男はさらに矢継ぎ早に烈しい追撃をかける。マーシャはひらり、ひらりと風に舞う蝶のようにこれを避けきってみせた。

(強いな。しかし、なぜだ)

 男の腕前に舌を巻きつつも、その剣から殺気を感じないマーシャであった。これがどうにも腑に落ちない。真剣勝負を挑んできた者とは思えぬ。そして、男が使う得物。一見しただけではわかりにくいが、刃引きがしてある。戦いの最中でも、マーシャの眼は誤魔化せない。

 まるでマーシャを値踏みしている――そんな印象を受ける。

(これは、なんとしても私を付け狙った理由を聞かねばならんな)

 怒涛の攻撃を避けると、マーシャは一歩踏み込んだ。手首をしならせ、棒切れを一閃。親指の付け根の辺りをしたたかに打たれ、男は思わず剣を取り落とす。

 マーシャはその剣を地面に着くか着かないかのところで蹴り上げると、右手で掴み取って男の眉間あたりに突きつけた。勝負ありである。

 すると男は突如地面に片膝をつき、

「申し訳ございませぬ! 私の思い違いであったようです」

 と言ってこうべを垂れたのである。

 ――この日、マーシャは珍しく遠出をした。出不精のマーシャとしては珍しいことだ。

 季節は初夏。日ごと気温は高くなる一方で、この日は年一番の陽気であった。

 マーシャも、王都の多くの人々と同じく、うだるような暑さに目を覚ました。

 寝汗でべたつく顔を洗いに井戸のある中庭に出たマーシャが、午前からさんさんと照りつける太陽を見て、どこか涼しいところに行きたいと考えたのも無理からぬことだ。

 そこでマーシャが向かったのが、王都レンのすぐ東を流れるアイーラ川である。アイーラ川は、その更に東を流れる大河・ドゥーネの分流で、王都周辺の生活用水、農業用水確保のために人工的に引かれた川だ。

 草で覆われた堤には季節ごとに野の花が咲き乱れ、川風が心地よい。流量は水門によって管理されているため流れは穏やかで、夏場の子供たちの遊び場にはもってこいだ。王都レンの人々にとっては絶好の行楽地である。

 辻馬車に揺られることややしばらくして、マーシャがアイーラ川に辿り着いたのは昼過ぎのことであった。

 川べりには、マーシャ同様多くの人々が涼を求めて詰め掛けていた。子供らは飛沫を跳ね上げて水遊びを楽しみ、それを見守る大人たちはあるいは読書に勤しんだり、あるいは夫婦の語らいを楽しんだりしている。

 商魂たくましい近場の飲食店は、行楽に来た人々を目当てに屋台を出し、あたりにはさまざまな食べ物のにおいが漂っている。

 川原は、さながら祭りのような賑わいを見せていた。

 マーシャは、屋台で貝の串焼き数本を買い求めた。この串焼きは、レン近海で取れる二枚貝の貝柱を炭火で軽く炙ったものだ。海沿いゆえに魚介類を好む人間が多い王都レンでは非常に人気のある料理で、名物といってもいい。

 あわせて、小瓶に詰められた白ワインを買う。北の山岳地帯から運ばれてきた貴重な氷を使って冷やされたワインは少々割高だが、きりりと冷えて暑い日にはぴったりだ。

 マーシャも書物を取り出すと、川の流れに足を浸し串焼きをつまみつつ存分に読書を楽しむのだった。

 そうこうしているうちに日は傾き始めた。やや肌寒さを感じさせる風が吹きはじめ、行楽客たちはひとり、またひとりと家路についていく。

 マーシャもまた本を閉じると腰を上げた。近場で辻馬車を拾おうと思ったのだが、なにぶん人で賑わう行楽地であるため、なかなか馬車が捕まらない。

 マーシャはその場で馬車を拾うのを諦めた。空きの馬車が見つかるまで歩くことにし、堤沿いの道を行く。いくらもしないうちに、その気配に気付く。道往く人々に紛れ、マーシャを尾行する何者かの気配だ。

