第7話 乙女《ヒケティデス》

 現実に戻った統子は、高台の公園から梨花の家へと駆けていた。いますぐにでも梨花と話したかったからだ。

(梨花、お願い……早まったことはしないでいて……!)

 さっきの戦いで、梨花の契約は破棄された。つまり、なかったことにされた颯太の死は、あったことに戻ったのだ。そのことで、梨花が最悪の行動を取ってしまう可能性は低くなかった。少なくとも、統子が梨花の立場だったら、間違いなく最悪の行動を取っている。

(頼む……梨花、頼むから……頼むから自殺なんてしていないで!)

 必死に祈りながら、統子は走る。走りながら、片手に握り締めている携帯で何度も再発信リダイアルしているのだけど、反応はない。

 長い階段を駆け下り、すっかり暗くなった夜道を走って、桜木家の前まで辿り着く。通りに救急車や野次馬が群れをなしていることもない。そのことに少しだけ胸を撫で下ろしつつも、統子は速度を緩めず玄関前へと飛び込み、チャイムを連打する。そんなことに意味がないと思っても、連打せずにいられなかったのだ。

『はい、どちらさまです?』

 チャイム上のスピーカーから、聞き覚えのある声が返ってくる。統子の母親だ。

「おばさん、統子です。梨花はいますか?」

『あら、統子ちゃんだったの。こんな遅くに今どきピンポンダッシュかしら、なんて思っていたら――』

「あのっ、すいません。梨花に話があるんです。なかに入れてもらえますか」

『あら……急用? 待ってて、いま開けるから』

 すぐに玄関ドアの鍵が内側から開けられて、梨花の母親が顔を出す。

「いらっしゃい、統子ちゃん。梨花なら部屋にいるわよ。さっき帰ってきたと思ったら、ただいまも言わずに駆け上がっていっちゃって……学校で何かあったの――」

「すいません」

 と、心配そうに話しかけてくる母親を押し退けるようにして、統子は家のなかに上がり込む。蹴るようにして靴を脱ぎ捨て、階段を駆け上がる。子供の頃から遊びに来ていた桜木家の間取りは、記憶のなかに染みついている。

「あっ、統子ちゃん?」

 統子の剣幕を不審に思ったのか、梨花の母親も後を追って階段を上る。統子はそのときもう、梨花の部屋の扉を開けていた。

「あ……ぁ……」

 統子は扉を開けた姿勢のまま、戸口に呆然と突っ立っていた。室内を凝視する目は丸く見開かれ、引き攣った唇は掠れた呻きを漏すばかりだ。

 その姿に、母親の顔にも不安の色が広がっていく。

「統子ちゃん……?」

 声をかけても、統子はぴくりとも反応しない。母親は堪らず、統子と並ぶようにして梨花の部屋のなかを覗き込んだ。

「あ……あっ、あ、ああああぁ!!」

 母親の絶叫がこだました。

 梨花は、血塗れの部屋のなかで首を切って死んでいた。右手には、血でべったりと濡れた裁ち鋏が握られていた。


 ●


 統子は不思議な部屋のなかに立っていた。

 壁紙、床、天井の全てが白黒の市松模様で覆われていて、室内をぐるりと見渡しているうちに遠近感が遠ざかっていき、目眩がしてきた。

「この部屋は……あっ、いえ、それよりも――」

「どうしてこんなところにいるのか、って?」

 統子の疑問に先回りして答えた声は、レアのものだった。統子がはっとして振り向くと、さっきまで何もなかった部屋の中央に真っ白な椅子と真っ黒な丸テーブルが置かれていて、白いブラウスに黒いタイトスカートという姿のレアが、小さなティーカップで紅茶を飲んでいた。

「ここはまあ、臨時の茶室っていうところね。トーコちゃんとお話ししたくって、急拵えで作ってみたの。あ、トーコちゃんもお茶、飲む?」

「……」

「そんなことより早く話せ、って顔ね。あっ、うん。その通り。話というのは、ついさっき自殺しちゃったリカちゃんについてよ」

「梨花は死んでない!」

「なぁに言ってるのよ。トーコちゃんもいま見たでしょ。リカちゃんが裁縫用のおっきな鋏で自分の首をちょん切って死んでたところを、さぁ」

「うぅ……!」

「そんなに自分を責めること、ないと思うわ。そもそも、リカちゃんが契約者になったのも、リカちゃんがソータくんをどーんってしたのが原因なんだし」

「そんなことは聞いていない!」

 統子は怒声を張り上げ、レアに射殺さんばかりに睨みつける。

「おまえなら、梨花を生き返らせることだってできるんだろ? そうじゃなかったら、わたしをこんなところに呼んだりはしないはずだ!」

「トーコちゃんは話が早くて助かるわぁ」

 レアは満足そうに笑って紅茶を飲み干すと、空になったティーカップを床に落とした。

 がしゃんと乾いた音を立てて、割れるカップ。無意識にそこへ視線を落とした統子に、レアは悪戯っぽく笑いかける。

「確かにあたしなら、リカちゃんの死をもう一度なかったことにするくらい、朝飯前よ。割れたカップを元に戻すことより簡単だわ」

 統子が目を上げると、レアはいま割れたはずのティーカップの持ち手を指に引っかけて、くるくるとまわしていた。

 驚きに眉を揺らした統子へ、レアはにんまりと唇を歪める。

「原則、一人の人間が契約できるのは一度の喪失についてのみなんだけど……十ポイント獲得の権利を手放すのと引き替えに、再契約を認めてあげる」

「本当か!?」

「わざわざ嘘を吐いてどうするのよ。ああでも、原則外のことだし、リカちゃんも契約者だったわけだし、今度はなかったことにする前の記憶が残っちゃうかもしれないけれど……んまぁ、そのくらいはご愛敬よね」

