第4話 契約者《パリカール》

 古郡颯太が幼馴染みの少女、桃生統子に対して抱いている自信の恋心を自覚する切欠になったのは、小学五年生の夏だった。

 夏休み中だったその日、スポーツチャンバラの道場でいつものように統子と練習試合をしていた。他に年の近い訓練生がいなかったため、何戦か続けて試合をした後、どちらからともなく、

「次でひとまず最後にして休憩しよう」

 ということになった。

 具体的な数字までは覚えていないけれど、その日の勝ち負けはそこまでほぼ互角だったと記憶している。だから、お互いに「最後は自分が勝つ!」と気合いを入れて剣を交えたのだった。

 スポーツチャンバラは剣道と違って、袴を穿かなければいけない、というようなユニフォームの規定がない。動きやすい服装に、ヘッドギアなどの防具を着用するようになっている。だから二人とも、ティーシャツに短パンという格好で試合していたのだが、そこに罠が潜んでいた。少なくとも、そのときの颯太にとっては、それはあまりにも衝撃的すぎる罠だった。

 真夏の蒸し暑い道場で何時間も身体を動かし続けてきた二人の身体はとっくに汗だくで、着ているシャツも当然、汗をたっぷりと吸って重たくなっていた。

 統子が着ていた白い薄手のシャツは、ほんのりと膨らみ始めた胸にぴたりと貼りついていた。それだけでなく、汗を吸ったせいで微妙に透けたシャツからは、小指の爪より小さな突起が二つ、透けて見えていたのだ。

 それは、声変わりを迎えつつあった少年にとっては刺激的すぎる発見だった。気がついてしまった瞬間から、目がそこへ釘付けになって、まともに動けなくなってしまうのは仕方のないことだった。

 急に動きの硬くなった颯太の脳天を、統子の剣が強かに打ち据えた。

 誰がどう見ても完璧な一本だったけれど、統子は不満顔だった。

「いま、手を抜いたでしょ!」

 颯太に向かってそう言い放つのだが、言われたほうの颯太には言い訳のしようがない。本当のことを言うわけにいかないし、かといって「手を抜いてやったんだ」などと言えば、統子が怒ることはよく分かっている。

 颯太が何も言えないでいるうちに、統子は一人で結論を出してしまった。

「そう……言い訳できないってことは、やっぱりそうなんだ」

「いやっ、違う。手加減したとかじゃなくて――」

「じゃあ何!?」

「う……」

「ほら、言えない。やっぱり手を抜いたんじゃない。わたし、そういうのが一番嫌い!」

「違うって、だから!」

「だったらもう一本、勝負よ。今度また同じことしたら許さないんだからね!」

「分かってるよ」

 続いての試合は、颯太もどうにか試合に集中することができて、危ないところで勝つことができた。ただし、精神的な疲れは、普段試合するときの三倍近くに感じたが。

 ――これが、颯太が始めて、統子を異性として認識した出来事だった。

 颯太はその日以来、統子と練習していると、胸元が気になって集中することが難しく、いつもなら乗らないようなフェイントに騙されたり、空振りしようのない場面太刀筋が鈍ってしまうようになった。それでも勝率的に互角以上を保っていられたのは、統子の身体がどんどん女らしくなっていく一方で、颯太の身体もまた男らしく育っていったからだった。

 本気で打ち込んだ統子と、統子が本気になればなるほど無防備にぶつかってくる肢体に目をやらずにはいられなくなる颯太。それでも、体格的に優位な颯太のほうが、ここ一番で強引に押し切れてしまう――。

 統子が自分を嫌いになるのも無理ないよな、と颯太は自分でもそう思えた。だから、統子が自分を嫌うようになったことは仕方のないことだったと諦めている。でも、これからの関係改善について諦めているわけではなかった。

(俺は統子が好きだ! 高校生活三年間のうちに、なんとしても振り向かせてみせる!)

 そう胸に誓って、この春からさっそく行動を開始していた。同じく幼馴染みの間柄である梨花に頼み込んでデートのお膳立てを整えてもらったことも、その行動のひとつだった。

 多少強引にでも、デートした、という既成事実を作ってしまえば、統子も昔の仲良かった頃のことを思い出して、態度を軟化させてくれるかもしれない。そこまでいかなくとも、軟化させる切欠にできるかもしれない――そんなふうに目論んでいたのだった。しかし、結果が大失敗に終わったことは、もうすでに述べたとおりだ。

 映画館デートの間、統子が颯太に対して喋ったことは、

「映画が始まるから黙って」

「じゃあ、さようなら」

 の、二言だけだった。

 颯太はもちろん、映画を見終わった後の予定についてもしっかり立ててきたのだが、それを言い出す暇もないほど颯爽と、統子は帰って行ってしまったのだった。見る間に遠ざかっていく背中を追いかけてまで引き留めることができるほど、颯太の神経は太くなかった。

(せめて、行き先は映画館じゃなくて遊園地にしておけば良かった……)

 映画館でなければ、デートの間中、会話がないことはおろか視線ひとつ合わさないまま過ごすという事態にならなくて済んだかもしれない。

(……いや、そんなこともなかったろうな)

 映画館だろうと遊園地だろうと、きっと統子は喋らなかった。遊園地で会話なしだったら……と考えると、映画館にしておいて良かったと安堵してしまうのだった。

 何にせよ、颯太の目論見が大失敗に終わったことは変わりない。だけど、一度の失敗で諦めるつもりはない。なぜ失敗したのかを検討して、次の作戦に活かせばいいのだ。逆に言えば、ひとつでも次に活かせる教訓を拾えたならば、それは失敗ではなかったということになる。

(そうだ。あのデートは失敗じゃない。次への布石なんだ。うん、そうだ。よし、そうだ!)

