カゲノマキア

雨夜

第1話 黄金鍵《クラウィス》

 建て売り住宅や大小のアパート、マンションが整然と並ぶ住宅街。沈む寸前の赤黒い夕暮れに染められたその一角に、黒と白の陰気な提灯を玄関先に据えた家が一軒あった。その家の窓からは蛍光灯の明かりと人の声が漏れてきている。

 誰かの通夜なのだ。昨日今日に、この家の誰かが亡くなったのだ。門柱の表札には、桜木さくらぎ、と苗字だけしか掲げられていない。しかど、開け放たれたままの門を出入りしている弔問客のなかには、制服姿の少年少女が多い。そのことから、亡くなったのはこの家の息子、あるいは娘なのだろうと想像することは容易だった。

 少年少女が着ているのは、近所の公立藤咲ふじさき高校の制服だ。いまどきは珍しくなってきた、黒の詰め襟とセーラー服の制服だ。もっとも、いまは桜が散って間もなくの暖かな時期だから、彼ら彼女らが着ているのは、白いワイシャツに黒のスラックス、白地に黒いセーラーの半袖セーラー服と黒のプリーツスカートだ。

 夕闇にぼんやりと浮かび上がる白地の上着は、死者の匂いを嗅ぎつけてやってきた、青白い亡霊のようでもあった。

 亡霊という形容が相応しいように見えるのは、とくにセーラー服の少女たちがそこかしこで寄り集まって啜り泣いているからだ。

梨花りか、かわいそう。車に轢かれるなんて、あんまりだよ」

「車の運転手、久々も言えないくらい惚けた老人だったんだって」

「なにそれ、最低すぎる……! 梨花が浮かばれないよ!」

「ねえ、本当に……酷いよ……う、ぅ」

 どうやらこの通夜は、自動車事故の犠牲になった桜木梨花という女子高生の通夜であるようだった。学生服の男女は、亡くなった桜木梨花の友人やクラスメイトたちなのだろう。

 まだ新学期が始まって間もなくの時期だから、なかには亡くなった桜木梨花とは単なるクラスメイトだったというだけで、とくに面識のない者もいただろう。だけど、そんな者たちにしても、クラスメイトが事故死したという衝撃の前には沈痛な面持ちをせずにはいられないでいた。

 額を寄せ合って啜り泣く者、俯いたまま押し黙る者、ひそひそと囁き合う者――高校生たちは、昼間の学校では見せない顔で、クラスメイトの早すぎる死を悼んでいた。少なくとも、表面上は。

(……どいつもこいつも、嘘ばかりだ)

 桃生ものう統子とうこは桜木家の門扉を道路の向こう側から睨みつつ、ぎり、と奥歯を軋ませた。統子が着ているのも、集まっている少年少女たちと同じ、白い半袖のセーラー服だ。けれども、その顔に浮かんでいる表情は、他の誰とも違っていた。

 統子は苛立っていた。憤慨していた。友達面して悲しんでいる連中をいますぐ殴り倒してまわりたいという気持ちを抑えるのに必死だった。家のなかに入らず、通りに突っ立っているのも、そのためだ。

「梨花ぁ、なんで死んじゃったのぉ!」

 などとさめざめ泣いてみせている梨花のクラスメイトを目の当たりにしたら、手を出さないでいられる自信がなかった。

(嘘泣きだ、あんなのは)

 両手で顔を覆って泣いている少女と、彼女を囲んで慰めている少女たちの輪を睨みつけながら、統子は両手を固く握り締める。掌に爪の食い込む痛みが、怒鳴りつけたくなる衝動をすんでのところで押さえ込んでくれていた。

(どうせ、あいつらはこの後、家に帰って風呂に入ってテレビを観て宿題をして布団に入ってぐっすり寝付いて、普通に明日を迎えるんだ。悲しんでいる振りをするのはいまだけで、明日にはもう全部、終わったことにして、普通に生きていくんだ。さも、梨花なんて最初からいなかったかのように)

 そう思っただけで、目が眩みそうなほどの怒りに襲われる。

(梨花は死んだんだ……殺されたんだ! 無謀な運転をしたゴミほどの価値もない等身大屑人形に殺されたんだ。それなのにどうして、おまえたちは人間の顔をして泣いたり悲しんだりできるんだ? おかしいだろ、おかしいじゃないか!)

 統子の胸中を渦巻いているのは、怒り――いや、殺意だ。梨花を轢き殺した犯人と、その犯人の権利を謳うものに対する憎悪だ。運転手には殺意がなかったから殺人ではなく過失致死だ、と語る法律を食い千切りたかった。弁護士とその家族を包丁で滅多刺しにして、警察官と検察官と裁判官の頭蓋骨を金槌で割って、中身をぶちまけてやりたかった。

(梨花の仇を取りたい。梨花を殺した奴とそいつを守る奴らを殺して殺して殺し返したい。泣くとか悲しむとかは、それが終わってからの話でしょう!?)

 それは統子の偽らざる本心だ。

 てっきり、他の通夜客もみんな、自分と同じ気持ちを抱えて、憎しみと怒りに染まった鬼の形相で焼香して、梨花の遺影に向かって殺人犯への制裁を約束するものだとばかり思っていたのだ。それなのに、覚悟を決めていざ桜木家にやってきてみれば、誰も彼もが神妙な顔やら泣き顔やらをしているだけで、ただの一人として、憎悪している者がいない。

(どうして? みんな、梨花が殺されたのにどうして怒らないの?)

 統子にはとにかく信じられなかった。淡々と進められていく通夜の儀式が、この場に集まっている連中全てが、紛いものにしか見えなくなっていた。

(誰も本当に悲しんでなんかいない。本当に悲しんでいたら、悲しい顔を偽ることなんてできない。悲しい顔をしている奴らはみんな、梨花を殺した殺人犯と同じだ。こいつら全員、梨花の――わたしの敵だ!)

 噛み締められた統子の奥歯が、みしり、と一際大きな音をさせて軋んだ。両手も色が白くなるほど握り締められていて、掌に食い込んだ爪はとうとう皮膚を薄く突き破り、手のなかに痛みの滴が滲み始める。

 それほどの怒りで腑を煮えくり返らせていても通夜を滅茶苦茶にせず堪えているのは、梨花の両親を慮ってのことだった。

 家のなかで弔問客の応対をしている両親は、きっと自分と同じ怒りにその身を焦げつかせているに違いない。その焦熱を必死に飲み下して、喪主としての勤めを果たしているに違いないのだ。彼らのそんな血の滲むような努力を、自分の短慮でふいにさせることはできなかった。

 桃生統子と桜木梨花は、いわゆる幼馴染みという間柄だ。小学校に入学する前、幼稚園の頃からずっと、家ぐるみで近所付き合いしてきた仲だ。休日でも忙しくしていた梨花の父親とはあまり接点がなかったけれど、母親のほうはよく知っている。統子が遊びに行くと、いつも統子の好きなお菓子を出して持て成してくれたものだ。丸っこい顔立ちと、少し垂れ目がちな瞳をしていて、いつもにこにこと笑顔を浮かべているひとだった。

(でも、きっといまは……)

 家のなかで喪服を着ている彼女のことを想像すると、心臓がきりきりと締めつけられる。あの人当たりのいいえびす顔が紙のように白くなっているかと思うと、怒りとは別の感情――恐怖で足が竦むのだ。怖くて、なかに入っていけないのだ。

 本当のところ、統子の足を路上に縫い止めているものの正体は、まるでそういう舞台を演じているかのように悲しむ同級生たちへの怒りではなく、梨花の母親に会うことへの恐怖だった。

 母親に会ったら、なんと言えばいい? その顔を見て、なんと慰めたらいい? 心中お察ししますとでも言えと?

(はっ、まさか!)

 梨花の母親に向けてその台詞を発している自分を想像して、統子は込み上げる吐き気に喉を呻かせた。

(駄目、無理だ。そんな恥知らずな真似、わたしにはできない……)

 統子は小さく吐息を漏すと、桜木家のなかには入らず、その場を後にした。まだ通夜には顔を出してもいなかったけれど、なかに入ったら平静でいられる自信がなかったからだ。

 桜木家を離れた統子の足は、日が落ちて暗くなった通りを山のほうへと歩いていく。このあたりは小高い丘の広い裾野に広がっている住宅地で、ゆるやかな坂道が特徴的な街並みだ。

 昔からの住宅地ではあるが、ここ十五年くらいの間に道路の拡張や建物の増改築が続いていて、昔とは大分趣の違った景観になっている。統子や梨花が小学校に入ったばかりの頃は、木造や瓦屋根の一戸建てがもっと多かったと記憶しているのだが、いまやすっかり、小洒落たニュータウンという街並みだ。だがそれでも、一車線から二車線に拡張された大通りを外れ、入り組んだ小道から小道へと縫うように進んでいくと、周囲の光景は緩やかに十五年前へと逆行していく。

 暗闇に包まれた細い坂道は、真新しいブロック塀に囲われた真新しい家並みではなく、苔むしたブロック塀や板張りの塀、鬱蒼とした生け垣などに囲まれた昔の家々が犇めく一角へと統子を誘っていく。やがて古びた長い石段に突き当たると、統子は躊躇いなくそこを上り始めた。

 左右を木立に囲まれた石段は急勾配というわけではないけれど、とにかく長い。暗闇と木立のせいで、階段の天辺はよく見えない。だが、階段を上る統子の足取りにはまったく躊躇うところがない。それもそのはず、この階段を上った先にはちょっとした広さの公園があって、小学生だった頃の統子や梨花たちにとっては毎日のように通っていた格好の遊び場だったのだ。

 公園の端からは山裾に広がる街並みを見下ろすことができて、統子や梨花の家、通っている小学校などを一望することができた。統子はその光景を見るのが好きだった。毎日歩いている通学路が指で計れるくらい小さく見えることに、子供心にも統子は不思議な興奮を覚えて、無性に身体を動かしたくなったものだった。

 その思い出話からも分かるように、統子は小さな頃から身体を動かすのが好きな子供だった。女の子同士でおままごとをするより、男の子たちに混ざって公園で走りまわるほうを好む活発な子だった。梨花も小学校低学年の頃は、統子の背中を追いかけて、男の子たちのやるサッカーやドッチボールに混ざっていたけれど、高学年になった頃には、ピアノや裁縫、お菓子作りといった女の子らしい余暇の過ごし方をするようになっていた。

 中学に上がると、お互いに勉強が忙しくなってくるし、梨花は料理部に入部して放課後を調理室で過ごすようになったから、二人で一緒に遊ぶということはずっと少なくなった。なお、統子は小学二年生のときから近所のスポーツチャンバラ道場に通っていて、中学でも部活には入らず、道場通いを続けていた。

 かたや女子ばかりの料理部でお菓子作りしながら黄色い声で笑い合い、かたや男ばかりのスポチャン道場で汗だくになってゴム製竹刀、いわゆるソフト剣を振りまわしている。そんなわけだから、中学生になった頃にはもう、統子と梨花が二人で遊ぶことは少なくなっていた。

 ただし、一緒にいる頻度が減ったのは放課後や休日についての話だ。平日の朝は、統子が梨花を迎えにいく形で一緒に登校していたし、クラスが違うときでも休み時間にはよく一緒にお喋りしていた。高校になって給食がなくなると、昼食を一緒に食べるようにもなっていた――もっとも、梨花の高校生活は一ヶ月足らずで不慮の終わりを迎えてしまったから、二人が一緒にお昼を食べた回数は十回そこそこでしかなかったが。

(もっと色んなことをしたかった。もっと、梨花と一緒にいたかった……一緒にいればよかった)

 統子は暗い階段を一段一段、ゆっくりと踏み締めて上りながら、込み上げる後悔に胸を痛める。

(道場なんか止めて、わたしも料理部に入ればよかった。そうしたら、もっとずっと、梨花と一緒にいられたのに……!)

 じつは中学に入って間もなくのとき、梨花から「一緒に料理部、入ってみない?」と誘われたことがあったのだ。

 そのときの統子は、

「料理なんて、わたしの柄じゃないよ。ああでも、差し入れだったらいつでも歓迎だから」

 とか言って、まったく考慮することなく断っていた。

(どうして断ったりしたんだ、あのときのわたしは! 料理に興味がなくたって、梨花と一緒に料理をするのなら絶対、楽しかったのに!)