「何でも構わない。梨花が生き返ってくれるなら」

「だから、前も言ったと思うんだけど、生き返るっていうのとは微妙に違うのよね……って、まあ、そんなことどうでもいいか」

「どうでもいいわ」

「んまっ、はっきり言うのね。嫌いじゃないわ、トーコちゃんのそういうとこ」

 レアがくすりと笑った。その背後で、白黒モザイク模様の部屋が急速にぼやけていく。思わず瞬きをした統子が目を開けると、そこは現実の光景だった。統子は、梨花の部屋の戸口で立ち尽くしていた。

 室内には、梨花が呆然とした顔で座り込んでいた。

「あれ……? わたし……生きてる?」

 その呟きは、梨花に自殺の記憶があることを物語っていた。部屋中を真っ赤に染めていた血は跡形もなくなっていたけれど、さっき見た梨花の死体が夢でも幻でもないということを、統子に伝えていた。

「どうしたの、統子ちゃん?」

 少し遅れてやってきた梨花の母親が、怪訝そうな顔をしながら、統子の横から部屋のなかを覗き込む。

 今度は叫ばなかったけれど、代わりに、怪訝そうに寄せていた眉をさらにきつく寄せる。

「梨花……あんた、そんなとこで何やってるの? その鋏、なんなの?」

 その言葉につられて、梨花の目は自分の右手に下ろされる。その手に握られているのは、自殺するのに使った裁ち鋏だ。

 自分が鋏を持っていることに気づいてからは早かった。

 梨花は祈りを捧げるような手つきで顎を持ち上げ、晒された喉首に裁ち鋏の大きくて鋭利な刃を押し当てた。

「梨花!?」

 母親が大きな声を上げて、いまにも喉を掻っ切ろうとする娘に飛びかかろうとする。しかし、統子が腕を伸ばしてそれを制した。

「退いて!」

 金切り声で叫ぶ母親を制したまま、統子は首を振る。

「大丈夫です。梨花はもう死ぬほどの痛みを知っている。二度は死ねません」

 淡々と告げられた統子の言葉を肯定するように、鋏を握る手がだらんと落ちた。首筋には赤い筋がついただけだった。

 血が一滴流れた程度の傷でも、母親にはとっては大事だったようだ。

「梨花! あんたって子は!!」

 怒鳴りながら梨花へと駆け寄る。今度は統子も邪魔しなかった。

 梨花の手から裁ち鋏を奪った母親は、勢い余ったという感じで梨花の頬を平手打ちして、それから頭を胸に抱え込むと、目にいっぱいの涙を溜めながら、お説教だか甘やかしだか分からないことを捲し立てる。

 梨花はどの行為にも反応せず、涙すら零さずに呆然としていた。乾ききった瞳はどこにも焦点を合わせず虚ろに彷徨っていたが、ふとした拍子にその目が統子を見つける。

 部屋の床にへたり込んでいる梨花と、戸口に立って見下ろしている統子。

 二人とも何も言わない。母親だけが延々と声を張り上げているなか、二人はいつまでも見つめ合っていた。


 ●


 古郡家で執り行われた颯大の通夜には、クラスメイトや部活の仲間、中学時代の友人などが大勢集まった。

 颯大の死は、事故死ということで誰もが納得している。体育館裏にいた理由については色々と憶測が飛び交ったけれど、死亡していた現場に事件性が認められなかったことから、事故死ということで片付けられたのだった。颯大が他人から恨まれるような人物でなかったことも、その結論に誰も異を唱えなかったことの一因だった。

 幼馴染みである統子と梨花は、通夜の後、告別式にも参列した。式の間中、梨花はずっと統子の手を握っていた。

 その姿は、傍目から見れば、幼馴染みの突然の死に打ちひしがれている少女と、彼女を元気づけるため気丈に振る舞っている少女――そんなふうに見えていたかもしれない。

 颯大が事故死した日の夜を境に、梨花は統子に甘えるようになった。それまでも一緒に学校へ行ったり、昼食を食べたりしていたけれど、それまでとはある一点が決定的に違っていた。

 梨花は統子に媚びるようになっていた。手を握ったり、身体を押しつけたり、濡れた目つきで見上げたり……けして女が女に向けるのではない表情、仕草で、統子の歓心を買おうとするようになっていた。

 そして、およそ一日に一度の頻度で開戦の鐘が鳴る。

 統子が暗転都市での戦いを生き延びて戻ってくると、梨花が青ざめた顔で抱きついてくる。その度に、統子は梨花を抱き締めて、梨花が落ち着くまであやすのだ。

「大丈夫、勝ったよ。梨花は死んでいないし、これからも死なない。大丈夫、大丈夫」

 その日も、統子はベッドのなかで震える梨花の肢体を抱き締めて、白くなった素肌へ自分の温もりを移すように何度も何度も口づけるのだった。

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カゲノマキア 雨夜 @stayblue

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