第5話 被契約者《バシリス》

「統子ちゃん、昨日はどうしてちゃんと行かなかったの!?」

 朝、いつものように桜木家まで梨花を迎えに行った統子は、梨花の怒声に出迎えられた。

「ごめん。昨日は急に体調が悪くなって……」

「体調が悪くなって朝まで寝込んでいたから、わたしのメールにも電話にも気がつかなかった、というわけなのよね」

「……ごめん、梨花」

 統子はしゅんと項垂れながら謝った。

 おそらく梨花は、颯太と連絡を取って、統子が昨日、待ち合わせの体育館裏に来なかったことを聞いたのだ。そして、そのことを問い質すつもりで、夕方から夜半にかけて、統子の携帯に何度も連絡を入れてきていたのだ。夕方前に帰宅してから今朝早くまで滾々と眠りこけていた統子が、山ほど入っていた着信に気がついたのは、つい三十分ほど前だ。ともかく朝の準備を終えて家を出たあと、歩きながら、どう返事をしたものか……と思っているうちに桜木家へ到着して、玄関まで出てきた梨花に怒鳴られた、という次第だった。

「どういうことなのか、説明してもらいましょうか」

「でも、学校が……」

「歩きながら話せばいいでしょ」

「……うん」

 梨花の顔は本気で怒っていて、とても言い逃れはできそうになかった。と言っても、統子にできる説明は今し方の一言に尽きるのだ。

「放課後、体育館の裏にちゃんと行こうと思ったんだけど、その途中で急に体調が悪くなってしまったの」

「だから、わたしがせっかくセッティングした約束をすっぽかして、さっさと帰ってぐーすか寝ていたっていうのね」

「で、でも、あいつにはちゃんと、もう話しかけるな、ってメールしたから……」

「メールで言ったくらいじゃ本気かどうか伝わらないから、直接言うように仕向けたんじゃない!」

 梨花は烈火の形相で言い立ててくる。仕向けた、という言いまわしに引っかかりを覚えたものの、統子は、

(ここはとにかく謝っておこう)

 と、彼女を宥める彼氏のごとく、ひたすら平身低頭に徹することにした。

「ごめん。本当にごめん。梨花がせっかく骨を折ってくれたのに、すっぽかすようなことになっちゃって……本当、本当にごめん!」

 だが、梨花の怒りは統子が思っている以上に深いもののようだった。

「統子ちゃんは颯太くんとの約束を破っただけじゃない。わたしとの約束も破ったことになるんだよ。一度に二人分の約束を破ったんだよ、二倍酷いことしたんだよ。そのこと、本当に分かっていて反省してるの? 適当に謝ればいいやって思っているんじゃないの?」

「そんなこと!」

「思ってないって? 本当に?」

「本当に!」

「……まあ、信じてあげる。でもその代わり、」

 梨花は爪先立ちして、統子に顔をずいっと近づける。

「その代わり……?」

 聞き返した統子に、梨花は二つの瞳以外で笑って言った。

「今日こそ颯太くんに会って、直接振ること。いいね?」

「……うん」

 梨花の剣幕に圧されて、統子はしぶしぶながら頷いた。

 告白されてもいないのに振るというのは気が早すぎないか、と思いはするものの、

(梨花がそう言うなら、まあ断る理由もないし…)

 そう納得してしまうのだった。

 梨花は、統子が了承してもなお、じっと冷たい目で統子の目を覗き込んでいる。

「……う、嘘じゃない」

 統子が目を逸らしそうになりながら答えると、梨花はようやく視線の力を抜いて、にっこりと微笑む。

「うん、そうだよね。統子ちゃんが、わたしに二度も嘘を吐くなんて、そんなことありえないよね」

「う、うん」

 笑顔で念を押されて、喉を詰まらせそうになる統子だった。


 ●


 昼休み、まるで昨日を再現しているように、笑顔の梨花が隣のクラスからやってきて言った。

「統子ちゃん。昨日と同じで、放課後、体育館の裏ね」

「……分かった」

「それじゃ、わたしは颯太くんのこと監視しているから、自分の教室でお昼するね」

「うん、分かった」

「じゃあ、放課後ね。今度は体調不良なんて嫌だからね」

 梨花はそう言い残して、軽やかな足取りで戻っていった。統子は溜め息を吐きながら、机の上に弁当を広げる。二度目ということで少しは耐性がついていたのか、今日は残さずに弁当を平らげることができた。

