第2話 大戦《マキア》

 交通事故の犠牲者になった桜木梨花が生き返った。

 ――と、統子は最初そう思っていたのだが、あれから帰宅した後で両親と話したり、テレビやネットで調べてみたことで、どうやら生き返ったというわけではないようだった。

 あの交通事故が起きたという事実自体が、なかったことになっているようだった。

(生き返ったのではなく、そもそも死んでいない、ということになったわけね)

 翌日の朝、登校するために家を出たときにはまだ半信半疑だった統子だが、桜木家に寄って梨花と落ち合ったときには、まだ僅かに残っていた疑念などはあっさりと吹き飛んだ。

「おはよう、統子ちゃん。今朝はいつもよりちょっと早いね」

 玄関のなかで待っていた統子の前に、廊下の奥から梨花がぱたぱたと小走りでやってくる。白いセーラー服の襟元に赤いスカートをいそいそと結んでいる姿を見ただけで、疑いを抱く余地などなかった。

「梨花……おはよう」

「え? やだ、また泣きそう!?」

 目の端に涙を溜めながら微笑んだ統子に、梨花は目を丸くる。

「統子ちゃん、昨日から変だよ。やっぱり何かあったんじゃないの?」

「ううん、本当になんでもないの。ただちょっと……嫌な夢を見て、それで、ね」

「嫌な夢って……もしかして、わたしが死んじゃう夢だったり?」

「えっ」

「あれ、当たり?」

「え、ええ……まあ、そんな感じ」

「うわぁ……」

 口元に手を当てて怯える梨花。

「統子ちゃんがあんなに慌てるなんて、どれだけリアルな夢だったの? なんだかちょっと怖いかも。正夢だったりしたら嫌だな……」

「それはない!」

 統子は即座に否定するなり、梨花の肩を両手で掴んでまっすぐ見据えた。

「きゃっ」

 と、梨花が小さく息を飲んだけれど、それも聞こえていない。

「梨花は死んだりしない! そんなこと、わたしが絶対に許さない!」

「きゃっ、ちょ……統子ちゃん、痛いって」

「あっ、ごめん!」

 統子は慌てて、仰け反るようにして梨花の肩から手を離した。

「もう……びっくりした」

「ごめんなさい……」

「いいよ、べつに。よく分からないけど、統子ちゃん、わたしのことを心配してくれてるんでしょ」

「……うん」

 統子が恥ずかしげに首肯したのを見て、梨花は満足げに目尻を緩めた。

「だったら良し。あっ、ほら、もういつもの時間だよ。もう行かないと遅刻しちゃう」

 玄関に時計はないけれど、食卓のテレビから聞こえてくるニュース番組がいつもの時間に始まる占いコーナーのジングルを鳴らしたら、もう出発しないと予鈴に間に合わなくなる。

「ほら」

 梨花はもう一度言うと、統子の手を取って先に歩き出した。引っ張られるようにして、統子もその後に続く。いつもの登校風景だった。

 いつも通りに学校へ行き、いつも通りに授業を受ける、いつも通りのいつも。

(二度と、こんないつもは来ないと思っていた)

 黒板の前に立っている教師の話し声を聞きながら、統子はしみじみと幸せを噛み締める。午前中から早くも眠気を誘う老教師の抑揚不足な話し声も、今日はまるで男性オペラ歌手の美声に聞こえる。

 窓から吹き込んでくる風は緑の香りをたっぷりに含んで清々しいし、高く広がる青空も、横目に見上げるだけで心が洗われる。

(ああ……いつも通りって、なんて素晴らしいんだろう)

 何ごともなく始まって、何ごともなく過ぎつつある日常がこんなにも幸せなのだとは思わなかった。他のクラスメイトは真面目にノートを取っているか、深々と俯いて寝入っているかなのに、統子だけはにこにこと目元や口元を緩ませて笑んでいるのだった。

 幸せすぎて授業内容がさっぱり頭に入らないまま、昼休みになった。

 統子は早速、ハンカチに包まれた弁当箱を持って席を立つと、隣のクラスに向かう。統子のクラスは一年一組で、梨花は隣の二組なのだ。

「梨花。お昼、一緒に食べよう」

「うん」

 梨花は頷きながら立ち上がる。

 いつもだったら、ひとつ前の席から椅子を借りて、梨花の机で向かい合って食べるのだけど、

「今日は天気もいいし、外で食べない?」

 梨花のほうから、そう誘ってきた。

 統子はすぐに、

(何か、教室じゃ話しにくい相談事があるんだ)

 と、ぴんと来た。

「分かった。それじゃ、テラスに行ってみよう」

「うん」

 もう一度頷いた梨花と統子は、連れ立って教室を出た。

 藤咲高校の校舎を横から見ると、おおむね凸の形をしている。中央部分だけが四階建てで、それを囲む部分は二階建てになっているのだ。その二階建て部分の屋上にはベンチやレンガ積みの花壇が設置されていて、生徒たちから「中庭」や「テラス」と呼ばれていている。

 風や日差しを遮るものがないため、真夏や冬には閑散としているけれど、今日みたいな過ごしやすい陽気の昼休みには、パンや弁当を携えてやってくる生徒も少なくなかった。

 統子たちがやってきたときも、すでにベンチは先客の生徒で埋まっていたから、二人は花壇の縁に座って弁当を広げる。

 しばらくは、当たり障りのない話題に興じながら箸を進めた。二人の弁当箱が空になって、統子が水筒に持参してきた焙じ茶で食後の一服を楽しだところで、梨花はようやく相談事を切り出した。

「あのね、統子ちゃん」

「うん」

「こんなこと、統子ちゃんに相談するのってどうなのかなぁとも思うんだけど」

「うん」

「でもやっぱり、統子ちゃんにしか相談できないっていうか、統子ちゃんには確認しておくべきというか……」

「……うん?」

 それまで静かに相槌を打っていた統子だったが、どうにも歯切れの悪い梨花の様子に小首を傾げる。

「どうし」

 たの、と言いかけたところで、ふいに大きな鐘の音が鳴り響いた。どこか遠くで鳴っているようにも、あるいは耳の内側で鳴っているようにも聞こえる不思議な鐘声だった。

(この鐘が鳴っているということは――)

 統子は咄嗟に空を見上げる。

 抜けるような青色だった空は、見る間に黒く染まっていった。いや、空が黒くなったのではない。黒くなったのは、中天に燦々と輝く太陽だ。黒い太陽から降り注ぐ黒い日差しが、色としてではなく光として、空や景色を黒く照らし上げていたのだ。

