第2話 小早川敦士、入学する 2
再び目を開けたとき、そこは病院だった。ベッドの上に寝かされていたので何事が起こったのかと混乱した。
「あらあなた、動いても大丈夫なんですか」
看護婦に訊かれて自分の頭に包帯が巻いてあるのに気がついた。後ろを触ると大きなたんこぶができている。切ないほど、痛かった。
「いや、君が運ばれてきたときは驚いたよ。たんこぶができているのならもう良いよ。打った部分が部分だからちょっと心配だったんだがね。後頭部はホラ、危険だから。もう行っても構わないよ」
白髭の老医師は私の顔を見て磊落に笑った。丸く突き出た腹が震えるのを眺めながら、慌てて財布を出そうとし、そのまままた卒倒しそうになった。
大事に身につけていた筈の財布がないのだ。
鮮やかに記憶がよみがえる。昨日の晩、矢張り鞄に入れておこうと机の上に置いた。そしてその後財布に触っていない。忘れてきてしまったのだ。馬鹿だ。
「すみません、財布を忘れてきてしまって……治療代、少し待っていただけませんか」
「なに、そんなものはいいんだよ。大したこたァない」
「いえっそういうわけにはいきません。後で絶対払いに来ますから」
いらぬと言い張る医者に無理矢理納得してもらうため問答無用で頭を下げた。この人は鬼堂院生にはきわめて親切だと評判の医者だった。そのまま鉄砲玉のように病院を飛び出していき、鉄砲玉は百八十度方向を変えて舞い戻った。
「すみません僕の荷物、それと道教えてもらえませんか」
老医師は申し訳なさそうに、しかし確実に笑みを噛み殺しながら荷物は知らないと言った。私は単体で運び込まれたらしい。文句を言えた義理ではない。それどころか地図まで描いてもらって平身低頭である。
私は走った。なにしろ身軽である。
太陽はすっかりのぼってしまっている。どころか、傾きかけている。
これでは入学式はもう終わってしまっているのではなかろうか。人生最良の日だった筈が、これでは全く逆ではないか。泣きたくなったが、鬼堂院生が道端でしくしく泣いているなんて、さまにならなすぎる。男は泣かないものといわれたことがあるが、それは単なる社会的拘束とか圧力じゃないかと心の中で怒り、哀しみを誤魔化した。
「え、荷物? そんな物あったんですか。いや知りませんよ。もとの場所に置きっぱなしじゃないですか」
車掌さんに軽く言われてしまったが、荷物はなかった。影も形も見あたらないとはまさにこのこと、ベンチの上には木の葉一枚なかったのだ。一応ゴミ箱までのぞいたのだが、ない。
「この辺に泥棒なんかいやしませんよ。もしかしたら誰か学校まで届けてくれたのかもしれませんよ。とりあえず、行ってみたらどうです。警察? あぁ、幼なじみがいるから訊いておいてあげますよ」
私の焦燥に比べ、車掌さんのなんと呑気だったことだろう。間延びした顔でゆったりとそんなことを言われて、火を吹いて駆け回りたかったところだが無理矢理納得されられてしまった。
のどかな土地柄なのだ。
学校までの道を歩いていると、風が吹くたびに桜の花弁が散った。空の青さが今世紀最大の嫌味に思えて仕方がない。すさむ、とは今の状態になんとしっくりくる言葉だろう。
荷物がない―――とはなんて悲しいことだろう。
性格には一つだけ、あった。あの子のリボンである。後生大事にポケットに入れておいた。誰にも彼女のことを訊くのを失念していた。きっと用事があったので行ってしまったのだろう。名前すら知らない。これから先も知る機会はないだろうとため息をついたら宙を漂っていた花弁がひらりと息の上に乗った。
その時さくりと草を踏む音が聞こえて、振り返った。
後ろを歩いてくる男がいた。私と同じで学生服を着ている。あぁ鬼堂院生だと思った。背が高く肩幅があり、威風堂々としている。顔立ちもきりっとしていてぼやけたところがない。落ち着いていて、とても賢明な感じがした。先輩かと思ったが、荷物が多い。持ちきれぬほどの本や服や下着を持ってくるのは、初めて入寮する一年坊だけだ。
