第34話
「ジム行ってくるー」
私はさも当然みたいに告げた。
「え、今日は休みじゃないの? しかもなんでスーツ?」
ソファでくつろいでいる母が焦ったようにこちらを振り返った。概要しか分かっていないが、クライアントのプレゼンということはさすがに私服はまずい。
普段はほとんど着ることのないジャケットに袖を通していた。
「休みだけど上司から呼び出された」
「何をやらかしたの?」
「何もしてない。期待のスーパールーキーだから」
「そう……。あんたが大丈夫なら良いけど。休む時はちゃんと休みなさいよ。体が資本の仕事なんだから」
冷蔵庫から豆乳を取り出し、グラスへ注ぎ「分かってる」と生返事をして思い切り飲み干す。
「そういえば出部くんとは最近どうなの? あんまり話題にあがらないけど」
喉を通りかかった豆乳でむせ返す。
「この前は独り暮らしの出部くん家にお泊まりしたじゃない? どうだったの?」
「我が母よ。下世話は嫌われると思う」
「何言ってるのよ。母親が娘の世話をしないで誰がするのよ」
「出部とは別れた」
「え?」
「行ってきまーす」
リビングを逃げるように出て行くと「え⁈ 別れたのー⁈」と母の声が廊下に響いた。声が大きい。せっかくの楽しい仕事気分が台無しだ。
廊下に出ると、蒸し暑い夏の湿気が全身にまとわりついた。すぐにジャケットを脱いでブラウスのまま、家を出る。
「自転車、格好悪いなぁ」
スーツに自転車は違和感がある。ジムに着いてから着替えれば良かったと今更ながら後悔した。
ヨミカキまでは自転車で一〇分ほど。バス通りへ向かう途中で出部の実家も見かける。最近はわざと道を避けてきたが、今日は無意識にいつものルートを通ってしまった。
バス通りから駅方面へ向かうと、葉花さんが住んでいるタワーマンションが見える。平々凡々な家庭に育った私には他人事に思えた。
車が吐き出す排気ガスで蒸気が蜃気楼みたいに揺れると、こっちまで脳が揺れてる気分になる。
「ああ、揺れてるのは心か」
忘れたいことというのは、消化してないから忘れることができない。時間が風化させてもふとした時に思い出し、胸の辺りをちくりと刺す。
それでも忘れたいから私はペダルを漕ぐスピードをあげて、フィットネスジム「ヨミカキ」へ自転車を走らせた。
誰もいないジムは新鮮だった。他セクションのスタッフもいない。いつも以上にジム内が広く感じた。
なんか落ち着かない。
受付前にある長テーブルに座って、私は時間がくるのを待った。
「待つのは嫌いだ」
余計なことを考える。全力を出せず、ただ立ち止まっている。研修卒業の試験に落ちてうじうじしているチサ。一年前を思い出して同じ境遇だと同調するコトカ。仕事がうまくいかない葉花さん。
もう二週間もジムに来ない出部。
「結局ヘタレだ」
みんな立ち止まった。全力を出し切れずに。
「落ち着かない」
居ても立ってもいられず、ジャケットを脱ぐ。スーツ姿だというのにフリーウエイトゾーンが目につくと、体が疼いた。
少しくらいなら。
他とは違う。私は全力で走りたい。最初は単純にジムがタダで使えるという不純な動機で入社した。今は夢中になれる大好きな仕事になった。
たかだか恋愛なんかでかき乱されたくない。出部に気を使ってくらいなら、ひとつでも多く筋肉の名前を覚えた方がよほどマシだ。
「むかつく」
格好良いわけでもないし、運動ができるわけでもない。男としての魅力なんてこれっぽっちもないのに私の心の中に住みつく。
「待たせたな」
ちょうど良かった。これ以上、不毛なことに思考を使いたくないと思っていたところへ畑さんが登場。
「スーツなんて初めて見ましたよ」
「いつもみたいに筋トレをしてれば良い日でもないからな」
普段とは全く印象が違う。スーツを着てもサイズは相変わらずパツンパツンで、ボタンが飛び散りそう。苦しそうに張りつめているボタンを早く楽にしてやってほしい。
しかしいつもと違うのは畑さんだけではない。
「どうして」
私は自分の目を疑った。あっけにとられて、呆然とそのシルエットを視線で追う。その人物は大事な日とあってやはりスーツ。体格のせいで袖が窮屈そう。胸を張って姿勢を正すせいか、どこか堅苦しい。
「本日はよろしくお願いします」
緊張した面持ちで現れたのは出部だった。着慣れていないのだろう。硬さの残るスーツ。言葉遣いもぎこちない。私をクライアントとして扱う振る舞いは違和感しかなかった。
しかもサプライズはまだ終わらない。
「マチさん、本日は全力で勝負しに来ました」