 男子高校生の活力リビドーは、そう簡単に尽きるものではないのだった。


「桜木、聞いてくれ。おれ、あれから考えたんだ」

 颯太が桜木梨花にそう言って話を切り出したのは、デート作戦が失敗した休日から数日が経ったある日の放課後、授業が終わってすぐのことだった。

 話しかけられた梨花は、にこりと笑顔を浮かべて、

「統子ちゃんのことだよね。じゃあ、中庭に行って話そうか」

 本当は料理部の活動があるから調理室に行くつもりだったのだけど、そんなことはお首にも出さず、そう返事した。

 中庭の一番隅にあるベンチに腰かけたところで、颯太は早速とばかりに話し始める。

「この前は、一緒に遊べば統子だって少しくらい絆されてくれるんじゃないか……なんて甘い気持ちだったのが失敗した理由だったんだと思うんだ。だから今度は、もっと直球で行こうと思ってるんだ」

「直球で?」

 ちょこんと小首を傾げた梨花に、颯太は勢いよく頷く。

「うん、告白しようと思うんだ」

「え……」

「外堀を埋めて、ちょっとでも仲良くなってから気持ちを告げようなんて悠長なことを考えていたから、これまで上手くいかなかったんだ。まず一番に、おれの気持ちをがつんと伝える。どうして関係修復したいのかを分かってくれれば、統子だってああも意固地になったりしないはずだ。な、どうだ? 桜木もそう思うよな?」

「えっと……」

 梨花は困ったような半笑いを浮かべて、思案げに視線を惑わせる。

「えっとね、颯太くん。わたしはその……反対、かな」

 目を合わせずに答えた梨花に、颯太は信じられないという顔をした。

「えっ、どうして!? いい方法だと思うんだけど、どこが駄目だ?」

「だって、考えてもみてよ。好きでもない相手からいきなり告白されても、困るだけだよ」

「む……」

「それにだいたい、統子ちゃんは颯太くんのことが口を聞くのも嫌なくらい大嫌いなんでしょ。そんな状況で告白したって、いい返事が返ってくるわけないと思うな。それだけじゃなく、二度と近づくな、って言われちゃうかもしれないよ。もしそうなったら、デートどころじゃなく、もう話しかけることもできなくなっちゃうんだよ」

「む、む、うぅ……ッ」

 梨花の反論に、颯太は唯々、唸るばかりだ。と思いきや、勢いだけで反論する。

「そっ、そんなことないかもしれないじゃないか。統子だって、真正面から告白されたら、おれのことを嫌いな幼馴染みじゃなくて、同い年の気になる男子くらいに思ってくれるようになるかもしれないし」

「そんなの……本当にあると思う?」

「うっ……」

 梨花の嘆息に、颯太は目を逸らす。颯太も本当は、自分で言ったようなことを信じてなんかいないのだ。いまの状況で告白するのは、火に油を注ぐようなものだと直感していた。

「きっと統子ちゃん、颯太くんが告白したら大激怒すると思うよ。おまえはそんな下心で試合してたのか、勝ちを譲ってあげればわたしがおまえに惚れると思っていたのかー……って」

「ううっ」

 颯太は思わず、びくっと背中を丸めた。梨花の口真似は、いかにも統子が言いそうなことだった。

「止めてくれよ、その無駄に似てる口真似」

「ふふっ、そんなに似てた?」

「うん。口調がというか、言葉のチョイスがすごく統子っぽかったから、統子の声で脳内再生されたよ……」

「うふふ、それは悪いことしちゃったね」

 梨花は口元に手を添えて可愛らしく微笑む。

「悪いと思っているんなら、笑うなよなぁ」

 颯太は憮然とした顔だ。その横顔を見やって、梨花はまたくすりと笑う。梨花があんまり楽しそうに笑うものだから、颯太もつられて笑ってしまった。

 二人並んで一頻り笑った後、颯太は頭を掻きながら大きく溜め息を吐いた。

「まあ……ともかくさ、何にもしないで三年間が終わっちゃうという事態だけは避けたいんだよ。かりに上手くいかなかったとしても、やるだけやっての玉砕なら納得できると思うんだ」

