第3話 勝負《トラゴイディア》

 よく晴れた日曜日。統子は午前中から、人出の多い繁華街に出てきていた。

 黒髪はポニーテールに結い、服装は白い七分袖のカッターシャツと、黒いスキニーパンツ。足下は焦げ茶色レースアップのショートブーツという、大人っぽいというか色気がないというか、少なくともデートの類には着ていかないだろう装いだった。

 事実、今日の統子は梨花に誘われて、一緒に映画を観に行くために繰り出してきていた。

(どうせ一緒に行くんだから、わざわざ街中で待ち合わせなんてしなくてもよかったのに……梨花はたまに、何を考えているのか分からない……)

 待ち合わせ場所である、駅構内に入ってすぐのところにある戦国武将の銅像を見上げながら、統子は胸のなかで独語する。

 銅像の周囲には、統子と同じように待ち合わせ相手を待つ人たちで混雑している。ここは待ち合わせのメッカなのだ。

(梨花、まだかな……?)

 統子は左手首の時計に目を落す。待ち合わせの時刻にはまだ少々の間があったけれど、いつもだったら、梨花は遅くとも待ち合わせの十分前には到着している。だからこそ、統子も待ち合わせ時刻より三十分は余裕を持たせて家を出てきたというのに、今日にかぎってまだ来ない。

(まさか、途中で事故にあったとか……!?)

 一度は現実に起きたことだけに、その懸念はたちまち大きな恐怖となって統子の心臓を鷲掴みする。

「梨花……!」

 震え始める手をポケットに突っ込んで、梨花に連絡するために携帯を取り出そうとしたところへ、声がかけられた。

「と、統子」

 はっとして顔を上げた統子だったが、声をかけてきた相手が梨花ではないこと――そもそも女性でもないことに気がついて、顔全体で落胆を露わにした。

「……どうして、おまえがいる?」

 険の籠もった声と、下から睨めつける視線とを、声をかけてきた相手にぶつける。女性としては高身長の統子だが、相手は男性としても高身長の男性だ。相手の顔を睨みつけようとしたら、見上げる姿勢になるのは当然だ。彼と相対すると、そんな当然のことにすら統子は苛立ってしまうのだ。

 統子に睨まれた青年は、決まり悪げな様子で目を泳がせつつも、統子のほうに近づいていく。そして、第一声にまず何を言うか迷ってから、こう切り出した。

「桜木さんなら来ないよ。家族の用事が入って無理になったから、おれが代役を頼まれたってわけだ」

「代役……あんたが?」

「そうだ」

「……」

 統子は、ちっ、と盛大な舌打ち。嫌悪感を隠そうともしていない。さすがに、相手の青年も鼻白んだけれど、すぐにわざとらしく咳払いして無理やりに話を戻した。

「ともかく、映画のチケットは今日しか使えないんだろ。無駄にするのも勿体ないし、ともかく映画館に行こうぜ」

「……」

「桜木さんも、後で映画の感想を聞かせてほしい。楽しみにしている……って言ってたし」

「……そうね、分かった。行きましょう。映画なら、あんたと話さなくても過ごせるし、我慢できるわ」

 言うなり、さっさと歩き出す統子。

「あっ、おう」

 青年も慌てて、統子の後を追った。

 梨花が代役を頼んだこの青年は、統子や梨花と同じく藤咲高校に通っている高校一年生、古郡こごおり颯太そうただ。クラスは梨花と同じ一年二組で、一組の統子とは学校ではあまり接点がない。だが、二人の間にはもっと古くて太い接点があった。

 統子と颯太、そして梨花は、いわゆる幼馴染みという間柄だった。小学校に入った頃あたりまでは、よく三人で遊んでいたものである。また、統子と颯太は小学二年生のときに揃ってスポーツチャンバラの道場へ通い始め、それから今日までずっと、二人とも同じ道場に通い続けていた。

 そこまで聞いて、二人は仲がいいように勘違いする者もいるけれど、実際はいまの遣り取りから分かるように険悪な仲だった。もっとも、統子が一方的に颯太のことを嫌っているだけで、颯太のほうはどうにかして昔のように仲良く――いや、昔よりもっと親密な仲になりたいと思っているようだった。

 どうして統子がそうも颯太のことを毛嫌いするのかといえば、

(こいつは中学時代の三年間、わたしとの試合で一度も本気を出さなかった。わたしは必死だったのに、こいつは、わたしを勝たせてやって悦に入っていた! 三年間、わたしを侮辱し続けた男だ!!)

 ――という、真っ黒になるまで煮詰められた憎悪が、統子の臓腑にこびりついているからだった。

(どうして、そんなやつと一緒に休日を過ごさないといけないのか……!)

 統子は何度も舌打ちしながら、競歩の速度で人混みをすいすいと縫って歩く。

「ちょっと待ってよ、統子。歩くの早いって」

 後ろから颯太の非難がましい声がかかるけれど、統子は返事をしないし、歩調も緩めない。むしろ、声をかけられて不快になったと訴えんばかりに歩調を速める。

「あっ……待てってば、あっ、わ! すいません!」

 だれかとぶつかったらしい颯太の声が聞こえたけれど、統子はそれでも振り返ることなく歩き続けた。

 おかげで、普通に歩いたら十分ほどかかる映画館まで、五分足らずで到着することができた。もちろん、開場時間はまだまだ先だったけれど、どこかで時間を潰したりすることもなく、待合室のソファに並んで座って開場を待った。

 統子としては離れて座りたかったのだけど、それなりに人目があるなかで追いかけてくる颯太から逃げまわるのは視線が気になって、諦めざるを得なかったのだ。

 先に上映していた映画が終わってお客の入れ替えが始まるまでの間、颯太はずっと統子に話しかけていた。統子はずっと、目も合わせずに黙りこくっていた。

 映画が始まってからも当然、二人は一言も交わさなかった。颯太が何度かちらちらと横目で窺ってきているのに気がついていたけれど、統子はその視線を咎めることすらせず、スクリーンに顔を向けたままだった。


 夜、夕飯にも入浴も終えた統子が自室でゆっくりしていると、携帯に着信が入った。梨花からだと分かるや、統子はすぐさま電話に出た。

「もしもし、梨花。いま、たっぷり時間あるよ」

 統子が開口一番そう言ったのは、いつかの昼休みに言いかけていた相談事についての電話だと思ったからだ。けれど、梨花の返事は予想と違っていた。

『……』

 無言の溜め息だった。

「……」

 催促するのもどうかと思って、統子も無言で梨花が話し出すのを待つ。そのため、電話に出て早々、不自然な沈黙が流れることになった。

 その沈黙を先に破ったのは、梨花のほうだ。

『あのさ、統子ちゃんに聞きたいことがあるんだけど』

「うん。なんでも聞いて」

『どうして、今日はすぐに帰ってきたの?』

「……?」

 何を質問されたのかが分からず、携帯を耳に当てたまま小首を傾げる統子。直後、その耳に梨花の怒声が突き刺さった。

『だから、どうして二人で映画を観に行って、本当に映画を観ただけで解散しちゃったのかって聞いてるの!』

「わっ……え、え? なんで、そんなこと? え、駄目なの?」

 反射的に耳から遠ざけた携帯を取り落としかけて、手をわたわたとさせながら、統子はまったくも意図の掴めない質問に目を丸くする。

『統子ちゃん……まさか、本気で分かっていないわけじゃないよね?』

「……」

 今度の沈黙は、分かっている、という意味の沈黙だった。

「梨花がどうして、わたしとあいつをくっつけようとしているのかは知らないけど、正直、これにかぎっては余計なお世話だ。もうこれっきりにしてほしい」

『わたしだって、べつに焼きたくて焼いた世話じゃないんだけどね』

「え?」

『……なんでもない』

 そう言った梨花の声は聞き取れないほど小さかった。

「え、梨花? いま、なんて言ったの?」

『なんでもないって言ったの!』

 今度は、耳がきぃんとするほどの大声だ。

「わっ……梨花、いきなり大声を出さないでよ、もうっ」

『そんなことより、聞かせて』

「え……なにを?」

『統子ちゃんは颯太くんのこと、どう思って――』

 そこから先の言葉は聞こえなかった。梨花の声を掻き消すほど大きな鐘の音が、統子の耳の内側でごぉんと鳴り始めたからだった。

(……来る!)