「君は一年か?」
男は近づいてくると、私を瞬きもせず見つめて訊いてきた。
「あぁ。君も遅刻かい」
地獄へも道連れがあるだけでこんなに心持ちが違ってくるものだろうか。
「文乙の、小早川敦士っていうんだ。よろしく」
「俺は江坂秀嗣(しゅうじ)。理乙だ」
学校では生徒たちはまず文系理系を選択する。それから甲乙丙に別れる。成績順ではない。甲が英語必修、乙が独逸語必修、丙が仏蘭西語必修だ。だが鬼堂院には丙類はおかれていない。
並んで行くことになった。
「君はなんで遅刻したんだ」
沈黙がいやで、尋ねてみた。すると
「従兄弟も鬼堂院に合格したんだ」
「へぇ」
「やつ、だいぶ張りきっていたから、ここらで人生に泥でもかけてやろうと思って色々と罠を仕掛けておいたんだ。だが全部失敗した上にこちらが寝坊してしまった。最悪だ」
冗談だよ、と続けてくれるのを無言で待った。待ち続けた。だってこんなに真面目で賢明そうな男がなぜ罠なのだ。だが、続かなかった。そこで私はまた尋ねてしまった。
「罠というのは一体―――どういった類のものを……」
江坂は目を大きくした。本気にしているのか純朴な奴だななどと言われるかと、身構えてしまった。
「電報を偽造したり靴を隠したり、茶に下剤を仕込んだり、近所の長話の婆さんに朝会うようにし向けたり、新入生代表の挨拶の草稿を巧妙に書き換えたりしてみた」
この男、晴天の下何一つ恥じることはないとばかりに、滔々と低次元な悪戯の数々を並べ立てた。低次元だが引っかかったら本気で腹の立ちそうなものばかりである。
しかしこの憚るものなど何もないような自信はなんなのだろう。からかわれているんだろうか。だがそうは見えない。
「人に言えるのはこのくらいだな。だがあいつはひっかかりもせず俺一人遅刻しているというわけだ。笑えばいい」
くすりともせず言われて笑えるものだろうか。後でやつ信じてたぜと噂されるんじゃないかと心配になって笑うどころではない。繰り返すがこの男、見かけはたいそう良いのである。青年将校の趣がある。
追求はやめておいた。
「でも、その新入生代表って従兄弟君はもしかして」
「あぁ。首席だったらしいな。頭だけは良いから」
凄い。首席なんて本当にあるのだな。あるのは分かっているが。そいつが首なら私は尻尾の先当たりに引っかかっていたのだろうと思う。入学試験の時は胃が痛かったことと、数式に気絶しかかった記憶しか残っていない。乏しい実力の何割がちゃんと稼働したか知れたものではない……というとそれで合格しているのだから、逆に実力者のようだが。
「へぇ、凄いな。鬼堂院で首席だった人は必ず成功するっていうね」
「あれが成功としたら、きっと失敗するほど可愛らしくないせいだ。―――その包帯はどうしたんだ? 荷物もないようだが」
突然矛先を向けられて息を飲んでしまった。
しかし、女の子にいい格好をしようとして転んだとか、荷物はなくなったとか、言えるものではない。情けなさ過ぎるではないか。財布もないし。
「それは……色々あって」
「その制服、少し大きいみたいだな」
「それは……まだ成長が足りずに」
口調が不明瞭にならざるを得ない。堂々と母の経済政策の一環だと返せばよいのだが、私の悪い癖で、一つ言えないと全部言えなくなってしまう。将来、少し金を貸したら次には連帯保証人とか、道でぶつかった女性との浮気疑惑を晴らせないとかいうことになってしまうのではないかと、今から不安である。
お互い黙ったまま学校に到着した。
普通に来ていれば、感動的な光景だっただろう。桜の木の並ぶ道の向こうに鬼堂院高等学校と厳めしい文字の書かれた看板のかかった正門、そして童心一途に憧れた校舎が現実のものとして私を見下ろしている。喜びで胸がいっぱいになり、これからは周りは凄い奴ばかりだから頑張らねばと決意を新たにしたことだろう。気絶なんてせず、ちゃんと入学式に来ていたら。