「……納得、できるの?」

 おずおずと聞く梨花。

「するしかないだろ。やるだけやって、それでも振られてたら、さぁ」

 答えた颯太の表情は、苦々しげだ。その言葉ほど、気持ちは捌けているわけではないようだ。

 颯太の横顔を横目に見つめていた梨花の顔にも、ふいと陰が過ぎる。颯太はそのことに気づかず溜め息を吐いている。

「振られるのは……嫌だなぁ……」

「……だったら」

「え?」

「あっ」

 振り向いた颯太に、梨花は慌てて口に手を当てる。何も言うつもりはなかったのに、つい口から声が出てしまったのだ。

「わたし、いま何か言った……?」

「うん、言ったぞ。だったら、って」

 颯太は言外に、その先に続けるつもりだった言葉を催促する。

「うん、その……ね」

 梨花はおずおずと口を開く。

「振られるのが嫌なんだったら、やっぱり、いますぐに告白っていうのは無しだと思うの」

「でも、それじゃ――」

「待って、最後まで聞いて」

 梨花は颯太が黙ったのを見てから、改めて続ける。

「いますぐじゃなければ、まだ可能性はあるかもしれないじゃない。だから、せめて統子ちゃんが映画のことを忘れるまでは待ったほうがいいと思うの」

「む、ぅ……一理あるかもしれないな……」

「でしょう? わたしも、統子ちゃんの機嫌がちょっとでも良くなるように宥めてみるし……だから、早まらないで、タイミングを計って告白しようよ」

「まあ、そこまで急ぐことじゃないし、桜木がそこまで言うなら……」

 颯太は不承不承という口調だったけれど、目の端が微妙に緩んでいたのは内心で安堵していたからだろう。

 颯太が頷いたのを見るや、梨花はにっこりと微笑む。

「じゃあ、そういうことで話は決まりね。わたしが統子ちゃんと話すまで、勝手に告白なんかしちゃ駄目だからね」

「おう、分かったよ」

「じゃあ、わたしは部活に行かなくちゃだから」

「おれもいったん帰ってから道場だ」

 二人は揃って立ち上がり、それぞれの方向に向かって歩いていった。


 ●


「統子ちゃん、話があるの」

 その日の放課後、梨花から話しかけられた統子は、驚いたように目を瞬かせた。

「いいけど……どうかしたの?」

 いつになく思い詰めた表情の梨花に、統子は眉を顰めて聞き返す。梨花は、それには答えず、目顔で戸口を示す。

「ここだと話しづらいし、とにかく外に出ようか」

「う……うん」

 勢いに押されて頷く統子だった。

 校舎外苑部の屋上であるテラスの奥まった場所に据えられたベンチ――昨日、梨花と颯太が座って話をしたベンチに、今日は梨花と統子が座る。

「梨花、それで話って?」

 探るように切り出しながらも、統子には何となく察しがついていた。昨日、一緒に帰ろうと思って二組の教室に行ったとき、梨花が颯太と一緒に下校したと聞いていた。

 だから、梨花から「話がある」と切り出されたとき、即座に、

(ああ、颯太とのことでまたお節介を焼きにきたんだな)

 と想像していたのだった。

 その想像が当を得ていたことは、梨花の口からほどなく証明された。

「統子ちゃん……颯太くんから告白されたら、どうするの?」

 いきなりの質問にも、統子は驚かなかった。ただ呆れ顔で溜め息を吐いただけだ。

「そんなことを聞いて、どうするの?」

「いいから答えてよ」

「……断る。当たり前でしょ。だって、嫌いだから」

 当然予想できた答えに、梨花は表情も変えず、頷きも否定もしない。統子の目をじっと見つめて、本心がどこにあるのかを確かめようとする。統子も、その目をまっすぐ見つめ返す。

 無言の睨み合いは、数秒で終わった。先に目を逸らした梨花が、ふっと目つきを緩めて笑った。

「そうだよね。うん、良かった」

「え……良かった?」

 統子は訝しげに眉を寄せるが、梨花は笑顔のまま話題を換えた。

「だったら統子ちゃん、颯太くんにはっきり言ってあげないと。わたしはあなたのことが嫌いです、って」

「え……っと……?」

 笑顔で告げられた言葉に、統子は柄にもなく口をぽかんと開けてしまう。

 梨花は小さく息を継いでから、さらに続ける。

「統子ちゃんは、颯太くんのことが嫌いだ嫌いだって、わたしには言うくせに、颯太くん本人にはちゃんと言ったことがないんでしょ。統子ちゃんがそんな曖昧な態度を取っているから、颯太くんがいつまでも勘違いしちゃってるままなんだよ」

「……?」

 声ではなく視線で疑問符を示す統子。

 梨花は眉間に皺を寄せて、いつになく厳めしい表情をする。

「颯太くんのこと、もう解放してあげて。颯太くんは中学の三年間ずっと、統子ちゃんに振りまわされてきたんだよ。もう十分でしょ、満足でしょ。颯太くんの何が不満なのか知らないけど、もう許してあげて。自由にしてあげてよ」

 怒鳴り声ではなく静かな声だったのが、余計に統子の背筋を冷たくさせた。

 ――が、統子にだって反論はある。

「わたしが、あいつを振りまわしていた? 根も葉もないっていうか、まったく逆じゃない! わたしのことを三年間さんざん侮辱してきたのは、あいつのほうだ!」

「そう思っているのは統子ちゃんだけなんじゃない?」

「はぁ!?」

「女だからって手加減されていたのが許せない、だっけ。それって本当は、統子ちゃんの勘違いなんじゃないの?」

「なっ……!!」

「統子ちゃが男の子に対する劣等感を持っていたから、颯太くんとの試合に勝っても、女が男に実力で勝てるわけない――なんて、されてもいない手加減をされたと思い込んでいただけなんじゃないのかな」

「いくら梨花でも、それ以上、下らない言ったら怒るよ」


 統子が押し殺した怒声を発する。梨花は思わず鼻白んだけれど、すぐに眦を吊り上げて言い放った。

「統子ちゃんが颯太くんを嫌っているのって、要するに嫉妬なんでしょう。昔は自分のほうが強かったのに、いまは颯太くんのほうが強い――それを素直に認められないから、何だかんだと理由をつけて、自分のなかで颯太くんを悪者にしているだけなんでしょ」

「梨花ッ!!」

 統子は立ち上がって叫んでいた。

 梨花は座ったまま、今度は顔色を変えることなく、統子のきつい眼差しを冷たく見つめ返す。

「違うって言い切れるの?」

「当たり前だ!」

「じゃあ、統子ちゃんは本当に、颯太くんが自分を馬鹿にするために手加減してきたって思っているのね?」

「そ……そうだ」

「統子ちゃんのなかで、颯太くんは百パーセント正真正銘の悪者で最悪の男なんだね」

「う……」

「違うの? 颯太くんは悪くないと思っているということ!?」

「そんなこと思っていない!」

「じゃあやっぱり、颯太くんは悪者なんだよね。統子が颯太くんの悪事を許すことは、今後一生ありえないんだよね。三年間、苛められ続けたんだもん。思い込みなんじゃないんだったら、それが当然だよね?」

「そ――う、うん……そう、ね……」

 なんとも歯切れの悪い口振りだったけれど、とにかく統子は首肯した。

 梨花はにっこりと天使のように微笑む。

「だったら、決まり。わたしがお膳立てしてあげるから、颯太くんをはっきり振ってあげよう」

「え、振ってあげる……?」

「ただ嫌われているっていうだけの状況じゃ、颯太くんはこれから何度も、統子ちゃんをデートに誘ってくるよ。そんなの嫌でしょう。だから、ちゃんと振ろう。いくら頑張ってもチャンスは絶対にないんだって宣告してあげなくちゃ」

「……でも、そんなことする必要――」

「必要あるよ! だって、このまま振りもしないで、気を持たせるだけ持たせて弄ぶなんて、同じじゃない。統子ちゃんが颯太くんにされたのと同じことをやり返すつもり? 統子ちゃんはそんな卑怯者じゃないでしょう!?」

「あっ、当たり前だ!」

 卑怯者なのかと激しく問われて、統子は反射的にそう叫んだ。

 梨花は満足そうに、ふわっと表情を緩めた。

「だったら、振れるよね。というか、振ってあげないと、だよね」

「……う、うん」

 ぎこちなく頷く統子。

「うんうん」

 はっきり大きく頷き返す梨花。

(丸め込まれてしまったのか……?)