 そして放課後。

(はぁ……仕方ないか……)

 と立ち上がった統子のポケットで、携帯がメールの着信を告げる。確認してみれば梨花からのメールで、

『颯太くんはいま行ったから、統子ちゃんも早く行ってね。絶対だよ!』

 と催促するメールだった。

「……言われなくても分かってるよ」

 液晶に表示されたメールの文面に向かって唇を尖らせると、統子は教室を出て、大股の早足で体育館裏へと向かった。そのくらい気合いを入れないと、足を引きずって歩くことになるからだった。

 今度は、幸いにもと言うべきか、歩いている途中で開戦の鐘が鳴るようなこともなかった。

 体育館の裏側と背の高い塀に挟まれた幅五メートル程度の細長い空間には、先に来ていた颯太がそわそわとした様子で立っていた。

「あっ」

 颯太はやって来た統子をすぐに見つけて、声を漏す。統子は口を開きかけたものの、結局は何も言わずに近づいていく。

「桜木、その……」

 すたすたと近づいてくる統子に、颯太は狼狽えた顔をする。しかし、すぐに表情を改めて、統子をまっすぐに見つめて口を開いた。

「桜木、話がある。聞いてくれ」

「嫌だ。聞かない」

「えっ」

 勇気を振り絞った一言をにべなく却下されて、颯太は絶句する。その隙へ差し込むように、統子は畳みかける。

「わたしが来たのは、あんたにひとつ言うことがあるからで、話をしに来たんじゃないの」

「それは分かってる!」

 颯太が大声で遮った。

 統子の舌打ち。

「分かっているなら――」

「けど、話しかけるなってメールされて、はい分かりました、なんて納得できるか! 納得させたいんなら、おれと話せ。おれの話を聞け。言いたいことがあるなら、それから言え!」

「言っていることが自分勝手すぎる。自分はひとの話を聞かないで、わたしにだけ自分の話を聞け? そんな言い草が通るとでも!?」

「いいから聞け! 頼む!」

 頼みというには乱暴すぎる大声だったけれど、その気迫は統子にも伝わった。

「……」

 反論がないことを了承と受け取った颯太は、大きく息を吸うと、興奮と緊張と緊張で真っ赤に茹だった顔をまっすぐに統子へ向けて、言い放った。

「好きだ! 桃生統子、おまえのことが大好きだ! おれの恋人になってくれ!!」

 直後、沈黙。

 颯太は早々に堪えられなくなって、二の句を継いだ。

「と……統子? 聞こえてたよな……?」

「……」

 統子はまだ答えない。颯太の顔に浮かぶ不安の色が、どんどん濃くなっていく。

「統子――」

「聞こえているから、何度も呼ぶな」

「聞こえているんだったら、返事をくれよ!」

「……返事、ね」

 一言吐き捨てるように呟いて、統子はきっと颯太を睨みつけた。

「返事なら昨日、メールでしている。わたしに二度と話しかけるな、だ」

「嫌だ!」

「知るか!」

「知るかなんて知るか!」

 颯太は喉仏をいっぱいに震わせて叫ぶと、自分自身の大声に鼓舞されて統子に詰め寄っていく。

「近寄るな」

 統子は一歩ほど後退りしたが、伸びてきた颯太の手に肩を掴まれてしまう。

「ちょっと、離して……!」

 颯太の手を振り解こうとするのだが、その手は統子が想像していたよりずっと力強くて引き剥がせない。それどころか、逆に肩を引き寄せられてしまった。

「きゃっ」

 統子の腰に、颯太の片手がまわされる。物理的にもいっそう逃げられなくなったが、それよりも精神的な衝撃のほうが強かった。

「なっ……おっ、おまえ……何を……離せ!」

 頭のなかが空白で埋め尽くされて、何も考えられなくなる。ただとにかく突っぱねようとして両手で颯太の肩を押し返すのだが、力では敵わない。そのことが、統子に忘れかけていた事実を思い出させた。

