閑話 風邪を引いていた

 ――風邪、か。


 すでに三回目となるジェットコースターの列に並びながら、晴翔に言われた言葉を回想する。

 あいつはオレが顔を赤らめるたび言うけど、本気でそう思ってるんだろうか。


 ――恋の病。


 そんなワードが頭の中に湧いてきて、思わず俯いてしまう。

 な、なんだそりゃ。

 星子に読まされた漫画の影響だろうか。


 乙女チックにもほどがある。

 自分でも顔全体がカッとなるのがわかった。

 多分、第三者から見れば真っ赤になってる。


 そういえば、一度だけ晴翔が病欠したときがあったなあ。





 僕と義弘君が訪れたのは――こういっちゃなんだけど、未だに無事に建っているのが奇跡なほど老朽化した廃屋――じゃなくてお家だった。


「ここで、あってんだよな?」

「そう思うけど……」


 思わず不安になり、先生から貰った住所をスマホのアプリに打ち直す。

 うん、間違いない。

 ここが晴翔君の家。


 僕たち二人は欠席した彼のお見舞いにやって来たのだ。


 ――ぼそぼそと、話し声が聞こえた。

 男性のものと、続けて女性。


 晴翔君の家族だろうか。

 でも、確か彼に家族はいないって聞いていたけど……。


「ごめんくださーい」


 期待はしていなかったけど、この家に呼び鈴はついていなかった。

 出来る限りの大声を出す。

 もし眠っていたら悪いのは承知の上。メールを送っても返事がなかったので、一応の礼儀だ。


 ――ガタガタガタッ!


 と慌てふためくような物音が聞こえて、止んだ。

 僕は義弘君と顔を見合わせる。


「な、何の音だろう」

「泥棒とか……いや、こんなボロ屋にわざわざ入るのか?」

「……急ごう」


 不安が拭い去れなくて、僕たちは彼の家へと足を踏み入れた。





「陽太に萩野か……どうした?」

「お見舞いに行くってメールはしたんだけど。見てない?」


 晴翔君は四畳半の部屋に布団を敷き、そこで横になっていた。

 顔は真っ赤。聞けば熱を測ってすらいないのだという。


「先ほどまで寝ていたんだが……起こされてな」

「え、誰に?」


 一人暮らしのはずなのに。

 もしかしたら僕たちの呼びかけのせいだろうか。

 晴翔君は失言とばかりに唇を噛んでいた。


「いや……ネズミだ。この家に住みついてて、困る」

「げぇっ! いや、如何にもな雰囲気だけどよ。もしかしてさっきの物音もそれか?」

「多分、そうだろう」


 こくりと頷く晴翔君を見て、心底不快そうな義弘君。

 彼はネズミとかゴキブリとか、そういうのが大嫌い。まあ、ハムスターみたいな小動物なら兎も角、好む人も少ないと思うけど。

 ……さっきの話し声も、聞き間違いだったのかもしれない。

 テレビの音とか……。でも、見た限りこの部屋にそんなものはない。


「それで、お見舞いとはなんだ?」

「えっと……病気の回復を手伝うことかな?」

「晴翔、お前してもらったことないのか? 寂しい奴だなあ」


 義弘君の足を、晴翔君に見えないようさりげなくぴしゃりと叩く。

 流石に言っていいことと悪いことがある。晴翔君は両親と死別しているのだから。


「あ、悪い……つい、忘れちまってよ」

「いや、気にするな。……ただ俺の鍛え方が足りないだけだ」

「そういう問題じゃないと思うんだけど……」


 テーブルの上にはカップラーメンの容器と幾つかのサプリが置かれているだけ。

 これじゃ栄養なんて取れるわけもなく、体調を壊すのは必然だ。


 ……でも、一つだけ違うものがあった。

 スーパーの袋に包まれた何か。


「これ、開けていいかな?」

「ん、ああ。構わない」


 中にあったのは、桃缶だった。

 病気の子供に食べさせる定番の一つ。でも、封は切られておらず、このままじゃ手の出しようがない。


「晴翔君、これ食べる?」

「……貰ったのはいいが、うちに缶切りはない」

「あー」


 僕と義弘君は、どこか納得してしまう。

 なんというか、晴翔君の家は何処か空虚だ。

 老朽化してるとかは関係ない。ただ食べて寝る場所、そんな雰囲気に溢れている。


 誰から貰ったのは気にかかるけど、多分ご近所づきあいだろう。


「あ、そうだ。アイス買ってきたんだよ。食べる?」

「もし今食わねえなら冷蔵庫に入れとくけど」


 危うく忘れてしまうところだった。

 学校帰りにコンビニで購入しておいたのだ。ひんやりとしたこれなら、食欲がなくても喉を通るはず。


「冷蔵庫もないな」

「おいおい……」


 これには義弘君もあきれ顔。

 僕も、よく生活できるものだと感心してしまう。


「溶ける前に食べよう!」

「おう!」


 コンビニからこの家までは少し距離がある。

 肌寒くなった季節とはいえ、随分溶けかかってきている。


 袋から急いで取り出す僕たちを見て、晴翔君はキョトンとした表情。


「何を急いでるんだ?」

「アイスだぞ? 溶けるだろーが」

「……そういうものなのか」


 普通なら不可思議な反応だけど、ここまでくれば察しが付く。

 勿論、彼が熱に浮かされてぼうっとしている可能性を除けばだけど。


「……晴翔君、もしかして、アイスも?」

「初めてだな」


 ――僕と義弘君はお互いに視線を合わせると、はーっっと大きなため息をつくしかなかった。





 晴翔君は、人生初のアイスに感嘆の声を漏らしていた。

 いつの間にか随分と血色も良くなっている。


「……さっきまで三十八度近くあったのに」

「ば、化け物か?」


 こんなこともあろうかと――彼の家にはそれすらなかった――持参した体温計を使ってみれば、すでに平熱の域。

 二人して驚愕していると


「このぐらいまでならなんともない」

「いやいや、ありえねーから!」

「看病する人がいなければ死んでてもおかしくないよ!?」


 なんてこともないように言う晴翔君にツッコミを入れるしかない。

 ただの風邪と侮るなかれ。

 高熱の前には下手をすれば命を落としかねないのだから。


「明日には登校できそうだな」

「だからって無茶すんなよ。ぶり返してもしらねえぞ」


 身体の調子を確かめるような彼を義弘君が嗜めた。

 意外と面倒見がいいことを僕は知っている。

 晴翔君も異論はないようで神妙にうなずいて同意する。


「そろそろ、お暇しようかな。あんまり長居してもあれだし」


 時計を確認すればすでに六時を過ぎていた。

 授業が六限まであったから来るのも遅かったけど、結構な時間いたことになる。

 回復の傾向にあるとはいえ、病人に負担をかけるのはよろしくないはず。


「お前がいないとつまんねえからな。出来るだけ早くこいよ?」

「うん、無理せずにね。晴翔君もクラスの一員なんだから」

「……ああ」


 去り際の言葉。

 ――何故だか、僕には晴翔君の横顔が愁いを帯びた物に見えて仕方がなかった。

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