 世界の暗転。白と黒、光と陰の逆転。

 そして、自宅に置いてきたはずの黄金鍵が、右手の掌から滲み出すように現われたかと思うと眼前に浮き上がっていき、激しい黄金色の光を発する。

(ああ……昨夜と同じだ)

 鐘の音が一際大きく鳴り響き、聴覚を麻痺させる。連動するように、視覚も失せる。五感のうち二つが瞬間的に失われたことで、立ち眩みのように平衡感覚までもがすぅっと遠退き、座っているのに転ぶような落下感に襲われる。

 感覚の喪失は一瞬で過ぎ去った。


 ●


 統子がはっと目を開けたときには、黒い太陽に照らされた無機質なコンクリートの街並みが広がっていた。

(昨日と同じ街だ)

 直感を働かせるまでもなく、それは明らかだ。ただし、昨夜の場所とは違った通りのようでもある。もっとも、看板や標識はおろか、色や彩りというものの一切ない無個性な街並みだから、本当に別の通りだという確信は持てないけれど、なんとなくそう感じるのだ。

「うん……あの鐘が鳴ると、この街のどこかにランダムで飛ばされる、ということなのかしら」

 統子は独りごちながら自分自身を見下ろして、服装がどうなっているのかも確認する。予想通り、セーラー服から、黒地に銀の板金を貼り付けたライダースーツに変わっていた。頭を触ってみると、昨夜と同じく、流線型のヘルメットも被っている。

「ある意味、ここでの制服ということになるのかしらね」

 ふっと苦笑を漏したところで、統子は自分があまり狼狽えていないことに気がついた。もちろん、多少の緊張はしているけれど、萎縮して身体が硬くなっている……というようなことはなかった。

(あっ、この感じはそうか。試合前の感じだ)

 道場での練習試合や、大きな体育館での公式試合に出場するときに感じている、緊張と高揚の綯い交ぜになった独特の熱気が、統子の血管を循環していた。

 早く戦いたい。わたしはもういつでも戦えるぞ――身体がそう言っていた。

 だがしかし……

(……誰もいない)

 黒く照らされた街並みには、人っ子ひとり歩いていないどころか、風ひとつ吹いてもいない。音もなく、色もない、まさに殺風景という言葉そのままだ。

(そういえば、昨晩も最初はこんなふうだったっけ)

 あれからまだ二十時間と経っていないのに、ずっと昔のことだったように思える。

(ううん、ついさっきのことだったようにも思う)

 通りに沿って歩き出しながら、統子は取り留めもなく思考する。単色の風景がそうさせるのか、ここでは時間の感覚が希薄になる。この場所で目を覚ましてから何分が過ぎたのか――五分か十分か、それとも小一時間ほど経ったのか、歩いているうちにますます分からなくなってくる。それでも歩いているのは、何かが起きるのをただ待っていられるほど、統子は我慢強くないからだった。

(すぐに突っ込んでしまうのは、わたしの悪い癖だ……と分かっていても、性分なんだから仕方ないわ)

 自分の短所について自覚していながら、改める気のない統子だった。気性のままに攻めて、それでも勝ちを拾えるようにするため、何年も稽古を積んできたのだ。

 短所を直すより長所を伸ばせ、が統子の座右の銘である。

「……!」

 散漫な思考に耽っていた意識がふいに、前方の一点に集中した。いま、そこの物陰から何かが覗いていたような気がしたのだ。

 統子は少しだけ迷ってから、思い切って声を張り上げた。

「出てこい、見えているぞ」

 ……返事はない。

 見間違いだったのだろうかとも思ったけれど、念のためにもう一度だけ声をかけてみる。

「出てこないなら、こっちから――」

「分かった、分かったよ。出ていくから、そんな怖い声は止めてくれ」

 統子が睨みつけている物陰から返ってきたのは、飄々とした男性の声だ。声に続いて、本人も物陰からゆっくりと歩み出てくる。これ見よがしに両手を上げているのがまた、人を食った印象を醸し出していた。

 出てきた男の格好は、統子や、昨夜に一戦交えたアラタと同じようなものだ。濃紫色のライダースーツに、同色のつや消しヘルメット。スーツの首から下には、何本もの革ベルトがハーネスのようにぐるぐると巻き付けられている。

(なんだか、いやらしい格好……)

 統子の第一印象はそれだった。そして、そんな感想を抱いてしまう自分自身に赤面してしまったりもした。

「やあ、そろそろ手を下ろしてもいいかな?」

 少しぼんやりしていた統子に、男が冗談めかした態度で話しかけてきた。

「あ……べつに、好きにすればいい」

「それじゃ、お言葉に甘えて」

 男は上げていた両手を下ろすと、そのままの流れで大袈裟にお辞儀をしてみせた。

「初めまして、ぼくは春日かすが紀之のりゆき。気軽にノリユキと呼んでくれたら嬉しいな」

「……」

「ぼくは自己紹介したんだけど、きみはしてくれないのかな?」

「……」

 答えない統子に、ノリユキと名乗った紫スーツの男は無言で肩をすくめた。暗い日差しに溶け込むような濃紫のヘルメットを被っていても、その奥で皮肉っぽく笑っているのだろうことは想像できた。

「なんだか、ぼく、随分と嫌われちゃってる? 初対面だと思うんだけど、第一印象、そんなに悪かったかなぁ」

「……お喋りは、もういい」

 これ以上、この男と話をしても神経を逆撫でされるだけだ――そう判断した統子は左半身を前に出した片手下段の構えを取って、戦意を露わにする。その戦意に呼応して、全身が銀色に輝く。膨れ上がった輝きはすぐに収まり、銀の鎧と長剣に変わっていた。

「えっ……いやいや、ちょっと待ってくれよ。こっちは戦うつもりじゃないんだからさ」

 武装した統子に、ノリユキは大袈裟に仰け反りながら両手をぶんぶんと振って、自分に戦意がないことを訴える。

「戦うつもりがないだなんて、信じられると思う? 契約者は他の契約者と戦う――それが義務なんでしょう」

 統子は構えを解かずに聞き返す。問答無用で斬りかからないのは、罠を警戒しているというのもあるが、丸腰の相手に斬りかるのが躊躇われたからだ。

 統子のそういう性格を見抜いているのか、ノリユキはいっそう大きな身振りで天を振り仰いで嘆息する。

「契約者同士で戦うのが義務だって? 誰から聞いたんだい、そんな嘘を」

「え……」

 その返答をまったく予想していなかった統子は、がくんと肩を落して隙を晒してしまう。すぐに身体へ力を入れ直したものの、ノリユキが隙を突こうと思えば、できたはずだ。しかし、ノリユキは統子の晒した隙に気づいたふうもなく、大袈裟な身振りで嘆きの演技を続けている。