 自分が女で、颯太が男であるという事実。中学時代の三年をかけて、散々に思い知らされたその事実を。

「は――離せ!」

 統子の頭突きが、颯太の口元を強かに打つ。これには颯太も堪らず、統子の肩から離した両手で口元を押さえて呻く。

「うっ、うぅ……統子、いくらなんでも頭突きって……ッ……」

 恨めしそうな目で言う颯太の唇からは、血が滲んでいる。

「うるさい! 女にいきなりだきついてくる変態が生意気を言うな!」

「なんだよ……統子だって分かってるんじゃないか。自分が女なんだって」

「……ッ!?」

 咄嗟に言い返せなかった統子へ、颯太は手の甲で唇を拭いながら言い立てる。

「統子がおれを避けるようになったのって、おれが女相手だから手を抜いている、なんて思い込んでいたからだろ。そんなことないって俺が何度言っても、おまえは聞く耳を持とうともしなかったけど」

「当たり前だ! だいたい事実、そんなことあったじゃないか。おまえ、わたしが女だからって手を抜いていたじゃないか! 男だ女だって、自分じゃどうしようもないところで勝負を決められてしまう悔しさは、あんたには分からない!!」

「ああ、そうだな。分からないだろうな、全然。だっておれ、男だ」

「ほら! やっぱりそうだ! 颯太はずっと、そうやってわたしのことを女扱いして馬鹿にしてきたんだ!」

「馬鹿にしたことは一度だってない。女として見たきたのは本当だけど、それって悪いことか?」

「はぁ!?」

「だって、おれは男で、おまえは女だ。そんなの、どうしようもない事実で、仕方ないだろ!」

「そんなので言い訳になるとでも――」

「言い訳じゃない!」

 口論しているうちに激情した颯太の右手が、またも統子の肩を掴む。

「言い訳でしょ!」

 統子は颯太を突き飛ばそうとして右手を伸ばしたが、その手も颯太の左手に掴まえられた。

「あっ……」

 思わず後退った統子の身体は、そのまま塀まで押し込まれた。背中にどんと当たる感触が、追い詰められたことを統子に強く認識させる。

「颯太、こんなことして――」

 統子の口から出てきた言葉は、蚊の鳴くような掠れ声だ。颯太の顔は陰になっていて、統子からはよく見えない。いや、あまりに距離が近すぎて、まっすぐに見上げていられないのだ。

「……離して……よ」

 少しでも大きく動いたら顔と顔がくっついてしまいそうで、腹から声を出すこともできない。

 喉の奥で囁くような声しか出せない統子に、颯太は大きく息を吸い込んでから静かに告げる。

「返事、聞かせてくれ」

「え……返事?」

「さっきの……告白の返事だよ」

「あ……」

 統子の顔にさっと朱が差す。唇は薄く開いたまま動かなくなってしまう。

 颯太も、統子の答えを待って黙っているから、二人の間に沈黙が跨ることになる。

 互いの心音が伝わり合いそうな沈黙。吐息も次第と熱くなっていく。

「統子……」

 沈黙の長さに堪えかねた颯太が催促する。

「こ、答えはだから、メールでもう――」

「おれはそんなこと聞いたんじゃない。はいかいいえか、どっちなのかって聞いたんだ!」

「う、ぅ……ッ」

 肩と腕を押さえつけられたうえに、息がかかるほど近い距離から怒鳴りつけられると、本能的な怯えが太腿を揺らす。

(って、なんでわたしが怯えなくちゃならない!)

