二十三話 闇に呑まれていた

 オレは、逃げ出していた。

 今見た光景が現実と思いたくなくて。

 衝動に突き動かされたまま、夜道を当てもなく走り続ける。


 確かめることなんで出来なかった。


 怖い。

 真実を知るのが。


 怖くて怖くて、どうしようもない。


 南の告白を受け、晴翔は微笑んでいた。


 多分、それは肯定のサイン。


 家を出たときの浮ついた気持ちなんて消し飛んでいた。

 いや、それどころか根底から覆されたような気分。


 だって、オレが女の子であることを受け入れられたのは晴翔のおかげ。

 前を向いて頑張ることが出来たのも、同じ。

 あいつに振り向いてほしい。


 その一念でやって来たっていうのに。


 足がもつれ、転びそうになるのを寸でのところで堪えた。

 だけど、そのまま膝をつく。


 駄目だ。

 力が入らない。

 泥濘とした恐怖が塊となり、オレの胸にずきずきと刺すような痛みを与えてくる。

 ……オレがここ数日、必死で詰み固めたはずの決意。でもそれは、あやふやな土台の上にしか成り立っていなかった。

 あの光景を見た途端、滑稽なほど空虚な音を立てて崩れ落ちていた。


 敵いっこない。


 昔、好きだったからこそわかる。

 南は健気で、可愛らしくて――とても目障りな女の子。


 対して、オレは晴翔にまだ女の子だって思われていない。

 完全な恋愛対象外なんだ。

 だから、平然と元の姿に戻したいなんてあいつは言える。


 オレが男だったこと。

 おかしなことに、晴翔だけが唯一その事実を詳細に覚えている。

 でも、だからこそ好きになった。


 奇妙な、パラドックス。


 だけど、そのせいで一生オレのことを女の子として見てくれないんじゃないか。

 ずっとそんな不安を抱えて――目を背けてきた。


「大丈夫だよ、お姉ちゃんは素敵な女の子なんだから」


 以前の星子の言葉で勇気が湧いたのは、オレがもっとも求めていた言葉だったから。


 でも、もう駄目だ。

 全部、手遅れになってしまった。





 ……気が付くと、オレがいたのは町外れの河原。

 無意識のうちに歩き続けていたんだろうか。

 気分を落ち着けようと、座り込む。


 いつの間にか、辺りは随分と薄暗くなっていて、オレ以外に誰もいない。

 ただ、静か。

 まるで、世界に自分一人が取り残されたかのような錯覚に陥って、背筋にぞわりとしたものが走る。


 不安を押し殺すように、まだ星も出てない空を見上げる。

 すると、またも一陣の夜風が吹き、手にしていた買い物メモが宙を舞った。


 慌てて取ろうとするも、オレの身体は思ったように動いてくれなかった。

 そのままメモは水面へとひらり。


 ……屈んで手を伸ばせば届く距離。

 オレはメモを回収しようと這いつくばり――仄暗い水面に映る自分と目があった。

 無意識のうちに泣いてしまっていたらしい。

 腫れぼったい瞼の下の、虚ろな瞳。


 こんな顔で帰ったら、母さんに心配されてしまうに違いない。

 星子は、お腹を空かせて文句を言ってくるだろう。

 父さんは多分俺たちのため残業中。まだまだ帰ってなさそうな気がする。


 そして――


「……晴翔は今何しているのかなあ」


 さっきの姿を見ても、頭の中に浮かぶのはあいつのこと。

 誰にでもなく呟いた――はずだった。


『――知りたいなら、教えてあげようか?』

「だ、誰だ……?」


 頭の中に響く声。

 何処か聞き覚えのある――少女のものだった。


 困惑して、ばっと顔を上げる。

 周囲を窺うのだけど、誰の姿もない。

 だというのに、嘲笑混じりの声は止まらなかった。


『二人は恋人同士になったんだ。手を繋いだりなんかして……もしかしたら、もうキスなんてしているかもしれないね』

「――違う!」


 否定の言葉がついて出る。

 何の根拠もない。

 完全な、願望。


 だけど、声は止まない。

 むしろ気をよくしたように、朗々と語り続けた。


『今頃、話しているんだろうねえ。あの女・・・に付き纏われて迷惑だったって。一々名前を呼んでやるのも。ご機嫌取りのために出かけるのも。不味い弁当を無理して食べるままごと遊びも』

「あいつが……あいつがそんなこと言うわけない。だって、それでも晴翔はオレを親友だって思ってくれてるんだ」


 オレは必死に反論。

 いや、反論なんかじゃない。自分に言い聞かせるための言葉。

 何故なら、まるで脳みそに直接送り込まれている・・・・・・・・・・かのように、晴翔が悪態をつくさまが詳細に想像できてしまって、心が抉られるような痛みを感じていたから。


『君はわかっていないよ。晴翔君は優しいんだ。哀れな捨て犬に妙に懐かれてしまった。他のやつは面倒なんてみてくれない。だから言い出せなかっただけ。だってそうだろう? 誰が好き好んで、こんな偏屈な男女に構ってくれるっていうんだ』