 と思いつつも、梨花の言っていることはやっぱり正論で、梨花の言うとおりにするべきだろう、という結論は変わりそうにないのだった。

(だって、梨花がわたしを騙すようなこと、するわけがないんだから)

 統子の思いを肯定するように、梨花はふんわりと柔らかく微笑んでいるのだった。


 ●


 また翌日の昼休み。

 いつもなら、統子のほうが二組の教室に行って梨花と合流するのだが、今日は梨花のほうが一組の教室にやってきた。

「統子ちゃん、段取り決まったよ」

 まだ鞄から弁当箱を取り出してもいない統子に、梨花は嬉しそうに話しかける。

「……何の?」

 と、首を傾げた統子に、梨花は可愛らしく頬を膨らませた。

「もうっ、颯太くんを振る段取りよ」

「ああ……」

 統子は思い出したように唸ったけれど、本当に忘れていたわけではない。昨日の今日であまりに展開が早すぎるため、戸惑っているのだ。

 梨花はよっぽど嬉しいのか、統子のそんな心の機微を知ろうとする素振りもなく、話し続ける。

「ああ、じゃないよ。昨日の話、忘れたわけじゃないよね?」

「……覚えてる」

 頷くまでに微妙な間があったのは、忘れた、と言いたくなる衝動に駆られたからだった。そう言わなかったのは、梨花の笑顔には嘘を吐けなかったからだ。

(せっかく梨花が頑張ってくれているんだし……)

 と思うと、無碍に突っぱねる気にはなれないのだった。

「覚えているのなら、いいの」

 梨花はにこにこと微笑みながら続ける。

「それで段取りだけど、今日の放課後、体育館の裏ね。そこに行けば颯太くんも来るから、そうしたら、ね」

「うん、分かった」

 統子が小さく頷くと、梨花は満足そうに笑って、うんうんと大きく頷いた。

「あっ、わたし、今日はクラスの友達と一緒に食べるって約束しちゃってたから、今日は教室で食べるね」

「あ、うん」

 もう一度頷いた統子に、梨花はにこりと笑って手を振ると、スキップするような足取りで戻っていった。それを見送った統子は、しばらく弁当を取り出すのも忘れて机を見つめていたけれど、そのうちに溜め息をひとつ吐いて立ち上がると、手ぶらで教室を出て行った。

 統子の今日の昼食は、購買横の自販機で買った紙パックの野菜ジュースだけだった。梨花と話した直後から、なぜだか食欲がなくなってしまって、弁当は鞄に入れっぱなしのまま放課後を迎えるのだった。

 放課後、統子は昇降口で靴を履き替えて、外に出ていた。鞄も持っているから、用事が終わったらすぐに下校できる構えだ。

(あんまり気乗りはしないけど……でも、うん、悪いことじゃないとは思うし)

 体育館の裏へと向かいながら、昼過ぎから何度となく繰り返した思考をまた繰り返す。

(わたしはあいつのことが嫌い。だから、振るのはいい……でも、べつに告白されたわけでもないのに、わたしのほうから振るって、順番がおかしいというか、自意識過剰すぎるような気も……でも、梨花がここまで段取りをつけてくれたんだし、べつに悪い話じゃないし……)

 堂々巡りする思考のせいか、足取りも重い。昇降口から体育館裏までの道程が、不思議なほど遠い。とはいえ、実際に距離があるわけではない。体育館はもうすぐそこだ。

「……」

 止まりかけた足を義務感で踏み出す。

 そのとき、開戦の鐘が仰々しく鳴り響いた。


 ●


 五感の暗転と、瞬間的な自己の喪失。それらが過ぎ去った後、統子はいつもの戦闘服――銀の板金で補強された黒いライダースーツにヘルメット姿で、いつもの明暗色相が逆転した暗転都市に降り立っていた。

「また面倒なときに……けど、これも義務なんだから仕方ないか」

 統子は嘆息したけれど、どこか安堵している声音だ。いつものように街並みを警戒しつつ移動を開始するのだけど、その足取りも心なしか軽い。

 ここにいるときだけは、戦うこと以外を考えなくてもいい――そのことが、いまは統子の心を軽くさせるのだった。

(それにしても……相変わらず、遠近感がおかしくなりそうな街並み。乗り物酔いするひとだったら、歩いているだけで酔うんじゃないかな)

 黒い太陽に照らされた黒い街並みは、居並ぶ建物の無個性さもあって、絵のなかを歩いているような気分にさせられる。

(……あまり遠くは見ないようにしよう)

 統子は心持ち目を伏せて、足下と正面だけを見ながら歩くようにする。

 それは、普段ならしない失敗だった。

 ひゅ――と風切り音がした。

 その音の正体に気づいたときには、統子の身体は真正面の空間に頭から飛び込んでいた。

 受け身を取って転がりながら距離を取り、物陰に身を隠すと、さっきまで自分が立っていた道路を確認する。

 黒く照らされているために分かりにくけれど、道路には穴が穿たれていた。

(やっぱりそうだ、いまの風切り音はこの前の狙撃――)