 統子はすぐに萎えかけた腰を起こして、もう一度頭突きする勢いで食ってかかる。

「答えはいいえだ! 何度も何度も何度も! 言ってきた!!」

 ほんの一時でも気圧されてしまった自分が許せなくて、統子は声を張り上げた。腹に上手く力を込められなくて、ほとんど金切り声のような叫びしか出せなかったけれど、それでも大声を出したことで気力が戻ってきて、さらに捲し立てた。

「わたしは、おまえなんか嫌いだ! 大嫌いなんだ! ずっとそういう態度を取ってきたんだ、分かれよ! いや、分かっているんだろ!?」

「だったら、おまえはどうなんだよ!」

 颯太もまた、叩きつけるような怒声で言い返す。

「おまえは、おれがどんな気持ちでおまえと試合していたか、知っていたのか!? いなかっただろ!!」

「知っている! フェミニスト気取りでわざと負けては悦に入っていたんだろう! 知っているから、おまえが嫌いになったんだ!」

「おれがフェミニスト気取り? わざと負けてた? やっぱり全然、何も分かっちゃいないじゃないか!」

 颯太は目尻に涙を滲ませながら続ける。

「おれがおまえとの試合中に動きが鈍っちまうのは……そんなのは、おまえが好きだからに決まってるだろ。好きなやつが目の前にいたら、緊張して当然だろ! なんで、そんなことも分かってなかったんだよぉ!!」

 そう叫んだ颯太の目から、ついに涙が零れる。統子はその涙にこそ驚いたが、言葉の内容にはそれほど驚かなかった。むしろ、驚かない自分に少し驚いたほどだった。

 そんな細かい感情まで顔に出ていたとは思えないが、颯太には統子の内心が余すところなく伝わったようだ。

「なんだよ、その顔。本当は分かっていました、って書いてるじゃないかよ」

「そんなの……書いてない……」

「書いてある」

「……」

 颯太に断言された統子に、返す言葉はない。淡々と、颯太は続ける。

「何年間もずっと、ほとんど毎日ってくらい一緒に稽古してたんだ。それなのに、おれの気持ちに気がつかないほど鈍感じゃないよな、おまえは」

「……」

 答えない統子へ、颯太はさらに言う。

「おれはおまえのことが――桃生統子のことが好きだ。中学に入る前からずっとずっと好きでいる」

「わ……わたしは、好きじゃない……」

 統子はか細い声を搾り出す。が、

「嘘だ」

 颯太はすぐさま否定する。

「おまえだって、おれのことが好きだったはずだ。そうでなかったら――どうでもいいと思っていたのなら、嫌いになるほどむきになったりしなかったはずだ」

「そんなこと……ない! 勝手なことを言うな……!」

 統子は力任せに身を捩って、油断していた颯太の両手を振り解く。

「あっ」

 颯太は咄嗟に手を伸ばしたが、統子はその手を掻い潜って逃げ出した。

「統子、待てよ!」

 背後から颯太の大声が聞こえていたけれど、無視して統子は走っていく。

 体育館の外壁をなぞるように走って表に出たところで、統子は歩調を緩めて背後を振り返る。

 颯太は追ってこなかった。


 気がつけば、統子は街並みを一望できる山の上の公園に来ていた。いつか、レアと名乗った赤毛の女と出会った、あの公園だ。

「わたし、またここに……」

 統子の口元にふっと微笑が浮かぶ。統子は昔から、嫌なこと、困ったこと、悲しいことがあると、いつも決まってここにきていた。

 この公園でブランコに座っていると、颯太と梨花と三人で仲良く遊んでいた日のことを思い出して、ささくれ立った気分も落ち着いてくるものだった。

 でも、今日は全然だった。

 ブランコをいくら揺らしても、胸の内に蟠った重たい気持ちは飛んでいってくれなかった。

 どれくらい、ブランコを漕いでいたのだろうか。真っ青だった空は、西端から徐々に深い赤みを帯び始めてきている。

 焼け落ちていく空を眺めていたせいで、スカートのポケットで携帯が着信音を鳴らしているのに気づくのが遅れた。電話に出るような気分ではなかったけれど、手は惰性でポケットから携帯を取り出して、耳に当てていた。