 統子が予感したのとほぼ同時に、視界が暗転した。

 明暗の逆転と、音の消失。さらに平衡感覚も失せる。胸のなかから滲み出た黄金鍵が閃光を迸らせるのを垣間見たのが最後で、瞬間、自分というものが完全に消失した。

 はっと目を開けたときには、統子は暗転都市に降り立っていた。


  ●


 白い夜に染め抜かれた無機質な街並み。

(もう三度目だけど、慣れないわね。この殺風景な景色には)

 統子は周囲に気を配りながら、白い街を静かに歩く。

(どこかに身を隠したほうがいいのかもしれない)

 と思いもしたのだが、いつ鳴るのか分からない停戦の鐘を待って、それまでじっと息を潜めているというのは、統子には我慢できることではなかった。

 これまで奇襲をかけてきた相手はいないけれど、今後もそうだとはかぎらない。

(むしろ、アラタやノリユキみたいな奴のほうが珍しいほうなのかもね)

 統子はふっと微笑する。

 冷静に考えてみれば、勝つことが目的ならば奇襲は当然の作戦だ。ノリユキだって、閉所に誘い込むだなんて策を弄せずに奇襲していれば、その第一撃で統子はやられていたかもしれない。

 ……と考えるとやはり、無策で歩きまわるというのは危険が大きすぎるようにも思えた。

(でも、じっとしていても、戦う相手は探せない。むしろ、こうして歩いているところに奇襲を仕掛けてくる奴がいたら、相手探しの手間が省けて助かるというもの)

 自分自身を囮にして対戦相手を釣ろうというのが、統子の狙いだった。

 その狙いは、ほどなくして成功する。

 白一色でのっぺりと塗り潰された通りを歩いていた統子の前に、前方の物陰から姿を現した者がいた。

 深い青色のライダースーツに、らくだ色キャラメルレザージャケット、同じく革製らしき膝丈ブーツ。腰には、これも革の銃帯を巻いていて、そして頭には――フルフェイス型のヘルメットを被り、さらにその上からつばの広い帽子、いわゆるウェスタンハットを被っていた。

 一言で言えば、ヘルメットとライダースーツを身に着けたまま、無理やり西部劇のガンマンみたいな格好をしているのだった。

「……」

 立ち止まり、目の前に出てきた相手を見つめる統子。その全身に、敵を前にしての緊張感はない。その逆に、だらんと手足を垂らしている。といっても、いつでも応戦できる隙のない自然体で立っている、というわけでもない。

 ただ単純に、相手の姿のあまりにもあまりすぎる奇抜さに、唖然としていただけだった。

「おい……そういう態度が一番、傷つくんだよな」

 西部劇スタイルの男――声と体型から男と判断できた――は、本当に傷ついているように俯いて呻く。

 思わず謝ってしまう統子。

「あっ、ごめんなさい。少し驚いただけで、馬鹿な格好だと思ったわけではないんだ」

「あんた、一言多い女だって、よく言われるだろ……」

「……ごめんなさい」

 男のいじけた声に、統子は頭を垂れて、もう一度謝った。しかしすぐ、はっと警戒心を取り戻して顔を上げ、外してしまった目線を相手へと戻す。その様子に、男は戯けた仕草で肩を竦めてみせた。

「まあ待てや。いまのところ、あんたと戦うつもりはないんだ。そう怖い顔すんなって」

「……顔なんて見えていないでしょう」

「おっ、いい突っ込みだ。頭の回転が速そうで、じつにいいね」

「茶番はこのくらいにして、本題に入ったらどう?」

 統子の少し苛立った口調に、相手の男はわざとらしくウェスタンハットのつばを指先で、つい、と持ち上げる。

「本題って?」

「だから、そういうまわりくどい言い方は止めてと言っているの。わざわざ姿を現したということはどうせ、休戦か共闘か、申し込もうというんでしょう」

「ご名答だ」

 男はグローブの手で指鉄砲を作って、統子を撃つ仕草をする。あくまでも茶化すような態度を取る男に、統子は無言で半身を引いて身構えた。

「おいおい、待てって。そんなに怒るな。戦うつもりはないって言っただろ」

「だったら、時間稼ぎするようなことをせず、さっさと要求を言え」

「敵意がないことを示したかっただけなんだが……そう言うなら、単刀直入に言わせてもらうぜ」

 男はまた指鉄砲を作って、統子に狙いをつける仕草をしながら告げた。

「おれと共闘しろ。一対一じゃ勝率五分五分でも、二対一になら八割くらいは勝ち目が増える。あんたにとっても、いい話だろ」

 男の言葉は自信たっぷりだ。この提案は受け入れられて当然のものだ、と声が語っていた。

 統子はヘルメットの奥でにこりと微笑む。

「もちろん、断るわ」

「そう言われると思っていた」

 男の返事も笑い声だった。

「それじゃあ、」

 統子が言うと、男が続ける。

「始めようか」

 その言葉を合図に、統子の全身を銀の光が包み込む。男もまた、腰の銃帯から流線的な造形の拳銃を引き抜くや、そのままの所作で統子を抜き撃ちした。

 西部劇から抜け出してきたかのような姿とは裏腹な、未来的デザインの拳銃から放たれたのは、弾丸ではなく真っ赤な熱線だ。

 熱線は統子が寸前まで立っていた場所を射抜き、その奥にある建物の壁を焦げつかせる。熱線が放たれる寸前、横に大きく飛び退いていた統子の姿は、銀の装甲と銀の長剣で武装されていた。

「まだまだ!」

 ウェスタンハットの男が言い放ちながら二射目を撃つ。男の懐に跳び込もうとしていた統子は、その射線から身を躱すために、またも横っ飛びせざるを得なかった。

 男の銃撃は止まず、三射目、四射目と連続して熱線が放たれる。統子は身を躱すので精一杯だ。

(まったく、ジリ貧もいいところね……!)

 統子は舌打ちしつつも、どうやったらこの状況を打破できるかと思考を回転させている。

(いっそ背を向けて逃げてしまうとか……いや、駄目。これ以上距離を開けたら、相手の思う壺だ。それならまだ突っ込んだほうがましか……?)

 身を捻って五射目の熱線を躱しながら、統子は思考を進める。

(前進するとしたら、どこかのタイミングで熱線を受けないといけない……けど、剣で受けられるものなの?)

 攻撃へ転じるに当たっての最大の問題は、それだった。

 統子が持っている剣は、鉄とも鋼とも違った輝くような銀色をしている。この剣だったら、熱線を逸らすくらいのことができるかもしれない。だがしかし、失敗すれば剣を融かされ、身体に焼け焦げた穴を開けられることになるのだ。かもしれないという根拠のない予感に賭けるのは無謀と言えた。

「どうした、どうした? ちょこまかと逃げまわるだけなのかい?」

 ウェスタンハットの男は余裕綽々に言い立てながら、射撃を続ける。統子が、射撃と射撃の合間を突いて攻め込もうとすれば、その分だけ下がる。統子が退けば、その分だけ追いかける。男はそうやって統子との距離を一定に保ち続けながら攻撃を続けていた。

 その攻防から、統子は相手の意図を推察する。

(この男も、ノリユキとか言ったあの陰湿男と同じ……リスクを冒して勝負を急ぐより、わたしが疲れきるまで消耗戦を続けるつもりなんだ。いやらしい!)

 とはいうものの、統子も立場が逆だったら同じ戦術を採っていただろう。契約者に取っての敗北とは、何を置いても守りたい何かをもう一度失うということ――それは絶対に許されないことだ。だから、負ける危険性を増やしてまで勝ちを取りにいくわけがないのだ。

(まあ、こういう計算尽くで動くタイプなら、それはそれでやりようがある……!)