 あのころの統子は、いま以上に熱を入れて道場通いをしていた。

 ただでさえ小規模なスポーツチャンバラの女子競技者人口は、さらに少ない。統子がずっと通っている道場でも、女子の人数は統子を含めて片手で数えられる程度しかいない。そのため、練習でも大会でも男女合同で行うことが多い。とくに人数の限られる道場での練習では、男女で別れるという習慣はまったくなかった。

 統子はよく同い年の男子と組んで練習していたのだが、小学校低学年の頃は対等に戦えていたものが、高学年になってきたあたりから徐々に体格差、体力差というものが形を見せ始めてきて、互いに中学生になった頃にはもうはっきりと、体格の優劣が表れていた。

 もちろん、スポーツチャンバラにかぎらず武道というものは体格や腕力が全てではない。技量、技巧、思考力、判断力、感覚……そうした人間が具えうる諸々の能力、いわゆる心技体が求められるものだ。しかし、心技体のうち心技が拮抗している男女においては、どう頑張ったところで男女間の体格差が勝敗を決めてしまう。すなわち、統子が同い年の男子と練習試合をすると、五回に四回は僅差で負けてしまうのだった。

 負けることはもちろんいまでも嫌だし、できれば勝ちたいと思っているが、中学生だった当時の統子には、それがとにかく許せなかった。中学生になって二次性徴を迎え、いつも競っていた相手の男子は日に日に背を伸ばし、筋肉を蓄えていくのに、自分の身体は日を追うごとに丸く重たくなっていく――。

 あの頃の統子に許せなかったのは、男子に勝てなくなっていことではなく、勝てない身体になっていく自分自身に対してだったのかもしれない。自分の身体が女であること、男ではないことを認めたくないがために、いまにして思えば自分自身でも鼻白んでしまうほどがむしゃらに剣を振い、練習相手の男子に向かって狂犬のように挑みかかっていたのかもしれない。

 中学時代のそんな鬼気迫る努力が実を結んだのかどうかは、じつのところよく分からない。いつも統子の練習相手になっていた同い年の男子は、対戦が正念場に差しかかると決まって、さり気なく手を抜いていたからだ。おそらく本人は気づかれていないと思っていたのだろうが、統子ははっきりと感じ取っていた。

(わたしが女だから本気を出せない? わたしが女だから、手を抜いて、勝たせてやっている!? 何様のつもりなの!!)

 敗北よりもずっと屈辱的な勝利は、統子をいっそう激しく稽古に打ち込ませた。

(わたしを女扱いして侮ったこと、かならず後悔させてやる! 無様なくらい本気にさせて、そのうえで完膚無きまでに打ちのめしてやる!)

 もはや憎悪とも呼べるほどの熱意は、統子を確かに強くした。けれど、二人が高校受験に本腰を入れるために休会した中学三年の夏までの間、統子がその男子から納得のいく勝利をもぎ取れたことは一度としてなかった。相手は最後の最後まで、手加減しながら統子と試合をしていた。統子に負けても、心底悔しそうな顔をしたことは、最後まで一度としてなかった。お互いに受験が終わった今年の三月からまた道場で顔を会わせるようになったけれど、統子はもう、彼に試合を迫ることはしていない。道場に行かなかった半年間は、統子のなかにあった彼に対する嫌悪感を、顔を合わせたくもないほど濃密なものに熟成させていたのだった。

(スポチャンに打ち込んだ三年間って、わたしにとって何か得るものがあったんだろうか……)

 スポーツチャンバラにも全国大会はある。統子も何度か出場しているが、目の前の相手に勝つことには興味があっても総合的な成績にはあまり興味がないため、賞状や賞杯をもらっても、いまいち手応えを感じないのだ。統子が欲しかったのは賞状でも賞杯でもなく、同学年の男子から文句の付けようがない一本を取ることだった。

(でも結局、一度も勝てなかった……というか、一度も本気で相手をしてもらえなかった……)

 そのことを思い返すと、それだけで腸が煮えくり返ってくる。だが、その激情もすぐに萎えて、むしろ反動で深く落ち込んでしまう。

(わたしは三年間、一人相撲していただけ。そんなことのために、梨花と一緒にいられたはずの時間をふいにした。梨花と一緒にいられたはずの時間を、わたしは、自分から投げ捨てたんだ……!)

 口のなかに広がった赤錆の味に、統子は自分が我知らずのうちに唇を噛み締めていたことに気づく。遅れて滲み出してくる鈍い痛みに、深く沈殿していた思考がじわりと現実に引き戻されていく。

 足下の覚束ない闇夜のなかでも両足は淀みなく階段を上り続けていて、我に返って当たりを見まわしたときには最後の一段を上りきっていた。

 階段を上った先は木立が切り開かれていて、見晴らしのいい公園が広がっている。遊具はブランコと小さな滑り台があるだけで、あとは下草に覆われたグラウンドが広がっている。本格的な野球やサッカーができるほど広くはないが、小さな子供がボール遊びや鬼ごっこをするのには十分な広さだ。

 グラウンドと遊具を見渡せる位置にはベンチが二組並んでおり、公園内に背を向ける形で座れば、眼下に広がる裾野を一望できる。いまは夜だが、家々に灯った明かりで彩られている街並みもなかなかに趣のある光景だ。灯りのない長い石段以外の交通手段があれば、夜でも恋人たちで賑わう一角になっていたかもしれない。

 公園にやってきた統子は、園内に視線を走らせる。夜の暗さでも、隠れるもののない公園内に人影がないことはすぐに分かった。公園を遠巻きに囲む木立のほうまでは見通せないけれど、近くに誰もいないことは明白だった。

(べつに誰かいても困るわけじゃないけれど)

 困るわけではないけれど、一人になって梨花との思い出に浸りたくてここまできたのだから、統子は人気がないことにそっと安堵の息を吐く。それから、二つ一組で並んでいる一人乗りのブランコに腰を下ろすと、もう一度、吐息を漏した。

「梨花……」

 ぽつりと呟きながら、ブランコをぎいと前後に軋ませる。子供用の高さに調整されているブランコは、統子が座ると足を持て余してしまう。

(昔は全然そんなことなかったのに……)

 そんな些細なことに、この公園で毎日のように遊んでいた頃から何年もの月日が経ったのだと思い知らされる。

 お尻で漕ぎ始めたブランコは、足が地面に引っかかって、すぐに止まってしまう。あの頃よりずっと成長したのに、かえってあの頃よりもブランコが漕げなくなった。

 コーヒーも飲めるようになったし、化粧だって少しは覚えた。人参と南瓜も食べられるようになったし、算数の苦手も克服した。数学のテストで満点を取って褒められたことだってある。

 小学生の自分がしたかったこと、できなかったことが、高校生になった自分にはなんでもできる。それなのに、小学生の自分がなんの気なしに漕いでいたブランコが、いまの自分には漕ぎにくい。

 できることが増えた一方で、いつの間にかできなくなっていたことも同じくらい増えていたりするのだろうか――。

(……何を考えているんだ、わたしは)

 思春期真っ盛りの中学生男子でもしないような述懐に、自分でくすりと笑ってしまう。そんな微笑は、だけど、溜め息が夜気に溶けるよりも早く、掻き消える。

(あの頃にあって、いまはないもの……そんなの、ありすぎて困る)

 小学生の頃は、この公園で梨花と一緒に毎日夕暮れ時まで遊んでいた。小学生の頃は、梨花はいつも統子の背中を追いかけていた。小学生の頃は、梨花を苛める男子たちを追っ払っては、背中に梨花の感謝と羨望の眼差しを浴びていた。小学生の頃は、梨花もまだ卵焼きひとつまともに作れなくて、練習作品を片付けるのは統子だけの仕事だった。

(ああ……そうか)

 小学生の頃にあって、高校生のいまはなくなったもの。それはたったひとつ――たった一人だった。

(梨花だ)

 思い出のどこを切り取っても、そこには梨花がいる。笑ったり、はしゃいだり、困ったり、泣いたりしている梨花がいる。

(いつからだろう。思い出のなかに梨花が見えなくなったのは)

 つれづれに記憶の糸を手繰ってみるのだが、じつのところ、手繰るまでもなく脳裏に思い浮かんでくる。

 既に述べているように、中学生になって梨花が調理部に入ってからは、一緒に遊ぶ機会が目に見えて減った。朝は一緒に登校していたし、休み時間もよく一緒にいたけれど、小学生のときは梨花と一緒にいるのが当たり前だったのが、中学生になってからは当たり前でなくなっていた。

(わたしは、梨花よりもスポチャンを取った……なんて馬鹿なことをしたんだ!)

 もう何度目だろうか、この思考に陥るのは。だけど、何度思い出しても、そのたびに込み上げる自分自身への怒りで目が眩む。

(ずっと、梨花はわたしのそばにいるものだと思っていた。急にいなくなるなんて……死ぬなんて、考えたこともなかった……)

 人はいつか死んでしまうものだし、急に死んでしまうものでもある。そんなことは知っている。だけど、そうした言葉に出てくる『人』というのは、『自分たちにはなんの関係もない、どこかの知らない誰か』だ。

 家族や友人が急死するかもしれない――と想像することができるほど、統子はまだ長く生きていなかった。

「死ぬと分かっていたら、絶対、一緒にいたのに。道場に入り浸ったりしなかったのに……梨花のそばを離れたりしなかったのにッ!!」

 自然と口から漏れていた呟きは、最後には血を吐くような痛哭になっていた。

「梨花はずっと一緒にいるはずだった。死ぬはずじゃなかった! なのに……どうして? どうして!?」

 堂々巡りする後悔はまたしても、梨花を轢き殺した犯人への憎悪につながる。

(耄碌したじじいが車を運転するなんて、それだけで犯罪だろうが!)

 込み上げた怒りが強すぎて、心臓がねじ切れそうになる。

 梨花をはねたのは、七十代の男性だという。逮捕後の検査で痴呆症だと発覚したから、過失致死にすらならない可能性があるというのを、統子は伝え聞いている。

(そんなことが許されるのか!? 梨花を殺しておいて、殺すつもりがなかったから無罪だ? 自分が何をしているのかも分からなかったから無罪だ!? そんなことが罷り通っていいのか!? いいわけがない!!)

 梨花を殺した男への怒りに身を焼いているときだけは、悲しまで苦しまずに済む。統子は無意識のうちにそれが分かっているから、悲しみと後悔の重たさで息ができなくなるまで沈殿しては、梨花をはねた車の運転手に対する怒りに脳細胞を燃え上がらせる――と、何度も何度も繰り返すのだ。

「梨花が死ぬと分かっていたら、そばを離れたりしなかった。車に轢かせたり、させなかった! わたしがそばにいれば、誰にも梨花を殺したりさせなかったッ!!」

 血を吐くような慟哭が喉を突く。だがそれは、空しい叫びだ。

 梨花はもう死んでいるのだ。統子は、梨花を守れなかったのだ。いや、守れた可能性すらなかったのだ。その可能性を、統子はあのとき、自ら放棄していたのだ。

「どうしてわたしは、あの日、梨花を一人で帰らせたんだ……?」

 梨花がはねられたあの日、統子は「今日は帰宅しないで、直接、道場に向かうから」と、梨花とは校門で別れて下校したのだ。あのときもし、道場なんかに行かず、梨花と一緒に帰っていたら――。

「――きっと、守れていた」

 そう確信していた。

(わたしがその場にいたら、絶対に守っていた。暴走車の物音に気づかないはずがないし、咄嗟に身体が動かないはずもない。だって、いざというときでも身体が反射的に動くように、武道を習っているんだ。そのいざというときに直面して、動けないはずがない)

 何度、頭のなかで想像してみても、その結果は変わらない。想像内の統子は、暴走車の立てる大きな走行音に気がついて、咄嗟にそちらを振り向く。暴走車はすぐそこまで迫ってきているけれど、統子は振り向いてから一秒以内には両膝を撓め、二秒後には梨花に側面から飛びついて、暴走車の進行方向から横っ飛びに逃れる。統子の足が車と接触する可能性はあったけれど、梨花は五体無事で助かる計算だ。

(そう――梨花は無事に助かっていたはずなんだ。わたしがその場に居合わせていれば……)

「わたしが梨花と一緒に帰っていれば!」

 後悔と怒りの念が綯い交ぜになり、ヘドロのような慟哭となって口を突く。

(わたしが一緒に帰っていれば、そばにいれば、梨花は死なずに済んだ――じゃあ、だったら、梨花を殺したのは誰だ? わたしだ!)