「……はい」

『あんたがいなければ、こんなことにはならなかったんだ。あんたなんか要らない。あんたなんか死んじゃえ』

 通話はそれで切れた。

 相手は名乗らなかったし、液晶の文字も見ていなかったけれど、誰からの電話だったのかは声で分かっていた。

 電話は、梨花からだった。

 開戦の鐘が鳴った。


 ●


 黒い太陽の沈みかけた灰色の暗転都市で目を覚ました統子は、しばらく立ち尽くしていた。

 統子が出現したのは四車線はある交差点のど真ん中で、何度か苦しめられた狙撃手のような相手に見つかっていたら、撃たれたことに気づく暇もなく倒されていたことだろう。そうならなかったのは奇跡と言えた。

「いよぅ、奇遇だな」

 呑気な声をかけてきたのは、大通りの向こうから歩いてきた赤いライダースーツに赤いヘルメットの男だ。視界を遮るもののない大通りだというのに、統子は声をかけられるまで、男が近づいてきていることに気がつきもしなかった。

「あ……」

 統子は声をかけてきた相手へとゆっくり振り向き、小さく息を零した。赤一色の姿に既視感を覚えたからだ。

(どこかで会ったことがあるような……)

 ぼんやりと小首を傾げた統子に、赤い男はがくっと肩を落として呆れた態度を露わにする。

「なんだよなぁ。おれのほうはトーコちゃんのことをちゃんと覚えてるってのに、トーコちゃんのほうはおれのことを完璧に忘れちまってるってか?」

「え……どうして、わたしの名前を……あっ」

「おっと、思い出してくれたのか?」

「ええ、残念ながら……アラタ、だったな」

「大当たり」

 その言葉と同時に、男は――アラタは右手を高々と突き上げた。その足下から沸き上がった火柱のような赤光が、アラタの全身を包み込む。赤光が消えたなかから現れたアラタの姿は、赤いスーツに黒い炎の文様を刻み、右手にボクシンググローブのような分厚い籠手を嵌めていた。

 武装をまとったアラタは、いつかと同じように足を前後に並べた前傾姿勢の構えを取って、統子を見据える。そして、これから始まる戦いへの興奮を隠しもしない声で笑う。

「さぁて、思い出してもらえたところで……あんときの続き、やろうぜ」

 だが、統子は動かない。

 アラタは不審そうにメットの頭を斜めに捻る。

「あ? なんだよ、おい……まさか、あんとき教えてやった武装の仕方、忘れたってわけじゃないだろ?」

「……そういうわけじゃない」

「だったら、なんだ? あっ、あれか。あの日ってやつか」

「違う!」

 声を荒げた統子の身体を銀光が包んで、銀の鎧と長剣で武装した姿へと変身する。

「ほら、武装したぞ。これでいいか!?」

 投げやりというかやけくそな態度で言い捨てる統子。

 アラタは、なんだかなぁ、という顔をして、

「なんだかなぁ」

 と実際に言いもしながら、無骨で分厚い籠手を嵌めた右手で、メットの頭を掻いてみせる。

「どうも今日のおまえさん、投げやりっつぅか適当っつぅか……負けてもいいやと思っていたりしないかぁ?」

「なっ……! そんなことを思うわけが――」

 思うわけがない、とは言い切れなかった。そう断言するつもりだったのに、開戦の直前に聞いた梨花の冷たい声が刻銘に思い出されたのだ。

『あんたがいなければ、こんなことにはならなかったんだ。あんたなんか要らない。あんたなんか死んじゃえ』

 あのときの声は質の悪い冗談などではなく、本気の声だった。

(梨花に拒絶された……)

 そう思うだけで、心臓がぎりぎりと締め上げられる。血流が止まって手足が痺れ、痛いほどの耳鳴りがしてくる。目の奥が真っ赤に染まって、思考が薄らいでいく。

(梨花に拒絶された……拒絶されたのに、それなのに……まだ、戦わなくちゃけないの……?)

 これからどれだけ戦っても、勝っても、梨花はもう笑いかけてはくれないだろう。

(べつに、恩に着せたくて戦っているんじゃない。感謝してほしくて、生き返ってほしかったんじゃない――でも……)

 でも、電話で聞いた梨花の声が耳の奥に粘り着いていて、戦う意志を保たせてくれないのだ。

(梨花、どうしてあんなことを言ったの……? わたしは、ずっと……あんなやつのことより、梨花のことを一番に考えてきたじゃないか……!)