一転してスーツが似合う厚い胸板。まだ外は暑いというのにプレゼンを意識したスリーピース。それでいて十分に着こなせている締まった体。筋肉は一生モノの服だとどこかのゴールドジムがキャッチコピーにしていたが、まさにその通り。
「葉花さん……」
仕事の雰囲気が似合う。そんな葉花さんですら今日はいつもと違う。唯一気がかりだった頭部にバーコードが無いのだ。完全にバリカンで刈り上げられた坊主頭は清潔な印象を与える。
「髪切ったんですね」
「勝負に参りましたので」
軽く頭を下げる。前を知っているから皮膚が見える頭頂部は気になる。それでも妙な納得感があった。これが葉花さんの最良。
いつもと変わらぬ穏やかな雰囲気だが、意気込みが伝わる。
「最後に……」
葉花さんらしからぬ意味深な笑みをこぼす。何かを企み、もったいぶった様子で視線をジムの入り口の方へ受ける。
「え……⁈」
これが一番驚いた。私が知る限り最もスーツの似合わない人物。
最後にガリさんがホワイトボードを引いて現れる。もう言葉にならない。長身なのにサイズが合ってない長丈のジャケット。ほとんどタキシードみたいになっている。スーツを着るのは初めてとすら思えるほどなってない。ただホワイトボードを押すだけに表情が凝り固まり、ローラーをがらがらとうるさく鳴らす。緊張がホワイトボードに伝わるなんて斬新すぎる。
「というわけだ」
畑さんが私の隣に座る。呆れたため息をつくが、してやったりといった表情。どっしりと腰を下ろす様は味方には到底見えなかった。
「なんの茶番ですか?」
「クライアントに聞いてくれ」
私はガリさんが持ってきたホワイトボードの横に立つ出部を睨みつけた。
「出部、ふざけるのも大概にして。私を振り回すのはかまわない。私だって出部を散々振り回したんだから。だからってヨミカキの人間まで巻き込まないで。ましてや休みの日に畑さんの時間まで使うなんて失礼にもほどがある」
人気のないジムに私の尖った声が響く。会員さんが目の前にいようと関係ない。これが社会人と学生の違いなのだろうか。のうのうとした考えた方に悔しさすら覚える。
「マチさん、お休みの日に本当に申し訳ないと思っております。ですが」
「葉花さんだって今日仕事じゃないんですか?」
「これが仕事です」
「本当は?」
「有給です」
私はまた出部を睨みつける。休みの人間を巻き込むよりもたちが悪い。私は立ち上がって出部へつめ寄る。ほとんど殴りかかる勢い。
「待ってください」
しかし遮ったのは最も迷惑を被ったはずの葉花さんだった。
「お願いです。マチのさんの言う茶番に少しばかりお付き合い願えませんか?」
葉花さんが至近距離で私を威圧する。こんな時、鍛え上げられた肉体は効果的だった。いくら私が強気だと言っても一八〇センチの男性に見下ろされればいくらか萎縮する。何よりも葉花さんが私を睨むなんて初めてだった。
「葉花さんがそこまで言うなら」
私が引き下がると、葉花さんはいつも通りの大人らしく微笑んだ。ずるい。怒りの表情を分かっていて情を訴える手段に使うなんて。
私が席に戻ると、葉花さんは丁寧に一礼した。
「貴重なお時間を頂き、本当にありがとうございます。本日は出部が開発したフィットネスシステム、及びアプリケーションについてのご説明させて頂きたいと思います」
あえて内輪を呼び捨てにする。形から入るのはやっぱり茶番だ。そんな茶番に葉花さんは真剣だった。
ホワイトボードの前で軽い手振りを交えて語りだす。カチッとした言葉遣いだが、堂々としている。営業職なのだから当たり前だが、運動する葉花さんしか見たことのない私にはえらく新鮮だった。
「まずは私が付けている腕時計にご注目ください」
見覚えがある。個人指導中、しきりに気にしていたオレンジウォッチ。
「おふた方も何となく察しはついていると思いますが、オレンジウォッチで利用するフィットネスアプリケーションをこちらの出部が開発しました」
紹介に預かり、出部が慌てて会釈する。プレゼンは完全に葉花さんに任せているのだろう。ただの一言もしゃべらない。口べたを露呈にするが、開発者っぽい雰囲気にも見えた。
「テーマはパーソナルトレーナー、です」
言葉を切って単語を粒立てる。
「せっかくなのでおふたりも付けてみてください」
ガリさんからお茶を出すみたいに脇から時計を机に置く。雑用ポジションなのだろうか。お茶だったら零してくらい手が震えている。見ているこっちが緊張するが、言われるがまま左腕に時計を付けた。