 自分が梨花のそばにいれば助けられたのなら、そばにいなかった自分が梨花を殺したことになる。それは避けようのない、自明すぎるほど明らかな結論だった。

「わたしが……わたしが梨花を殺した……!!」

 声に出した言葉が、耳を突く。

 胸中にあった憎悪も悲しみも何もかもが、統子自身に跳ね返ってくる。

「わたしがいれば、助けられた。わたしがいなかったから、梨花は死んだ……わたしが、わたしが――」

 自分自身を責め苛む言葉が、脳裏でわんわんとこだまする。

「わたしが――殺した……梨花を、わたしが……」

 統子の口は、統子の意識を離れて、勝手に声を発し続ける。耳を塞ぎたいのに、身体が動かない。統子の両手は、ブランコの鎖を握り締めたまま固まっている。意思の力で指を一本一本引き剥がそうと試みるのだが、手首から先が白くなるまで強く握り固められた五指は、びくともしない。

「わたしが……わたしが……」

 口はまだ自動で動き続けているが、染み出る声はもうまともな言葉になっていない。ただひたすらに、自責の念が膨れ上がっていく。

(わたしなら助けられた。わたしなら、梨花を助けられた……もし、あの日に戻れるなら、今度こそ梨花を一人で帰したりしない。わたしが一緒に帰って、暴走車から守ってあげる――ううん、それだけじゃない。一生涯をかけて、どんな魔手からだって守り通してみせるのに!)

 だが、心が千切れるほど吠えたところで、いまさらだ。全ては後の祭り。梨花はもういない、死んでいるのだ。守りたくとも守れないのだ。

 もし、あの日に戻れたら。梨花が生きていたら――そんな仮定に意味はないのだ。

「そんなことないわよん」

「……ッ!?」

 突如として投げかけられた間抜けな声は、統子のものではなかった。

 統子はブランコから跳ねるように立ち上がるなり、声のしたほうに身体ごと振り返った。

 さっきまで確かに誰もいなかったブランコの横に、女が立っていた。それもただの女ではない。一目で、これは非常識的な類の女だ、と直感できる身なりの女だった。

 その女の身なりを端的に述べるならば、バニーガールだ。

 ぴんぴんに外ハネした葡萄酒色ワインレッドのショートボブに、薄茶色の兎耳ヘアバンド。ラメ入りの光沢たっぷりな深紅のレオタードに、同色の袖無し上着ベスト。足下は黒の網タイツと真っ赤なピンヒール。首元には蝶ネクタイ付きのカラー、両手首には金ボタン付きのカフス。

 その出装は、海外ドラマか洋画のなかのカジノに出てくるバニーガールという以外にどんな感想も抱けないほど、バニーガールだった。しかし、ここは日本の片田舎で、しかも人気のない夜の公園で、夜更かしの野ウサギだったらまだしも、バニーガールが出てきていいような場所ではなかった。

(って、そんなことじゃない!)

 重要なのは、この女の格好ではない。いつの間にやってきたのか、どこからやってきたのか、だ。

 統子が腰かけているブランコからは、前面から右手方向にかけて公園を貫いている石畳が見えている。街灯はなく、灯りは自動販売機から漏れる光だけだが、真っ赤なバニーガールがやってきたのなら、見逃すはずがない。

 統子の背後から足音を殺して近づいてきたという可能性も、まずない。そちら側は木々の鬱蒼と生い茂る斜面になっていて、物音をさせずに抜けてくるのは不可能だ。

 統子から向かって左手のほうは木立が大きく開けているけれど、そちら方面は街並みを見下ろせる、ちょっとした崖になっている。子供が落ちないように柵が張り巡らされてあるけれど、大人なら乗り越えるのは難しくない。だが、急な斜面を登ってきたうえで柵を乗り越えてやってくる、という行為を、物音ひとつさせずにすることが可能だとは思えない。まして彼女の履き物は、舗装された街中でだって歩きにくいだろう、踵の高いピンヒールだ。

 つまり、この女はどこからもやってきていない、ということになるのだ。

 統子は揺れるブランコの横に立って鎖を片手に掴んだまま、女をじっと凝視している。

(いくら、わたしが惚けていたからって、こんな目立つ格好の相手がすぐ隣まで近づいていたことに気づかないなんて、そんなのありえない……でも、いま実際、この女は、そこにいる……)

 統子はすっかり混乱していた。女は、統子の内心など気にもかけていない様子で、悪戯を狙っている悪童のように、にやにやと唇を笑わせている。円らで釣り目がちな双瞳だけを見たら悪戯な子猫のようにも見えるけれど、表情全体から感じ取られる雰囲気は、そんな可愛らしいものではない。

 強いて言うなら、捕食される運命を悟った鼠にしゅるりしゅるりと優雅に這い寄る蛇のような表情、雰囲気、立ち振る舞いをする女だった。

(バニーガールなのに蛇……)

 女の見た目と雰囲気との差違に、統子はふい、と笑みを漏す。そのとき、赤い髪のバニーガールが初めて声を発した。

「あらぁ、面白い喩えをするのね。蛇だなんて言われたの、初めてかもぉ」

「……ッ!?」

 統子は、はっと身構えた。

(この女――)

「あぁら、心の声を読まれたからって、そんなに驚くことかしらぁ?」

「なッ!?」

 今度こそ、統子は身構える余裕もないほど驚愕した。

 まるで忽然と現われた赤毛のバニーガールは、いま、確かに統子の心を読んでみせたのだ。

(い、いや待って。そうじゃない、いまのはちょっとした心理誘導だ)

 統子は赤毛の女から目を離さなずに、じり、と後退りしつつ身構えながら、自分の慌てる心臓に向けて言い聞かせる。

(この女は足音を殺して、わずかに身体を揺らめかせながら近づいてきた。それは、わたしに、蛇のようだ、という印象を持たせるための計算された仕草だったんだ)

「あっ、そんなんじゃないのよ。いまのはモンローウォークのつもりだったんだけど……蛇、ね。率直な感想、ありがとう。お姉さん、女子力もっと磨くからっ」

 赤毛の女はまたしても、統子が心のなかで思っただけのことに返事をしてみせた。

(い……い、いや……これも、予想できる範疇の答えだ。きっと、わたしの目つきや表情から、わたしが疑っていることを読み取って、それに対応する回答を言っただけのこと。所詮は単なる当てずっぽうだけど、べつに外れても構わないんだから――)

 そこまで思ったところで、統子ははっと思考を中断させて、赤毛の女を怖々と睨む。

「んっとね……いちおう言っておくけど、あたし、統子トーコちゃんの答えを先読みしているわけでも、当てずっぽうで言ってみているだけでもないかんね」

「……」

 統子は黙ったままだったけれど、赤毛の女はまるで返事があったかのように、にんまりと笑って頷く。

「うんうん、その通り。この国には、二度あることは三度ある、なんて格言があるけれど、偶然も三度続いたら、それはもう偶然じゃなくて必然。つまりは、そういうことよ」

「……あんたは、他人の心が読める、と言いたいわけ?」

「あっ、いまのもわざわざ口に出さないで、いままで通り、頭のなかで考えるだけでも良かったのに」

「……」

「あ、うんうん。そんな感じに、考えるだけでも伝わるから。あと、その質問はなかなか悩むところだけど、ラーメンは塩バターよりはバター醤油のほうが好みかしら。でも一番は、ラーメンよりもフレンチだけど」

「そこまで完璧な回答をされたら、心を読めるということはもう確定ね」

「納得してもらえて嬉しいわ。それと、逃げだそうって少しも考えていないところも、感謝感謝よ」

 赤い髪のバニーガールは、頭に乗っけた茶色い兎耳を、たゆんと揺らして微笑んだ。

「……」

「あっ、これ?」

 統子の視線に気づいて――というより、ふと思ったこと読んで、赤毛の女は頭上の兎耳に手を触れる。

「なんで真っ白じゃなくて茶色なのかっていうと、冬の兎じゃなくて春の兎だからよ」

「つまり、発情期の兎、ね」

「そ、そ。三月兎、マーチヘアってやつ。なんなら、こっちの帽子をあなたに被せてあげてもいいんだけど?」

 そう言った彼女の左手は、いつの間にかシルクハットのつばを掴んでいて、それを統子のほうに差し出してくる。

「……お茶会の誘いなら断るわ。誕生日でもない日を祝うほど気狂いでもないし、まして今夜は友人の通夜なのだから」

 統子は言い返しながら、自分が大分、動揺から立ち直りつつあることを理解した。

(大丈夫、わたしは落ち着いている。わたしは冷静だ)

「ええ、その通り。トーコちゃんは冷静よ。だから、このあたしという存在が、お友達の……梨花ちゃんだったかしら? その子が死んだ悲しみのあまりに見てしまっている幻覚だとか、それこそ、錯乱して気狂い帽子屋になっちゃったとかいうのではないから、安心して」

「……本当に安心させる気があるのなら、もう少し言い方というものがあると思うのだけど」

「あぁん、そりゃ失礼。でも、軽薄なのは生まれつきなの。だから、そこは諦めて」

「他人に諦めを強要するとは、軽薄の極みだな」

「やぁん、痺れるお言葉ぁ!」

 統子は本気で苛立ちながら言ったのだが、赤毛の女はまったく意に介していない。芝居がかった仕草でくねくねと身を捩らせて、黄色い声を上げている。そんな態度もまた、統子の苛立ちを的確に募らせるのだ。

「で、結局、あなたはなんなの?」

 統子は苛立ちを隠さない声音と表情で問い質す。どうせ相手は心を読めるのだから、表面上だけ取り繕う必要はない。

「わたしの妄想ではないのなら、あなたは一体何者? 幽霊か妖怪か、そんな類のもの?」

 だが、その問いに赤毛の女は答えない。

「聞くべきことは、そこじゃないわ」

「あ……そうね。聞くべきは、どうして、わたしの前に現われたのか、よね」

 だが、赤毛の女はこの質問にも答えなかった。頬をぷくっと膨らませて、拗ねた目つきで統子を見やる。

「そうじゃなくって、もっと根本的で、もっと重要なことがあるでしょ!」

「……ごめんなさい、分からないわ」

 困惑顔で告げた統子に、赤毛の女は悲しげに肩を落して頭を振りつつ、言った。

「名前よ、あたしの」

「……あぁ」

 言われて初めて気がついた、という顔をした統子に、赤毛の女は頬をますます膨らませる。

「どんな話をするにしても、名前がないと不便でしょ。いつまでも赤毛の女呼ばわれされているのは、あたし的にもちょっぴり悲しいし」

「べつに名前なんて知らなくてもいい。むしろ、あなたが何者なのかということのほうが、名前よりもずっと知りたいのだけど」

「……」

「黙られても困る。わたしには、他人の心を読むなどという変態的な行為はできないぞ」

「ひどっ! 変態的って、言い方ちょっと酷くない!?」

 大袈裟に仰け反って悲壮感を演じる赤毛。

「あっ、うわ! 赤毛の女でもなくなった!? 女を省略された!!」

「……いい加減、うざいわ」

 統子は舌打ち混じりの吐息を漏すと、わざとらしいほどわざとらしく両手で頬を挟んで嘆いている相手を、じろりと見据える。

「そんなに名乗りたいなら、さっさと名乗りなさい」

「……」

 赤毛は不服そうな顔。

「何よ、その顔は。名乗りたいの? 名乗りたくないの?」

「……言って」

「は?」

「名前を教えてください、って……言って。そしたら名乗るから」

「……」

「あっ、そんな顔しないで! 分かった、言う。いまのは嘘、ちょっとした小粋で瀟洒な冗談のつもりだったの! だから、そんなお茶碗に残った食べ滓を見るような目で見ないでぇ!」

