第33話
営業時間の終了後、私は薄暗いジムで珍しくランニングマシンを使った。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
一定の速度で回るコンベアの上をリズミカルに走る。常に一定。そして安定。仕事の歯車もこんな風にスムーズだとどんなに楽なことか。回ってはいる。相変わらずレッスンも満員御礼。葉花さんともコミュニケーションは取れている。
スカッシュだって基本的なフォームはだいぶ固まってきた。なのに焦りが消えない。
「くそ……」
コンベアが回る駆動音と、私の足音が一定のリズムで交わる音だけがジム内に響く。明日は月曜日。ヨミカキの定休日のためジムは使えない。
今やらなきゃ。そんな気持ちが呼吸を乱した。
「どいつもこいつも……」
運動をすると、血液が優先的に全身へ回る。脳は後回しにされるため、余計なことは考えない。はずなのに色々な感情が血液と一緒に全身を巡った。私をさげすむような視線が脳内で再生される。
「もっと早く……」
マシンの速度をあげる。余裕があるから脳が回るのだ。走ることだけに没頭したい。
「はぁ……はぁ……はぁ」
呼吸を意識する。腕の振りを大きくして、跳ねるように足を回転させる。
ー半人前だから頑張ってるんですー
偉そうに言うな。威張れることでもなんでもない。
まだ余計なことを考えている。酸素が邪魔なんだ。
さらに速度をあげて、無酸素運動みたいな走り方をする。血の気が引いて、脱力していく不快感が全身を襲った。慣性の法則で無機質に脚が動く。
ー待ってよマチちゃんー
逃げ切れたはずの出部の残像を背後に感じる。追いつけるはずがないのに、いつまで経っても離れない。
苦しい。色々なことが胸をしめつける。
「くそ……」
思考よりも早く脚に限界が訪れる。慌てて速度の下げるボタンを押して、足を引きずるように走った。
「はぁ…はぁ……」
呼吸を落ち着かせるが心臓はいまだに激しく脈打つ。酸素がうまく吸えずあごが上がった。
「珍しいな。マチがランニングマシンを使うなんて」
いつの間にか畑さんが隣のマシンに乗り、ゆっくりと歩いている。しかし余裕がないせいか驚くことすらできない。怒っているわけでもないのに睨みつけるような視線を送った。
「たまには、です」
「そうか」
軽く会釈をするが、やはり気を使う余裕はない。
畑さんは設定を変えて、徐々に速度を上げる。ウォーキングがジョギングとなり、私と同じように走り始めた。
「はぁ……はぁ……」
同じ速度なのだろう。呼吸と足音が重なる。畑さんの方こそランニングマシンを使うのは珍しい。
フリーウエイトで百キロを超える重さを扱う猛者。太い腕を振り、窮屈そうに走る姿はどこかぎこちない。
わざわざ回りくどいシチュエーションを作るのはなにかあるからだろう。しかし体力の回復に努めるせいで畑さんの方を向けない。全力で走ったからか、あるいは緊張のせいか、やたらと汗が吹きだした。
心地が悪い。シャツが背中にへばりつき、集中力を削ぐ。体力が一向に回復する気がしなかった。乳酸でほとんど言うことを聞かなくなった脚が妬ましく、私はなにか抽象的な不安に駆られて焦っていた。
「マチは走り方がきれいだな。たしか元陸上部だったか」
「はい」
「俺はラグビー部だったがスクラムハーフと言ってな。あまり走るのは得意じゃなかった」
「そうですか……」
「マチは走るのが得意か?」
「……分かりません」
「走るのは好きか?」
私がペースを落とすと、畑さんは同じようにペースを落とした。歩幅の大きい私と歩調も合わせる。
「私は前だけ向いてひたすら走ってきました。常に全力で周りとか見る気もなかったです。一番になりたい。そう思ってます」
「ストイックだな」
「走るのは好きです。でも苦しいです。なんで走ってるのか分からなくなる時があります」
言葉がどんどん溢れ出る。畑さんはなんとなく相槌を打つが、きっと私がなんの話をしているのか理解しているだろう。
ペースは遅いはずなのに脈が早い。畑さんが落ち着いた表情のままなのが私を妙に焦らせる。