 何度目かの熱線が脇を掠めていった直後、統子は反撃に転じた。足下の舗装が割れるほど思いきり地を蹴って、相手へと突進したのだ。

「……チッ」

 男は統子を銃口で見据えたまま、素早く背後へ飛び退く。銃口を向けられても躊躇せず突っ込んでくる統子に、悟られた、と察したのだ。

(こいつの熱線銃は、四連射した後に約十秒ほど撃てなくなる。たぶん、そうしないと過熱して壊れてしまうんだ)

 統子も、ただ無意味に相手の戦法に乗って防戦一方だったわけではない。熱線銃の射撃を躱しながら、相手の癖を見極めていたのだ。

 ただし、まだ万全に見極めたとは言い切れなかった。

(四連射以上は撃てない――と、わたしに見誤らせるための罠かもしれない。かりに罠でなくても、過熱破壊オーバーヒートを覚悟で五射目を撃ってくるかもしれない……)

 迷いなく突進しているように見えて、内心では冷や汗を掻いてる統子だった。

 しかしそれでも、負けるリスクを厭う相手に対しては、リスクを負ってでも踏み込むのが最善手だ――そう判断をしたからこそ、統子は攻めを決断したのだった。

 熱線銃の冷却時間を見抜いて突っ込む決断をした統子に対して、相手の男は、過熱を覚悟でさらに射撃するか、それとも冷却時間が過ぎるまで必死に逃げるか――という決断を迫られる。

「……ああっ、もう!」

 男は逃げを選択した。統子に背を向けて、一目散に逃げる。

「な……」

 男の余りにも潔い逃げっぷりに、統子は瞬間、思わず脱力してしまった。そのため、男が通りを折れて物陰に逃げ込むことを許してしまう。

(しまった!)

 統子は胸中で舌打ちしつつ、男を追って角を曲がろうとする。

 寸前、勘が働いた。

「――ッ!!」

 急停止して跳び退った統子の鼻先を、熱線が奔っていく。銃身の冷却に必要な十秒が過ぎたのだ。

(さっき速度を落さなければ捉えていたのに……ッ)

 命より大切なものを賭けた戦いの最中だというのに、一瞬でも気を抜いた自分自身に怒りを覚える。だが、そんな内省している場合でもない。まだ戦いの最中なのだ。

(次の十秒だ。次こそは捉える!)

 身を低くして転がるように熱線から逃げまわりながら、統子は次の機会を待って眼光をぎらつかせる。

 だが、統子が何を狙っているのかはもう、相手にも察しがついている。だから、三射目を撃ったところで射撃を一時中断して、統子が前進してきたところを狙い撃とうとする。

 しかし、統子もそれを読んでいた。三射目を、肩の装甲が削れるほど最小限の動きで躱すや、男に向かって突っ込んでいく。

「げっ」

 男は大袈裟なくらいの仕草で呻いて、慌てて四射目を撃ってくるのだが、動揺が手元を狂わせたようで、統子はほとんど速度を落すことなく熱線を躱す。

(これで四連射。次が来るまで十秒……今度こそ捉えた!)

 統子は回避にまわすための余力を捨てて、突き進むことだけに全力を注ぎ込む。統子の身体はぐんと加速して、男との距離が一気に詰まる。

 ――かと思われた瞬間、男が五連射目の熱線を撃った。

「う……ッ!?」

 完璧に虚を突かれた統子は、咄嗟に横へ倒れ込むように転がるのがやっとだった。脇腹の肉を銀の装甲と黒いスーツごと抉られ、焦がされたけれど、直撃を避けただけでも奇跡と言えた。

「うぅうううぅッ!!」

 熱線に焼かれた激痛に呻きながら、ごろごろと盛大に転がる統子。痛みにのたうちまわっているのではなく、追撃を避けるためだ。しかし、追撃の熱線は襲ってこなかった。

「うわっちゃあッ」

 男は奇声を張り上げながら、手にしていた熱線銃を撮り下ろした。四つん這いから手足で跳ねるようにして立ち上がった統子の目にも、道路に落ちた熱線銃が溶岩のように灼熱しているのが見て取れた。

 どうやら、銃がオーバーヒートしたようだった。

 男はこうなることを覚悟で博打を打ったのだろうが、その賭けに男は負けたのだった。統子を手傷を負ったものの、行動不能には至っていない。攻撃手段を失った男にはもう、統子を止める手立てがなかった。

「どうも、わたしの勝ちみたいね」

 統子は状況をすぐさま理解すると、剣を握り直して男に近づきながら宣言する。

「大人しく降参しろ。そうすれば――」

 そこまで言ったところで、統子の口は動きを止めてしまった。

(降参させて、それでどうするというんだ?)

 その疑問に思い至ったからだ。統子のそんな内心を見透かすように、男がせせら笑う。

「へえ……降参したら見逃してくれるっていうのかい? するわけないよな。十勝の特典は、そんな甘っちょろい人道主義ヒューマニズムに代えらるほど安くはないもんな」

「……そうね、言い直すわ。大人しく降参しても見逃したりはしないけど、わたしが楽になるから降参して」

「おっ、いいね。嫌いじゃないぜ、そういう間抜けな台詞」

「この期に及んで、よくまあそんな口が聞けると、素直に感心するわ」

 男の言葉に、統子は呆れた様子で吐息を零す。だけど、言葉での遣り取りはそこまでだった。

 統子は剣をひと振りすると、男に近づいていく。熱線銃は男の足下に落ちているままだけど、他に隠し球がないとも限らない。

(勝利を確信したときが、もっとも油断しているとき……気を引き締めろ、統子)

 統子は自分自身にそう言い聞かせると、相手の所作から目を離さないように注意する。

 男は、視線を気にすることなく片手を上げると、ウェスタンハットをぎゅっと押しつけるようにして被りなおす仕草をした。

「こうなったら仕方ない」

 その飄々とした言い草に、統子は反射的に腰を落して身構える。だが、それこそが男の狙いだった。

 統子が足を止めた瞬間、男は一も二もなく背を向けて、脱兎のごとく逃げ出した。

「あっ、待て!」

 統子もすぐさま追いかける。男の無防備な逃げっぷりからは、策も武器も隠していないと判断するのに有り余るものだった。

 男は少しも速度を落さずに道路を駆け抜けて逃走する。その背中を睨んで追いかける統子の脳裏に、ふと疑惑が過ぎった。

 男の逃げ足は速すぎないか――?

 もうすでに曲がり角をひとつ、建物の入り口をいくつか素通りしているが、男がそれらの角を曲がろうとしたり、校内に逃げ込もうかと迷ったりする素振りをまったく見せなかった。いまも、この先の道路がどうなっているのかを気にしている様子がない。

(予め逃走経路を確認しておいた……?)

 だとしたら、この先には男が逃げ込もうとしている何かがある、ということになる。つまり、

(待ち伏せ! 誘い込まれた!?)

 その可能性に思い至った統子は両足に急制動をかけたが、慣性の残る身体はもうすでに最後の角を曲がっていた。

 角を曲がった先、開けた空き地になっていた。曲がり角に面した一方を除いた三方それぞれを、大きな建物に囲まれている空き地だ。三方を囲む建物は相変わらずの無個性、無機質なものだが、その大きさは特筆すべきもので、病院、校舎、監獄などを連想させる威容を漂わせていた。

 男は、それらの巨大な建物が見下ろす広場の中央に立ち、遅れて飛び込んできた統子を出迎える。徒手の右手を持ち上げ、指鉄砲で、

「ばぁん」

 口で効果音をつけて、統子を撃った。

 それ自体はただ格好つけただけだ。攻撃は、広場を囲む三棟の建物からきた。ごごごぅ、と凄まじい轟音を響かせる横殴りの竜巻が、建物の屋上付近から、眼下に見下ろす広場を目がけて襲いかかってきたのだ。

「え――」

 統子は反応が遅れる。

 大型スピーカーのなかに放り込まれたような轟音で、統子にも攻撃を仕掛けられたのは理解できた。しかし、正面に立つ男の指鉄砲に視線を誘導されてしまったことで、攻撃の正体に気づくことが遅れてしまったのだ。

 竜巻という見えない攻撃。それが三方から迫る。

(やばい!)