「いいから早く名乗れ!」

 統子は本気で苛立っていた。

 相手が心理誘導に長けた手品師なのか、それとも正真正銘の妖怪変化なのか、正直なところはまだ図りかねている。しかし、どちらにせよ虫の好かない気性の生き物だということは、ここまでの遣り取りで確信できた。

(こんなのと話していても、無意味どころか不利益だ。何者かは知らないけれど、おそらく地の利はこっちにあるんだし、とっとと逃げたほうがいいかもしれない)

 その考えを読んだのだろう、赤毛の女は唐突に空咳を打つと、それまでの人を食った態度を改めて、申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「んっ……ごめんなさい、少しはしゃぎすぎたわ。あたし、いつもこうなのよね。初めてさんとお話しするとテンション上がっちゃって、自分で自分が止められなくなっちゃうのよね。悪い癖だわ、ほんとに」

「……」

 放っておいたら、このまま延々と続けそうな彼女を、統子は不機嫌を隠しもしない目で睨めつける。

「あっ、ごめんなさい。あたしったら、またやっちゃうところだったわ。つい無駄話に花を咲かせそうになっちゃうのよね。ほら、あたしって話し好きでしょ。それなのに話し相手のいない職場なものだから、新人勧誘ってなると、張り切りすぎて空回りしちゃうの……あ……はい、ごめんなさい。いま名乗りますです」

 赤毛の女はさっきのよりも大きな空咳を打つと、舌でちろりと唇を湿らせて、ようやく名乗った。

「あたしはレア。赤い髪だからレッドヘアで、レアちゃん。安直だって言わないでね。本人、それ結構気にしてるんだから」

「レア、ね」

 統子は相手の名前を呟き、ふと小さく苦笑いした。その笑いに反応して、レアも悪戯っぽく笑った。

「あら、面白いこと考えるのね。こんなうざキャラは希少レアで結構、だなんて」

 本気で感心しているのではない。揶揄しているのだ。心が読めなくともそれが分かったから、統子は恥ずかしさに頬を染めた。

「そ、それで、用件は何? まさか、名乗るためだけに出てきたわけじゃないのでしょう?」

「もちろん、トーコちゃんに用件があるからやってきたのよ。いまから話すから、そんなに急かさないでって」

「もう十分すぎるほど待っているわ」

 嫌味を言い返した統子の頬は、もう平素の冷たさを取り戻している。

(このレアとかいう女は、間違いなく人間以外の何かだ。音もなく忽然と現われたうえに、いま明らかにわたしの思考を読んだ。もう疑いようがない)

 その思考に、レアはまるで自分が本当に思考を読めるのだと誇示するように、含み笑いで応答する。

「あら、もしかしてトーコちゃん、あたしの正体が知りたいのかにゃ……って、あらまぁ、全然知りたくないのね」

 レアは感心したように目を瞬かせた。

「普通、あたしと初対面のひとは、あたしが何者なのかってことを、もっと気にするんだけど、トーコちゃんはわりと普通じゃないのね。あ、トーコちゃんのほうが希少キャラ?」

 統子は無視して聞き質す。

「あなた、最初に話しかけてきたとき、そんなことない、と言ったわね。それはどういう意味?」

「トーコちゃんが想像している通りの意味よん」

 レアの返事に、統子の目が大きく見開かれた。

「じゃあ……やっぱり、そうなのね! 梨花を生き返らせることができるのね!?」

「ん……正確には、桜木梨花の死をなかったことにできる、ね」

「細かいことはどうでもいい。梨花が戻ってくるんでしょ。だったら、なんでもいい。お願い、早くそうして!」

 統子はレアの肩に両手を置いて、ぶんぶんと前後に揺すりながら訴える。

「まあ、待ちなさい。落ち着きなさいってば。その前に、トーコちゃんには色々説明しておかないといけないんだから」

 レアは揺さぶられながら笑って言うのだが、統子はますます噛みつかんばかりの形相をして、レアの両肩を揺さぶって問い詰める。

「説明なんて後でいい! いいから早くして!」

「……分かった。トーコちゃんがそう言うなら、説明は省くわ。でも、それで困ったことになっても、あたしに責任はないからね」

「困ったこと……?」

 レアの思わせ振りな言い草に、統子は少し身構える。レアはもう返答しなかった。自分の肩に置かれていた統子の両手を、ろくに力を入れたふうもなく引き剥がすと、宙ぶらりんになった統子の右手を掴んで、自分の胸にその掌を押しつけさせた。

 瞬間、レアの胸元から黄金色の閃光が迸った。

「――ッ!?」

 統子は反射的に両目を閉じて、両手と両足を丸めて胎児の姿勢を取ろうとするのだけど、統子の首から下は金縛りにかかったように動かなかった。

 目だけをきつく瞑って、閃光を放つレアの胸に右手を押し当てている姿勢で固まっている。

「もう、手を離してもいいわ。あと、目を開けてもいいわよ」

 レアがそう言うなり、固まっていた統子の四肢から強張りが抜ける。がくっと狼狽えるように、統子は伸ばしていた右手を垂れ下がらせ、そろりそろりと目を開けた。

 レアの胸から放たれた閃光弾のような光は、消えかけの電球くらいに弱まっている。瞼越しに刺さった閃光で真っ白に焼き付いていた視界が、ゆっくりと色を取り戻していく。

「……え」

 統子はぽかんと口を開けて、固まった。

 視力の戻った瞳が、レアの胸元から――さきほど、統子の手が触れていたあたりから黄金色の鍵が生えてきているのを発見したからだった。

 黄金色の、豪華な装飾を施された鍵だ。片手では握り込めないほど大きく、そして重たそうな鍵だった。

 その鍵が、レアのわりと豊満な胸の谷間から、圧力に負けて押し出されてくるかのように、じわりじわりと頭を出してきていた。胸の谷間の奥に鍵穴があって、そこに嵌っていた鍵が見えない手で引き抜かれているようにも見えた。さきほどの閃光は、その鍵穴から漏れ出したもののようにも思えた。

「さあ、取って」

 レアが告げる。統子はおそるおそる手を伸ばし、鍵の頭にそっと指先を触れさせた。

 金属のような硬い感触。でも、金属のように冷たくはない。指の温度とほとんど変わらない温もりを持っている。ずっとレアの胸に差し込まれてあったからだろうか、と統子は思う。

「あら」

 くすり、とレアの微笑。

「トーコちゃんはわりと詩人ね」

「皮肉は止めて」

 口に出してもいないことを皮肉られては、統子だって顔を赤らめて怒りもする。

 レアはすぐに謝った。

「ごめんなさい、そういうつもりで言ったんじゃないの。黄金鍵クラウィスを見ても驚かないなんて」

「クラウィス……ああ、この鍵のことね」

「ええ、そう。覚えにくいなら、もっと安直にキー・オブ・ゴールドでもいいわ」

「呼び方なんてどうでもいい。早く、梨花を生き返らせて!」

「だったら、鍵を引き抜きなさい。あっ、本当はその前にちゃんと説明を聞いたほうがいい……」

 レアが言い終わるのを待たずに、統子は黄金色の鍵の柄を右手で握り締める。

「はふぅ~ん」

 甘酸っぱい悲鳴を上げるレア。その声に、統子は一瞬びくっと身構えたけれど、すぐに無視して、彼女の胸から鍵を一気に引き抜いた。

「きゃっ……!」

 その声は統子の上げたものだ。

 予想よりもあっさりと鍵が抜けたために、勢い余って、後退るようにたたらを踏む。

「おめでとう、これで契約は成立よ」

 レアが微笑む。

 統子は咄嗟にレアの胸を見たが、そこに穴が開いていたりはしない。もし、右手に黄金鍵を掴んでいなかったら、そこから鍵が出てきたのはただの見間違いだったと思っていたことだろう。

「それか、手品だと思っていた?」

 と、冗談めかしたのはレアだ。

 統子は少しだけ考えて、苦笑した。

「それはないわ。この期に及んで、あなたをただの人間かも、と疑いはしない」

「つくづく、分かりのいいお嬢さんねぇ」

 レアは苦笑を濃くしながら肩を竦めると、

「でも、その分かりのよさが仇になっちゃったみたいね」

 そう言って、苦笑を嘲笑へと歪めた。

「どういう……」

 統子は、どういう意味か、と問い返そうとした。しかし、その言葉を最後まで言うことはできなかった。

 ごぉん、ごぉん……と、どこかで大きな鐘が鳴り響いた。

「え……!?」

 統子は反射的に顔を上げ、鐘が鳴ったほうを振り仰ぐ。いや、振り仰ごうとして、そこで気がついた。

 この鐘がどこから聞こえているのか分からないのだ。まるで自分が大きな鐘のなかにいるかのように、鐘の音は四方どの方向からも聞こえてきているのだ。

(というか、それ以前に、こんな大きな音をさせる鐘なんてあるの?)

 少なくとも統子の知っている限りは、この街にそのようなものはない。かりに統子の知らないどこかに巨大な鐘があったとしても、いま統子の鼓膜を震わせている大音響が現実の音だとは思えなかった。

「うん、トーコちゃんが思っている通りよ」

 レアが首肯する。

「これは黄金鍵を持つ契約者にしか聞こえない、開戦を告げる鐘よ」

「開戦?」

 統子の疑問には答えず、レアはもうひとつ嘲笑を浮かべる。その嘲笑が突然、陰った。いまは夜で、ここは遠くに自動販売機の光があるだけの公園なのに、だ。

(違う、逆だ。明かりが遮られて陰ったんじゃない。明りを浴びせられて、陰ができたんだ)

 統子はしかし、すぐにその判断のおかしさに気がつく。

 明かりを浴びたのなら、陰った、とは思わない。照らされた、と思うのが普通だ。それなのに統子はいま、陰ができた、と思った。

 統子は自分の抱いた気色悪さに怯え、答えを求めて全身で天を仰ぐ。

 見上げた夜空は、のっぺりとした白色で塗り潰されていた。

 昼間のように、というのではない。夜が昼になったというのではない。昼の明るさとは、印象が決定的に違っている。強いて言うなら、明度と色相の反転したネガフィルムを見ているような印象だった。

(いや……フィルムを見ているんじゃなく、フィルムのなかに迷い込んでしまったような……)

 空を見上げて呆然としていた統子だったが、いつまでもそうしてはいられなかった。

 右手に掴んでいた黄金鍵が、突如、さきほどと同じような閃光を放ったのだ。

「きゃっ」

 不意のことに、統子は思わず鍵を取り落として、両手で目を庇いながら蹲ろうとする。しかし、閃光は一瞬で消えた。

 統子はゆっくりと手を下ろして目を開く。そして、

「え……」

 絶句した。

 景色は明度と色相を逆転させているだけでなく、街並み自体がまったく別のものに変わり果てていた。

 明るくない真っ白な空の下に広がる光景は、なんの虚飾も遊びもないコンクリート打ちっ放しの無個性な建物が、無秩序に、だけど整然と、並べ立てられている街並みだった。

「ここは……どこ……あっ」

 呟いた統子は、レアに説明を求めようとしてようやく、レアの姿がどこにも見えなくなっていることに気がついた。

「え、ちょっと? どこに行った……え、え?」

 疑問符は止まらない。統子の頭に浮かんでは浮かび、消える間もなくまた浮かぶ。頭のなかが疑問符だらけで、考えるだけの余地が残っていない。だから、異様なことになっているのが街並みだけでないことに気がついたのは、それからさらに五秒あまりが過ぎてからだった。

 統子の着ていた白い夏用セーラー服が、見たこともない衣装に変貌していた。トラックスーツというかライディングウェアというか、首から下をぴったりと覆う黒いボディスーツに変わっていた。自分自身では見えないから分かりにくいけれど、頭部にもヘルメットを被っているようだ。両手で頭を触ってみると、顔面も含めた頭部全体を覆っている硬い感触の手触りがする。顔面を覆う部分は透明なプラスチックのようなものになっていて、視界は良好だ。触ってみるまで、そこが覆われていることにも気づかなかったほどだった。

(プラスチックって、こんなにも透明なもの……ううん、違う。これ、プラスチックじゃない)