(つけ狙われている……しかし、どうするか)

 まさか、この人通りの多い往来で仕掛けてくるとは思えぬ。あえて危険に近づかねばならない法はないし、人ごみに紛れて撒いてしまうのもひとつの手である。

 しかし――この間の通り魔事件のこともある。撒いてしまった場合、マーシャでない別の人間に矛先を向けないとも限らない。

 マーシャはいったん立ち止まると、空を見上げて額の汗を拭うふりをしながら、背後の気配を素早く一瞥した。

 若い男であった。夕日を背負っているため、顔立ちまではわからない。簡素な旅装に剣を佩いている。

 そのまま足を止めたまま男がどう出てくるのかをうかがうことも考えたが、それは止すことにした。この道の先に、人気の少ない原っぱがあるのを思い出したのだ。そこはアイーラ川が大きく曲がった箇所の内側で、川が増水すると容易に水没する場所だ。ここ最近は晴天続きのため地面は乾いているが、普段あまり人は近づかない。そこで迎え撃ってやろうという腹づもりだ。

 マーシャがやや足を早めると、背後の気配もまた足を早める。これはもはや間違えようがない。

 堤を乗り越え、目的の草原に足を踏み入れたマーシャに、とうとう男が声をかけた。

「マーシャ・グレンヴィル殿とお見受けする」

「いかにも。私に何用かな」

 しかし、男は一言発したきり口を開かない。その代わり、腰の剣をすらりと引き抜いた。そして、話ははじめに戻るのである。

 さて、剣を放り出して平伏した男。しきりに謝罪するその声音には誠意がこもっており、マーシャには信頼のおける人物であるように感じられた。しかし、とにかくは事情を聞かねば始まらぬ。

「とりあえず、名を名乗っていただけるかな」

「……私、イアン・プライスと申します」

「プライスと……もしかしてヒューゴ・プライス殿のご血縁か?」

「はい。ヒューゴは、わが父にございます」

 ヒューゴ・プライス。マーシャがかつて秘密部隊「蜃気楼」に所属していたころ、部隊の隊長を務めていた男だ。かつてヒューゴの言葉に大いに助けられたマーシャにとって、恩人と言っていい存在である。

「そのプライス殿のご子息が、なぜ?」

「…………」

 イアンは、躊躇いを見せる。

「事情をお聞かせ願えぬか。いかにプライス殿のご子息とはいえ、突然剣を向けられたとあっては私もこのまま引き下がるわけにはいかぬ」

 強くマーシャが迫ると、イアンはようやく重い口を開いた。

「……二十日ほど前のことです。父が、何者かによって斬殺されたのです」

 「蜃気楼」のれいの不祥事以来会うことはなかったが、プライスに対する感謝の念を忘れたことはない。イアンの告げた事実に、マーシャは大きな衝撃を受けた。

「それは……まことの話か」

 頷くイアンの表情が、暗く沈む。

「……心中お察しする。しかし……何者かに、と言われたな」

「はい。下手人は捕まっておらず、そしてその正体は全くつかめず……」

「プライス……いや失礼、お父上と紛らわしいゆえイアンと呼ばせてもらうが。詳しい話を聞かせてもらいたい」

 イアンはやや口下手なようで、ところどころつかりながらも語りだした。

 プライスは、「蜃気楼」の任を解かれたのち、王国軍を辞し郷里に帰った。

 王都レンの対岸に浮かぶ島・ライサ島の片田舎出身だったプライス。その腕を見込まれ王都の近衛に抜擢されたのであるが、妻は病気がちだった母親の世話をするため郷里に残り、プライスは単身王都に出ることになったという。幼かったイアンは母とともに暮らし、父親と会えるのは年に数回程度だった。