 言葉のナイフに怯え逃げまどう。

 耳を押さえ体を亀のようにして縮ませるけど、攻撃が止むことはなかった。

 そんなオレの姿に満足するかのように、女はくつくつと笑う。


「お前にオレとあいつの、何がわかるっていうんだよ!」


 その間に絶叫する。

 次に何を言われるかわからなくて、ただただ怖い。

 大声で威圧することで、相手の声を打ち消したかったから。


『いや。僕は彼のことをよくわかってる。君と同じぐらいにね』


 だけど、女はそんなオレへとせせら笑い。


 まるで、無知な子供を見下すように。


 現実を直視できない弱者を侮蔑するように。


 彼女は真実(・・)を紡いでいく。


 水鏡の中のオレが、笑みを湛えたまま自分を指さしていた。


『だって、僕は君なんだから。――臆病で、卑怯で、依存したがりの僕』

「……っ」

『知ってるよ。今は、南ちゃんのことが大嫌いだって。僕がこんなに苦しんだのに、何も知らず平和に日常を暮らしてる彼女が憎くて憎くて仕方がないって。自分から進んで身代わりになった癖にね』

「うるさいっ!」


 事実だった。

 彼女を見るたび、心の中に苦々しいものを感じる。だから、ずっと避け続けていた。


 オレは、あいつのために命を懸けて戦った。

 どれだけ辛くても、笑顔を守りたくて……。そんなかつてのオレに、あいつは力をくれたはずだった。

 心を通わせることが出来た気がして、とても嬉しかったんだ。


 だけど、南は完全に昔のオレのことを忘れてしまっていた。

 何も手を差し伸べてくれなかった。


 いくら助けを求めても、ただ困ったような顔をしてオレのことを「ルナちゃん」と呼び続けるだけ。

 その度、胸の奥にドロドロとした汚い気持ちが湧いた。

 忌々しくてどうしようもない。

 あいつの顔を見るたび、それを苦悶に歪ませてやりたい衝動に駆られていた。


 ……完全な、逆恨みだ。

 最低で、理不尽な、想い。


 自分に自分で反吐が出る。

 なのに感情を制御することが出来ない。


 でも、それだけならよかった。

 この想いに蓋をして、南とは関わらないように生きていけばいいだけだから。


 だけど、結局は不可能だった。


 あいつは、オレから晴翔を奪ったんだ。


 あの日目覚めたオレは、全てを失っていた。

 執拗なまでに塗りつぶされた、過去の記憶。

 オレじゃない誰かを見続ける家族。


 そんなオレに残された唯一の希望。

 それが晴翔だった。


 なのに、あいつは晴翔まで取り上げるっていうのか……?


『君は弱くなった。誰かに依存しなければ自己を保てないなんて。不屈の輝ける魂が今は無残なものさ。怯える幼子に成り果てた。それもこれも、君を盾にし・・・・・、『暗黒の種子』を植え付けたあの男――アムルタートが原因だ」


 陽太(・・)は、嗜めるようにオレに囁いた。


 ――そして、一転して優しく諭し始める。


『いいんだよ。君の気持ちは正当なものだから』


 ぞっとするような猫なで声。

 だけど、オレは否定することが出来ない。


 彼女は、オレの心に直接語りかける。 


 さながらこれは子守唄。

 歪な安らぎがオレを包み込んでいた。


『――憎しみをぶつけよう。それだけの力が、今の君にはあるだろう? 誰も止める者はいない。奪われたなら奪い返せばいいんだ。それは、強者の持つ当然の権利なんだから』


 それは鼓舞であり、呪詛であり、教唆であり――祝福だった。

 本来なら忌避すべきそれが、今だけは耳に心地よくて仕方なかった。


 呼応するように沸々と昏い感情が湧き上がる。

 

 あの時――初めてルナとして目覚めた日、晴翔の声と共に押し込めた筈のものだった。


 心臓が驚くべき速さで脈打ち始める。

 どす黒い感情が、血液と共に体中を這いずり回るように駆け巡る。


 焼けるような熱さと、ひりつくような痛みと、解放される悦び。


 憤怒と、憎悪と、嫉妬。

 それらが綯交ぜになった感情の奔流は、あまりに強大で押し寄せる津波のよう。

 結局、オレは、抗うことが出来ず――。


「晴……翔……」


 伸ばす手は、誰にも届かなかった。





 オレは、闇夜の廃工場に佇んでいた。

 なんでこんなところにいるんだっけ……?


 意識がぼんやりとしてはっきりしない。

 だけど、やけに昂ぶるものを感じる。

 体中が熱を持って火照っていた。


 確か、オレは買い物に出かけて――。


 そうだ。

 オレが見たのは一つの光景。


 赤石南。

 やつが、オレから晴翔を奪おうとする瞬間だ。


 それだけ思い出せれば十分。

 ようやく思考が定まってくる。


 オレから彼を奪おうとする人間は、誰であろうと殺す。

 家族だろうが、友達だろうが関係ない。

 あいつらは、オレが苦しんでいても何もしてくれなかった。


 もし晴翔がオレから離れようとするなら――そんなことありえないけど――足の腱を切って逃げられないようにしてあげる。

 それでも嫌だというなら、剣を突き立てることで標本のようにしてしまおう。

 あいつの、首から上があればいい。

 それだけで、オレはあいつを愛でることが出来る。


 誰も邪魔できず、咎められない。

 それだけの力が今のオレにはあるのだから。


「あははっ!」


 充足感が溢れてきて、思わず口元が弧を描く。

 鏡映しの廃工場に、オレの笑い声だけが妖しく響き続けていた。

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