 統子がそう直感したのは、触ってみるまで自分がヘルメットを被っていることにすら気がつかなかったことを思い出したからだ。どんなに通気性のいい素材だったとしても、頭部全体を覆っているヘルメットなら、違和感にすぐ気がつかなくてはおかしい。このヘルメットはそれなのに、被っていることを忘れてしまいそうなほど軽くて開放的だった。

 重さは羽毛ほども感じないし、ガーゼを口に当てているほどの息苦しさもない。

 ヘルメット状に固めた空気を被っている、という表現がしっくりくる被り心地だった。

(……ヘルメットだけじゃない)

 空気のように軽く、身に着けていることを忘れそうになるほど一体感があるのは、ヘルメットだけではない。全身を覆っているスーツもそうだった。さきほどは伸縮性の高い素材なのだろうと思っていたけれど、改めて背伸びや屈伸、腰を捻ったりと身体を動かしてみても、スーツはまったく突っ張ることなく、身体の動きにどこまでもぴたりとついてくる。

 スーツの肘や膝、左胸などの要所には銀色の薄い板金が貼り付けられているのだが、その装甲についても重さは一切感じられない。

 空気を着ているような黒いスーツに、空気を被っているようなヘルメット。色と光の逆転した不気味なコンクリートの街。

(何もかもが、意味が……分からない……)

 統子はどうにか状況を把握しようと思うのだけど、そう思えば思うほど、思考は空転するばかりだ。

 ここがどこで、自分の格好はなんなのか。というよりも、この状況と、梨花が生き返る、という自分の望みとがどう繋がるのか――統子にはもうさっぱり意味が分からなかった。

 せめて、レアがいれば、問い質すことができたのだが……。

(……ああ、そうか。こういう意味だったのね)

 絶望的なまでの混乱から立ち直れぬままだったが、ひとつだけ理解できたことがあった。

 レアが姿を消す前に言っていた『説明しないで困ったことになっても責任は持たない』というのは、この状況のことを指していたのだ。

「こんなところに放置されると分かっていたら、わたしだって、ちゃんと説明を聞いていたわよ……」

 いまさら恨み言を述べたところで空しさが募るばかりだ。

 こんな状況になってしまったからには、もうとにかく、動いてみるしかなかった。

(ここに留まって、レアが戻ってくるのを待つべきか)

 とも考えはしたけれど、その可能性は薄いと思ったからだ。

(いなくなる直前の彼女は、イヴに林檎を勧める蛇の顔だった。あれは、すぐに戻ってくるような可愛げのある悪戯をする奴の顔じゃない。人を蹴落とすことに喜びを感じる奴の顔だ)

 確証があるわけではなかったが、統子は「あれは本質的に人間ひと生物ものとしか見ていない存在だ」と確信していた。

 つまるところ結局、自分の手で現状を打破するしかないのである。

「まあ、とにかく歩いてみよう。どこかにゴールがあるかもしれないし」

 統子は自分に向けて呟くと、白い空に染められた白い街並みを歩き始めた。

 歩き始めてから気がついたことだが、統子が履いている靴も学校指定のローファーから、足首の上までを固定する安全靴のような靴に変わっていた。爪先から足の甲にかけて銀色の板金が貼り付けられているのだが、これもまたスーツやヘルメットと同じく、重さを感じさせないものだった。

(そう……この服や靴もきっと、現実に存在するものではないんだろうな。この場所がどう見ても現実じゃないのと同じように)

 統子は黒い道路を当て所なく歩きながら、考えるでもなく考える。さきほどは考える余地がないほど混乱していたのに、それがいまは、とにかく何かを考えていないと恐怖で押し潰されてしまいそうになっていた。

 なんの目当てもないのに歩き続けているのも、いま立ち止まったら二度と動けなくなる予感がしているからだった。

(不味い、このままじゃ……!)

 このままでは、恐怖に負けるのは時間の問題だ。曲がり形にも正気を保っていられる間に、なんとかしてここから逃げる手立てを見つけなくてはならない。

(でも……手立てなんて、そもそもなかったとしたら……)

 不安は、抑えども抑えども鎌首を擡げてくる。統子はその不安をどうにかして忘れようと、辺りにぐるりと視線を飛ばした。

 艶のない白で塗り込められた不気味な空と、その空に照らされた空虚な白い街並み。ここが最初に抱いた印象通りに明暗の逆転した世界なのだとしたら、白い空に照らされているというのは間違いで、黒く照らされていないから白い陰が落ちているというのが正しいことになる。

 冷静に考えようとすればするほど、頭がくらくらしてくる。意識が身体から遠退いていって、自分がいまここに立っているという現実感が、波打ち際の砂細工みたいに崩れていく。

「出口なんて……」

 本当にあるのか――そう続きそうになった言葉は、声になる前に掻き消えた。

 当て所なく彷徨っていた視線が、いま歩いている道路の前方に人影を捉えたのだ。

(……!)

 自分以外の人がいたことに安堵を覚えるのと同時に、警戒心も沸いてくる。

(こんな非常識的な場所にいる人間が、常識的な人間であるはずがない!)

 統子自身が非現実的な格好をしているのだから、そう考えるのは自然なことだ。

 統子は立ち止まったのだが、人影のほうは白い陰の落ちた道路を規則正しい歩幅で歩いて、統子のほうへと近づいてくる。向こうからも統子の姿は見えているはずだが、統子が思わず立ち止まったような驚きの反応を見せていない。

(ということは、この場所で他人に出会うのは、べつに驚くようなことじゃない……そういうこと? それとも、あれはレアと同じ、人間の姿をした人間以外の何か?)

 戸惑いが、統子から行動を奪う。

(どうする? 逃げるべきか、それとも話しかけてみるべきか――)

 迷っているうちにも、相手は歩調を崩さず近づいてくる。その格好は、統子が着ているのと似通った印象の、ライディングウェアにヘルメットという姿だ。ただし、色は炎のような赤で、統子のように板金による補強はされていない。色が黄色だったら、カンフー映画の主人公かと思ったかもしれない。

 赤い全身スーツの男――平らな胸とまっすぐな腰つきから、たぶん男だ――は、統子の前方およそ十メートルあたりのところで立ち止まった。

「……ッ」

 統子の全身に緊張が走る。相手の表情はフルフェイスのヘルメットに隠れていて見えないが、立ち姿から醸し出される雰囲気はあまり友好的とは感じられない。

 左半身を心持ち前にして、手足をだらりと脱力させた体勢。

(いつでも飛びかかれる姿勢だ……!)

 相手が臨戦態勢を取っている以上、統子も警戒せざるを得ない。自然と左半身を前にした、相手と鏡写しの体勢に身構えると、

「……あなた、人間?」

 少し迷った挙げ句、そう問いかけた。

 途端、油断なく身構えられていた相手の立ち姿が大きく揺らいだ。

「おまえ……何を言っているんだ?」

 返ってきた声は、統子の予想した通り、男の低い声だった。

 赤いスーツの男は戸惑った様子を見せながら、さらに問い返してくる。

「ここにいるのは契約者だけだろ。それとも、本気で化け物まで出てくるっていうのか、このあべこべな世界は?」

 それは質問ではなく、独り言だったのかもしれない。どちらにせよ、統子を悩ませるのには十分なものだった。

(この世界にいるのは契約者だけ、ね)

 契約という言葉には聞き覚えがある。この奇妙な世界に迷い込む直前、レアの胸から黄金鍵を引き抜いた統子に、彼女が告げた言葉だ。

(ということは、この男もレアと契約をした人間……あ、契約の内容は? わたしと同じ?)

 考えても分からないことは尋ねるしかない。

「ねえ、聞かせて。あなたもあの女、レアに何かを願ったの?」

「そりゃそうだ」

 男は、なぜ当たり前のことを聞くのか、と苦笑するように肩をすくめる。左半身の姿勢は変えていないけれど、緊張感は薄れている。すぐにでも飛びかかってくるつもりは、なくなったようだった。

「もしかして、おまえ、なんも分からずに契約したのか?」

 男は首を傾げながら聞いてくる。

 統子は、どう答えるべきか、と一瞬だけ迷ったが、結局は素直に首肯した。それを見た男が、がくっと項垂れた。ヘルメットで顔が見えなくとも、男が呆れ返っているのは統子にも伝わった。

(そこまで呆れなくてもいいと思うんだけど)

 憮然としている統子に向けて、男は思案げに首を捻りながら言う。

「ふん……さて、どうするかな……? わざわざ教えてやる義理もないが、その様子だと武装の仕方も分かっちゃいないだろうし……そうなると、何も知らない奴を一方的にぶん殴らないとならなくなるんだよなぁ。しかも、なんか女みたいだしなぁ」

 男はうんうんと唸りながら、もうすっかり構えを解いて腕組みをしている。統子としては、なんと反応したらいいのか分からず、居心地の悪い気分で突っ立っているしかない。

 所在なげにしている統子を他所に、男はなおも考え込む。

「ふ、むむ……冷静に考えれば、このまま何も教えないでぶっ倒すのが一番だけど、それをやっちまっうのは流儀に反するというか、寝覚めが悪くなりそうというか……もういっそ、何も見なかったことにして他へ行っちゃうか?」

 統子には、男が一体何を悩んでいるのか分からない。だが、漏れ聞こえてくる言葉から、

(もし、わたしが契約についてレアから説明を受けていたら、戦いになっていたかもしれない……ということのようね)

 と想像することはできた。

(そうなると、こいつ、いまは惚けた振りをしているけれど、不意打ちしてこないとも限らない……)

 自然、統子の身体に力が入る。

 男のほうでもその気配を察したようで、腕組みをしたままだったけれど、右に左に捻っていた首をまっすぐ正面に向け直す。

「おっ、なんだよ。そっちはやる気十分ってか? だったら、見なかったことにしてスルーするって選択肢はなしだな」

「よく分からないのだけど、戦わなくて済むのなら、それに越したことはないと思っているのだけど」

 そう言った統子の言葉を、男は笑って一蹴した。

「嘘を吐け、嘘を。分かるんだぜ。おまえさん、おれと同類だ」

「同類?」

「ああ、そうだ。おまえさんは目の前にヤルかヤラヌかって選択肢があったら、迷わずヤルを選ぶ性格だ。戦うか、戦わずに済ますかって選択肢なら、いちおうは悩んでみせるけれど、最終的には戦うほうを選ぶ――おまえさんはそういう男だ」

「女よ」

「おう、そうだった」

 統子の答えに男はからから笑うと、組んでいた両腕を解いて、改めて左半身に身構えた。

「まぁよ、男か女かなんて、この際どっちでもいいのさ。大事なのは、おまえさんが戦う奴か、そうじゃないか、だ」

「あなた流に言うなら、わたしは戦う奴、ということになるのかしら」

「そういうこった。実際、やる気なんだろ?」

 その質問には答えず、統子はじり、と摺り足で円を描くように間合いを詰め始める。

「ほら、やる気だ」

 男は喉の奥で、くっくっと擂るように笑って、

「そんだけやる気があるなら、教えなくとも武装できそうだな」

 そう言いながら、前に出している左手の拳を天に向かってぐっと振り上げる。

 瞬間、統子がその行動を訝しむよりも早く、男の左拳から真っ赤な閃光が迸った。

「あ――ッ」

 咄嗟に、統子は左手で顔を庇った。

 真っ赤な光はすぐに消え去って、統子も翳していた手を下ろす。

「……え」

 視界が晴れた瞬間、喉から屁を放くような声が出た。

 赤いライディングウェア姿だった男が、左手を天に突き上げた姿勢のまま、別の姿に変身していたからだ。

 体型の出るライディングウェアにフルフェイス型のヘルメットという基本の形は変わっていなけれど、デザインが微妙に変わっていた。

 赤一色だったスーツには、炎を模した黒色の模様が全体に走っている。ヘルメットの形も、球形から刺々しい角張ったものに変化していて、さらに額の部分からは黒い角が突き出している。他にも、さっきまではただの手袋グローブだったものが、ヘルメットと似たような厳つい形の黒い巨大な籠手に変化――いや、変換されていた。腕組みすることもできないだろう巨大さのごつごつした籠手に、手袋としての面影は残っていなかった。

「どうだ、見たか。これが武装だ。おまえも早くやってみろ」

 唖然としている統子に向けて、男は厳つい籠手の左手を突き出しながら告げてくる。だが、いきなり「やってみろ」と言われても、統子は戸惑うばかりだ。

(武装……? わたしにも、ああいうことができるの?)