 以前の戦いで、ヤチヨという名の女契約者を倒し、統子自身も危うく撃たれかけた狙撃手の弾丸だ。風切り音に聞き覚えがなかったら、聞こえた瞬間に避けるのではなく、音の正体を見極めようとして振り向いたところを撃ち抜かれていただろう。

(とはいえ、いまのを避けられたのは奇跡的だった。いくら独特な音がするとはいえ、目にも止まらぬ弾丸を避けるなんて、狙って何度もできるわけがない)

 遮蔽になっている物陰から出たら、次は被弾してしまうだろう。かりに避けられたとしても、次の次、さらに次と狙撃が続けば、いつかは食らう。

(まあ、ここから出ていかなければいいだけの話だけど)

 相手からの狙撃を免れえないのは、狙撃手の懐まで攻め入ろうとすれば、の話だ。前回もそうしたように、戦おうなどと思わないで隠れていればいいだけだ。

 ただし、狙撃手のほうが遮蔽を外せる場所までまわり込んで狙撃してくる可能性もありえるから気は抜けない。

(まあもっとも、この狙撃手は安全な場所から出てこないタイプに思えるけれど)

 これまで相対した契約者たちとの遣り取りから、契約者の武装と性格にはある程度の相関があると推測できていた。

 巨大な籠手で武装していたアラタは、まさしく竹を割ったような性格だった。ノリユキと名乗った奴(統子は密かに、偽名だったのでは、と疑っている)は、保護色の蛇みたいな革紐を何十本も武器にしていた。実際、蛇のようなという形容がしっくりくるほど陰険な奴だった。

 熱線銃を撃ってきた西部劇野郎は、その舞台衣装じみた格好と同じく、最期まで舞台役者のような言動だった。その彼ごと統子を竜巻で呑み込もうとしたヤチヨは、数機の竜巻発生器と自律行動する数匹の小人を従える難敵だった。しかしながら、ヤチヨ本人は防御力皆無の服装だったうえに、まもとに戦うこともできなかった。現実ではきっと、守られることに慣れたお嬢様なのだろう。

 それらを鑑みると、狙撃銃という武装を持った奴の性格は、相手の攻撃が届かない安全な場所に籠もったうえで一方的に攻撃するのでないと安心できない性格だろう、と推し量れる。ヤチヨとも似ているが、異なっている点は、ヤチヨが大勢の味方に守られていたのに対して、この相手は自分自身で狙撃している点だ。

(この狙撃手はいつも一人でいる孤独な奴ね)

 統子はそう決めつけて、胸中で毒突く。

(人から距離を取るくせに、攻撃性だけは人一倍。嫌なことがあっても面と向かって文句を言ったり、後で友人に愚痴ったりするのじゃなくて、黙々と恨み帳に書き付けるような奴。どうせそうに決まっている……!)

 心のなかで一頻り悪態を吐くと、少しは気持ちがすっきりした。後はもうとにかく、不用意に動かないこと、警戒を解かないことだ。

(今日の戦いは、つまらないな)

 そっと溜め息を吐いた統子の耳が、そのとき、近づいてくる足音を捉えた。

(えっ、まさか!?)

 今し方、狙撃手は安全な場所から出てこない、と断定したばかりだったから、その足音に統子は大きく驚かされた。だが、思わず物陰から顔を出して確認したことで、足音の主がどうやら狙撃手ではないらしいことに気がついた。

 こちらに歩いてくる者は、カブトムシを連想させる黒い全身鎧に身を包んでいた。兜の額からも、カブトムシのような角が伸びている。武器らしきものは持っていなかったが、どう見ても統子やアラタと同じ、接近戦で殴り合うタイプの契約者だ。狙撃手だとは思えない。

 統子は咄嗟に警告を発していた。

「狙撃手がいる! 隠れろ!」

「……ッ!?」

 鎧武者は物陰から飛んできた声に驚いた様子だったが、行動は素早かった。

 黒い甲殻が黒い光に変わって右手に集まり、弾けた。

 統子が思わず細めた目を開けたときには、鎧武者は鎧武者ではなくなっていた。鎧だった甲殻はひとつに寄り集まって、全身を覆い隠すほど大きくて分厚い盾に変じていた。鎧を全て盾に変えてしまったために、全身はくすんだ銀色――鉛色のライダースーツを露出させている。

(防御力の一点集中、か)

 変身すればするほど攻撃力に特化していく統子とは正反対のスタイルだ。

 男が――ライダースーツで浮き彫りになった体型背格好は明らかに男だ――が右手側に大盾を形成したのと同時に、ひゅ、と独特な音をさせて風を切った弾丸が、大盾に着弾した。

 着弾の瞬間、大盾の表面に黒い光の波が走った。一拍の間を置いて、遠方で小さな炸裂音。

(え……何が?)

 音のしたほうに統子は目をやる。音の遠さからして、数百メートルは離れている建物のどこかから聞こえてきたのだろうと思うが、さすがに視認することはできなかった。

 目を馳せていた統子に、大盾を構えた男が声を投げかける。

「いま、おれに声をかけてくれたのは、おまえか?」

 低く響く声で、鎧武者という第一印象そのままの胴間声というやつだ。

 統子は物陰から出ていく代わりに言葉を投げ返す。

「まだ危険だ。また狙撃される前に、おまえも隠れたほうがいい」

「その必要はない」

 男は張りのある声で言い放つと、盾を斜めにして、先ほど小さな炸裂音がしたほうを見やる。

「今し方、向こうで音がしただろ。あれは、おまえの言う狙撃手が自分の弾丸で撃たれた音だ」

「……?」

 統子の無言に、男はしばし間を置いてから答えた。

「まあ、いいだろう。いま助けられた礼の代わりに教えてやるが、おれの盾は攻撃をそのまま跳ね返す。盾を撃たれれば、撃った本人に弾丸はまっすぐ返っていくんだ」

「……なるほど」

 男の言葉を素直に信じるべきか迷ったが、この男の声には嘘や偽りが感じられない。それに何より、男は射線上から盾をずらしているのに、銃撃が飛んできていない。狙撃手がまだ無事だったら、この好機を逃すはずはない。