 と思ったときにはもう、身体は前に向かって走り出していた。

 人体とは構造的に、後退するより前進することに適している。退いたら間に合わない判断した身体は、考えるより速く全力前進を選んだのだ。

「なんだと!?」

 ウェスタンハットの男が驚愕の声を上げた。

 男が立っているのは、全力疾走する統子の真正面なのだ。そして、三束の見えざる横殴りの竜巻は、走る統子を追いかけている。つまり、このままだと男も攻撃に巻き込まれてしまう。

「くっ、来るな!」

 男は叫ぶが、その声は唸りを上げる風に掻き消される。もっとも、聞こえていたら、統子はそれこそ意図して男に突進していただろう。

 この竜巻が男の攻撃なのは間違いない。だとしたら、もっとも安全な場所は攻撃者であるこの男が立っている場所なのだ。

 統子はそこまで計算して走り出したわけではなかったが、男の見せた焦りが、どうするのが正解なのかを統子に直感させたのだった。

 走る統子の背後を、三束の竜巻が追いかける。男はその進行方向から逃げようとするが、すでに走り出している分、統子のほうが速い。

「捕まえたあッ!!」

 ラグビー選手のような統子のタックルが、男を押し倒す。そこへ襲いかかる三束の竜巻。

(えっ……どういうこと!?)

 背後から迫る轟音に、統子はどっと脂汗を掻く。

 この男に飛びついてしまえば、竜巻はもう近づいてこられない――そう踏んでいたのに、背中に聞こえる轟音はなおも大きくなるのだ。

 三束の竜巻は、ウェスタンハットの男諸共、統子を轢殺しようとしていた。

「馬鹿な! おい、止めろ! おい、ヤチヨ! おい!!」

 統子のタックルで大の字に倒された男が何か叫んでいたが、統子にじっくり耳を傾けている暇はない。長剣を銀の光へと還すと、両手で地を叩いた反動で上体を起こすなり、短距離走の選手よろしくクラウチングスタートの要領で地を蹴ってその場を飛び退く。

 横倒しになった三つの竜巻が、寸前まで統子がいた場所――そして、いまもまだウェスタンハットの男が倒れている場所を呑み込んだ。

「ヤチヨ、てめえぇ!! 裏切りやがったなあぁッ!!」

 男の絶叫は、すぐに轟音のなかへ呑まれて消えた。ウェスタンハットもジャケットも身体から剥ぎ取られ、絡み合う三つの渦のなかで何度も何度も引き千切られていく。男の身体そのものも、三つの渦に翻弄されて四肢をあらぬ方向に折れ曲がらせ、巨人の手に掴まれたかのようにくしゃくしゃと折り畳まれ、また逆に片腕が千切れるまで引っ張られ――最後は、高速で三回転ほど捻られたヘルメットの首が、椿の花が落ちるように、ぼとりと千切れて落下した。

 男の最期を、統子は見ていない。男を巻き込んだ竜巻は、そこで止まらずに統子を追い続けたから、足を止めて背後を振り返るなどという余裕はなかったのだ。

(このままじゃ、いずれ捕まる……その前に、どこか――あっ)

 統子は、前方の建物に空いている四角い穴を見つけるや、そのなかへ頭から飛び込んだ。

 前方に伸ばした両手から着地して、ごろごろと前回り受け身を取って転がる。その背後で、建物の壁面と激突した竜巻の束が、爆発でもしたかのような震動と轟音を響かせた。

「うあっ……」

 轟音と震動が、装甲もスーツも貫通して統子の肺腑を揺さぶる。けれど、それ以上の肉体的被害はない。さすがの竜巻も、壁を破壊するまでの威力はないようだった。

(危なかった……)

 統子の口から安堵の吐息が零れた。

 ほっとした途端に、腕や脇腹に負った傷が痛み出したが、耐えられないほどではない。

(さて、これからどうするか……)

 統子は立ち上がりながら考える。

 吹き荒れていた竜巻は止んでいたが、統子が外に出れば、また高所から撃ち出されてくるに決まっている。

(さっきの竜巻は、あいつの攻撃じゃなかった。あいつが最期に呼んでいた、ヤチヨとかいう名前の奴が攻撃してきたんだ。たぶん、あの男が囮になって獲物をここまで誘き寄せ、ヤチヨというのがさっきの竜巻で止めを刺す――そういう手筈になっていたのでしょうね)

 統子はそこで、ふっと嗤笑した。

(どうせ本気じゃなかったのだろうけど、わたしに共闘を勧めてきた相手が、共闘していた仲間に裏切られるなんて……皮肉もいいところね)

 ヘルメットの内側で漏した冷笑は、しかし、長くは続かなかった。


(いつまでも一人で戦い続けるのはきっと、辛いんでしょうね……)

 早く十勝して、戦わなくてもいい生活に戻りたい――その焦りがきっと、ここ一番で裏切るような相手を信じさせてしまったのだろう。

(わたしは……わたしは誰とも共闘はしな――)

 思考は途中で無理やりに断ち切られた。

 建物の奥、物陰から飛び出してきた小人が、ナイフを手にして襲いかかってきたのだ。

 これが現実だったら、暗がりから飛び出してきた小さな物体に気がつくのはもっと遅れて、身を躱すことはできなかっただろう。しかし、ここは明暗の逆転した街だ。真っ白な物陰から走り出てくる小人は、面白いほどよく目立った。

「はッ!!」

 統子は身を捻って躱しざま、後ろ回し蹴りの要領で小人を蹴り飛ばした。

「ぐえっ」

 小人は蟇蛙のような呻きを上げて、いま飛び出してきた物陰へと転がっていく。距離ができたところで改めて、統子はいま襲ってきた小人を見据えた。

 全長は、統子の膝丈くらい。橙色の帽子を被って、同色の貫頭衣を着込んでいる。陶器人形ビスクドールのような見た目だが、蹴った感触はソフトビニール人形のような弾力があった。

「う、う、ぅ……」

 ごろごろと転がった小人は壁に当たって、ようやく止まる。蹴った感触からしても、かなり軽いようだ。本当に中身が空っぽのソフビ人形なのかもしれない。

(契約者……じゃ、ないわよね)

 さすが人間だとは思えない。ということは、

(誰かの武装……でも、さっきの竜巻と同じ奴の、もうひとつの武装? それとも、三人目の敵がいる?)

 にわかに危機感が込み上げてくる。

(わたしは竜巻から逃げたつもりで、みすみす敵地に誘い込まれたのか!?)

 統子がライダースーツの内側に冷や汗を滲ませているうちに、小人はよたよたと立ち上がる。人形劇の一幕みたいな微笑ましい光景だが、落したナイフを拾い直して笑っている姿は、微笑ましくも禍々しい。

 ナイフを握り直した小人は、戸惑っている統子を見上げると、奇妙に誇張デフォルメされた顔面を、にたぁと歪ませて笑った。

「ひ……ッ」

 恐怖映画に出てきそうな笑い顔に、統子は図らずも腰が引けてしまう。小人はその姿を嘲笑うかのように、にたにた笑いながら背中を向けて、自分の尻をぺちぺち叩いてみせた。

 あからさまな挑発行為だったが、統子には効果覿面だった。

「なっ……こ、こっ、このおぉ!!」

 統子は怒鳴り声を張り上げると、小人に躍りかかった。走り出すときに大きく振った右手には、集まった光から再構成された長剣が再び握られている。

「きゃあははーッ」

 小人は笑い声のような奇声を上げながら、建物の奥へと一目散に逃げていく。統子はそれを追いかける。頭の端で、

(罠か!?)