「ほら、早くやれよ」

「やれと言われてできるなら、とっくにやっていると思わない?」

「なんだよ、逆ギレか? そっちがそういう態度を取るなら、おれも容赦しねぇぞ」

 男はむしろ楽しげに言って、左半身に構えている身体を、いまにも飛びかからんばかりに前傾させる。

(やばい!)

 統子も反射的に身構えるのだが、このままでは勝てないことを直感する。この真っ赤な男はおそらく、ボクシング経験者だ。空手家なら、もっと蹴りを意識した構えになるはずだが……そこはこの際、問題ではない。問題なのは、男のほうは鋼鉄のグローブともいえる厳つい籠手を嵌めているのに、統子のほうは丸腰だということだった。

 ボクサーに対して徒手空拳で挑もうというほど、統子は無謀ではない。

(せめて、剣があれば……!)

 統子は痛切にそう願った。

 スポーツチャンバラの獲物は短刀、小太刀、長剣、杖、棒、槍、盾とある。統子が使っているのは長剣だが、この際、短刀でも小太刀でも、あるいは竹刀でも木刀でも、剣の形をしているものではあればなんでも構わない。

(とにかく、獲物さえ……獲物さえあれば!)

 武器を求める感情が、自然と右手をきつく握り締めさせる。その手は十年間、飽きもせずに剣を打ち振り続けてきて、指の付け根にできた剣だこがすっかり硬質化している手だ。

 手だけではない。余計な肉の削ぎ落とされた、筋張った四肢。ノースリーブの服が似合わない、女性にしては発達した肩幅――。

 長くしている黒髪が浮いてしまうほど、女らしさに背を向けた体躯は、剣を振るためだけに鍛え抜いてきたものだ。

(剣さえあれば……剣が欲しい、剣が!)

 握り締めた右手が、まるでそこに心臓が宿ったかのように、どくんと疼く。

「ああ、そうだ。おまえさん、なんにも知らないようだから念のために教えてやるが――」

 男が、獲物に躍りかからんとする猫のような前傾姿勢に身構えたまま、摺り足でじりじりと間合いを詰めかけながら言う。

「おれたち契約者の義務は、この世界で生き延びることだ。もし負ければ、その時点で契約は解除される――つまり、おまえさんがなかったことにしてもらったことが、やっぱりあったことに戻っちまうってわけだ」

「……!?」

 男の言葉に、統子は心臓を掴まれた思いをした。

(それは……それって……梨花がまた死ぬということ!?)

 統子は、まだ生き返った梨花に会ってはいない。というより、梨花が本当に生き返ったのかどうかも分かっていない。だけどそれでも、生き返っているかもしれない梨花が、また死ぬかもしれない――と、そう考えるだけで、心臓を握り潰されるような苦しみに襲われるのだ。

「……梨花は……ない……」

 統子の口から呟きが漏れる。

「あん?」

 ヘルメットの奥から聞き返した男に、統子は今度こそ大音声で言い放った。

「梨花は死なない! もう二度と、絶対に殺させない!! 誰にもだ!!」

 覚悟を声にしたそのとき、右手が一際大きく、どくりと疼いた。強く握り締めた掌のなかに、確かな手応えを感じた。

 さっきまで手のなかに何もなかったのに、と驚きはしない。掌中に生まれたその感触は、統子にとってとても馴染み深いもので、手がそれを握っているというのは、驚くに値しないことだった。

「おっ、できたじゃん」

 男が笑う。ヘルメット越しでも統子に伝わる。獲物を前にした禽獣の笑み、ではない。対戦者を前にした戦士の笑み、だ。

「正直、何が何だかさっぱり分からない。でも、戦って勝たなければ梨花が死ぬというのなら、わたしがやることは単純明快だ」

 統子は、その感触を握り締めた右手を高々と振り翳す。

 その手には、まだ何も握られてはいない。だけど、統子にも、赤いスーツの男にも、それが見えていた。

 白銀色の閃光が、振り翳された右手のなかから迸った。

 銀光はまるで重さがあるかのように、統子の全身へと降り注ぐ。その光を浴びた白銀色の板金は、水を吸った海綿のように大きく膨れ上がる。薄い板金だったものが、騎士の甲冑を思わせる装甲へと変化する。ヘルメットも球形から変化して、後頭部を摘んで後方に引っ張ったような涙滴型になった。

 男の姿が赤いスーツの関節部だけを黒い装甲で守っているのと対照的に、統子が纏った銀色の鎧からは、膝や肘の関節部分からだけ、下地になっているスーツの黒色を覗かせている。

 そして、男の両手が鋼鉄製のグローブと形容できる籠手を纏ったのと同様に、統子の右手にも銀色に煌めく長剣が握られていた。

 全長一メートルの、両刃の直刀。だが、重さはほとんど感じさせない。統子が普段使っているエアーソフト剣と殆ど変わらない――いや、まったく同一の重さだ。柄も、寸ぷん違わず手に馴染む。

(これは、わたしの剣だ……わたしの、戦うための力だ)

 自分の姿が戦うための姿に変成したことを、統子は素直に受け入れていた。

(戦って勝つ。それが梨花のためにできることなら、わたしは、戦うためのわたしになる)

 それが統子の望みであり、これが統子の望んだことだ。統子はいま、戦える姿になったことを歓喜していた。

「おうおう、いいねぇ」

 対峙する男が満足げに唸る。

「これから戦いやり合おうって相手は、やっぱそうでなくちゃな。それでこそ、おれも張り合いが出ようってもんだ」

「……」

 統子は無言で剣を構える。徒手のときとは左右反対に右半身を前に出して、剣を握る手は腰の辺りに、剣の切っ先は相手の顔を指す。中段に構えた長剣で右半身を隠し、右半身で左半身を隠すような立ち姿だ。

 正面に晒す面積を減らし、長剣の射程を活かす――フェンシングの構えと同じだ。

 長剣の切っ先に睨まれても、男は好戦的な態度を崩さない。

「おっと、もうお喋りの時間は終わりってか。いいね、ますます燃える」

 挑発的に言いながらも、男がまったく油断していないことは明々白々だ。左半身をやや前に出した前傾姿勢クラウチングを保ったまま、摺り足でじりじりと間合いを詰めてきている。上体をほとんど揺らさない月面歩行ムーンウォークのような歩調だから、話し声に気を取られて相手の顔ばかり気にしていると、相手が躙り寄ってきているのに気づかないうちに、一足で踏み込まれてしまう距離まで詰め寄られている――ということもありえた。

(ボクシングの動きじゃない。剣道か、空手か……とにかく武道の、摺り足の動きだ)

 他のスポチャン道場でもそうなのかは知らないが、統子の通っている道場には、色々な武道、格闘技、スポーツの経験者が通ってきている。スポチャンには規定の型というのがないため、そうした経験者は各々の身体に染みついた動きを戦い方に取り入れる。そうした連中と稽古をしてきた経験が、統子に相手がボクシング一辺倒ではないことを勘づかせたのだった。

(……まあ、どうでもいいか)

 統子は頭のなかをすっぱりと切り替える。

(自分と異なる獲物の相手とやるのは、いつものこと)

 公式試合でこそ同じ獲物で対戦するものの、道場での稽古では長剣と棒、片手長剣と二刀流など、長さの異なる獲物同士でも気にせず対戦している。

(自分より射程リーチの短い相手……小太刀使いと対戦するときの感覚、か)

 胸中で独りごちつつ、相手が密かに詰めてきた分の間合いを、同じように摺り足で一歩、後退する。

 リーチの短い相手と対戦する際は、相手を間合いに入れさせず、こちらが一方的に打てる間合いを維持して戦うというのが基本だ。統子はその基本を忠実に守って、彼我の間合いを広げたのだ。


「あっ、やべぇ。忘れてた」

 唐突に、男が間抜けな声を上げて棒立ちになった。あまりにも脈絡のないその行動に、張り詰めていた空気が、ぱっと霧散した。

「……何よ?」

 戦意を挫かれた統子は、その場で蹈鞴を踏みつつ、げんなりした声で聞き返す。男は、挙げた右手でごつごつしたヘルメットの後頭部を掻く仕草をしながら返事する。

「いやぁ、おれとしたことがすっかり聞き忘れていたんだが……おまえさん、名前は?」

「は?」

「名前だよ、名前。負けたほうは契約解除ってことになって、この世界で二度と会うことはない。つまり、おれとおまえさんのどっちが勝つにしても、これが最初で最後の勝負ってことだ」

「だからせめて、自分が倒す相手の名前くらい知っておきたい、と?」

「そうそう。そういうこと」

「なら、まずは自分から名乗ったらどう?」

「それもそうだ」

 頷いた男は、手を口に当てる仕草までしながら、こほんと空咳を打って続ける。

「おれはアラタ、新しく太いと書いてアラタだ」

「……統子よ」

 統子はどう名乗るべきか少しだけ迷ってから、そうとだけ名乗った。

(どうせこの一度が最後の付き合いになる相手だ)

 と思うと、笑顔で長々と挨拶する気にはなれなかった。というより、いまにも斬りかかるところだった相手といまさら名乗り合っていること自体が、馬鹿げたことにしか思えなかった。

 アラタと名乗った男は、ヘルメットの内側で苦虫を噛み潰している統子とは対照的に、大袈裟すぎるほどの身振りで、うんうんと頷いている。

「そうかそうか。トーコちゃんだな、トーコちゃん」

「その伸ばし棒は止め――」

 止めてくれないか、と最後まで言い終えることはできなかった。

 すっかり緩みきった姿勢で頷いていたアラタの身体が突如、統子の視界から消えたのだ。

(違う、下!)

 アラタは消えたのではない。消えたかと見紛うほどの速さで、深々と身を沈ませたのだ。そして、統子が視線を下げたそのときにはもう地を蹴っていて、下草を焼く野火のごとき激しさで統子の眼前にまで肉薄していた。

(しまった! いまの戯言は全て、わたしの不意を打つための罠だったのか!)

 統子は臍を噛みながらも、とにかく後方へ飛び退いて間合いを離そうとする。だが、人間の足はその構造上、後退よりも前進のほうが速い。まして、初動の早かったアラタから逃げられようはずがなかった。

「おおおぉッ!!」

 数秒前のおちゃらけた言動が嘘のように、野太い咆吼を轟かせるアラタ。低い姿勢からそのまま真一文字に撃ち出された黒金色の左籠手が、統子の土手っ腹を狙う。

(避けられない……!!)

 いまさら横に飛んで体を躱すこともできない。斬撃で応じるには距離が近すぎる。

「……ぐっ」

 アラタの右拳が統子の鳩尾を抉る。苦し紛れに身を捻ったおかげで直撃は避けたものの、角張った鋼鉄の籠手が下腹部の装甲を削り取っていく。直撃していたら、土手っ腹に文字通りの意味で風穴が開いていたことだろう。

 アラタの攻めは、まだこれで終わりではない。左の正拳を打ち抜いた勢いで身体を時計回りに回転させて、統子に背を向ける形で右肘を顔面へと叩きつける。

「あっ」

 打ち下ろすような肘鉄砲を横っ面へまともに食らった統子は、錐揉みしながら吹っ飛ばされた。だが、半分は肘鉄の威力を殺すために統子が自分から跳んでいたものだったから、道路に激突しても受け身を取りつつ転がって、アラタから距離を取りながら、ぱっと跳ね起きる。

 だが、息を吐く暇はない。

 いち早く体勢を立て直したアラタが、先ほどと同じ前傾の姿勢で詰め寄ってきている。

「ん……!」

 統子は反射的に、アラタの顔面を狙って剣を突き出す。

 中段からの突きは、ボクシングで言えばジャブのようなものだ。予備動作が少なく、避けるのは難しい。だが、アラタは毛ほども戸惑うことなく、左拳を小気味よく打ち上げただけの動作で、統子の突きを逸らしてしまった。

 そして、剣をいなしたジャブと同時に、左足の踏み込みが完了している。

(まずい!)