「嘘も嘘、大嘘だよ。確かにぼくたちは、レアと契約して喪失をなかったことにしてもらった代わりに、こんな寒々しい異空間でこんな馬鹿らしい格好をさせられているけれど、ただそれだけだ。魔法みたいに武装できるからって、戦わなくちゃならない義務も必要もないんだよ」

「……」

「というか、きみだってそのくらいのことは、契約する前にレアから聞いているんだろ?」

「……いいえ」

「え?」

「聞かなかったの。どんな条件だろうと呑むことに変わりはなかったから、聞くだけ時間の無駄だと思って」

 統子の声は、どことなく上擦っている。さすがに大人げないことをしたものだ、と恥じ入っていたからだった。

「せめて、契約した後からでもいいから説明してもらっておけば良かったのに」

「わたしだって、そうできるなら、そうしていた。でも、あの女はすぐにいなくなってしまったんだから仕方がないでしょう」

「ああ、そうだな。そりゃあ仕方ないな」

 皮肉にしか聞こえない口振りに、統子はメットのなかで眉を顰める。その雰囲気が伝わったのか、ノリユキはまたも大仰な仕草で頭を振った。

「ああっと、悪い。馬鹿にするつもりで言ったんじゃなくてだな、ただ、戦うことが義務なんじゃないって言いたかっただけなんだ」

「……だったら、何をするために、わたしたちはこんな場所に飛ばされてくるの?」

「生き残るために、さ」

「生き残る?」

「そう。開戦の鐘が鳴ってから停戦の鐘が鳴るまでの間、この暗転都市ネガロポリスで行われる大戦マキアを死なずに生き延びること。それが、ぼくたち契約者の義務なんだ」

「ネガロポリス……」

「あ、もしかして、その名前も初めて聞いた?」

「……ええ」

 統子が気恥ずかしげに首肯すると、ノリユキは勝手に慌てて両手を振る。

「あっ、べつに馬鹿にしたわけじゃないんだよ。ただ、本当に何も説明されていないんだな、って驚いちゃってね」

「……」

「それで、だ。ぼくたちの間で戦う必要がないってことは納得してもらえたかな?」

「……」

 統子は即答を避ける。その沈黙にも、ノリユキは笑い声で応じた。

「分かるよ、きみがいま考えていること。ぼくの言葉が真実かどうか、疑っているんでしょ」

「……」

 この場合の沈黙は、肯定と同じ意味だ。

「きみの疑念はもっともだ。なにせ、ぼくたちは初対面で、お互いのことなんて何も分かっちゃいないんだからね。でも、初対面だからって喧嘩腰になる必要もない。どうだ、違うかい?」

「つまり、あなたに戦う意志はない。だから見逃して欲しい、と言いたいのね」

「惜しいけど少し違う。ぼくは逃がして欲しいんじゃない。きみに共闘を申し出ているんだ」

「え、共闘……?」

 統子は驚きの声で鸚鵡返しした。下段に構えていた剣はいつの間にか、だらりと垂れ下げられている。驚いている統子に、ノリユキは大きな手振りを交えながら、ここぞとばかりに言い募る。

「そう、共闘だ。いまも言ったけれど、契約者同士が戦う必要はない。それでも、人目がないというだけで理性を飛ばして暴れ出す奴はけして少なくないんだ。そういう説得の通じない相手からは逃げるしかないんだけど、いつも逃げられるとは限らない。袋小路に追い詰められたりしたら最悪だしね。だから――」

「だから、そういう交渉できない相手がやってきたら、協力して返り討ちにしよう、と」

「うん、そういうこと」

 統子の返事に、ノリユキは満足そうに大きく頷き、続いて右手を差し出した。

「お互いにとって有益な提案だと思うんだけど、ぼくの申し出、受けてくれるよね」

 それは疑問ではなく、確認の言葉だ。断られるとは夢にも思っていないという態度だった。

 統子はしかし、すぐに彼の手を取って握手しようとはしなかった。

「その申し出について答える前に、ひとつ答えて」

「あれ? ぼくの説明、分かりにくかったかな」

「戦う必要がないことも、共闘の有益性も理解したわ」

「それだともう、ぼくに言うべきことはないと思うんだけど」

「いいえ、あるわ」

 統子はノリユキのことをじっと睨めつけながら続ける。

「わたしが裏切るとは思わないの?」

 そう言った途端、ノリユキは腹を抱えて大笑いした。当然、統子は苛立つ。

「何がおかしい?」

「ああ、ごめん。馬鹿にしたわけじゃないんだ。ただ、きみって自分のことをあんまりよく分かっていないんだな、と思ってさ」

「……?」

「初対面で、それもヘルメットに全身スーツを着ていたって一発で分かるよ。きみは面従腹背なんて腹芸ができるタイプじゃない。賭けてもいい」

 ノリユキはそう言い切ると、右手を差し出したまま、ゆっくりと統子のほうに歩いてくる。統子は反射的に身構えかけたけれど、すぐに力を抜いて、自分のほうからも右手を差し出した。

「あ、待った」

 いよいよ手を握ろうという直前、ノリユキが言った。

「名前を知らない相手とは手を握れないよね」

「……統子よ」

「統子さん、ね。いい名前だ」

 ノリユキはそう言うと、今度こそ統子と握手した。統子も、何も言わずにその手を握りかえした。

 握手が成ると、ノリユキはすぐに手を離して言う。

「それじゃ、場所を移そうか」

「どこへ?」

 聞き返した統子に、ノリユキはすぐそこの大きな建物を顎で指し示した。

「さっき確認しておいたんだけど、あのビルのなかは隠れるのに十分な広さがある。きみと共闘するとは言ったけれど、誰とも戦わずに済むのなら、それに越したことはない。そのためには、人に見つからないように隠れていたほうがいいからね」

「なるほど、分かったわ」

 統子はとくに異を唱えることなく、ノリユキに従った。

 二人が入ったビルの構内は、外観と同様の殺風景なものだった。なかに入ってみると、「ビル」という「長方形の箱」というほうが正しいことに気がつけた。構内には階層分けする天井も階段もなく、およそ三十階建てほどの高さが完全に吹き抜けとなっている。だが、だだっ広いだけで何もない空間というわけではない。両手をまわしても抱えきれない太さの支柱が数本、無秩序に百メートルほど上方の天井にまで伸びていた。

 なお、構内には窓も照明もないけれど、外の暗さと一転、白く染め抜かれているために、歩くのに支障はなかった。黒い日差しが遮られているから、構内全体が白く陰っているのだ。

