第32話

「葉花さん、どうしたんですか。調子悪いんですか」

 葉花さんの個別指導の一環で、スカッシュを取り入れている。つい先週始めたばかりで、ルールもあいまいな葉花さんだが、持ち前の運動能力でボールに食らいつく。しかし今日は「ボールを絶対に落とさない」という気ぐらいが見えなかった。

「すみません、ちょっと集中できなくて」

「まあ目的は上手くなることではないですからね。でも一生懸命やった方が効果もありますし、何より楽しいですよ」

「そうですね。その通りです」

 葉花さんが息を切らしながら頷く。広いおでこの汗を拭うが表情はやはり冴えない。閉鎖的なスカッシュコートにどこか殺伐とした空気が漂う。

「仕事でうまくいかないことでもありましたか?」

「すごいですね。どうして分かるんですか?」

「いえ、少し元気がないかなって思っただけで理由は当てずっぽうです」

 私は葉花さんという人間を「大人」として見ていた。偏見だが大人は格好いい生き物で、子供になど弱みを見せない。偶像として扱う部分があった。

「実はどうしても成功させたいプロジェクトがあるんですが、少し雲行きが怪しくなりまして」

 葉花さんは罰が悪そうに後頭部をさすり、苦笑した。気を使っているのだろう。屈伸や伸脚をしたりして気分を紛らわす。

「葉花さんでもうまくいかないことがあるんですね」

「とんでもないです。うまくいかないことばかりですよ。うまくいかないとすぐ落ち込みますし。仕事にプライベートを持ち込みがちですし」

「意外ですね。でも分かります。切り離さなきゃいけないのに、つい考えちゃうんですよね」

「マチさんは強いですよ」

「え?」

「いえ、なんでもありません。僕も自分の仕事を頑張らないとです」

 冷えたボールを何度も壁打ちし、熱をあげる。再びラリーを始めると、葉花さんはがむしゃらにボールへ食らいつく、いつもの真面目さをとり戻した。私からすれば葉花さんの方がすごい。気持ちの切り替えが早い。さすが大人だ。

 私はあえて、フォアハンドの打ち合いで、悶々とした気持ちを発散しようと努めた。


「ねえマチ、最近ガリさんの元気がないんだけど何かあったのかなぁ」

 控え室でコトカが頬づえをつきながらため息を漏らす。

「何かあったの?」

「それをマチに聞いてるんだよ~。どこか上の空で。こんなこと初めてで私が戸惑ってるんだから」

 コトカは眉尻を下げ、どかっと背もたれに寄りかかった。セミショートの毛先をねじったりして手持ち無沙汰を紛らわす。

「コトカが知らないのに私が知ってる方がおかしいでしょ」

「うーん、そうなんだけど何となくね」

 今日は私の周りがそわそわと落ち着かない。もの哀しげなコトカを見ると、私まで気分が沈みかける。

「会員さんの気分に一喜一憂するなんてコトカもまだまだ甘いね」

 あえて挑発して自分を戒める。

「マチだってそうでしょー。出部さんとうまくいってなかったら仕事だって手につかなくない?」

「私は仕事の鬼だからそんなことはない」

「うーん」

 コトカが口をへの字にしてうなる。

「ちなみに今日の私の調子はどう見える?」

「いつもと変わらない仕事の鬼かな?」

「でしょ」

 指関節を鳴らして気持ちを引き締める。

 変わらない。

 仕事の鬼である私にとって最もありがたい褒め言葉だ。

 ジムへの扉を開ければ、フォームの乱れたトレーニング初心者や、筋繊維をぶちぶちと切りたいマッチョさんたちが私を持っている。

 やることは山積みだ。そしてやれる自信もある。

「お先」

 なのにどうしてだろう。周りの落ち着かない空気が私へ伝染する。

「うん、私も少ししたら入るね」

 コトカが柔らかい笑みをこぼす。私は男前に親指を立てて、ジムへの扉を開けた。

「はいりまーす」


 出部へ別れを告げてから一週間が経った。八月が終わり、残暑が残るもののセミの鳴き声もどこかけたたましさが薄れた気がする。秋を意識し始める乾いた空気の日が増えた。

 フィットネスジム「ヨミカキ」もピークの季節に終わりを告げ、通常運転に戻りつつあった。肌の露出の多い夏場に駆け込みで入会した人が、目的を果たせず挫折する。

 残念な言い方をすると「にわか」が途端にいなくなるのだ。

「おはようございまーす」

 控え室からジムへの扉を開けると、覇気のない気だるい挨拶が耳に届く。

「どうしたチサ。私みたいな眠そうな声出して」

「いえ、なんでもありません」

 という分かりやすい嘘をつかれても困る。日常的に爽やかな笑顔のチサが、下手くそな苦笑いを浮かべて目を泳がせた。こういう時はきっと慰めてもらうか愚痴を聞いてもらたいと思うのだろう。

「湿っぽい顔してると会員さんにも気を使わせるからやめな。まだ指導はできなくてもチサのことを気に入ってくれてる人もいるし」

 血も涙もない言葉を浴びせたが、チサのことだ。どうせ「そうですよねっ。落ち込んでなんか入られません!」とはつらつとした言葉が返ってくる。そう予想していた。しかしチサは叱られた犬みたいに「はい」と弱々しい返事をするだけ。

 調子が狂う。私はそれ以上はかまわず、ジムの奥へと向かった。今ならチサよりはいくらかマシな挨拶ができるだろう。

「こんにちはー」

 早速マシンの使い方が分かっていないおばあちゃんを発見する。端的に「バーを鎖骨につけるように弾いてください」とだけ指導。まだまだフォームはいないが最低限の形にまで整える。