 悲しみと怒りが綯い交ぜになって、統子の心中をぐちゃぐちゃに撹拌する。

「あ……」

 統子の身体を包んでいた銀の鎧が、銀の光に分解されて霧消した。戦う意志を失えば、その意志の発露である武装もまた解けてしまうのだ。

「おいおい、本気マジかよ……」

 アラタが盛大な溜め息を吐く。

「本気で負けるつもりかよ……ったく、興醒めもいいところだぜ」

「そ、そんなつもりは……ない……」

 統子はぼそぼそと言い返したが、剣と鎧を取り戻せないままでは説得力がないない。

「っはぁ……ったく、いまさらしょうがねぇ奴だな、おまえさんはよぉ」

 アラタはメットの後頭部を大籠手でがりがりと削るように掻いて、もう一度肩で大きく溜め息。

「まあ、このまま一方的に殴り倒すのもなんだし、ちょいとだけ昔話をしてやる」

「昔話?」

「おれが契約者になったのは、おやっさんを助けるためだった。おやっさんは碌なもんじゃなかったおれに、ボクシングって夢をくれたんだ。けど、おれはつまらない事故でその夢も駄目にしちまった。おやっさんも、おれのことなんかとっくに忘れてる。おれはおやっさんにとって、かつて原石だったかもしれないけど、いまは小石……赤の他人ってやつさ」

 アラタがどうして急にそんな話をする気になったのかは分かりかねたが、最後の言葉だけは確実の統子の胸を刺した。

「赤の他人……」

「そうさ、赤の他人。おれはおやっさんの葬式も呼ばれなかったし、その葬式がなかったことになってからも、一度だって顔を会わせちゃいない」

「そんな……!」

「べつに驚くことじゃないだろ。おれたちは別に、褒めてほしくてってるわけでも、まして喜んでほしくて戦ってるわけでもない。そうだろ?」

 と問われても、統子はすぐに答えられなかった。

(わたしは……見返りを求めて戦っていた……。梨花の笑顔が見たくて戦っていた……)

 それは、統子が今日まで無自覚に求めていたことだった。比喩ではなく文字通りの意味で粉骨砕身して戦っている自分には、ご褒美があって当然だ――ずっと無自覚にそう思っていたのだ。

 梨花の言葉とアラタの昔話で、統子はようやく、そのことを自覚したのだった。

「……わたしは、見返りがほしくて戦ってきた。梨花のために死ぬ思いで戦っているんだから、梨花はわたしに笑いかけてくれなくてはならないんだと、要求していた。でも……梨花はもう、わたしに笑いかけてくれない」

「だったら、もう戦うのは止めにするか? いいぜ、いますぐ叩き潰してやるよ」

 アラタの挑発も、統子の耳には聞こえてない。ただ、自分の思いを声にして搾り出し続けるばかりだ。

「自分が恥ずかしい……! わたしは、梨花のために戦っているつもりで、ずっと自分のために戦ってきた……なんて恥知らずなんだ、わたしは!」

 梨花が生きていることだけで満足できない自分の浅ましさに、顔から火が出る思いだった。

(梨花が生きている。それ以上の見返りなんて必要ないに、どうしてわたしは!?)

 梨花に対して、まるで男が女に向けるような下心を抱いていたことが許せない。

「わたしは……わたしは! わたしはッ!!」

 灰色の空に向かって咆吼した統子の全身から、眩い銀光が迸った。光はすぐに凝って、装甲と長剣を形作る。

「おっ、やる気になったか!」

 アラタの嬉しそうな声。

「結局、究極的なところ、おれたちは最高の見返りをもらっているんだよな。そいつのために、いまこうして人生懸けて戦っているって事実をよぉ!」

「戦うことが見返り……そうね、そうなのかもしれない」

 統子の声にも喜色が滲む。

 思えばずっと、統子は自分のためだけに剣を振ってきた。颯太と切磋琢磨していた小学生のときも、颯太に勝てなくて藻掻き続けた中学生のときも、ずっとそうだった。

(颯太に負けたくなかった……あいつよりも、わたしのほうが強いと証明したかった。わたしのほうが梨花を守れるって証明したかったんだ)

