鬼堂院高校 日常茶番劇

花房牧生

第1話 小早川敦士、入学する 1

 合格したと聞いたとき、故郷の友人たちは皆喜んでくれた。

「すごいじゃないか、おめでとう。えぇと、なんて言ったっけ」

「鬼堂院(きどういん)高等学校」

「そうそう、それだ。すごいよな、おめでとう!」

 友人たちが私に校名を何度も言わせたのは勿論冗談で、彼らもその学校のことはよく知っていた。

 名門で、全国から秀才が集まる学校だと評判だ。わざわざ県外なのに受験をした私は無駄な足労だと言われていたのに、近所でも英才扱いをされることになった。もともと私は目立たず騒がずの子供で、「いるかいないか分からない」という方面の評判しか得たことがなかったのだったが。


 その学校にはいることを目標にしたのは、昔近所にいた、兄のように思っていた人が鬼堂院生だったからだ。制服を着て、背筋をぴんと伸ばした彼が私の頭に手を置いて、

「敦士(あつし)君も、頑張ってうちに来ると良いよ」

と笑ったとき、こんな風に格好良くなりたいと幼な心に思ったのだ。

 その時隣にいた母がホホホうちの子には無理ですよと笑ったのも、私のあるかなしかの闘争心に火をつけたかもしれない。

 それからは努力に努力を重ねた。飛び抜けて頭がいいわけでは決してなかったので、壁の高さに諦めかけたこともある。鬼堂院は英才以外いないような怖ろしいところと言われていたが(近所の兄さんも神童と呼ばれていた。そのせいで彼を新藤さんだと思いこんでいた私は、かなり間抜けだった)、それでも私はこうして今、校章付きの学ランを来ている。

 鏡の前に立ったとき、かなり虫の良いことを考えていたにもかかわらず、そこに映っていたのは近所の兄さんとは少し、いやかなり違っている自分の姿だった。

「あらァ、よく似合っているわ」

と母は両手を合わせたが、

「母さん。これ、変だろう」

と化なりの確信を込めて問うた。睨まずにおれなかったのだが、母は正直にも目をそらした。

「そんなことないわよ。ね、ほらあっちゃんの歳だとすぐに服が小さくなってしまうでしょう。だから少しだけ大きく作っていただいたのよ。大丈夫ですよ、すぐにぴったりになるから」

 語れば語るほどにぼろが出る。そんなことを言いながら新しい和服を着込んでいるような人だ。

 こっちはまるで借り物みたいじゃないかとかなり落胆したが、母相手に服の丈を論じても不毛の極地だ。同じ言葉を繰り返されるだけか、あるいはじゃあ私がなおしてあげましょうと言い出す危険性がある。それこそ最悪の結果になるに違いなかったので、早々に口を閉じることにした。

 そして私は、意気揚々とは言い難く家を出た。

 自宅から通える距離ではないので、合格すれば寮に入ることが予め決まっていたのだ。玄関を出て振り返ると、父と母と妹が並んで立っていて、母が父を押し出した。

「駅まで送るんでしょう」

 しかし前に出てきた父の顔色はおかしかった。額に汗の玉が浮かんでいる。

「すまない敦士、腹が痛くてな……その」

「いいよ父さん。便所に戻って下さい」

「そ、そうか敦士。いや」

と父は私の両肩を凄い力でつかんだ。瞬きもせずに歪んだ顔面を近づけてくると、

「学校生活は色々とあると思うが……先生の仰ることをよく聞いて、」「分かってます」

「控えめにな」

「は?」

 何を控えるのか明言せず、父は回れ右をして中へ駆け込んでいった。派が心底呆れたと言葉を口にする代わりに深くため息をついた。そして私は妹の頭を撫でながら、頑張ってうちに来るといいよと言う相手がいないことに一抹の悲しさを覚えた。

 鬼堂院は男子校なのである。いつまでも手を振る母と妹の声が聞こえなるところまで、無理矢理に足を出した。それからは、初めて家を出る興奮に足が勝手に進んでいった。


 ごく当たり前の田舎町の光景を、見納めだと眺めながら駅まで歩いた。途中友達が手を振りながら現れ、一緒に駅まで歩いた。

「頑張ってこいヨォ!」

と両手を振り回さんばかりの勢いで、私の乗った汽車は送り出された。

 故郷を離れて、未知の場所で三年間(落第しなかったら、だが)勉学に励むことになる。幼い時分からの友人の声が耳から遠くなるにしたがってだんだんと己一人であることが自覚されてきて、鼻の奥がつんとした。