 さて、古い武家であるプライス家だが、数代前の某による放蕩が原因で、ろくな財産が残っていなかったとか。プライスは王国軍時代の蓄えでもって年老いた遠縁が営んでいた金物屋を買い取り、そのあるじとして暮らすことになった。慣れない客商売に四苦八苦しながらも、

「せわしない王都で暮らすより、こうして金物屋のおやじとしてお前たちと暮らすほうがよほど性に合ってるようだ」

 常々そう言っていたという。

 そして時は流れ、

「十日前のことです。私は母とともに、母方の祖母のもとに見舞いに行っておりました。家に戻ったのは、ちょうど日没ごろだったでしょうか。家に近づくとなにやら大きな物音が聞こえたため、慌てて駆け寄ると三人の男が飛び出してくるのが見えました。男たちを追うことも考えましたが、まずは家の様子を見ようと考え――」

 家のドアをくぐったイアンが見たのは、血まみれになって倒れる父の姿だったという。

 辛うじて息はあったものの、背中を大きく裂かれ、一目でそれとわかる致命傷だった。そしてプライスは、いまわの際に途切れ途切れの声で何かを伝えようとした。

「イアン……王都、の、……ま、ま……マーシャ……」

「父さん、いま何と? それはもしや犯人の名ですか?」

 しかし、言葉はそれ以上聞き取ることができず、プライスは事切れてしまった。

「マーシャ・グレンヴィルの名は、父から幾度となく聞かされていました。曰く、王国最強の剣士だと」

「それはいささか褒めすぎかな」

「いえ、先ほどの立ち合いで、父の言葉がまことであると悟りました。手も足も出ぬとはあのことでありましょう」

 イアンは真剣に語る。顔立ちはまったく似ていないが、マーシャはその真摯な瞳にどことなく父と通じるものを感じた。わずかに口の端を上げつつも先を促す。

「はい。身内のことではありますが、あの父がそこらの強盗などに易々とやられるとは思えませぬ」

 それに関しては、マーシャも同感であった。「蜃気楼」時代は隊長という立場ゆえに最前線で戦う機会は少なかったが、その実力は折り紙つきである。たとえ数年の間に多少衰えたとしても、たとえ無手であったとしても、並の人間が数人程度で到底敵う相手ではない。

「しかし、父が語ったグレンヴィル殿の実力ならばもしや、と。いまわの際の言葉もありますし。それと……背中の傷というのが」

 プライスほどの実力者が背中に傷を負う理由――顔見知りによる騙し討ちが考えられる。

「それで私が疑われた、と。合点はいきました」

「そういうわけで、失礼ながら試すような真似をさせていただいたのです。しかし、それは誤りであることがわかりました」

「なぜにそう思われた?」

「剣は嘘をつきませぬ」

「いや、剣ではなく木の棒だったのだが……」

「剣であろうと棒であろうと、あなたが暗殺まがいの行為をするような人でないことは、実際相対してみてわかりました」

 純粋な瞳でイアンが語る。

(なるほど、プライス殿はよいご子息を持たれたな)

 と、マーシャが感心する。

「本当は、正々堂々立会いを申し込むつもりでグレンヴィル殿のお住まいを訪ねたのですが、門前で遊んでいた子らに川原にお出かけという話を聞き……いや、このような辻斬りのような形になってしまい、なんとお詫びすればよいものやら……とにかく、気が逸っていたもので……」

 恐縮しきりといったふうに何度も謝罪するイアンに、マーシャは苦笑する。若者らしい素直さである。

 しかし、やはり気になるのはプライスを殺害した犯人だ。

「しかし、いったい誰が……」

「それなのです。グレンヴィル殿、失礼ですがなにか心当たりはございませぬか。今思えば……あのとき父は、グレンヴィル殿に何か伝えようとしたようにも思えるのです」

「心当たり、ですか」

 あるかと問われれば、ありすぎるほどにある。任務とはいえ、「蜃気楼」は多数の人間を手にかけてきた。マーシャは詳しく知らないことが多かったが、国家の重大な機密に触れることもあっただろう。復讐、制裁、口封じ……プライスが命を狙われる理由は多い。