(この男と狙撃手が仲間同士だという可能性もあるけれど……こいつ、そういうタイプには見えないのよね)

 これまでに何度か騙されてきた統子だが、その経験則から鑑みても、大盾の男は腹芸や騙し討ちをするようなタイプには見えなかった。

(あの盾は武器という括りに入れていいのか悩むところだけど、近接武器使いに嘘吐きはいない――と思っているのかもね、わたしって)

 ヘルメットの内側でふっと苦笑を漏しながら、統子は物陰から出てきて、男と正対した。

 男は値踏みするように統子を見据える。

「声からして女だとは思ったが、ふむ……少々やりにくいな」

「負けたときの言い訳か。それとも、手加減して花を持たせてくれるというのか?」

 統子の返事は刺々しい。相手の口振りが、颯太との稽古を思い起こさせたからだ。

「おっと、これは失礼を言ったか。すまない、悪気はなかったんだ」

 男は殊勝な態度で頭を下げる。こうも堂々と謝られると、統子も毒気を抜かれてしまう。

「……それよりも、わたしと戦うつもりなのね」

「まあな」

「女が相手でやりにくいと思うのなら、べつに戦わなくてもいいと思うのだけど」

「いや、それは無理だ。おれはいまのが九勝目で、あと一人倒せば、参戦免除だ。つまり、」

「つまり、十匹の獲物が気乗りしない相手だろうと見逃せるはずがない、と」

「――そういうことだ」

 男は兜の奥に笑い声を籠もらせる。統子も、メットの奥で好戦的な笑いを浮かべていた。

 統子としては、相手に戦意がなければ好んで戦おうとは思わない。けれども今日は、戦いたい気分だった。何もかも忘れて無心に剣を振いたかったのだ。

 統子の身体を銀光が覆う。銀の板金が膨れ上がって、装甲と長剣へと形質を変える。

「剣か。最後の勝負が久々に真っ向勝負とは、何よりだ」

「そうね、最期ね。あなたが勝とうが負けようが」

 どちらからともなく、自然と身構える。統子は、片手持ちした長剣を前方に軽く差し出したフェンシングに近い構え。男のほうは大盾を正面に押し出し、その陰に身を隠して目線だけをはみ出させている。

「武器はないのね」

 呟いた統子に、

「おれの盾はどんな武器よりも強い」

 男は野太い声でにやりと笑う。

 距離にして約十メートル離れての正対。両者ともに摺り足で、じりじりと

間合いを詰めていく。

「――そうだ」

 男が、体幹をぶれさせることなく進みながら口を開く。

「礼儀として、いちおう名乗っておく。マサムネだ」

「……統子よ」

 答えた統子も、全身の筋肉を撓めたまま、膝から下だけで進んでいる。

 いまさらの名乗り合いはそれで終わり、二人はまた無言に戻って、滑るように距離を縮めていく。そして、彼我の距離が三メートルまで近づいたところで、統子が一気に動いた。

「は――ッ!!」

 鋭い呼気を吐き出すと同時に、摺り足での前進から一転、素早いステップで男の左手側にまわり込む。互いの利き手が右である以上、死角は左側だ。

「むっ」

 男も――マサムネも素早く左足を引いて身体全体を左側に向かせるが、統子のほうが一拍速い。統子の剣はマサムネの左脇腹を狙って突き出される。

(取った!)

 そう確信した統子だったが、マサムネの動きは統子の予想を超えていた。なんと、手首の返しだけで、身の丈よりも大きな盾を横に回転させたのだ。

 亀の甲羅を引き伸ばしたような楕円形の盾が、縦長から横長へと回転する。縦長の盾を躱して懐へ突き入れられるはずだった統子の剣は、横長になった盾に阻まれた。

 剣の切っ先が黒い甲殻の盾に当たった瞬間、盾の表面から環状の黒い光が波のように広がる。そして、

「うっ、うわ!?」

 統子の身体を剣ごと弾き飛ばした。

(な、なるほど……)

 すぐさま起き上がって距離を取りながら、統子は内心で舌を巻いていた。

(あの盾、見た目よりもずっと軽いのね。硬さや重量ではなく、特殊な力で攻撃を跳ね返す……なるほど、油断した)

 先ほど、マサムネの盾が銃撃を跳ね返したところを見てはいたが、実際に攻撃を跳ね返されてみると、その異質さが身に染みて理解できた。

(受け止められたんじゃない。突いたのと同じ力……いえ、倍の力で相殺されて、突き返されたんだ)

 普通の盾なら、力を込めて打てば押し退けることもできる。しかし、マサムネは手首を返した不自然な手で支える盾に渾身の刺突を受けたというのに、盾をぴくりとも退かせずに跳ね返してみせた。剣と盾が激突する瞬間に、その激突より大きくて真逆方向に働く力を発生させたのだと考えるのが自然だった。

(重さで受け止めるのでも、形状で受け流すのでもなく、二倍の反作用を発生させて攻撃を相殺、さらに反射させる盾、か。それだったら重さは必要ないから、手首だけで回して使うこともできるわけね)

 距離を取ったまま、いまの一撃から掴めた情報を分析している統子に、マサムネは盾をぐるりぐるりと回してみせながら、くっくっと低い笑声を響かせる。

「どうした、女。いまので終わりではないだろう?」

「……次はそっちから攻めてきたら?」

 挑発に挑発で返すと、マサムネはまた低く笑う。

「なるほど。守るのは得意でも攻めるのは苦手、と思われているわけだな」

「……」

「いいだろう。その挑発に乗ってやるぞ」

 マサムネはそう言うと、盾を大きく振りまわしながら、ずんずんと大股な足取りで距離を詰めてきた。

 統子は素早く飛び退いて間合いを外すと、着地の反動を利用して一気に前へ踏み込んだ。

(攻めに意識を転じたいまなら、守りに隙ができるはず!)