 統子の背筋を、ぞわっと怖気が襲った。

 いなされた剣を引き戻し、構えなおして攻撃に備えるなんて時間はない。アラタの右拳、渾身の一撃ストレートは文字通り、目と鼻の先にもう来ている!

 ぶぉん、と轟音が風を切った。

 統子は考える間もなく尻餅を着いたことで、九死に一生を得ていた。だが、そんな体勢では、次の攻撃が来たら躱しようがない。

(今度こそ駄目か……!?)

 覚悟を決めて歯を食い縛った統子だったが、攻撃はこなかった。アラタは、へたり込んだ統子を見下ろした姿勢で、不自然に動きを止めていた。

 その姿を目にするや、統子や瞬間的に理解した。

(あっ、そうか! こいつ、立ち技しか知らないんだ!)

 そう直感したと同時に、統子は素早く立て膝になって、アラタの臑を薙ぐ。アラタは素早く跳び退ったから剣は空を薙いだだけに終わったけれど、立ち上がって身構えるまでの時間を稼ぐには十分だった。

 距離を開けて再び対峙する二人。

「ん、やるねぇ」

 アラタが楽しげに唸る。統子も一言、言い返す。

「この卑怯者」

「おっと、そりゃ言いっこなしだぜ。武装するのを待たずに問答無用で殴り倒してたって良かったんだぞ」

「……」

「むしろ、感謝されて然るべきだと思うんだがね」

「……その件については感謝する。ありがとう」

「え」

 アラタはまたも首をがくっと落して、構えを崩してしまった。統子は、今度こそは構えを解いて油断したりはしないけれど、思わず相手の答えを待ってしまう。

「いやよぉ、なんて言うのかさぁ……なんだかんだ言って、おれ、トーコちゃんのことを騙し討ちしたわけだからさぁ、本気|マジ|でお礼を言われちゃうと、胸が痛むっていうか、良心の呵責を感じるというか……なぁ?」

「わたしに聞かれても困る」

「そりゃそうなんだけどよぉ」

 アラタはヘルメットの頭を掻く仕草をしながら、居心地悪そうに唸る。どうも、演技ではなく本気で居たたまれない心持ちになっているようだ。

(よく分からないけれど、勝機、ということかしら)

 統子は内心で淡々と呟きながら、じり、と摺り足で間合いを慎重に測る。相手のほうが先に不意打ちしてきたのだ。遠慮することはない。

 だが、統子の性根はこそこそするのに向いていないのか、それともアラタがずば抜けて目敏いのか、

「おっと、不意打ちなら間に合ってるぜ」

 アラタは突き出した左拳で、止めておけ、と告げる。

「……なるほど。不意打ちが特技の奴は、不意打ちされないのも特技、ね」

「そういう嫌味な言い方は良くないと思うぜ」

「どうでもいい」

 統子は言葉を投げ捨てると、隠すことなく長剣を構え直す。当てること、当てないことを第一としたフェンシングの構えではない。叩きつけた刃で肉を裂き、骨を割るための構えだ。

 右半身を前に出して、左足は大きく後方へ下げる。剣の切っ先はその下げた左足の爪先に向け、前方に向けた柄を両手でしっかと握り締める。ちょうど居合抜きのような構えである。

 スポーツチャンバラの試合においては、同じ長剣使い同士の試合なら、両手持ちより片手持ちのほうが圧倒的に勝率が高い。それは、片手で持ったほうがより広く、より長く、より速く、剣を振れるからだ。

 だから、統子が剣を片手から両手に持ち替えたのは、アラタの拳撃に対して柔軟に対応するためではない。もっと単純に、

(今度こいつが踏み込んできたら、こいつの拳が届くよりも速く斬り上げる。受けられても、受けた腕ごと断ち割る)

 それだけを目的とした構えだった。

 アラタは統子の構えからその意図を即座に察して、油断していた身体に鬼気を再び漲らせる。

「いいねぇ、好きだぜ。そういう、殺るか殺られるかの大技一発勝負」

「……」

 統子は答えない。口を開くことで失われる息ひとつ分の注意力さえも惜しんでいるのだ。

「ああ、そうだな。分かってるって。お喋りの時間は終わり、だろ」

 アラタの身体が深々と沈む。背を丸めて爪先立ちになり、標的を前にした禽獣の姿勢を取る――そこまではさっきと変わらなかったが、そこからは違っていた。

「トーコちゃんと過ごしたこの一時、存外に楽しめたから……おれも最後は取って置きの大技で決めてやるよ」

 そう言うやいなや、アラタの身を鎧っていた黒金色の厳つい装甲と、赤いスーツに走る黒い炎の文様が鈍く輝いた。いや、装甲と文様が黒い輝きに変じたのだ。

 脈打つような黒色の輝きは、水が高きから低きへと流れるようにアラタの右腕へと集まって、輝きから物質へとまた変成されていく。

アラタが身に纏っていた装甲と文様は、ひとつの巨大すぎる籠手へと造り替えられたのだった。

「な……」

 目の前で起きたことに声も出せないでいる統子へ、アラタは得意げに語りかける。

「どうだ? こいつでぶん殴られたら、死ぬほど痛そうだろ」

「え……ええ、そうね。というか、死ぬわね……」

 精一杯の皮肉を返しながら、統子は浮き足立っている感情を抑え込もうと、心中で必死になっていた。

(な、何をいまさら慌てることがある。ここが現実でないことは、とっくに分かっていたことじゃない。わたしだって、魔法みたいに出てきた剣を持っているんだ。着ているものの黒い部分が集まって馬鹿でかい籠手になったくらいで驚く必要はない。うん、ない)

 力強く言い聞かせると、少しだけ気が落ち着いた。

(よし、そうだ。それでいい。いま考えるべきは、鎧が籠手になったことじゃない。あれで殴られたら本気でやばい、ということだ)

 だが、あの馬鹿でかい質量の塊で殴られたらどうなるか、と想像するのは正直、難しい。まず第一に、古タイヤを三つか四つ束ねたほどもある大きさの、いかにも金属だろう見た目をした塊を、殴るという表現に値するだけの速度で振るえるのかが疑問だ。

 衝撃の威力とは、つまるところ、質量と速度の両者で決まる。質量だけが大きくとも、速度がなければ衝撃は生まれない。当たっても痛くない。

 だが――その予想が楽観的すぎることを、アラタの身ごなしは示唆していた。

 右腕の肘から先に大質量の塊がぶら下がっているというのに、アラタはその塊を地につけていない。アラタの構えはさきほどとほとんど変わらない、背中を丸めた猫のような前傾姿勢だ。籠手の外れた左腕は顎を隠すように上げられている。巨大な塊に変造された籠手を嵌めている右腕は、弓を引き絞るように肘を畳み、拳を脇腹に引きつけている。

 普通なら三十秒と持たずに右腕が上がらなくなるだろうと想像できるのに、アラタは一向に疲れた様子を見せることなく悠然と構えている。

 爪先立ちの前傾姿勢なのに、その身体は根を張った巨木のように身動ぎひとつしていない。それなのに、降り積もった雪をいまにも弾かんとしている柳の枝のようなしなやかさをも同時に孕んでいる。

 重厚かつ軽やか。弛緩と緊張。五体各所にそれぞれ適切なだけの力が込められ、それ以上の余分な力はどこにもかかっていない。

 身構えるアラタの姿からは、その右腕にあるはずの重さを垣間見ることができなかった。

(あの籠手、見た目ほど重くないのか……)

 統子は瞬きするほどの時間だけ、その可能性を思考してみたが、すぐに投げ捨てた。

(いや、それはないだろう。この拳は間違いなく、こいつの持てる最高最大の拳だ)

 アラタの全身から漂ってくる、この一撃にかけた絶対的な自負を感じ取れないほど、統子は鈍くない。

(あの籠手は見た目通りか、それ以上に重い。でも、こいつはそれを、さっきと同じか、それ以上の速度で打ち込んでくる)

 その直感に、統子はぞわりと総毛立つ。だが、怯えからくる震えではない。武者震いというやつだ。

(この一撃で勝負が決まる……ここで負けたら、梨花がまた死ぬ……!)

 そう思うと、背に伝う冷や汗が蒸発しそうなほどの激情が、腹の底から沸き上がってくるのだ。

(相手がどんなに強かろうとも、わたしは負けない。梨花のために、勝つ!)

 四肢の隅々にまで気合いの熱が染み渡る。足が自然と前に躙りだして、上体をいっそう前がかりに傾がせながら、じりじりと距離を詰めていく。低い姿勢で跳び込んでくるアラタを迎撃しようすれば、統子の構えも必然、同じように低くなっていく。

 二匹の獣だった。

 赤い毛並みに黒く巨大な蹄を具えた痩躯の獣と、銀の甲殻に銀の爪を具えた矮躯の獣――いまにも躍りかからんばかりの姿勢で睨み合っている二人の姿は、まさにそうとしか見えないものだった。

 間合いはもう限界まで詰まっている。あともう半歩でもアラタが躙り寄ってきたら、統子の剣が跳ね上がって、アラタの胴を斜めに薙ぐだろう。

「……」

 どちらも、もはや言葉はない。瞬きを止めて息を殺し、スーツに包まれた四肢の微細な動きで、互いの呼吸を伝え合う。

(……来る!)

 統子が予感した瞬間、アラタの足が地を蹴った。

 弾丸のごとく踏み込んでくる赤い体躯。だが、統子の身体もすでに動いている。切っ先で地を削るように振り上げられた剣が、高速で踏み込んだと同時に高速で叩き込まれる鋼鉄の拳を迎撃する。

(あっ)

 剣と拳が激突する寸前、統子は予感してしまった。このまま剣と拳が見えれば、折れるのは剣のほうだと。

 アラタが拳を打ち込む速さと、統子が剣を薙ぎ払う速さには差がない。となれば、攻撃の威力が質量と加速度の乗算である以上、籠手と長剣の質量差からくる威力差を覆すことはできない。

(この剣じゃ足りない……もっと、もっと重さを! もっと破壊力を!!)

 込み上げた渇望をどうすればいいのか、いまの統子は知っている。手を動かすのに知識が要らないのと同じだ。

「お、おお――」

 腹の底から込み上げる咆吼に、統子の喉が震える。

「うおおぉおおぉッ!!」

 内側から爆発的に込み上げた震動が、統子の身体を粉々に粉砕した。いや、それは錯覚だったが、自分のなかから自分よりも巨大で、硬質で、大質量のものが迫り出していく感覚は本物だった。

 統子の全身を鎧っていた装甲が焼けるような激しい銀光へと転化して両手の先へと流れ、いままさにアラタの拳と激突せんとしている長剣へと注ぎ込まれる。銀の光は輝きを保ったまま再度、物質化。刃渡り七十センチほどの長剣だったものを、統子の身体よりも長大な剣へと巨大化させた。

 全ては、振り抜かれた拳と剣がぶつかり合うまでの一瞬に起きたことである。

「うおおおぉッ!!」

「おぉうらああぁッ!!」

 巨大な拳と巨大な剣が激突した。

 加速された大質量の物体同士が激突した衝撃は、それぞれの身体へと逆流する。

「ぐぁ……!」

 殴った拳が歪み、肘や肩の関節が外れかけ、手首から背中にかけての筋肉がぶちぶちと悲鳴を上げて千切れる。

「……ッ!」

 薙いだ剣の柄を握っている両手が痺れ、手首の骨がみしりと呻く。過負荷に耐えかねた上腕が中程から折れかかり、腰椎と骨盤の継ぎ目がずれる。

 たった一度、たった一瞬、たった一撃の激突で、どちらの身体にも致命的な亀裂が刻まれた。それは互角の攻防であったかのように見たけれど、次の瞬間にはその攻防の勝者がどちらであったのか、はっきりと露わになった。

 真っ向から激突して動きを止めた拳と剣だったが、拳が剣を押し始めていた。巨大化した剣が重すぎて、一度勢いが殺されてしまうと、統子の膂力では振り切れなくなってしまったのだ。

 だが、アラタの拳は初速を失ったあとでも加速を止めていない。統子と条件は同じはずなのに、どこが違うのか――。

(くっ、ぅ……そういうことか!)