 真っ白く塗り潰された箱のなか、だった。

(暗くて見えないのも困りものだけど、これはこれで違和感ね)

 統子は四方を囲む白色の壁や、そこらに点在している太い支柱を見やりながら、内心で独りごちる。光で照らされているわけではないからなのか、見えるもの全てが妙にのっぺりしていて立体感や距離感というものを把握しにくいのだ。

 昨夜、アラタと戦っていたときはあまり意識しなかったのだけど、天井の高さを目測しようとしたり、並んでいる柱と柱の位置関係を把握しようとすると、そののっぺり感を大きく意識してしまう。

 ちょっとした体育館ほどの広さに百メートル近い高さの天井という空間なのに、奥行きを感じにくいせいで、妙な息苦しさを感じずにはいられなかった。

「どうしたんだい?」

 縦長の長方形に切り抜かれただけの入り口から数歩のところで立ち止まっていた統子に、先へ行っていたノリユキが振り返って呼びかける。

「そこだと見つかるかもしれないから、もう少し奥へ行こうと思うんだけど」

「そうね」

 統子は答えると、ノリユキの後を追って歩き出した。

 歩きながら改めて構内を見渡してみると、息苦しさを醸し出しだしているもうひとつの要因に気がついた。

(窓がない)

 ――なのだ。

 視界に支障がないため見逃していたけれど、構内と外とを繋いでいるのは、いま二人が入ってきた入り口の四角い穴だけで、他には窓ひとつ開けられていなかった。頭部を完全に覆っているフルフェイス型のヘルメットを被っているけれど、このヘルメットは不思議と呼吸を邪魔しない。だからこそ、構内に入った途端、鼻や口が空気の淀みを敏感に感じ取って、息苦しさを覚えたのだろう。

 息苦しさを演出しているもうひとつの要因はもちろん、無作為に配置されている何本もの柱だ。白く塗り潰されているせいで遠近感が狂っている分、柱を数えようとすると、目の前に迫ってくるような錯覚に襲われる。その逆に、奥にあると思っていた柱がじつは目の前にあったりして、船酔いしたように頭がふらついてくる。

(ん……駄目だ……)

 これ以上は本気で気分が悪くなりそうだったから、統子は目を伏せて頭を振り、頭のなかにかかっていた薄い靄を追い払った。

「どうしたの?」

 ノリユキが、急に立ち止まって俯いた統子のほうを振り向いて問いかける。

「いや」

「もしかして、酔ったとか?」

「……」

「いやね、契約して日の浅い人には少なくないんだ。外は外で慣れないと足下がなくなるみたいな不安さがあるけれど、屋内だとこんなふうに壁と天井がある分、今度は逆に押し潰されるみたいな窮屈さを感じてしまうんだよね。だから、慣れていないうちはその感じ方の変化に感覚がついてこれなくて、乗り物酔いしたみたくなってしまうんだ」

「ああ……なるほど」

 ノリユキの説明に納得して、思わず吐息を零す統子。その様子に、ノリユキは笑うような仕草で、二度ほど大きく頷いた。

「その様子だと、どうやら演技ではなく本当に新人のようだね」

「……?」

 統子の背筋に、ぞわりと嫌な汗が沸いた。いまのノリユキの言葉に、本能的な怖気が走ったのだ。そして次の瞬間、そのことに気がついた。ノリユキが身に着けている濃紫色のスーツにぐるぐると巻きつかされていた何本もの革帯が解けていることに。

 統子の視線に気づいたノリユキは、悪戯がばれたとでもいうような仕草で肩をすくめる。

「うん? あれ、気づかれちゃったのかな?」

「そのベルトは何? おまえは一体、何をしている!?」

 統子は声を荒げて詰問するが、ノリユキは余裕綽々にほくそ笑む。

「一度にふたつも質問するだなんて、統子さんは見かけによらず欲張りなんだね。これだから、女というのは信用がならないんだ」

 静かに笑っているノリユキからは、さっきまでのどこか及び腰だった様子が消え失せている。その変化が意味するのは、

(もう演技する必要がなくなった、ということか)

 統子は舌打ちしつつ、視線を油断なく周囲に走らせる。ノリユキの身体から伸びた無数のベルトがどこへ伸びているのかを見極めようとしたのだ。しかし、焦げ茶色の革だと思っていたベルトはどれも、一メートルほど伸びた辺りから周囲に溶け込むような白色に色変わりしていて、目で追うことが難しくなっていた。

(まるでカメレオンね)

 また舌打ちした統子に、ノリユキが笑いかける。く、くっと喉を鳴らすような、いやらしい笑いだ。

「おやおや、どこを見ているんだい? といっても、遠近感が掴めていないようじゃ、ぼくの武装を目で追うことは無理だと思うよ」

「武装……そのベルトが、おまえの武器なのか?」

「その通り。きみみたいな、武器と言えば剣くらいしか思いつけない単純な女には最期まで理解できないかと思ったけれど、さすがにそこまでは馬鹿じゃないか」

 いちいち嫌味な言いまわしに苛立つものの、統子はぐっと怒りを呑み込んで堪える。いまここで冷静さを欠いてしまえば、相手の思う壺だ。

「……ベルトくらいしか武器として想像できないおまえのほうが、発想力貧困な馬鹿だと思うけど」

 嫌味を言い返しながら、わざとらしく頭を振る仕草で誤魔化しつつ、背後にちらりと横目を飛ばす。いま入ってきた出入り口からここまでの距離は、目測で十数メートル。

(いや、距離感が狂っているんだ)

 横目に一瞬見ただけでは信じられない。統子は素早く記憶を手繰って、出入り口からここまで歩いてきた歩数を思い出す。

(たぶん、二十歩から二十五歩の間。突っ走れば、五秒未満で外に出られる)

 そう計算するや、統子は行動に移っていた。勢いよく床面を蹴って、弾かれたように全速力で走り出す。だが、出入り口に向かってではない。正反対の方向、ノリユキに向かってだった。

(どうせ、ここから出口までの間に、そのカメレオンみたいな触手だか鞭だかを伏せてあるんでしょう!)

 と考えての前進だった。もちろん、敵を目の前にして後退はできない、と思ってしまう性格も大きく影響していた。

 だが、ノリユキは慌てなかった。

「やっぱり、そうくるんだね。予想通りってわけじゃないけど、想定の内だよ!」

「――ッ!?」

 統子は咄嗟に横とっびする。

 回転レシーブの要領で体勢を立て直しながら、さっきまで自分が立っていたところを見ると、白いベルト――というより触手が二本、それぞれ左右の足下から伸び上がって、統子の頭があったあたりで先端を交差させていた。

 空中で×の字を描いた触手は、すぐさまその先端の向きを統子のほうへと変える。周囲に溶け込む白色の蛇二匹が、初撃で仕留め損ねた獲物をぎろりと睨んだのだ。

(やばい!)