 しかし、これをイアンに語ることはできない。

「申し訳ないが、なんとも……」

「そうですか……」

 マーシャの言葉に、イアンががっくりと肩を落とす。

「逆に尋ねるが、賊の顔は憶えていないのか」

「なにぶん夕暮れ時でしたので。一人だけはっきりと顔が見えたのですが――ただなんと申しますか、本当にどこにでもいるような中年男、という風情で。手配用の人相書きを作るから協力してくれ、と言われたときも苦労しました」

 ごく普通の特徴のない犯人、というのは犯罪捜査ではやっかいなものだ。

「正直、あの人相書きで犯人が捕まるとは思えません。しかし、もし今一度あの賊の顔を目にすることがあれば、見間違うことはないと断言できるのですが」

「ことの顛末はおおむねわかった。それでイアン、これからどうするつもりか」

「はい。なんとしても、父の仇を討ってやりたいと思いますが……唯一の手がかりは途切れてしまいました」

 そう言うイアンの表情は、実に無念そうだ。そしてマーシャには、彼の瞳の奥にどす黒い感情が渦巻いているのが見えた。

 マーシャは、しばし黙考する。

 父の仇を討ちたいというイアンの気持ちは痛いほどにわかる。が――もしこれが「蜃気楼」がらみの事件の場合、深入りは危険だ。

 また、シーラント王国では仇討ちは一種の美徳と捉えられる風潮があるが、法で認められているわけではない。そして、相手が殺人犯だとて、一般人がそれを殺害することもまた犯罪だ。

 双方が合意さえすれば決闘という形で合法的に仇を討つことも不可能ではないが、殺人者が正々堂々の決闘に応じるはずもない。

 マーシャが先ごろ通り魔に対してやったように、痛めつけて官憲に突き出す程度に収めるのならば御目こぼしもあろうが、殺してしまえば罪に問われることになる。

 イアンの場合、事情が事情だけにさほど重い罪には問われぬ可能性が高いが、それでも前科というのはどこまでも付いて回る。

 イアンが誠実な男であることはこれまでの会話で充分にわかったし、剣の腕もよい。この好ましい若者が仇討ちのために将来を棒に振るようなことになれば、死んだプライスも浮かばれぬだろう。マーシャはそんなことを考えた。

「イアン。ひとつ提案があるのだが……しばらく王都に滞在されてはいかがか」

「……それはなぜゆえに?」

「王都には、プライス殿の王国軍時代の知己が多数いる。彼らに協力を求めるのもひとつの手だろう。それと――そなたの剣は非常に優れているが、未完成だ」

「グレンヴィル殿……?」

「ああ。現役を退いて久しいこの身なれど、私にもまだ教えられることはあるだろう。いかがかな」

 マーシャがこのような提案をしたのは、剣に打ち込むことで少しでもイアンの復讐心を発散させられれば、というのがひとつ。そして、この青年が復讐を諦めぬというのであっても、自分の目の届くところに置いておけば、その身を守るのに都合がいい。そう考えたのだ。

「かのマーシャ・グレンヴィルにご教授いただけるなら、これは願ってもないこと。しかし、正直なところ……そう長く滞在するほどの持ち合わせが……」

「心配ない。『うち』に空き部屋がある。なに、家賃など取らぬから安心するがいい」

「いやしかし、そこまでご厚意にあやかるわけには……」

 なおも遠慮するイアンである。こういう奥ゆかしさも、マーシャには好ましく思える。

「私は、かつてプライス殿に大変お世話になった。その恩は、この程度ではとても返しきれぬよ。だから、遠慮は要らないのだ」

「……わかりました。それでは、しばらくご厄介になりますゆえ、このとおりよろしくお願いいたします」

 と、イアンは深々と頭を下げるのだった。

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