 窓の外を、眺めて何度も鼻から息を吸い込まなかったら、ぽろりと湿っぽいものが出てきたかもしれない。一人だったから、耐えた。

 そして本でも読むか、と鞄を開けて適当に本を取りだした。なんでもいい、文字を追いかけてぬるい思考を忘れたいと思ったのだが、姿を現したその表紙には『桃太郎』と書かれていた。動揺して本を取り落とし、一人物音をたてた私を隣の座席にいた紳士がぎょっとしたように見つめてきた。

 心臓をどきどきさせながら鞄を確かめると、萎びた花と磨かれた石ころと息も絶え絶えなカマドウマ、そして手紙が出てきた。妹だった。一生懸命な文字で「たからものをあげるのでわたしわすれないでください」と書いていた。胸にロウソクが灯ったみたいにしんみりとしたが、しかしカマドウマは全然要らなかった……。(後に妹との手紙のやりとりで「しんちゃんはげんきですか」と訊かれ、まさか途中の駅で解放したとは言い難く、「しんちゃんは辛い学校生活をおくる中で心の支えになっています」と返してしまい、その後のやりとりの苦難の種となった。しかし最後しんちゃんは外国に旅に出たということで円満な解決を迎えた)

 そうこうしているうちに、汽車を乗り換えた。人の少ないのは朝早いからではなく、もともと少ない路線なのだ。だらだらと田舎道が続く。暇そうな車掌の視線を感じて背を伸ばした。

 制服を着ているだけで周りの視線も明らかに質が違うのだ。緊張するが、かなりいい気分だった。なにしろ鬼堂院の校章をつけている。英文も独文もすらすら読め、漢詩など百は暗唱でき、数式など淡雪のように解かしてしまう、そんな自分になった気がする。数日後カントの『純粋理性批判』をのぞいてさっぱり意味が理解できず、自分は馬鹿じゃなかろうかと悩むことになるとも知らずに。

 数時間の旅だった。だんだん増えてきた人をかきわけて、車掌に切符を渡して改札から出た。待合室にも外の道にも同級生はおらず、学生は私一人だった。


 駅から出て、深呼吸した。故郷とは空の色からして違う。空気すら真新しい気がする。視界に入る全てのものが、自分を温かく迎えてくれている。

 遠方から来る生徒への配慮か入学式は昼からで、入寮するのもその後だった。時計を見るとまだいやというほど余裕がある。さっさと学校について所在ない思いをするのがいやだったので、しばらく駅の隅のベンチに落ち着くことにした。

 持たせてもらった卵焼きとおにぎりを食べることにした。両方塩分過多なのも親心であろう。前うちのおかずは辛くはないかと母に異議を申し立てると、「台所で泣いてる私の涙がしみているのでしょう」とかわされた。辛い上に、中身が梅干しなのである。顔を歪めて食べていると、カラカラと扉が開いて、待合室から女の子が出てきた。

 おにぎりを取り落とすところだった。それはもうちらりと見ただけで分かる、美少女だったのだ。葡萄茶の袴姿で颯爽と歩いていく。まだ白百合女子専門学校などという素晴らしいところがこの界隈にあるとは知らなかったので、近所に住んでいる子かなヤッホゥと喜んでいたのである。

 その時桜を散らす風が吹いてその子の長い髪をさらさらと流した。そして結ばれていた青いリボンがこちらに飛んできた。

 慌てて立ち上がった。これぞ僥倖、たとえ財布の中身を全て落として拾っている最中だったとしても、そのリボンを先に拾う覚悟で手を伸ばした。その子より先に、という岩の一念だったのに、彼女は自分のリボンが外れたことも知らずに去っていこうとする。

 荷物をベンチに置き去りにして近づいていった。

「すみません、あの」

 振り向いた彼女は、横顔よりなおかつ美人だった。少し気が強そうな大きな目が私を見る。形の良い眉がひそめられたので、怪しいものではありませんと弁解しそうになった。

「あぁ、それ……」

 声も綺麗だった。

 感動しつつリボンを渡そうと力を抜いたときにまた風が吹いた。また飛んでいってしまう。誤魔化し笑いをしながら、また拾いに行った。

「すみません……あぁっ!」

 彼女のその声と共に私は何かを踏んづけ、ずるりと滑った。身体が一瞬宙に浮いたまま止まったと思う。そのまま仰向けになって、固い地面で後頭部を強打した。多分頭の中で花火が爆発したと思うが―――そのまま意識を失ってしまったので、よく分からない。

 確かなのはそれでもリボンを握りしめていたことだ。


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