 そう思った瞬間、身体は勝手に動いている。飛び上がるほど身を捻った統子の脇腹を、白蛇のうちの一匹が掠めていく。蛇は、統子の身に纏う黒いスーツをやすやすと切り裂き、素肌を血に染める。

「くっ……!」

 痛みに呻いた統子だが、それ以上、傷を気にする暇はなかった。さらに増えた蛇――のような白い触手が高速で縫うように這ってきて、足下から低く跳ねるように奔って統子を襲ったからだ。

「――ッ」

 統子は転がるようにして追撃を躱し、手近な柱の陰へと退避する。それでひと息吐いたかと思ったが、甘かった。

「それで隠れたつもりかい? 浅はかだな、女というのは!」

 ノリユキの嘲笑。白い触手はまさに蛇のごとく自由自在に這いまわり、柱の陰だろうとお構いなしに統子を狙う。

「うっ」

 咄嗟にしゃがんだ統子の頭上を、柱をまわり込んできたベルトが高速で突き抜けていく。さらに続けて二本、三本と迫ってきたベルトを、統子は柱を蹴って飛び込み前転することで避けた。

「ははっ、上手く逃げるじゃないか。ダンスの稽古だぞ、ほらほら!」

「良い気になるな!」

 ベルトの追撃が止んだ瞬間を逃さず、統子は武装する。全身から放たれた銀光が銀甲と銀剣へと変じて、統子の身を鎧った。

「おっと、ようやく武装したね。でも、物陰でこそこそするばかりじゃ、武装したところで意味ないんじゃないかな」

 ノリユキの笑いは止まない。統子の武装を一度見ているノリユキは、相手の武器が一振りの長剣のみだと知っている。だから、距離さえ取っていれば一方的に攻め続けられる優位性は揺らがないと分かっているのだ。

 だが、統子のほうでも、ノリユキの攻撃手段が万能ではないことに気づいていた。

(このベルト、わたしが柱の陰に隠れてからは精度が落ちたし、攻撃と攻撃の間隔も少し開いた。蛇みたいに見えるけど、目がついているわけじゃない――あいつ本人が見えない場所には、当てずっぽうで飛ばすしかできないんだ)

 統子が思考している間にも、柱を左右からまわり込んで高速で這ってきたベルトが、微妙な時間差と高低差をつけて統子を襲う。だが、当てずっぽうの攻撃であることを証明するように、その連撃は些か大雑把すぎて、避けるのはそれほど難しいことではなかった。

(やっぱりだ。これだったら、最悪でも致命傷は避けられる……!)

 統子は確信する。しかし、それは同時に、

「そうやって逃げまわるのはいいけれど、そんな遠くからじゃ、ぼくを斬ることはできないよね。どうするつもりなんだい、お嬢ちゃん。あはは!」

 ――ということでもあった。

 柱を使って逃げまわれば、しばらくは時間稼ぎできるだろう。けれど、そうやって逃げまわっているだけでは、いつまで経ってもこの状況を打開することはできないのだ。一方的な攻めに晒され続ければ、先に体力が尽きるのは統子のほうだ。そうなる前に打開策を見出さなくてはならないのだが――。

(どうせ退路には、とっくにベルトが敷き詰められている。かといって、攻めに行けば、相手の視界に身を晒すことになる……)

 退くも進むも、まず間違いなく相手の手の内だ。

(くっ……どうしたらいい!?)

 柱をまわり込みつつ飛びかかってくるベルトをときに避け、ときに剣や腕の装甲で弾きながら、統子はじわじわと込み上げてくる焦燥感に歯噛みする。そんな統子を、ノリユキはこれ見よがしに嘲笑う。

「お嬢ちゃんはいつまで、かくれんぼを続ける気なのかな? ぼくは、いつまでだって構わないんだけどね」

 最初に立っていた場所から一歩も動かずに嘲笑しているノリユキ。統子はベルトの乱舞を際どく捌きながら大声を返す。

「戦う義務がなかったというのは嘘か!?」

 それは思わず口から出てしまった一方的に罵倒するためだけの大声だったのだが、ノリユキは余程に余裕なのか、朗々と答えてくる。

「いや、嘘なんかじゃない。真実さ。ぼくたち契約者に戦う義務はない。でもね、戦う意味はあるんだ」

「……?」

「いいよ、冥土の土産ってやつだ、教えてあげる」

 ノリユキはどこまでも余裕の素振りで続ける。

「ぼくたち契約者は、レアと契約して『喪失』をなかったことにしてもらった。その代わりに負った義務が、毎日のように開催されるこの大戦を生き延びることだ。でもね、それだけだったら、戦いになるはずがないんだ」

(……確かにそうなる)

 勝つことに利益がなく、負けることの不利益だけがある。そして、敢えて戦う必要性はない――となれば、誰も好んで戦いはしない。

(いや、昨日のあいつ……アラタとかいった奴みたなのは別か)

 一部の戦闘馬鹿を除けば、誰もリスクしかない戦いをするはずがない。少なくとも、いまそこにいるノリユキのような奴は、無駄にリスクを負うようには思えない。

(ということは……)

 統子の思考を引き継ぐように、ノリユキが口を開いた。

「契約者に戦う義務はない。だけど、他の契約者と戦って十勝すれば、特典がもらえるんだ」

「特典?」

 統子は、ノリユキが話している間も休みなく奔ってくるベルトを駆けたり転がったりして躱しながら、思わず聞き返した。それを待っていましたとばかりに、ノリユキは言った。

「十勝した際の特典は、大戦への参加義務免除、だ」

「……!!」

 一拍の間を置いて、統子はノリユキが言ったことの意味を理解した。

「それって――」

「そう、その通り! 参加義務を免除されたら、もう負ける可能性がなくなるんだ! もう二度と、せっかく取り戻した人をまた失ってしまうかもしれない恐怖に怯える必要がなくなるんだ!」

 ノリユキは感極まった声を上げている。統子も、声こそ上げなかったものの、気持ちは同じだった。

(戦うのはべつに嫌いじゃない。でも、梨花の命がかかっている戦いなんて、しないでも済むなら、そのほうが絶対いいに決まっている!)

 それと同時に、この制度を考え出したレアへの嫌悪も込み上げてくる。

(わたしたちを戦わせたいのなら、戦うことを義務にすればいいのに、わざわざ餌で釣るような阿漕な真似をしてくれるなんて……あの女、第一印象通りのいけ好かない奴だ!)