 だけど、もう証明する必要はない。梨花を現に守っているのは颯太ではなく、統子なのだ。

「――わたしは負けない。わたしが梨花を守る。だって、わたしが梨花の一番だから!」

 梨花が誰を好きになろうと、どれだけ統子を嫌おうと、この世界で戦っているのが他の誰でもない統子だという事実は揺るがない。だから、一番は統子なのだ。他の誰が――たとえ梨花本人が否定しようとも、それはもう覆らないのだ。

 胸の空く思いだった。

(さっきまでのわたしは、一体何を苦しんでいたんだ? どこにも苦しむ必要なんてないのに!)

 剣を構えることも忘れて歓喜している統子に、アラタが笑い声を投げつける。

「おい、もういいかぁ――ッ!!」

 それは質問口調だったが、質問ではない。宣言だった。

 アラタは右拳を腰溜めに引き絞って身構えるや、全身を一本の矢にして統子に躍りかかる。応じる統子にも、もはや迷いはない。

「はッ!!」

 裂帛の気合いを込めて振り抜かれた剣が、アラタの拳を迎え撃つ。

 金属同士のぶつかり合う、ぎぃん、という鈍い悲鳴。それは一度では終わらず、二度、三度、四度……と立て続けに鳴り響く。

 アラタが足捌きを活かして、ぐっと屈めた身体を左右に細かく振りながら肉薄すれば、統子は長剣の長さリーチを活かして、突っ込んでくるアラタの腕や首を切り払うように剣を使って、容易には間合いへ踏み込ませない。だが、それは同時に、統子のほうも守勢から攻勢に転じる隙を見つけられずにいる、ということだ。

 互いに、拮抗している現状を打破する切欠を探しながら、一進一退の攻防を続けている。

 統子が隙を突いて反撃の一太刀を入れれば、アラタはその太刀筋を予期していたかのような紙一重の動きで躱しざま、鋭い軌道で拳を叩き込んでくる。統子がそれを避ければ、避けた先にも反対側の拳が飛んできていて、避けるために体勢を崩させられてしまう。

 獲物の長さでは統子のほうが優位なのだが、戦闘経験では明らかにアラタのほうが上だ。拳ひとつで戦い抜いてきただけあって、拳と剣の間合いリーチ差を心得ている。

(くっ……気を抜いたら間合いを掌握される。かといって、受けてばかりじゃ勝機はない――なら、やることはひとつ!)

 統子は退いた左足を、どん、と強く路面に押しつける。足捌きを使って避けるのを止め、一発食らうのを覚悟して渾身の一太刀斬り返そうというのだ。肉を斬らせて骨を断つ、というやつだ。