 経験上、ぱっと見でどれくらいの情報量が適切か分かるようになった。おかげで時間短縮にもつながる。夏場の忙しさが私に効率をあげた指導力を与えたのだ。

 マシンエリアには十数人の会員さんが各々トレーニングに励んでいる。これくらいなら一人でも現場を回せる自信があった。

「チサー、フリーウエイトに動きがあったら教えてー」

 もちろんチサとの連携も忘れない。私は(自称)安全管理長なのだから油断は禁物だ。チサだってまだ指導はできなくともやれることはある。何に落ち込んでいるかは知らないがヨミカキに必要な存在だ。少なくとも私はそう思っている。

 と思っていた矢先、どうやら私と入れ違いで休憩らしい。仕方なく私が受付を担当する。

「ご飯をもりもり食べてくると良い」

 チサは返事もせず、こくんと頷いて控え室へ入っていった。先輩に対する態度がなっていない。少々ムッとする。

「コトカですら合コンに失敗してもちゃんと仕事するというのに。最近の新人は……」

 去年まで私も新人(今も)なのを棚にあげる。初めて指導にあたった時はそれは浮かれたものだった。

 受付に立って先輩たちが奥で指導する姿を恨めしそうに見つめたのは今でも覚えている。一日でも早く。そんな焦りが私を駆け足にした。

「あれ、チサどうしたのさ」

「筋トレしようと思って」

 チサは休憩に入って五分も経たないうちに出てきた。ハーフパンツはユニフォームのままでウエアだけノースリーブシャツに着替えている。インストラクターとしてはまだまだ線の細い腕をさらし、腕を交差させて肩のストレッチをする。

「良い心がけだ。で、種目は?」

「ベンチプレスです」

「怪我しないように」

「はい」

 チサはこわばった表情でフリーウエイトの方へ歩いていった。なにか思うところがあるのだろう。休憩中までトレーニングするのは珍しい。

「茶々入れたい……」

 可愛い後輩が筋トレをしようとしているのだ。指導したくてたまらなくなる。

「ちょっとだけ」

 周辺視野で受付とフリーウエイトゾーンが見える位置に立ち、ちらちらと覗き見る。案の定、フォームが不安定。まだまだインストラクターとして一人前になる道は険しい。

「勢いで挙げようとしない。下げる時は慎重に」

 安全管理だけにしようと思ったが、つい口を挟んでしまう。半人前の後輩は可愛いものだ。去年は私も畑さんや他の先輩たちにいじられた。ほとんどおもちゃ状態で半ベソかいてトレーニングに明けくれた。きっとフィットネスジム「ヨミカキ」の通例行事なのだろう。

「まだまだだね」

「そうです。半人前だから頑張ってるんです」

 私の思い描いていた展開と少し異なる。チサの口調がどこか刺々しい。いつもと言っていることは分からないのに、飼い犬に噛まれた気分。

 チサはインターバルもそこそこにすぐ二セット目を始めた。半ば投げやりで、先ほどよりもフォームが雑。まるで私に反抗しているようだった。

「勝手にしろ」

 私はフリーウエイトゾーンから離れて、受付へ戻った。ちょうどコトカが休憩を終え、ジムへ入ってくる。

「マチどうしたの? なんか不機嫌そうだけど」

「別に。チサがベンチプレスやってるから念のため安全確認をお願い」

「うん、分かった。珍しいね。安全管理長が人に任せるなんて」

 コトカは首を傾げながらも「はいりまーす!」と元気な声を響かせて奥へと向かった。すぐに「ベンチでーす」と明るいながらも仕事モードに入る。

 ちゃんとは見えないが、コトカがチサを指導している。チサの方もしっかりと聞いているようで、頷いたり腑に落ちたような反応をする。

 しばらしくしてトレーニングを終えたチサが戻ってくるが、軽く会釈をするだけで会話は生まれなかった。そのまま控え室へ入っていく。タイミングを見計らったのか、少し遅れてコトカがこちらへ寄ってくる。

「知三郎、指導資格の試験に落ちちゃったんだって」

「そうなんだ。まあさっきベンチプレスを見たけどまだまだだね。フォームもそうだけど自分が挙げられる重さを分かってない。純粋にやり込みが足りないと思う」

「……」

「どうしたの?」

「うん、その通りだと思う。私も重たいの挙げられるわけじゃないから大きなことは言えないけど自分がどれくらい持ち上げられるか、どんな準備が必要かは分かってる」

「でしょ」

「でも優しくないかな」

「身内に優しくしてもしょうがない」

「マチは厳しいね」

「コトカにしては珍しく突っかかるね」

「出部さんと、別れたんだって」

 唐突な話題の切り替えに、思わずコトカを睨みつけてしまった。関係性で言えば私が強気に出て、コトカがいじられる側。しかしコトカは目をそらさず、もの哀しげな表情で私を見続けた。

「知ってたんだ」

「うん、ガリさんから聞いた」

 つまりは出部が教えたということ。

「そっか。じゃあ葉花さんも知ってるのかな」

「どうだろう」

「で、コトカは何が言いたいの? クレーム?」

「ううん、そういうんじゃないよ。突っかからないでよ。マチは不機嫌になると怖いんだからさ」

「さすがコトカ。同期にして我が親友」

「ずるいよ。その親友には何も相談せずに決めちゃうんだから」

「私のことだからね」

「……」

「受付は任せた」

 コトカはまた「ずるいよ」と言って受付に残った。本当に心配してくれているのがひしひしと伝わる。

 だからこそ困る。私は落ち込んでもいないし、モチベーションが下がっているわけでもない。夏に終わりを告げたジムの空気が心なしか重苦しい。不備はない。淡々と業務をこなす。それでもどこか無機質で退屈な気分のまま時間だけが過ぎていった。


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