 統子はしかし、すぐに気持ちを切り替える。いまは、この場にいないレアへの怒りを募らせるべきときではない。

「さあ、冥土の土産も持たせてあげたし……そろそろお終いにしようか」

 ノリユキが宣告したのに合わせて、統子を襲うベルトの勢いがさらに加速する。

「……!」

 素早く飛び退いた統子の着地点を、別方向から飛来したベルトが続けざまに襲う。それもどうにか、腕一本で横っ飛びして躱すのだが、ベルトは間断なく襲ってくる。いくら闇雲な攻撃だとはいえ、こうも休みなく攻め立てられては、統子の身が持たない。

「あっはっはっ! そうやって、力尽きるまで逃げまわるつもりかい? それよりは、可能性に賭けてみることをお勧めするんだけどなぁ」

(言われなくても、このままじゃジリ貧なのは分かっている! でも……)

 明らかに、逃げるか突っ込むかの動きを誘われている。

 統子を襲うベルトの数が、ここまで、辛うじて致命傷を避けられる程度の数で留まっていることや、ノリユキが最初の場所からほとんど動いていないことから考えても、ノリユキの視界上になっている進路と退路のどちらにも、いま以上に大量のベルトが潜ませてあることは疑いようがない。

 こうなると、まるでなぶり殺しだ。

(もうこうなったらいっそ、相打ち覚悟で突っ込むか――)

 統子の性格としては、その選択を選びたくなる。だけど、その選択を行動に移す直前、脳裏を過ぎった梨花の笑顔が、その無謀を止めた。

(そうだった……わたしは万にひとつも負けるわけにはいかないんだ……!)

 いつもの練習試合と同じ感覚で、相打ち覚悟の特攻をするわけにはいかないのだ。確実に勝てる戦法――とは言わないまでも、相手の思惑を外すような戦法でなくてならない。

 だが、考える時間だってそう残されてはいない。統子の気力と体力は、mいまこのときも刻々と削り取られているのだ。

(どうすれば……あいつが想定してもいないこと……進むのでも退くのでもなく、もっと他の……)

 統子は天啓を求めるように、高い天井を仰ぎ見る。

 そのときだった。

「あ――」

 統子の顔に、驚きと、そして狂的なまでの喜悦が満面に湛えられた。

「う、おおおぉッ!!」

 統子は、足下から顔へと跳ね上がったベルトを剣で薙ぎ払ったのと同時に咆吼する。全身を鎧う白銀の装甲が光の粒子へと変換されて右手の先へと流れ込み、腕ほどの長さだった長剣を、身の丈を優に超える大剣へと造り替えた。

 しかし、まだ終わらない。

「ああっ、あ……うあああぁッ!!」

 雄叫びとともに、腹の奥から力の塊を搾り出す。黒いスーツも黒光の粒子へと変わって四肢の先へと集まっていき、黒色の手首環、足首環として凝る。

 銀のヘルメットに、黒いビキニウェアと化したライディングウェア。装甲もスーツも脱ぎ捨てて、長大な剣を両手で握り締めた姿。防御力も機動力も捨てて、ただ最大限の攻撃力を実現させるためだけの最終形態だ。

 ノリユキからは柱の陰になっているために統子が変身した姿は見えていなかったけれど、柱の向こうで弾けた銀と黒の光は見えた。

「え……なんだ? いま、何をした?」

 ノリユキの顔に初めて、困惑の色が浮かんだ。

 その困惑を表すかのように、宙を舞う白蛇のように疾駆していたベルトが動きを鈍らせる。統子はその隙を逃さなかった。

 居合抜きの構えから腰をさらに後方へ捻った体勢で、ちょうど自分の身体で大剣の刀身を隠すように身構えると、

「おおおぉッ!!」

 気合いの声を轟かせながら、一気に振り抜いた。

 統子の正面にあるのは、この建物を支える柱のひとつだ。一人では抱えられないほど太い柱も、回転環から発せられる動力で補強された膂力でもって高速で振り抜かれた大質量の刃にかかれば、人参や大根も同然だった。

 大剣はやすやすと支柱を斜めに切り裂いた――というか、砕き割った。

 重量に負けた柱の上部が、ごっ、と物々しい音を立てて、切り口に沿って滑り落ちるように崩れていく。

「なっ、馬鹿な!?」

 驚愕に声を張り上げたのは、ノリユキだ。

 いくら太くて長い柱だとはいえ、底部を斬っただけで崩れてくるのは予想外だったのだ。高さ百メートル程度の大きながらんどうを、多数の太い支柱が支えているのだ。そのうちの一本に切れ目が入ったくらいで崩れてくるなど、やはり腑に落ちない。

「どういうことだ……」

 ノリユキは呻きながら天井を仰ぎ見る。

 白く陰った天井は遠近法に則って小さく見える。その天井に吸い込まれるように伸びている何本もの支柱。すべてが白一色で覆われているために、紙に書かれた騙し絵を見ているような錯覚に陥るけれど、天井と柱以外には何も見えない。柱にそこまでの荷重がかかっているとは思えない。

「それなのにどうして……あッ!!」

 崩れてきた柱が、ノリユキの疑問に回答を与えた。

「あ、あ……あっ、ああ! そういうことだったのか!!」

 切り口からダルマ落としのように滑り落ちて倒壊した柱の高さは、床から天井までの高さよりずっと短いものだった。

 林立する柱は、支柱などではなかった。天井に届いてもいない高さの、ただ床から聳え立っているだけの柱にすぎなかったのだ。遠近感の消えた白一色の光景だったから、柱の先と天井の間にまだまだ空間があることに、見上げただけでは気がつけなかったのだ。統子がそのことに気がつけたのは、高速で飛んでくる保護色のベルトをずっと捌いているうちに、目が慣れていたからだった。

 ノリユキが驚愕しているうちにも、統子は次の柱に向かっている。右足を前に、左足は後ろ。腰は、胸が後ろを向くほど大きく捻る。大剣を背中で隠すほど極端な構えから、

「ハ――ッ!!」

 鋭い呼気を放ったと同時に、全身全霊の力で横薙ぎに振り抜く。ごぅ、と切り裂かれた空気が哭いた次の瞬間、構内の空気が爆発する。叩っ斬られた柱が横倒しに倒れ、最初に崩された柱とぶつかって、立て続けに震動と轟音をぶちまける。