「まずは動作認識をしていきます。アームカールの動きをお願いします」
いきなり専門用語が飛び交うが、私も畑さんも問題なく言われた言葉を理解した。オレンジウォッチが「アームカール」と無機質な音声を発する。続いてショルダープレス。ラットプルダウン。どれもトレーニングの動きだ。
動作をする度に時計が正確な種目を発する。
「これ、全て時計が認識してるんですか?」
「その通りです」
私は勝手に種目としては少しマニアックなサイドレイズという肩の種目の動きをしてみた。こちらも正確に認識する。
繰り返し行うと、時計のディスプレイの大きく数字が表示された。
「自動で回数もカウントするんですね。しかもけっこう見やすい……」
「はい、今はまだ開発中ですが筋肉量や筋力も集計できるようにする予定です」
「これ、出部が作ったの?」
「うん」
出部は言葉短めに答えると、それ以上は何も言わなかった。手を下腹部あたりで慎ましく組んでいる。本当であれば自慢のひとつもして良い出来だ。
「今はまだデータを音声入力していますが、データを蓄積していくと何割の力が発揮されているかが数値で表示されます。運動をすればするほど精度が上がるので、アプリの成長を見るだけでもトレーニングにしがいがあると思います。ですが」
続きが気になる逆説。葉花さんの仕事術の片鱗を垣間見た気がする。
「このアプリケーションの最大の目玉は動作の識別能力ではありません」
いちいち間をとる。私の反応を伺い、興味を示すタイミングを常に注意している。
「画面をスライドしてセレクトという項目が出るか確認してください」
私と畑さんは言われるがまま、小さな画面をスライドする。画面にはいくつか人の名前が並んでおり、中にはあからさまに見覚えのある名前もあった。
「よろしければどちらか選んでいただけますでしょうか」
ほとんどフリと同じ。いくつか選択肢があってもどれを選ぶかは決まりごとでしかなかった。
『こらー。さぼるなーっ。あと一回なんだからガンバれーっ!」
馴染みのある快活な声。しかもいつにも増してあざとい。声色も媚びたような猫撫で声になっている。
「コトカ……。あいつ、勝手なことしやがって」
頭を抱えたのは畑さんだった。名目上は一応プレゼン。クライアントに独断で肩入れするのはもはやスパイ。
ルール無用の殴り合いだった。他にも「ファイトだよっ」とか「あんたのことなんか応援してないんだからっ」などと言わされたのか自ら進んで言ったのか怪しいセリフが連発する。
再生するたびに畑さんが諦めにもにたため息を漏らした。
「こちらはあくまでもデモンストレーションです。あらかじめセリフを吹き込んでありますが、オレンジ社の
ガリさんが顔を真っ赤にして慌てふためくが、なぜか妙に嬉しそう。夢でも叶ったみたいに鼻がひくひくしている。
「このアプリケーションはオレンジウォッチに組み込んでおりますが、トレッドミルなどのランニングマシンへ移植することも不可能ではありません」
ここからが本題だった。
「これからの時代、スポーツと科学の力は切っても切り離せません。健康管理の技術は爆発的に進歩するでしょう。その時代の波に乗れるかどうかは非常に重要となります」
葉花さんがプレゼンする側とは思えないあり方をする。私は思わず唾を飲んで葉花さんの言葉に耳を傾けた。
「インフォメーションテクノロジーで、フィットネス業界にイノベーションを起こしませんか?」
まるで演説。私には話が大きすぎて実感が沸かない。それでも体が宇津区のだけは分かった。
「というのは全て建前です。僕は不可能なこととは思っておりませんが今日ここに来たのは別の目的です」
葉花さんはさり気なく一歩下がると、私の視線は自然に出部へと傾いた。終始押し黙っていたのに何か言いたげ、口を真一文字に結び、私を直視する。
思えば出部と会うのは二週間ぶり。出部がヨミカキの会員になってから最も長い期間だった。
緊張する。早く何か言え。なんで何も言わないんだ。このアプリは出部が作ったんだろ。だったら誇りを持て。葉花さんがこんなにスタイリッシュにプレゼンしてくれたんだ。締めを任されたからにはきっちり締めろ。
なぜか私が祈るような思いで出部の言葉を待つ。しかし私が思っていることとは全く見当違いな言葉を出部ははっきり口にした。
「マチちゃん、僕はあなたの隣で一緒に走りたいです。全力で」
「…………え?」
「もう一度、僕と付き合ってください」
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