 と思いつつも、いったん動き出した身体は止まらない。統子の行動原理は基本的に、悩むなら動け、なのだ。

 小人と統子とでは足の長さが全然違うから、二人の距離は瞬く間に縮まっていく。小人はそれに気づいていないのか、後ろを一度も振り返ることなく、短い足でとっとっと一生懸命に走る。灯りひとつない真っ白な廊下を抜け、つづら折りの階段を跳ねるように駆け上がって二階の廊下を突き進む。

 この建物内部は、学校か病院のようになっていて、廊下にはいくつも扉が並んでいる。

(隠れるところは山ほどある、というわけね。でも、そんな暇は与えない!)

 統子は最後の数歩分を一気に詰め寄って、小人の背中に手を伸ばす。しかし小人は、それが見えているかのようなタイミングで、ぴょいんっと跳んだ。

「うわっ」

 統子の右手は宙を薙ぐ。しかも、それだけでは終わらなかった。つんのめるように前進を続けた足が、何かに引っかかったのだ。

「あっ」

 しまった、と思ったときには、統子の身体はヘッドスライディングを決める野球選手のように頭から床に滑り込んでいた。

 足下を確認する余裕はなかったけれど、おそらくは白色に塗られたワイヤーのようなものが張られていたのだ。

(罠が張られている可能性は考えていたのに……!)

 痛みよりも、無様に頭から転んだ恥ずかしさに、目の奥がくらくらする。だが、無様なほど盛大に転んだことがかえって幸いした。

「ぎゃー!」

「ひゃーはー!」

 統子が足を取られてすっ転んだところへ、すぐ横の部屋に隠れていた小人たちが口々に奇声を上げて躍りかかったのだ。

 戸口に潜んでいた小人の数は三匹。全員が、ナイフやカッターを振り翳している。統子のまとっている装甲を斬れそうではなかったけれど、装甲と装甲の継ぎ目に入れば、肉まで届いていただろう。

 しかし、三匹が身体ごと振り下ろした刃は、どれも見事に空を切った。統子が、小人たちの目算を越えるほど派手に転んで床を滑ったからだった。

「く……!」

 統子は、ちゃちな罠に引っかかった恥ずかしさに呻きながらも、とにかくすぐさま跳ね起きて背後を振り返る。

 まさか空振りすると思っていなかった小人三匹は、勢い余って互いに頭をぶつけてしまい、手にしていた刃物を投げ出して悶絶していた。

 ギャグアニメの一場面みたいな有様に、統子は気勢を削がれてしまいそうになる。

(い、いちいちやりにくい奴らね……)

 だが、すぐにもう一匹――自分をここまで誘き寄せる役を担った奴のことを思い出し、再び正面に振り返る。

「ひゃっ」

 ナイフ片手に忍び寄っていた橙色の小人は、いきなり振り向いた統子に驚いて、どてんっと尻餅をついて、またもナイフを取り落とす。これまた笑劇を見せられているかのようだった。

 だが、統子の胸に込み上げてくるのは、呆れや失笑ではなく、屈辱だった。

(こんな馬鹿馬鹿しい奴らの策略にまんまと引っかかって、あんな無様を晒しただなんて……!!)

 小人たちが馬鹿馬鹿しい姿を晒せば晒すほど、そんな連中の浅知恵にまんまと乗せられて盛大な顔面ダイブをしてしまった自分が恥ずかしくて堪らなくなるのだ。

「うっ、ぐ、ぐぐ……!」

 歯軋りするほど食い縛っても、歯の隙間から漏れ出してくる怨嗟の呻き。全身がわなわなと震えてくる。

「ん?」

「おぅ?」

 起き上がった小人たちは四匹で寄り集まって、不思議そうに小首を傾げながら統子を見上げている。とても、ついさっき刃物を持って飛びかかってきたのが嘘のような仕草だ。

 そんなところもまた、統子の怒りと恥辱に油を注いだ。

「おっ……おまえら絶対ぶち壊すッ!!」

「ぎゃー!」

「うぎぃー!」

 怒りを爆発させた統子に、小人どもは我先にと逃げ出した。統子がいま走ってきた廊下を逆走して踊り場へと戻り、階段を上がっていく。それを、統子は獣の様相で追いかける。

「逃がすかぁ!!」

 足の速さで言えば、統子のほうが小人どもよりずっと上だ。しかし、小人たちには地の利がある。たとえば、小人たちがぴょんぴょん跳ね上がっていった階段を統子が追いかけようとすると、微妙に不揃いかつでこぼこした段に爪先を引っかけて、またも転倒した。今度は咄嗟に肘をついて、顔面から落ちることは回避したけれど、装甲に覆われていない肘関節を強かに打ちつけてしまった。

「ぐぁ――ッ」

 喉元まで込み上げてきた悲鳴は、どうにか呑み込んだ。けれど、関節を痛打する痛みを無視することはできず、すぐには身体を起こせなかった。

 これだったら、ヘルメットで防護されている頭から落ちたほうが、まだ早く立ち直れたかもしれない。

「お? おっ?」

「ほほぉう」

 頭上から聞こえてきた奇妙な声に顔を上げると、人形どもが手摺りから身を乗り出して、倒れている統子のことを見下ろして笑っていた。

「……!!」

 小人どもに対する怒りのおかげで、痛みは瞬間的に吹き飛んだ。統子が肘と膝で跳ねるように起き上がるや、さらに勢いを増して階段を駆け上がる。

「ひぎゃー!」

「ひー! ひー!」

 小人たちも口々に悲鳴を上げながら、再び逃げ出す。つづら折りに階段を上へ上へと逃げていき、最上階の廊下へと競うように駆けだしていく。統子も当然、踊り場から廊下へと折れ曲がって、小人どもの後を追う。

「待てえぇッ!!」

 長剣を握り締め、吠えながら追いかける統子。

「ひいぃー!」

「ぎゃひぃ!!」

 騒がしく泣き叫びながら逃げる小人たち。その様子はさながら、山姥に追いかけられる旅人たちの図だ。だが、小人たちが闇雲に逃げているわけでないことを、統子は激情に駆られながらも、心の片隅に残っている冷静な部分で察知していた。

(もし、何の当てもなく逃げているのだとしたら、最上階に来るまでの間に、四匹ばらばらに逃げていたはずだ。それが一丸となって逃げているということは――)

 刹那、正面を睨んでいる統子の目は、何かを見つけた気がした。

「はッ!!」

 統子の脳が、見つけた、と認識するよりも早く、統子の右手がほとんど自動的に跳ね上がって、握っていた長剣でその何かを斬った。

 ぶつっ、と細くて硬いものを切り裂いた手応え。斬った後でもその何かが何だったのかを視認できなかったが、たぶん先ほど足を取ったのと同じく白いワイヤーだろうと察しはついた。

 気づかずに走り抜けようとしていたら、高い位置に張られたワイヤーに首を取られて、今度は仰向けに転んでいたことだろう。

「あぁ!」

「ぎゃふん!」

 統子の前方数メートルのところで歩調を緩めて振り向いていた小人たちは、ワイヤーの罠第二弾が看破されたことに悲鳴を上げて、また一目散に走り出す。しかし、統子が罠にかかるところを見ようとして足を緩めてしまったことが、彼我の距離を大きく縮めさせていた。

 統子と小人たちの距離があと数メートルまで狭まったところで、小人は廊下の角を曲がる。統子もすぐにその後を追う。

「え……?」

 角を曲がったところで、統子の足が急に鈍くなった。廊下の奥を陣取っている奇妙な機械を目の当たりにしたからだった。

 廊下の幅はおよそ二メートル、高さは三メートル程度だが、その横幅と高さをいっぱいに占めた巨大な扇風機だった。

 統子も、この先にも罠が張ってあるかも、とは予想していたけれど、こんな奇妙なものが置いてあるとはまったく予想していなかった。

(な、なんだ、これは一体……?)