 鼓膜が破けるかというほどの大音響に、呆気に取られていたノリユキも正気を取り戻す。

「ばっ、馬鹿か!? 止めろ、おい! 死ぬ気か!?」

 ノリユキの叫び声も、倒壊していく柱の轟音に掻き消されてしまう。いや、かりに統子の耳まで届いたとしても無意味だったが。

 統子は次々に柱を叩っ斬ってまわっている。それを邪魔しそうなベルトは、床に当たって砕けた柱の残骸に押し潰され、引き千切られて、もうそれどころではない。

「く、くそっ」

 ノリユキは堪らず、自分の周囲に潜ませていたベルトを手元に引き戻して、自分を包む繭のように展開させて身を守ろうとする。だが、崩れ落ちてくる巨大な塊や、床に激突して砕けた衝撃で弾丸のように飛んでくる大小の礫が、丸まったベルトを易々と剥ぎ取り、千切り飛ばしていく。

 このままでは不味い――と、統子の退路を狙うために伏せていたベルトも慌てて引き戻し、崩れそうだった繭を補強する。

 全力での防御。しかしそれでも、衝撃を殺しきれない。

 ノリユキの武装である無数のベルトは、伸縮自在、操作可能にして保護色機能を備えた、槍にして鞭にして有線ミサイルだ。距離や方角、相手の数をものともしない万能の武器だが、反面、ベルト自体の耐久力はけして高くない。ベルトの縁から受ける衝撃には強いのだが、面の部分に受ける衝撃には脆いのだ。だから、ベルトを繭上に展開させて落下する瓦礫を受け止めようというのは、まったくの悪手だったと言わざるを得なかった。

 ノリユキは自分自身の武装について、その特性を熟知している。それなのに、自分からその特性を殺すような使い方をしてしまったのは――端的に言ってしまえば、冷静さを欠いてしまっていたからだ。

「まさか、こんな馬鹿なことをするなんて……ありえない! こんなの、想定外だ! 想定できるほうがどうかしている! これだから女は嫌いなんだ!!」

 逃走でも特攻でもない、敵を自分ごと生き埋めにするなどという選択は、ノリユキには到底、理解できないものだった。

 まさに、

「正気の沙汰じゃない! この女、狂ってる!」

 なのだった。

 ノリユキが、次々と崩れ落ちては破片を撒き散らす柱の残骸の雨霰に呑まれつつあるように、この倒壊を起こした張本人である統子もまた、瓦礫の下敷きになりかけていた。

 もう柱を切り倒してはいない。これまでに倒した柱が、無事な柱に当たっては砕き、一緒くたになって倒壊する――と連鎖的に崩壊の規模を大きくしていって、もはやこれ以上、柱を切り倒す必要はなくなっていた。いまはひたすらに身を守ることだけで精一杯だった。

「ぐっ、ぅ……ううおおぉッ!!」

 統子は諦めてしまいそうになる心を叱咤して、大剣を下から上へと休みなく振りまわしている。

 横に薙ぐよりもずっと筋繊維を消耗させる縦の動きに、統子の腕はもうとっくに限界を超えていた。手首に嵌った回転環モーターが、無理やり腕を上げさせている状況だった。

(ううっ、思ったよりもきつい……でも、もう少し耐えれば……!)

 倒壊の速さと大きさは、統子の予想を上まわっている。けれども、後もう少しだけ持ち堪えれば、終わりがくるはずだ。

(そうだ……まだいける。わたしは、こんなところで負けない! 大丈夫だからね、梨花……!)

 脳裏に梨花の顔を思い浮かべると、もう限界だと思っていた手足に一滴の活力が漲っていく。爪の先にも満たないわずか一滴の活力だったが、それで十分だった。

「おっ、おお……うおおおぉッ!!」

 崩落の轟音を押し返す、獣のごとき咆吼。唸りを上げて回転する四基の黒環は、いつもなら両手首は前に、両足首は地面へと力を指向させるのだが、今回は四基すべてが力を下方へと向かわせる。

「ぐぅ……!」

 全身にのしかかった急激な荷重に、統子は両膝をぴたりと折って、しゃがみ込む。直後、

統子は全身の筋肉をひとつの大きなバネに変えて、全力で床を蹴ったと同時に伸び上がった。

 同時に、四基の環から発せられる力も、真上へと指向を逆転させる。統子の身体は、握り締めている大剣ごと上空へ跳び上がった――いや、飛び上がった。

 一瞬の収縮から爆発的に加速して、真上に放たれた弾丸と化した統子。その眼前に、上空から落ちてくるコンクリート塊が急加速で迫ってくる。

(……避けられない!)

 飛んだとはいえ、翼や推進器が生えたわけではない。急上昇中の統子に取れる回避行動は、身を捻るのが精々だ。しかし、いま急迫している柱の残骸は、その程度の動きで躱せるような小ささではない。

(避けられない……なら、壊す!)

 統子は決断するや、脇に下げていた大剣を真上に振り抜こうとする。急上昇中のため、腕にも剣にも普段の倍近い重力がかかっているけれど、その程度では枷にならない。

(梨花、必ず……必ず、わたしが守るから!)

 筋肉が断裂しそうな激痛も、梨花の笑顔を思い浮かべるだけで我慢できる。もう全て搾り尽くしたと思った力が、疲れきった身体のどこからか滲み出てくる。

「ぐううぅっううぅ――ッ!!」

 身体のなかからぶちぶちと上がる悲鳴を無視。両手の黒環に罅が入っても、さらに駆動。粘液のようになった空気が腕にまとわりついてくるのも力尽くで引き剥がして、剣を頭上へ振り翳す。体感的にはスローモーションのような腕の振りだったけれど、身体そのものが加速しているために威力は十分だった。

 落下してくる柱の残骸と、振り翳した大剣が接触する。

 重く硬い手応えが統子の全身に走ったかと思うや、残骸は粉々に砕け散って、統子を掠めるように、ばらばらと落ちていった。だが、大きなコンクリート塊を砕いた衝撃で、統子の身体に溜まっていた速度も一気に費やされてしまっていた。

 重力の加速度と、上昇の加速度とが釣り合った一瞬、統子の身体は空中で静止する。

 もう降ってくる瓦礫はない。あるのは、統子の視界一杯に広がっている、ずっと高くて白い天井それだけだった。

 重力の手が、統子を掴む。天井は加速度的に遠ざかっていき、視界の端に倒れなかった柱の数本が映る。そして、背中に衝撃。

 大小の瓦礫になった柱の残骸が積み上がっているところへ、背中から墜落したのだ。その衝撃の激しさは想像を絶するものだった。

「が――ッ……!!」

 ビキニとメットを身に着けていただけの全身を、激痛と衝撃が貫く。瓦礫が散乱していた受け身の取りようもなく、全身の骨――少なくとも背骨と両肘、右の大腿骨あたりは砕けたという確信がある。

 骨ばかりでなく、酷使しすぎた筋肉のほうもずたずただった。もう指を動かす気力すら残っておらず、墜落したときに取り落としてしまった剣を手探りすることもできない。

 精も根も尽き果てるとは、まさにこのことだった。

(あ……あいつは?)