 最初の後退は本当に気圧されてのことだったが、後退から着地までの間に気合いを入れ直して、再び攻めかかったのだ。

(攻めと攻めの勝負なら、剣は盾よりも強い!)

 統子の判断は、だが、甘かった。

 軽々と振りまわされる木の葉型の盾は、まるで巨大な旋棍トンファーだ。横殴りに吹き荒ぶ旋風のように襲いくる盾を掻い潜って懐まで踏み込むことは、容易ならざることだった。

「さあ、どうした? 逃げてばかりが能じゃあるまい!?」

 マサムネの攻めはとにかく速い。体重を乗せずに、ただ当てることだけを考えて振りまわしているからだ。そんな軽い攻撃なのに、統子の剣や装甲に当たった瞬間、二倍の反作用を発生させて統子を仰け反らせるのだ。

(こちらから当てたときだけでなく、向こうから当ててきた反作用を増幅させるのか……!)

 当然と言えば当然のことなのだが、守備力をそのまま攻撃力に転じさせてくるのは卑怯だ、と詮ないことを思ってしまう。とにかくそのくらい、高速で振りまわされる大盾は厄介な代物だった。

 盾を当てられる衝撃のひとつひとつはけして強くないのだが、何発も食らってしまうと、身体の内側にじわじわとダメージが蓄積していく。肉体的なものだけでなく、攻撃の主導権を取れないまま攻め続けられることに、精神的なダメージまでも溜まっていく。

(距離を取れば当たらないけれど、近づかなければ、こちらの剣も届かない……何か、何か手立てを考えるんだ――考えろ、わたし!)

 統子はじわじわと嬲られている状況に苛立ちながら、それでもとにかく冷静になって打開策を見出そうと、自分に言い聞かせる。しかし、いくら考えても妙案が浮かばない。思案している間にもマサムネの攻撃は止まらず、少しずつ動きが緩慢になっていく統子の腕や肩、脇腹などに盾を当てては、軽いのに体内まで浸透する衝撃を与え続けている。

 このままでは気づかないうちに戦闘力を削ぎ落とされて、本当に手も足も出なくなってしまう。

(そうなる前になんとかしなければ……!)

 なのだが、気ばかり焦って上手くいかない。なんとかしなければ――と思うほど、体捌きは雑になって、立て続けに盾の殴打を食らってしまう。発生する反作用に吹っ飛ばされて堪らずに距離を取ろうとすると、マサムネはそれを許さずに踏み込んできてさらに盾を当ててくる。統子に立て直す切欠を与えず、このまま押し切ろうというつもりなのは明白だ。

(不味い……不味い、不味い不味い!!)

 統子はとにかく左右に動いて、盾の届かないところまでまわり込もうとするのだが、それもままならない。統子はまわり込むために円周上を動かなくてはいけないのに対し、マサムネは向きを変えるだけでそれに対応できる。だから、統子がどれだけ先に、どれだけ速く動いても、マサムネは対応できてしまうのだ。

 だが、対応されるからといって動かなければ、一方的に封殺されてしまうだけだ。動いているからこそ、手を出しているからこそ、押し切られる寸前で踏み止まっていられるのだ。

(だけど……足りない。このままじゃ足りない……!)

 統子だけが一方的に体力を削り取られている現状が続けば続くほど、ますます不利になっていくのは統子だ。一刻も早く現状打破しなければ――

(――負ける。負ける!? 負けるなんて、そんなことは許されない!!)

 負ければ、梨花がまた死ぬのだ。それは統子にとって、絶対に許されないことだった。

「うっ……うううぅッ!!」

 腹の奥から怒りと力が込み上げてくる。唸り声を磨り潰すように奥歯を噛み締め、痺れるような痛みに漬け込まれてきている両手に力を込めて、長剣を握り直す。

 重たくなっていた両足にも怒りの活力を漲らせ、どんっ、と足下の道路を踏み締める。腰も落とし気味にして、両手で握った剣を大上段に振りかぶるなり、一気に振り下ろした。

「はっ! 自棄になったか!」

 マサムネが哄笑したのも当然だ。これまでは統子が足捌きで揺さぶりをかけてきていたから、マサムネも盾を叩くではなく当てることに専心せざるをえなかった。それがいま、統子は足捌きを捨てて、真っ向から斬りかかってきたのだ。願ったり叶ったりとは、まさにこのことである。

「どおらぁッ!!」

 マサムネは野太い雄叫びを上げると、統子の剣と交差する軌道で大盾を斜めに掬い上げた。

 統子がさらに気合いを爆ぜさせる。

「う、お、おおおッ!!」

 統子の全身から銀の光が溢れた直後、全身を鎧っていた装甲が消えた代わりに、剣が巨大化する。

 身の丈以上の大剣と、身の丈以上の大盾が激突した。

 激突の衝撃に襲われたのは統子だけだ。大盾から発された二倍の反作用は、斬撃の威力を相殺したうえで、さらに統子の両腕へ同じだけの衝撃を反射させていた。

「ぐっ……う――ッ」

 予想していたから辛うじて剣を手放さずに踏ん張れたものの、筋を違えた痛みで背中に脂汗が吹き出す。

 だが、統子は痛みでは止まらない。

「う、うっうううぅッ!!」

 噛み締めた歯の隙間から搾り出る怒号。装甲の剥離に続いて、ボディスーツも黒い光へと変わり、両手首、両足首に嵌った黒環となる。

 回転を始めた四つの黒環は、盾の反作用で押し返された大剣を再び押し込む。黒環の回転を加速させて大剣に乗せる力を刻々と増加させていくことで、盾からから返ってくる反作用力を無理やりに押し返しているのだ。