しみじみと出席したかったと思えてきて、目が潤んできた。折角努力を重ねて入学までこぎつけたというのに。なにが悪かったのだ。あれはただの親切心だった―――助平心では断じてなかった。
「何を泣いているんだ」
「あ、いや」
胡乱な目で見られてしまった。鼻をすする。
通りがかった用務員らしきおじさんが正門から入ってきた私たちを見つけて目をまん丸くした。
「今来たのかい、あんたたち。豪気だねぇ」
「入学式は……」
「そんなもの、とっくに終わったさ。何時だと思ってるんだ、よっぽど遠くから来たのかね」
「いえ、病院から来たんです」
伯父さんは吃驚したようだが、私の額に巻かれた包帯を見て納得した。江坂にもじろじろ見られてしまった。
「もう入寮式も終わったかもしれないなぁ。君たち、寮に入るのかい」
「はい」
そうかとおじさんは目を細めた。寮への近道を教えてもらい、直行した。私の荷物が届いているかどうか訊けば良かったとだいぶ離れてから気がついた。しかし盗まれた次第を同級生の前で喋りたくないという自負心に悶々としてしまう。
鬼堂院高等学校青雲寮と名付けられた建物は、意気ばかりは軒昂であったが、それ以外はいつ腐り落ちるか知れない雰囲気に満ちていた。だがここが三年間(留年しなかったら)、自分の巣となる。感慨たっぷりに見上げた。
ようこそ一年生と、達筆か悪筆か判断しがたい字で書かれた紙が張ってあった。玄関には当然ながら誰もいなかった。
「人の声が聞こえる、こっちだ」
江坂は迷いもなく歩いていく。少し暗い廊下を歩くと板がぎしぎし鳴った。白墨で円が書かれているのが不思議だったのだが、それはこの地点踏み抜かぬよう注意ということだった。
寮には生徒を集めて説明や演説をするための集合室が二つあり、その時は第二集合室が使われていた。巣となる筈の場所だったが、まるで泥棒のように忍び込んでいる心地だった。
廊下の先、人の声の漏れ聞こえる扉に手をかける。かけたのは江坂だった。高ぶっている私の心臓のために数秒待って欲しかったのだが、この男少しの溜めもなく開けてしまった。
舞台の上で照明を浴びるのはこんな感じだろうか。
古びた教壇を叩いて弁舌を振るっていたらしい先輩をはじめ、演説を拝聴していた面々が一斉に私たちを見た。神経を剣山で撫でさすられる心地で、視線の集中砲火を受けた。二年三年も集まっているらしい。壁に立っているいかにも「猛者」という風情の先輩たちがつかつかと近づいてくる。
「お前たち、遅刻かぁーっ。名前を言え!」
肌がびりびりする。胴間声とはまさにこれだった。私が気圧されているうちに
「理科乙類一年、江坂秀嗣です!」
隣で堂々と答えられてしまった。遅れまいと続く。
「ぶ、文科乙類一年、小早川敦士です!」
その時空気がざわりとした。腹に直撃する説教をしようと口をぱかりと開いた先輩が振り向く。
「なんだ」
不審な気配のしたのは一年の席だった。初めて会う同級生たちが、私を見る。それがお化けでも見るような感じだったのだ。この江坂を不審に見るのなら分かるが―――それでもこの男はまだ自己紹介をしたきりだ。私だって同様だ。
「演説の途中なんだぞ、なんなんだ」
一年席で、誰かが立ち上がった。
怜悧な眼差しをしたその男はこちらをちらりと見、口を開いた。
「小早川君と同室の、白鳥優一です。今来た彼は小早川君と名乗っていますが、今僕の隣にいるこの男も小早川敦士というそうです」
室内がしんとした。
脳が弛緩して、彼の言葉の意味を理解するのにかなり時間がかかった。最初は同姓同名の奴がいるのかと思った。それじゃ不便だよななんて気を取り直そうとしても、世界はついてこなかった。
どちらが偽物だ、と騒動が起こった。
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