 統子は痛みと疲労で薄らいでいる意識を必死に働かせて、ノリユキがどうなったのかを確かめようとする。しかし、本当にもうぴくりとも身体を動かせない。

(これで、あいつが無事だったら……もう、どうにも……)

 統子が最後に見たノリユキの姿は、白いベルトを寄せ集めて作った球状の繭に身を包んだところだ。あの白い繭は瓦礫の雨に耐えきったのか、それとも耐えきれずに潰れたのか――。

 しばらくは倒壊の大音響が構内にごうごうとこだましていたけれど、それもそのうちに聞こえなくなってくる。残響が消えたのか、それとも耳が聞こえなくなるほど意識が遠退きつつあるのか、統子にはもうよく判断できない。でも、けして短くない時間が経っているはずなのに、ノリユキが瓦礫を押し退けて這い出してくるような震動は感じない。

(勝った……の、かな……?)

 そう思った途端に気が緩んで、意識を繋ぎ止めていた細い糸が、ぷつりと切れた。

 意識が急速に闇へと落ちていく。

 そのとき、どこかずっと遠くのほうで、ごぉんごぉんと重々しい鐘の音が鳴り響いた。


 ●


「統子ちゃん!?」

「えっ」

 すぐ隣からの呼び声に驚いて、統子は勢いよく立ち上がった。

 その途端、膝に載せていた弁当箱がタイル張りの床に転がり落ちて、からんかこんと乾いた音を立てる。

「きゃっ……もう、統子ちゃんったら本当にどうしたの?」

 統子の隣に座っていた梨花は、突然立ち上がった統子の奇行に、心配そうな顔をしている。

(あ、そうか……戻ってきたんだ)

 統子はすぐに状況を理解した。

「ねえ、梨花。わたし、どのくらいの間、ぼぉっとしていた?」

「え……どのくらいっていうほどじゃなくて、いま、ほんのちょっとだけ、だけど……」

 梨花は戸惑った様子で答える。

(なるほど、昨夜と同じか。暗転都市あっちでの出来事は、現実こっちだと一瞬の出来事でしかない、というので確定のようね)

 ひとりで得心している統子に、梨花はいっそう心配げに眉を曇らせる。

「統子ちゃん……本当に大丈夫? 昨日も、急に家まで来たりしたし、何か悩んでいるの? あたしで相談に乗れることなら聞くよ」

「ありがとう、梨花。でも、本当になんでもないんだ――あっ、梨花のほうこそ、相談事があるんじゃなかった?」

 統子は、開戦の鐘が鳴る直前に梨花が何か言いかけていたことを思い出して、そう聞き返す。

「あ、うん……そうなんだけど……」

 梨花は頷いたものの、すぐには話を切り出さない。一度言いそびれてしまったことで、舌が重たくなってしまっていたようだ。

 それでも、梨花は気力を奮い立たせて声を発した。

「あのね、あたし――」

「――あ」

 梨花の言葉を遮るように、統子の身体が突然ぐらりと傾いだ。

「え?」

 話を邪魔される形になった梨花は、驚いたように目を瞬かせる。統子はすぐに背筋を正して、笑顔で頭を振った。

「急にくしゃみが出そうになって……ごめん」

「もうっ」

 頬を膨らませつつも苦笑する梨花に、統子も笑みを深める。だけど、首から下の筋肉は、いまにも蹲ってしまいそうになるのを堪えるので必死になっていた。全身の筋肉がただの紐に成り果てたかのような疲労感が、突如として統子の全身にのしかかってきていたのだ。

(これは、さっきの戦闘の疲労が残って……ううん、違う……と、思う……)

 統子は自分自身に意識を向けて、疲労の原因を探りにかかる。

(……うん。身体はどこも壊れていない。骨も筋肉も大丈夫)

 はっきりと意識を向けてみれば、手も足も動く。筋肉痛になっている様子もない。

 おそらくは、精神的な疲労というやつだろう。

 身体のほうに何の痕跡残っていなくとも、脳には戦闘の記憶がある以上、そのときの激痛や疲労もしっかりと記憶されていることになる。

(「疲れた」という暗示にかかっている、というところか)

 自分の状況について自己分析すると、頭と身体の接続が切れているような違和感が少しは薄らぐ。この様子なら、しばらく大人しくしていれば、自然と回復しそうだった。

 しかし、いまは休息が必要だった。

「……ごめん、梨花。お腹一杯になったら、急に眠くなってきちゃった。少し寝かせて」

「え、でも……」

 梨花は驚いたように語尾を濁す。

「本当にごめん。相談事はまた後で聞かせてもらうから」

「……うん」

 梨花はぼそりと小声で頷く。統子はそれを聞くことなく、ずるずると崩れるようにしてタイル張りの床にへたり込むと、花壇のレンガを背もたれにして目を閉じた。

 あっという間にやってくる睡魔が、統子に寝息を立たせ始める。

 梨花は、それを無言で見下ろしている。優しく見守る目つき、ではない。驚きと不審、やるせなさ……などを内包した、無言で責める目つきだ。

「……」

 梨花は結局、その場を立ち去るまで一言も発さなかった。ずっと、統子の後頭部を不服そうに見つめるばかりだった。


 統子は、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまで眠り続けた。目を覚ますと、梨花はもういなくなっていた。たぶん、自分の教室へ先に戻ったのだろう。

「起こしてくれてもよかったのに……」

 統子は憮然としつつも、とにかく早足で教室に戻るのだった。

 午後の授業も、意識を占める睡眠欲のせいで、ほとんど頭に入らなかった。やっときた放課後では、梨花と昼休みの話の続きをしながら一緒に帰ろうと思ったのに、

「部活があるから」

 と謝絶されて、一人で帰ることになった。

 帰宅してからひと眠りしたおかげで、夜には頭もすっきりしたから、『お昼はごめん。電話、いま大丈夫だから』と梨花にメールしたのだけど、返事はなかった。電話もかかってこなかった。

 もう寝ないといけない時刻になって、ようやくメールの着信が一件。

『心配かけてごめん。でも、よく考えてみたら相談するほどのことでもなかったから、気にしないで』

 梨花らしからぬ淡泊な文章に悩んだものの、

(明日、一緒に登校しながら聞いてみればいいか)

 統子はそう結論づけて、布団に潜り込んだのだった。

 昼寝したというのに、眠りはすぐに訪れた。

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