 呆気に取られつつも、警戒して足を止める統子。

 小人たちはとてとてと走っていって、巨大な扇風機の背後に隠れる。追いかけようにも、巨大扇風機と壁との隙間は、小人でなければ通れない程度しかない。

「……かえって状況が単純になったわね」

 統子は不敵に笑う。

 小人どもを倒すための障害物となった瞬間、巨大な扇風機は謎の機械から破壊対象へと単純化されたのだった。

「そうと決まれば、あとは壊すだけ――だッ!!」

 宣告するように吠えるや、統子は踏み抜かんばかりの勢いで床を蹴って、巨大扇風機との間にあった数メートルを一足飛びに駆け抜けた。

(この扇風機もどきがどんな玩具か知らないけれど、速攻で壊してしまえばどうでもいい!)

 剣の届く距離まで駆け寄ったところで、最後の一歩を大きく踏み込み、野球投手が上手投げ《オーバースロー》するのと似たような動作で長剣を大上段から振り下ろす。同時に、全身の装甲を光に変えて、長剣を巨大化させた。

 もし最初から巨大な剣だったら、壁や天井に支えて振り抜くことはできなかった。もし長剣サイズのままだったら、統子の身体よりもずっと大きな無機物の塊を斬り砕くことはできなかっただろう。

 拡縮自在の剣。それが統子の武器なのだ。

「せええぇ!!」

 気合い一閃に振り下ろされた長剣は、命中の直前に巨大化する。大剣は、速度を保ったまま増加した質量の分だけ、巨大扇風機としか形容できない機械に分厚い刃をぶち込ませた。

 プラスチックか石、アルミのようなものに刃物を打ち込んだような手応えが、大剣を通して腕から肩へと伝わってくる。その衝撃の重たさで、統子は肩が抜けそうになる。

 堪らず上体が反って重心がずれたそのとき、大剣の餌食となった巨大扇風機が爆発した。

 爆発といっても、火を噴いたのではない。局地的な台風か竜巻が発生したような旋風が、巨大扇風機の内側から溢れ出したのだ。

「――ッ!!」

 耳元でシンバルを叩かれたような爆音。統子の聴覚は一瞬で麻痺し、平衡感覚も掻き消える。上下左右から縦横無尽に殴りつけるような旋風に巻き込まれた身体は、紙切れのように舞い上がって天井や壁、床へと統子の身体を投げつけては弾ませ、また投げつけた。

「が――ッ……ぐぇ――ッ」

 剣を巨大化させるために装甲の大部分を解除していたことが裏目に出た。何度となく叩きつけられた衝撃で肺の中身はすべて押し出され、風で口も鼻も塞がれてしまう。もう、まともに呻くこともできない。

 不幸中の幸いは、ヘルメットを被っているおかげで、頭に致命的な怪我を負わなかったことだろう。

 狭い廊下を吹き荒れた飄風は、十秒ほど吹き荒れたところで、ようやく勢いをなくした。もう少し長く吹き荒れていたら、脳を掻き混ぜられるような感覚に堪えきれず、失神していたことだろう。

「う、ぅ……」

 床に投げ出されていた統子は、手探りするようにしてよろよろと起き上がる。全身の骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げたけれど、痛みに属するものなら我慢できた。

 廊下にはまだ微風が余韻のように吹いていて、方々に被害の痕が刻まれている。天井や床には亀裂がいくつも入っていて、床には弾け飛んだ機械の残骸がはるか向こうのほうまで散らばっていた。

「ひっ」

 統子は、足下に散らばる残骸のなかに小人の生首を見つけて、珍しく女らしい悲鳴を漏した。一度は目を逸らしたけれど、すぐに思い直して小人の首をじっと見下ろす。

「……やっぱり人形、なのね」

 頸部の断面にはぽっかりと穴が空いていて、頭部のなかが空洞になっていると分かった。ソフトビニールの人形みたいだ、という印象は正しかったようだ。

 廊下全体に散乱した瓦礫や残骸を見まわしてみると、他にも人形の首や手足が見つかった。どれも引き千切られていたから正確には分からいが、おそらく人形は四匹全て、先ほどの爆発的な旋風に巻き込まれて破壊されたようだった。

(ということは、あれは故意ではなかったということか)

 統子は一人で納得する。

 あの巨大な扇風機は、衝撃を受けると暴風を巻き起こす機雷のようなものだったのかもしれない――と、ちらと思いもしたのだが、小人たちまでもが巻き込まれていたところを見ると、そうではなかったのだと思えてくる。

(もし自爆することが前提の装置だったら、小人どもは装置の陰に隠れたりせず、もっと遠くへ逃げていたはず)

 あのときは巨大扇風機が邪魔でよく見えなかったけれど、小人たちは扇風機の裏側で何かしようとしていた。たぶん、扇風機を作動しようとしていたのだ。

(でも、作動するより早く、わたしが斬った。だから、爆発した――あ!)

 思考がそこに至ってようやく、統子は自分の壊した扇風機もどきが何だったのかに気がついた。

(これは竜巻を作り出す装置だ。外でわたしを襲ったのも、建物の屋上か外壁あたりに取り付けられた、これと同じものだ)

 ヘルメットのなかで、顔からさっと血の気が引く。

(もし、壊すのが遅れていたら、外で見たのと同じ竜巻が直撃していたのよね……)

 爆発させたことで威力を四方に分散させたから、全身がずきずきと軋みを上げている程度で済んだけれど、もし直撃していたら、身体が文字通りの意味でばらばらになるまで竜巻に嬲られていたことだろう。それを想像すると、さすがに猪突猛進を反省したくなってくる。

「――いいえ、違う。逆だ」

 統子は声を出して、反省心に姿を変えた弱気を追い払った。

(いまのは猪突猛進したから、ダメージを抑えることができたんだし、うざったい小人どもを一掃することもできたんだ。慎重派を気取って臆病風に吹かれていたら、それこそ本当に、竜巻の餌食にされていた。そう――突っ込んで正解だったんだ)

 心のなかでそう言ってみると、自分の行動とその結果に自信が湧いてきた。それが結果論だろうと屁理屈だろうと、いまは自信を揺らがせていいときではない。まだ、敵は生きているのだ。

(廊下の形からして、空き地を囲んでいる建物は三棟別個の建物じゃない。コの字型をした大きな一棟の建物だ。ということは、扇風機を設置した敵と、小人を操っている敵の二人は、まず間違いなくこの建物のなかにいる……これはチャンスだ)

 ごくり、と統子の喉が鳴った。-

 二対一になるとはいえ、相手方の武装はいまここで壊したばかりだ。無防備なところを攻めるのは気が引けるけれど、先に手を出してきたのは向こうだ。遠慮してやる必要はない。

(よし、とにかく探してみよう)

 統子がそう決意したとき、ふいに瓦礫の崩れる物音がした。統子は反射的に物音がしたほうへ目をやるが、動いているものはない。

(……聞き間違い?)