「な――なんと!」

 マサムネが驚嘆する。

「おれの盾に押し返されないとは……驚いたぞ、女! だが、その痩せ我慢、いつまで続くか!?」

「黙れええぇッ!!」

 四つの黒環が甲高い唸りを上げる。ますます加速する黒環から放たれる力は、統子の両足を大地に穿たれた鉄杭に変えて、身体をその場に縫い止めさせる。両手の骨に罅を走らせてでも、大剣を前に進めさせる。

「お、おぉ……!?」

 マサムネの口から、またも驚愕の呻きが漏れた。大剣が、大盾を押し始めたのだ。

 大盾は当たった力を二倍にして反射させる。その特性上、大盾を構えているマサムネ本人には衝撃がほとんど抜けていかない。盾が押し込まれるということなど、ありえない。

 そのありえないことが、しかし、いま起きているのだ。

「む、うぅ……まさか、おれの盾には返せる力の限界があるというのか……!?」

 盾に叩きつけられた剣を弾き返せないどころか、徐々にマサムネのほうが押され始めているのだ。統子の斬撃を本当に二倍の力で押し返しているなら、そんなことは起こりえない。奇跡的、超常的なことが起きている可能性を除けば、盾が発生させることのできる反作用力には限度がある、と考えるのは妥当な結論だった。

 マサムネが一人で驚嘆している間にも、統子の圧力はいや増していく。大盾を押されるという初めての経験に、マサムネは驚愕を禁じ得なかった。

「こ、このおれが押されるとは……だが、おれも男だ。負けん、負けんぞぉ!!」

 どおっ、とマサムネの足下で道路が陥没し、舗装が剥がれ飛ぶ。落ちかけた腰が、膝が伸び上がり、体重を乗せて殴りつけるように大盾を突き出す。

「ぐっ……!」

 最大出力の反作用に上乗せされたマサムネの地力が、勢いに乗ろうとしていた統子の剣を押し止める。崩れかけていた力関係が再び拮抗する。

「負けん、負けん負けん負けんんッ!!」

 マサムネの雄叫びは、自分を鼓舞するためのものだ。恥も外聞もかなぐり捨てて、勝ちを捥ぎ取りにきているのだ。

(わたしだって――)

 統子の手足で、黒環がいよいよ悪魔の悲鳴じみた音を上げる。びし、びし、と乾いた音が混じるのは、黒環に罅が入り始めているからだ。

 罅が入っているのは黒環だけではない。

 両手両足で過剰増幅される力と、盾から跳ね返ってくる力――内から溢れる力と、外から叩きつけられる力とを浴び続けている全身の骨は、どこもかしこも罅だらけだ。

 いつ、両腕が砕け、肩が外れて、両膝があらぬ方向にねじ曲がってもおかしくない。だが、たとえ全身が押し潰され、引き伸ばされて千々に砕けようとも、統子に止まるつもりはない。

(わたしにだって――)

 自分の身体が砕けてでも、守りたいひとがいるのだ。

「おれは負けん負けんぞぉ!! 美智子ぉ!!」

 マサムネが誰かの名前を叫ぶ。それが誰かを知らなくとも、彼にとってどんなひとであるのかは、統子にもよく分かる。

(だけど、それでも――)

「――それでも、わたしだって負けられないんだあッ!! 梨花あああぁッ!!」

「美智子おおぉッ!!」

 統子とマサムネ、二人の全身全霊からの咆吼が大気を揺るがす。四基の黒環が砕け散り、マサムネの足下が爆発音を噴き上げてさらに陥没する。

 大剣が真っ二つに折れ、大盾が真っ二つに割れた。

「な――ッ」

 マサムネが息を飲む。しかし、驚愕に動きを止めたのは、一呼吸にも満たない刹那だけだ。

「まだだあぁッ!!」

 大盾を割られたときに骨までへし折られた右腕を打ち捨てて、左腕で統子に打ちかかる。

 統子も、刀身の折れた大剣と骨の砕けた両腕をかなぐり捨てて、マサムネの左拳に頭突きで応じる。

「負けるかあぁッ!!」

 武器も鎧も肉体さえも砕けた二人の、残る力を全て注ぎ込んだ最後の一撃。その一撃同士が交錯する寸前、重低音の鐘が鳴り響いた。


 ●


 一瞬の自己喪失が過ぎると、統子は白い太陽と青い空に見下ろされた現実の街並みに立っていた。

 学校の敷地内、普段は歩くことのない校舎沿いの脇道だ。

(わたし、どうしてこんなところに……ああ、そうか)

 統子はすぐに思い出した。

(体育館裏に行って、あいつを振るんだったっけ)

 それは思い出したけれど、思い出せないこともある。

(どうして、そんなことをするんだっけ?)

 開戦の鐘が鳴る前までは、そこに疑問を抱いていなかったように思う。だとすると、何かもっともな理由があるはずなのだが……。

(……ああ、そうか。梨花がそうするべきだって言っていたから……でも、なんで?)

 梨花が強く勧めてきたからだ、というのは思い出したけれど、自分がどうして納得できたのかが思い出せない。

「……」

 統子は立ち止まったまましばらく黙考していたが、そのうちに溜め息を吐くと、校門へと進路を変えて歩き出した。

 歩きながら携帯を取り出し、メモリに登録されたままだった颯太のアドレスを呼び出してメールする。文面は、

『行けなくなったからメールで伝える。二度と話しかけるな』

 だった。

 学校からまっすぐに帰宅した統子は、制服を着たまま部屋の真ん中で倒れるようにして眠り込んだ。現実の肉体には一切影響が出ていないとはいえ、精神に戦闘での痛みと疲労が深々と刻みつけられていて、もう一時だって起きていられなかったのだ。

(こんな生活、ずっとは続けていられない……)

 泥沼のような眠りに引きずり込まれる直前、統子が思ったことだった。

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