「一番になりたいはずなのに、隣に誰もいないのが寂しくなります。でもペースを落としたくありません。全力疾走しても、誰かが横にいてほしいです」
私はまたペースを上げた。もう体力なんて残っていないのに、無理やり脚をかき回す。その横で畑さんはマイペースを貫いた。
ついてこい。仮にもフィットネス部のトップだろ。女子の部下に置いてけぼりをくって恥ずかしくないのか。
もう言葉を吐く余裕はない。息を吐いて、そして吸う。
「はぁ……はぁ……はぁ」
当然すぐに限界が訪れる。自力ではペースを保てず、サイドバーを掴んで脚への負担を軽くした。しかしそんなのもはインチキでしかない。一分も経たずに元のペースへ逆戻り。
だらだらと走っていた畑さんとまた歩調がそろい始める。と思った時、
「畑さん……?」
今度は畑さんの方がペースを上げ始めた。電子ボタンの音がピピピとこれ見よがしに鳴る。あからさまな挑発だが、疲れ切っている私はついていくことはできない。
しかも意地が悪いことに畑さんは全力疾走ではなく、保てるていどのハイペース。畑さんが私を一瞥すると、挑発気味な笑みを浮かべた。むかつく。売られたけんかはたとえ上司だろう買う。私は半ばやけくそに速度を上げた。その矢先、
畑さんはまた元のペースに戻した。
「……くそ」
私の負けず嫌いの心が弄ばれる。興が削がれてもう対抗する気にはなれなかった。妙な敗北感に苛まれる。
「本当に何しに来たんですか。用がないなら私はもう上がりますけど」
「急なんだが明日は予定あるか?」
「なんですか? デートの誘いならお断りですよ」
「誘う前から凹ますな。なんの誘いなら乗ってくれるんだ」
「そうですね。仕事かトレーニングなら」
ふざけた言葉を返すと、畑さんはいつもと変わらず、いじられる立場を選んだ。ペースをころころ変えたせいか、さすがに息が乱れる。いつしか歩幅もずれて、小股気味に走った。
「畑さん、体力ないですね」
「もう三十路だからな。勘弁してくれ。そんなことより実は明日、新しいシステムのプレゼンがここであるんだ。マチも同席してくれないか?」
「システムのプレゼン?」
聞き慣れない単語に首を傾げる。畑さんはいつの間にかウォーキングに切り替えてほとんどクールダウンへ入っていた。
「新しいマシンを導入するんですか?」
「難しいところだな。内容によっては必要になるかもしれん」
「話が見えないですね」
「要するに俺たちはクライアントから商品を勧められるという話だ」
「なるほど。粗悪品だったら私がばっさりと切り捨てれば良いわけですね」
「平たく言うとそうだ。本当に鉄のハートだな。お前が断ってくれるなら俺も楽だわ」
「断るつもりなんですか?」
「まだ分からん。せっかくだからフラットな感想が聞きたいんだ」
気がつくと私と同じペースに戻り、足並みがそろう。少しでもズレそうになると、意識的に同じにしてみたりする。
「分かりました。退屈な休暇に刺激を与えてくれてありがとうございます」
私がランニングマシンを停止させると、同じく畑さんも速度をゼロにして立ち止まった。見られているみたいだ。グリップやサイドバーの汗を拭き取ると、全く同じ動きで乾拭きする。
「走るってなんだろうな」
マシンを拭きながら畑さんがぽつりと呟く。
「私は全力ってことだと思ってます」
「そうか。じゃあさっきの俺の緩いペースは走るに含まれないな。余裕があったし」
畑さんの方を見ると、私には目もくれずマシンを拭き続けている。最後に「よし」と言ってマシンの上から降りた。
「いくぞ。そろそろ出ないと管理会社に怒られる」
畑さんが一人でそそくさと歩いていく。特にこちらを振る向くことはない。私はしばらく畑さんの後ろ姿を見つめたまま、立ち尽くしていたが、畑さんはやっぱりこちらを気にすることはなかった。
明日はなんのプレゼンかも全く理解していないが、忙しければ忙しいほどありがたい。
忘れたいことを思い出さずに済む。
やっぱり私にとって「走る」ことは全力だ。そう思い込もうとした。
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