 そう思いかけたとき、またも同じ物音がして、足下に散らばる残骸の下から一匹の小人が這い出してきた。

 統子は、小人は四匹全てが竜巻に呑み込まれて破壊されたと思っていたのだが、それは勘違いだったようだ。この一匹だけは、仲間を盾にして危機を免れていたのだ。

 這い出てきた小人は、そのまま統子を振り返ることもせず、よたよたと蛇行しながら廊下のさらに奥へと進んでいく。

 統子は直感した。

(こいつ、契約者のところへ逃げ帰るつもりだ。だったら、追いかけていけば探す手間が省ける)

 そう判断するや、小人の後を追いかけて小走りで歩き出す。ふらついている小人を追いかけるのに、走る必要はなかった。一応は、また罠に誘導されている可能性を考えていたが、歩きながらだったら警戒するのは訳ないことだった。

 小人は統子に追われていることに気づいてもいない様子で、酔っぱらいのようにふらつきながら廊下を進んでいく。途中で一度、ぴょんと不自然に跳んで進んだところをよく見ると、そこにも白いワイヤーが張ってあった。それを大股で踏み越えていくと、小人が今度は壁に沿って歩き出す。なぜかと思って統子が廊下の中央部分に目を凝らしてみれば、なんとそこには白いシートが敷いてあった。きっと、そこに落とし穴が掘ってあるのを隠しているのだろう。

(こいつら、どれだけ罠を張っていたんだ……)

 統子はもういっそ驚くよりも呆れてしまったが、逆上しているときだったら、こんな単純な罠にでもあっさり引っかかっていたかもしれない。

(というか、事実、引っかかったわけだし)

 いまになって思い返してみると、ワイヤー一本で面白いように転ばされていた自分の間抜けさに赤面してくる。

 ――そんなことを考えてしまうくらい、追跡は楽だった。

 そのうちに、廊下の曲がり角が見えてくる。これまで進んだ距離からしても、統子が転がり込んだ棟をコの字型の底辺とするなら、上辺にあたる棟へと入る曲がり角だろう。

 小人はその角を曲がってさらに進むのかと思いきや、しかし、その手前で進行方向を真横に変えた。曲がり角の手前に、その角の内側にくっつくようにして踊り場があったのだ。

 小人は階段を半分転がりながら下りていく。統子も足下、それから首の高さにワイヤーが張られていないかを注意しながら、後について下りていく。

 一階分だけ下りたところで、小人はまた廊下へと出て、コの字の縦棒にあたる廊下を少し戻る。そして、廊下に並んでいる戸口代わりの四角い穴のひとつに、倒れ込むようにして入っていった。

「馬鹿、なんで戻ってきたの!」

 小人が入っていった部屋の奥から、若い女の声がした。声からして、統子とそう違わない年頃のようだ。

(……相手が誰だろうと、いまさら構うか)

 ほんの一時でも覚えてしまった後ろめたさを振り払って、統子はその部屋に躍り込んだ。

 部屋の大きさは八畳間より少し大きいかというところで、統子が先ほど破壊した竜巻発生器をさらに小さくしたようなものが三つ、送風口を戸口に向けて並べられていた。その奥には、白いフードのついた広袖の貫頭衣ダルマティカを着て、両手で拳銃らしきものを構えている少女の姿も見えた。すっぽりと被ったフードの下半分から見える顔のラインや、膝上丈の貫頭衣から伸びた華奢な素足は、彼女が間違いなく女性であることを示していた。ついでに、彼女の足下に、ここまで逃げてきた小人がぐったりと座り込んでいるのも見えた。

 視認できたのは、そこまでだった。

「うっ、撃て!」

 少女が切羽詰まった調子でそう言うや、こちらを向いている三機の巨大扇風機が一斉に送風口から奇音を発しだした。

「――ッ!!」

 統子は咄嗟に身を翻して、戸口の外まで逃げた。その直後、ウェスタンハットの男をばらばらに引き裂いたのと同じ横殴りの竜巻が、部屋の戸口から迸る。

 戸口正面の壁にぶち当たった竜巻は、轟音を爆ぜさせながら廊下の左右に衝撃波を撒き散らす。背中を押される形になった統子だが、そうくることは予期していたために、前回り受け身の要領で転がって大した傷は負わずに済んだ。

 統子はすぐさま立ち上がって追撃に備えるが、少女は部屋から出てくる気がないらしい。

(怖くて要塞化した自室から出てこれない、ね。引き籠もりの中学生か、この女……ああ、ヤチヨ、だったかしら)

 ウェスタンハットの男が今際に叫んでいたのは、この女の名前だろう。

(陰に隠れて仲間ごと撃つか、罠を張った建物のなかに引き籠もっているかしかできないタイプ……こんなのと共闘しようなんて考えたあの西部劇野郎は、よっぽどのお人好しだったんでしょうね)

 胸中で嫌味たっぷりに毒突く一方で、冷静な思考も働いている。

(どうやら、小人使いと竜巻使いの二人がいたわけじゃなく、どちらもさっきの子……ヤチヨの玩具みたい。話が早くて助かる)

 にっと唇を歪めて、ほくそ笑む。

 敵が一人で、しかも一箇所から動く素振りがないとなれば、攻略は簡単だった。

 統子はもと来た道を引き返すと、階段を上って、部屋のひとつに駆け込む。ちょうど、ヤチヨの籠もっている部屋の真上に当たる部屋だ。部屋の間取り、天井の高さなどは下の部屋と同じで、剣を振うのにもぎりぎり問題ない。

「よし……」

 統子は呟くと、腰を下ろして両足を広げ、どっしりと構える。剣は肩に担いでいて、鍬を振りかぶったような体勢だ。

 そして、気合いの声とともに全身を銀色に輝かせる。

「はぁ――ッ」

 銀の光は一度、関節部を除いた全身を包む装甲へと変わってから再び光へと分解され、握り締めている両手の先へと集まり、長剣を巨大化させた。

 統子は腹に力を込めて、さらに声を絞り出す。

「うお、お、おおおぉッ!!」

 装甲の下から露わになった黒いスーツが黒い光へと分解されて、両手首、両足首に嵌った黒環に再構成される。

 全身全霊を攻撃のみに注いだ姿になると、大きく背を反らして、全身をひとつの鞭にする。そこで一度、ぴたりと静止。

 両手両足の黒環が低い唸りを上げて回転を始める。両手と両足とで逆方向に向かう力が生まれ、担がれた大剣を統子の身体ごと凄まじい勢いで振り下ろさせた。

「――はッ!!」

 統子の口から放たれた咆吼を圧するほどの爆音が、大剣の刃を叩きつけられたコンクリート敷きの床から轟いた。分厚い刃が当たったところはクレーターのように陥没し、放射状の亀裂が四方八方に走っている。

 統子は逆再生するような動きで大剣を引っこ抜くように持ち上げ、肩に担ぎなおす。そしてもう一度、同じ場所に全力で大剣を叩きつけた。

 爆発が起きたような轟音が四方の壁と天井に反響して、鼓膜をわんわんと麻痺させる。床はさらに陥没し、亀裂も酷くなる。衝撃で噴き上がったコンクリート片が、霰のように落ちてくる。そのいくつかは統子の肩や背中にも当たったけれど、統子は身動ぎひとつしない。機械仕掛けのように淡々と大剣を振りかぶって、三度、床に叩きつけた。

 再びの爆音と衝撃。床全体がすり鉢状に陥没して、亀裂はついに床の四方にまで広がる。

 剣を振り下ろした体勢で固まっている統子の足下で、ぴしっ、と弾けるような音がした。音は一度で終わらず、二度、三度、と続けざまに響き始める。響くたびに、音は大きくなっていく。最後には土砂崩れのような大音量になって――そして本当に、土砂崩れが起きた。三度の斬撃によって刻まれた衝撃が、ついに床を崩壊させたのだった。

 自重を支えきれなくなったコンクリート床が、ごうごうと破滅的な音をぶちまけながら落ちていく。

「きゃ――」

 足下から少女の悲鳴が聞こえたような気がしたが、崩壊の轟音に呑まれて、すぐに分からなくなった。

 統子自身も床材と一緒に落下したけれど、瓦礫に打たれた階下の住人とは違って、さしたるダメージは受けていない。瓦礫の上に着地したときの衝撃で足が痺れた程度だ。

 統子は立て膝の体勢で痺れが収まるのを待ちながら、自分の起こした崩壊の結果を見まわす。

 崩れた床の下敷きになった室内には、まだ粉塵が立ち込めている。床には一抱えもある大きな瓦礫と、それに押し潰された扇風機の成れの果てが散乱している。瓦礫の下から覗いている緑色の布きれは、小人のうちの一匹が着ていた貫頭衣の切れ端だろう。

「……」

 統子はゆっくり立ち上がると、扇風機や小人の残骸からおおよその位置関係に当たりをつけて、すぐそこの瓦礫を抱え上げにかかった。普通なら持ち上がりそうにないものも、回転する黒環で補強されている状態でなら、軽々と持ち上げることができた。

 統子が探していたのはヤチヨの姿だ。

 床の――この部屋からみたら天井の崩落に巻き込まれていれば、おそらくこの辺りで下敷きになっているだろうと踏んだのだが、案に相違して、ヤチヨの姿はなかった。

(床を壊す途中で気づかれて、逃げられた……ということ?)