 実際に剣を合わせたことで、統子はアラタの拳に隠されていたからくりを直感した。あの籠手はただの巨大な金属塊なのではなく、それ自体に推進力を備えているのだ。

 浮遊力、反重力、あるいは反発力だとか磁力だとか――その正体までは分からないけれど、とにかく籠手自体に推進力があるから、アラタはこうも軽々と拳を振れるし、鍔迫り合いのようになっても拳が止まらないのだ。

(だったら、わたしも――)

 自分がどうすればいいのか、統子にはもう分かりきっていた。その意思を抱くのと同時化、あるいはそれよりも一瞬早く、スーツに変化が起きていた。

 腰や腕、脚を覆っていた部分が解けるようにして黒い光へと変化する。その黒光は両手首の先、両足首の先に絡みついて再物質化。統子の全身を覆っていた黒のライダースーツは、胸まわりと腰まわりだけを残して、黒い硬質な手首環バングル足首環アンクレットに換わっていた。

 紐や鎖のような細い環リングではなく、穴の開いた硬貨のような幅と厚みのあるものだ。

 手首足首に嵌ったその分厚い環ディスクが高速回転を始めると、ぐんっ、と両手首、両足首に強い負荷が生まれる。見えない手が統子の手足を掴んで、強制的に動かそうとしている感覚だ。どんな原理なのかは統子自身にも分からないが、回転する環がちょうど原動機のように動力を生み出しているのだった。

 両手首に発生した動力は上半身を前へと加速させ、両足首に生まれた下向きの力は下半身をその場に固定させる。二方向の外力が働いた結果、統子の身体は腰を支点にぐるりと捻られ、アラタの拳に弾き飛ばされる寸前だった大剣を再び前に進ませた。

「ははっ! そうこなくっちゃあなぁ!」

 アラタが獰猛に笑う。拳を押し返されたことへの動揺は一切、感じられない。むしろ、統子がここで終わらなかったことを歓迎しているようですらある。

 根っからの戦闘狂。

 アラタがどうして契約者になったのか、どんな喪失をなかったことにしてもらったのかは想像しようもない。だが、そんなこととは関係なしに、戦うことが好きで好きで仕方ないのだ。

(これだから男という奴は――)

 誰かを生かすためではなく、自分が楽しむために戦うアラタへの怒りが込み上げてくる。

(わたしは……おまえなんかとは違う!)

 統子の意志に呼応して、四基の黒環が回転数をさらに上げる。統子の足下で、ばりっ、と硬いものの割れる音がした。踏み締める圧力に耐えきれなかった舗装道路が陥没したのだ。

「ぐっ……ぐ、ぎ……ッ」

 アラタのヘルメットから漏れた呻きに、もう余裕は感じられない。爪先だけで踏み締めていた両足がとうとう、舗装に亀裂を走らせながら、爪一枚分だけ背後へ滑った。

 その刹那、均衡が崩れた。

「うっ……おおおぉ――ッ!!」

 裂帛の気合いが咆吼となって、統子の口を突く。振り抜かれた大剣が、巨大な籠手を弾き飛ばした。

「があッ!!」

 片手で万歳するようにして跳ね上げられた籠手に引っ張られる形で、アラタの身体も後方へ吹っ飛んでいく。均衡が崩れた瞬間、アラタは奇跡的なまでの反射速度でもって、自分から背後へ跳んだのだ。もし少しでも踏ん張っていたら、右肩の関節は間違いなく外れていた。腱や筋肉が断裂して、比喩でも何でもない文字通りの意味で右腕で吹き飛んでいてもおかしくなかった。というより、そのくらいするつもりで統子は剣を振り抜いたのだ。

 それなのに、アラタの右腕はまだ肩についている。数メートルも吹っ飛びはしたけれど、背中から落ちたときにしっかり受け身を取っていて、さらに転がることで衝撃を逃がしている。

(仕留め損なった!?)

 統子はすぐさまアラタを追いかけて、立ち上がる暇を与えずに追撃しようとする。しかし、最初の一歩を踏み出そうとしたそのとき、重々しい鐘の音が唐突に響き渡った。

 ごぉん、ごぉん、と全方位から鳴り響く鐘声は、この奇妙な世界に瞬間移動する直前に聞いたものとまったく同じものだ。

「やれやれ、ゴングに救われたぜ」

 いつの間にか起き上がっていたアラタが苦笑する。

「……?」

「ああ、そうか。おまえさん、なんも知らない新人ぺーぺーなんだったっけ。そんなのにダウンを取られちまうとか、おれも大概、弱っちいな」

 アラタは一頻り自嘲してからようやっと、統子の疑問に答えてくれた。

「この鐘、ここに来るときも聞いたんじゃないか? こいつはまあ、学校のチャイムと同じだな。戦いの開始と終了を告げる鐘ってわけだ」

「……もう戦わなくていい、ということ?」

「いまは、な」

「いまは?」

「言ったろ、学校のチャイムみたいなもんだって。今日の授業はこれで終わりだが、明日になればまた授業が始まるってわけだ」

「……毎日、こうやって戦うことになるわけね」

「まあな。それが契約者の義務ってやつだ」

「なるほど」

 梨花を生き返らせてもらった対価が、毎日こうして他の契約者と戦うこと、というわけだ。そこにどんな意味があるのかは知らないが、統子は何となく納得した。

(どうせ、闘技場を見物する王女さま気取りなんでしょ、あのレアというのは)

 あの女は契約者を剣闘士代わりにして戦わせ、その必死な姿をどこからか見下ろしては悦に入っているのだろう――統子はそんなふうに考えて、ヘルメットの奥で顔を顰めた。

 統子のそんな考えを、アラタのふと呟いた言葉がさり気なく否定した。

「まあ、べつに戦わなくちゃならないってわけでもないんだが……」

「えっ」

 統子はすぐに聞き返そうとしたけれど、もう時間切れだった。

 死に絶えたような白い街並みが黒い光明に覆われる。視界が完全に暗転した次の瞬間、ずっと鳴り響いていた鐘の音が、電源を切ったかのように、ぷつりと途切れた。

 視覚と聴覚が瞬間的に完全遮断される。でも、それは本当に瞬間的なことで、それと意識したときにはもう、目も耳も正常に戻っていた。

「あ……」

 統子の漏した呟き声は、真っ暗な夜空に溶けていく。

「……あっ」

 もう一度、驚きの声を漏したのは、周囲の景色が元に戻っていることに気がついたからだ。

 明暗の逆転した白い夜空、白い陰の落ちる街並みは跡形もなく消えていた。見えるのは、自動販売機から滲み出す淡い光と、眼下に広がる街並みの灯火とだけにぼんやりと照らされた暗い公園の景色だけだった。

 身に着けている服も、少年漫画や特撮番組に出てきそうなものではなく、学校指定のセーラー服に戻っている。

「戻って……きた……?」

 その呟きに答えるのは、ぎい、と揺らめくブランコだけだ。

 統子がブランコから立ち上がったのは、レアと契約するより前のことだ。あれからかなりの時間が経ったように感じるのだが、ブランコがまだ揺れているということは、数分と経っていないことになる。

「いま、何時……?」

 統子はスカートのポケットから携帯を取り出して、現在時刻を確認する。統子が最後に時刻を確認したのは公園に続く長い階段を上ってくる前だったけれど、体感での時間経過と、実際に液晶が示している時刻とでは大きなずれがあった。統子が予想したほど時間は経っていなかった。

 ブランコがまだ揺れていたことを考慮しても、あの奇妙な逆転世界での出来事は一瞬のうちに見た夢だったのだ、と考えるほうが妥当だと言えた。しかし、たったひとつの物的証拠が、その現実的な類推を見事に退けていた。

 統子の右手には、あの黄金色の大きな装飾鍵が握られていた。それは、レアが現われてから起きた一連の出来事が、梨花を失った悲しみが見せた妄想ではなかったことを静かに物語っていた。

「……あれが……現実にあったこと……?」

 あの世界で戦っていた最中はそれが現実であることを微塵も疑わなかったけれど、いまこうして静かな夜の公園に立ち尽くしていると、どうにも白昼夢だったとしか思えなくなる。

 だがしかし、

「現実でなければ困る」

 統子は手のなかの鍵をきつく握り締めて、ぎり、と奥歯を軋ませる。

「あれが現実でなければ、梨花が生き返らない!」

 そう声を発するや、統子は駆けだしていた。明かりがなくとも、歩き慣れた階段を駆け下りる足取りに躊躇いはなかった。


 ●


 帰宅ラッシュはとうに終わっていて、住宅街の通りに人影はほとんど見えない。だから、道の傍らを息せき切らせて走る統子の足音は、いやに大きく響いていた。

「はあっ……」

 統子は息を切らせながら、目の前の角を曲がる。この角を曲がらずにまっすぐ行けば、統子の家が見えてくる。角を曲がってもう少しだけ走れば、梨花の家だ。

「……!」

 違和感はすぐに見つかった。

 夕暮れ時に遠くから見ていた桜木家には、不幸があったことを周囲に知らせる白黒の提灯と忌中札が出ていた。だが、それがなくなっている。家々の窓から漏れる明かりしか照らすものはないけれど、そんな大きなものを見落とせるはずがない。それになにより、あれから三十分くらいしか経っていないのに、さっきは少なからぬ数の弔問客が出入りしていたのに、それが影も形もなくなっている。

 いや、もっと根本的な問題として、通りに面した二階の一室――梨花の部屋から、カーテン越しに明かりが漏れていた。

「梨花!」

 気がつけば、統子は通りを走ってきた勢いのままに桜木家の玄関前まで駆け込んでいて、呼び鈴を連打していた。

『はい、どちらさまで……あら、統子ちゃん。どうしたの、こんな時間に血相変えて』

 カメラ付きインターフォンのスピーカーから聞こえてきたのは、梨花の母親の声だ。家のなかからは来客の顔が見えているようだが、玄関の外からでは相手の声しか分からない。しかしそれでも、スピーカーから聞こえる母親の声にまったく無理している様子がないことは察せられた。

「あ、あの、」

 統子は速まる動悸に舌を縺れさせながら尋ねる。

「り……梨花は?」

『え、梨花? 梨花ならいまそこで食事しているところだけど、その様子だと急用なのかしら?』

「あ……は、はい。そうです。急用。だから――」

『分かったわ。いま、梨花を行かせるから、ちょっと待っていて』

「はい」

 インタフォーンの会話が切れて、玄関扉が内側から開けられるまでの間が、統子には十分にも一時間にも感じられた。だから、実際には一分と待たずに鍵が内側から開けられるや、統子は力任せに扉を引き開けて、そこに立つ相手の顔を凝視したのだった。

「きゃっ」

 玄関のなかで可愛らしい悲鳴を上げたのは、薄手のトレーナーに綿パンという部屋着姿の少女だ。

 ふわふわの綿飴みたいなショートボブに、少女という言葉をそのまま形にしたような愛らしい顔立ち。そのくせ、最近めっきり女らしい丸みを帯びてきているマシュマロのような体付き。背丈も小柄で、何から何まで統子とは正反対の少女らしい少女――。

 顔から爪先まで視線を二往復させて確認したが、見間違いではなかった。その少女は正真正銘、梨花だった。この家の一人娘で、統子と同い年で、同じ高校に通っている幼馴染みの桜木梨花だった。

「あ……ぁ……」

 統子の目尻に涙が見る見る込み上げてくる。

「えっ、統子ちゃん? どうしたの、何かあったの?」

 梨花はすっかり面食らった顔で、いまにも泣き出しそうな統子の顔をぽかんと見上げている。

「……梨花!」

 もう居ても立ってもいられず、統子は梨花の身体をがばりと抱き締めた。

「きゃっ……統子? 本当にどうしたの?」

「なんでもない。なんでもないんだ、本当に」

「なんでもないのに、泣きながら抱きつくの?」

「うん」

 統子は、梨花の肩口に額を預けるようにして頷く。

「わ、素直だ」

 梨花はくすりと微笑しつつ、統子の頭に手をまわして、子供をあやすように髪を撫でる。それが心地好くて、統子はますます泣きそうになるのだった。

(ああ……良かった。なんでもなくて、良かった……良かった、良かった……)

 春の柔らかな夜風が申し訳なさそうに吹いていくなか、統子はいつまでも梨花を抱き締めていた。梨花はずっと、困ったように苦笑していた。

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