 だが、アラタにはそれもお見通しのようだった。

「へへっ、まあそう来るよな」

 アラタも両足の位置を前後に広く取る。左右への動きを捨てて、前進の加速のみに懸けた構えだ。

「前のときも、最後はこうだったよなぁ」

 アラタのまとっていた装甲と、赤いスーツに走る黒炎の紋様が黒い輝きへと変わる。輝きは脈打つように明滅しながら右拳へと注ぎ込み、巨大な籠手として再形成される。

「ええ、そうだったわね。あのときは、わたしが競り勝ったのだっけ」

 メットの奥で不敵に笑う統子。その全身を、銀と黒の輝きが覆う。銀光は右手の先へと流れ込んで長剣を大剣へと変え、黒光は四肢の先へと分かれて四基の黒環へと凝る。

 深紅のライダースーツとメットに、漆黒の巨大な籠手を嵌めたアラタ。

 真っ黒なタンクトップとビキニパンツに真っ黒な腕輪と足輪という姿で、銀の大剣を構えた統子。

 アラタも統子も可能なかぎり低く身構えている。その姿はさながら、いまにも躍りかからんとする二匹の獣だ。

「今度はゴングに邪魔されないといいなぁ」

「今後もゴングに救ってもらえるといいわね」

 言葉を交わしながら、集中力を引き絞っていく。弛緩させた筋肉を爆発させる瞬間を探り合う。

「さて、」

 アラタの背筋が、すぅ、と落ちるように前傾する。

「じゃあ、」

 統子の右足に、流れるように体重が乗る。

 そして――両者まったく同時に力を爆発させた。

「うぅおおおおぉぉ――ッ!!」

 二匹の獣が咆吼する。

 地を奔る矢となったアラタを、統子が迎え撃つ。居合抜きのように左下から右上へと斬り上げられた大剣が、足下から真っ直ぐに伸びて下腹を抉りにきた巨大な籠手と激突する。

 金属と金属の激突が、どぉ、と灰色の空気を轟かせる。

 激突した剣と拳は、その形で固定されたようにぴくりとも動かなくなる。その一方で、剣と拳を支える両者の腕はみしみしと軋みを上げている。それぞれの両足も、打ち込まれた杭のような力強さで路面を踏み締め、身体を支えている。

「ぐっ……!」

「ぬあぁ……!」

 食い縛った奥歯が、ぎりぎりと唸る。筋繊維と血管のぶちぶちと千切れる音が、骨を上って鼓膜の奥へと響く。圧力に晒され続ける関節という関節が外れて壊れて、皮膚を内側から突き破って飛び出してきても不思議がない。

 血と肉と骨と、身体を形作るもの全てが四散しそうな力と力のぶつかり合い。両者から放出される熱気で、灰色の空気が真っ赤に灼熱する。

 どちらか一方、あるいは双方ともに、総身を一個の火の玉に変えて燃え尽きてしまうのは時間の問題だった。

(だっ……誰が……!)

 統子の両手両足で、分厚い黒環が回転数を上げていく。低音から高音へと周波数を上げていく唸りに、亀裂が走るたびに上がる鋭い破裂音が混ざり始める。

(誰が――)

「――燃え尽きるかあぁッ!!」

 大剣がついに大籠手を押し退けた。アラタの右拳は大きく弾かれ、腰から上が折れんばかりに仰け反らされる。

 統子の身中からも、管の千切れる嫌な音がいくつも上がっていたが、

(まだ! 動ける!)

 左足をどんと踏み出し、右上に大きく振り上げられた大剣を、いま斬り上げた軌道を逆に辿って斬り下ろす――斬り下ろそうとした。

「俺の――」

 アラタが吠える。

「――勝ちッ!! だああぁッ!!」

 右手の大籠手が黒い輝きに変わり、肩を通って左手へと集まる。その流れを追うように、反った腰がぐるりとまわる。黒い輝きが左手を覆う大籠手になる。右拳から左拳へと重心が移った勢いのまま、反っていた上体が跳ね上がる。

 右の巨大正拳突きストレートを弾かれて体勢を大きく崩したはずが、あっという間に、左の巨大鉤突きフックを抉り込む体勢へと移行していた。大地に根を生やすほど強靱な下半身があればこその芸当だ。

 腰を支点に回転した振り子の先端――巨大な左拳は、斬り上げから斬り下げへ移るべく動きを止めていた統子の右肋骨をまとめて三本、飴細工を手折るかのように易々と砕き折った。

「うっ」

 統子の喉から空気の塊が噴き出す。いまの統子は、装甲はおろか、まともなボディスーツさえ身に着けていない。内臓ではなく肋骨で済んだのは、むしろ僥倖だった。

(いや、これは肺にも穴が開いたな)

 吐き出してしまった空気を取り戻そうとするが、息を吸っても実感が湧かない。

(でも……このくらいなら、まだ――やれる!)

 足首の黒環が、下半身をその場に繋ぎ止めてくれる。手首の黒環が、大剣の軌道を定めてくれる。

「あ……?」

 アラタは、巨大な籠手がぶち当たっても統子が倒れないことに、不思議そうな声を上げる。それが最後の一声になった。

 統子が重力の助けを借りて斬り下ろした大剣は、アラタの左肩を断ち割って、胸部中央に食い込んだ。アラタを絶命させるには十分すぎる一撃だった。

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