 あれだけの物音をさせたのだから、その可能性は十分にあり得る。このまま部屋中の瓦礫を片付けるより、部屋の外を探したほうがいいだろうという結論はすぐに出た。

 その結論が正しかったことは、部屋を一歩出たところですぐに証明された。部屋の出入り口から廊下の先へと、点々と落ちた血痕が続いていたのだ。

(そういえば、あの女は素足だったっけ)

 統子は、ヤチヨが膝上丈の広袖貫頭衣で、膝から下は素足にサンダル履きだったことを思い出す。ヤチヨと相対したのはほんの一分足らずでしかなかったが、これまで会った契約者たちのような全身スーツ姿でなかったため、印象に残っていたのだ。

(きっと、気づいたのは天井が落ちてくる寸前だったのね。だから、逃げるのが少し遅れて、飛び散った瓦礫で足に怪我をしたんだ)

 統子はそう推測しながら、血痕を追いかけた。血痕は、廊下の角を曲がり、さらに向こうへと続いている。真っ直ぐな廊下をしばらく行ったところで、血痕はぷっつりと途切れていた。その横手を見れば、扉のない出入り口がぽっかりと口を開けている。

 統子は待ち伏せを警戒しつつ、慎重にその戸を潜った。

 戸の向こうに広がっていたのは、四方を壁に囲まれた部屋ではなく、三方が外に開けているテラスだった。窓に先に床板を張り出した場所、と言うべきか。

 そのテラスの端っこに、ヤチヨは立っていた。柵などないので、もう二、三歩進んだら、そのまま地上まで真っ逆さまだ。ヤチヨの右脹脛には血を滴らせている大きな裂傷があって、立っているのもやっとという印象だったから、本当によろけて落ちてしまいそうに見えた。

「こっ……来ないで!」

 統子に気づいて振り向いたヤチヨが、恐怖に震える声で叫ぶ。

「き、来たら飛び降りてやるわよ!」

 付け加えられたその言葉に、統子は図らずも失笑した。

「わたしは、あんたに止めを刺しにきたんだ。飛び降りるというのなら、その手間が省けて助かる」

「うっ……」

 ヤチヨの華奢な身体が、がくがくと震える。恐怖に耐えるためか、両手で自分の身体を抱き締めている。

(これじゃ、わたし、悪役みたいだ)

 統子は憮然とした気持ちにさせられた。

 最初に姑息な戦法で攻撃してきたのは向こうなのに、無力な被害者然とした態度で怖がっている様子が、統子を酷く苛立たせるのだ。

 ヤチヨは、統子がヘルメットの下でどんな顔をしているのか想像できないのか、今度は一転、媚びた声音で命乞いしてくる。

「ねえ、お願い。見逃して。わっ……わたしが負けちゃったら、まーくんがまた死んじゃうの。あなただって分かるでしょ? わたしの気持ち、分かるでしょ? もう二度と、あなたに手出しはしないわ。あっ、今度見かけたら、あなたが勝ち点を稼げるように協力してもいい……ううん、協力したいの。あなたにとっても、そのほうが得でしょ。ね?」

 ……それは途方もなく身勝手な要求だった。

(わたしを――梨花をまた殺そうとしておいて、自分がやられそうになったら命乞い? この女、そんなものが通ると思っているの!?)

 相手のあまりにも厚顔無恥な態度に、残酷な気持ちが大きく鎌首を持ち上げる。けれども、それと同時に、彼女に共感する気持ちもまた込み上げてきていた。

(わたしだって、この子の立場になったら、梨花を守るためにどんな無様なことでも躊躇いなくするでしょうね。いまのこの子みたいに)

 そうやって、ほんの少しでも共感してしまったら、たとえどれだけ憎くても、自分の手で引導を渡すことはできなかった。

「……やる気が失せた」

「え……?」

 統子の呟くような声に、ヤチヨはぽかんと口を開ける。

「止めを刺す気が失せたと言ったの。わたしの気が変わらないうちに、とっとと消えて」

 統子がぶっきらぼうに言い放つと、ヤチヨの口元に歓喜の表情が浮かぶ。フードで目元が隠れていても、ヤチヨが満面の笑顔をしているのは見間違いようがなかった。

「あっ、ありがとう! ありがとうございます! このご恩は絶対に忘れません!」

 絶対に忘れない、と言いつつも、ヤチヨは早くも構内へ駆け戻ろうとする。一刻も早く統子から離れたいという意図が見え見えだった。

(べつに、何かを期待していたわけじゃないから、どうでもいいけれど)

 統子は舌打ち混じりに溜め息を零しながら、自分の傍らを通り過ぎていくヤチヨのことを、なんとなく目で追った。

 そのとき、ひゅっ、と風を切る音が統子の鼻先を過ぎった。

「え……」

 統子は反射的に風切り音を追って、視線を移す。その目が見ている前で、ヤチヨは後頭部から濁った血を噴き上げながら前のめりに倒れていった。

 目の前で何が起きたのか、すぐには理解できなかった。

(いま、何がどうして……彼女が、倒れて……!? そんなことより!!)

 何が起きたのかを考え、理解するよりも先にすることがある。この場からいますぐ逃げることだ。

 統子は、ヤチヨが顔面から床にぶつかって鈍い音をさせたときにはすでに、彼女の身体を飛び越して構内へ転がり込んでいた。飛び込み前転の要領で廊下に片手をついて身体を九十度方向転換させ、壁の陰に身を隠す。それとほとんど同時に、さっきの風切り音が、戸口に面した床に穴を穿った。

(狙撃!?)

 銃声は聞こえなかったが、他に考えられない。

(狙撃だとしたら、どこから……ああいや、どうでもいいか)

 統子はすぐに考えるのを放棄した。

 遠方からの狙撃だとしたら、どのみち剣では手が出せない。それに、こうして隠れていれば、向こうからも手は出せない。つまり、このまま建物構内に時間切れまで隠れていればいいだけ、ということだ。

 壁に凭れて座り込んでいる統子のすぐ横には、突っ伏したまま動かないヤチヨの頭が見えている。首は向こうを見ているから、統子から見えるのは後頭部だけだ。どんな顔をしているのか見えないのは、たぶん幸いだった。

 ごぉん、と鐘が鳴り響いた。


 ●


『統子ちゃん? ねえ、統子ちゃんったら。聞こえてないの?』

 一瞬の暗転から覚醒するや、梨花の大声に耳を打たれた。

「えっ……あ、ああ、ううん、聞こえてる。ごめん、ちょっとぼんやりしていた」

 慌てて返事をしながら、統子は自分が梨花と電話している最中だったことを思い出していた。

『ぼんやりって……いま、すごく大事なことを聞いたのに、もう!』

「ごめん、ごめん。それで、なんて言ったの?」

『えっと……』

「ん?」

『……映画、面白かった?』

「映画自体はとっても。だから、今度は梨花と一緒に観に行きたいな」

『同じのを二回観るの?』

「そのくらい面白かったの。梨花も絶対、観て良かったと思うから」

『へぇ、統子ちゃんがそんなに言うほど面白いんだ……』

「来週あたり、観に行く?」

『ん……考えておく』

 結局、その話題はうやむやのうちに次の話題へと換わり、うやむやのままに終わった。

 二人はいつからか、この話題について触れるとき、お互いに話の核心がどこにあるのかを知っていながら、お互いに知らないふりをして無意味に話し続けることが暗黙の了解となっていた。

 その了解も、いつかは破られる日がくるのかもしれない。しかし、少なくとも統子は、そんな日が来ないことを切に願っていた。

 梨花の願いが自分の願いとは違っていることを、知っていながら知らないふりをして。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る