第31話

 あいつはどんな気分だったのだろう。

 掻き入れ時の季節だが、徐々に夏の終わりを匂わせる夕立が多くなってきた。今も遠くの空は晴れているのに、外は突き刺すような雨が降りしきる。

 出部は二時間ほどトレーニングをすると、丁寧にストレッチをしてから帰った。帰り際に「マチちゃんまた後でね」と挨拶もしてくれた。何気ない会話のはずなのに少し胸が痛む。傘を持ってきたのだろうか。このどしゃ降りでは意味はなさそうだが。

 窓に張り付くしずくが勢いよく流れ落ちるのを見ると、気持ちがざわついた。

「雨すごいね」

 コトカが不安げな表情を見せる。今日はガリさんも葉花さんいない。珍しく閑散としているのもあるが、存在感がある三人がいないせいか、より静かに思えた。

 こうしてジム内でコトカと話すのも久しぶりな気がする。

「最近のマチすごい燃えてるよね。仕事の鬼って感じ」

「うん、自分でも充実してると思う。モチベーションも高いし」

「そっか。良いことなんだよね?」

「そうだけど。なんで?」

「ううん。ちょうど一年前に似てるなって」

「一年前?」

「私たちがヨミカキに入社して四ヶ月くらい経ってさ、研修卒業テストの時期かな。ここって研修も実技テストも厳しいじゃん? 一発合格できるようマチはジムのマシンをがむしゃらに使い漁ってたよね」

 覚えている。実技テストは偉い人をお客さんに見立ててマシンの使い方を指導する。ニーズに合わせたマシンを選ぶところからすでに査定は始まるため、私はジム内にあるマシンを研究しまくった。

 私は一回で合格したが、コトカは一度落ちている。今でこそ堂々と明るく指導しているが、コトカが悔しくて泣いている姿は今も鮮明に思い出せる。

「あの時はがむしゃらに頑張れるマチが羨ましかったなぁ」

「なんかくすぐったい」

「でもね」

 コトカの表情が少しばかり暗くなる。

「彼氏さんとちゃんと遊んでるかなぁって少し心配だったんだよ」

 いつも明るいコトカの口調が柔らかい時は、本心を語る時。ぽつりと言葉をこぼすように私の胸に染みこむ。

「さすがコトカだね。勘が鋭い」

「そういうのやめてよ~」

 茶化してみせると、コトカは眉根をよせた。心配されると胸が痛い。去年とは違う。今回は全く立場が逆になるのだから。

 降りしきる夕立ちが、私を責めているようで早く止んでほしくなる。

 どことなく手持ち無沙汰で、コトカと二手に分かれからはマシンの重りを一番軽量に調節して回った。

 時間つぶしとも言える地味な作業。今日はえらく時間の流れが遅かった。


 夜になると、雨はすっかりあがった。

「出部、最近トレーニングの調子はどう?」

「すごく良いよっ。なんだろう。体が軽くなった感じ」

 私と出部は小金井公園の夜道を歩いていた。出部とゆっくり話すのは久しぶりで、どことなくぎこちない。困った時はいつもトレーニングの話題をふって場をつなぐ。私と出部の唯一のつながりだ。

「ごめんね、最近ちゃんと見てあげられなくて」

「ううん。マチちゃん忙しいみたいだから気にしないで。葉花さんにもマチちゃんが頑張ってるって聞いてるよっ」

「そっか」

「なんか今日のマチちゃんは優しいね」

 ドラマか漫画で見たことがある。散々けんかを繰り返したカップルが最後だけは相手のことを思いやる場面。

 市民体育館を通り過ぎると、丸太でつくられたアスレッチが見えてくる。昼間はたくさんの子供が怪我もかえりみず大はしゃぎする。今は誰もいない。雨で湿った丸太がもの哀しげだ。

「出部はもう一人でも大丈夫そうだね」

「うーん、そんなことはない気がする。一人でも頑張ってるとは思うけど本当は一人じゃないって分かるから頑張れてるかな」

 きつい。良い意味でも悪い意味でも出部は一途だ。

「ねえ、久しぶりにアスレチック行ってみない?」

「行こう行こうっ。本当に久しぶりだな~」

 出部が子供みたいにはしゃぎながら駆け出す。昔は私が真っ先に駆け出して出部をおいていくのがお決まりのパターンだった。幼なじみの無邪気な姿を達観たっかんできるのは私が大人になったからだろうか。

「昔このターザンロープでマチちゃんに何度も背中を押されたよね」

「そうだっけ?」

「そうだよ~。昔から太ってたからロープ掴んでられなくて落ちたんだよー。しかも向こうまでいけないと何回も」

「鬼だね」

 自分で言って苦笑する。出部は台の上からしっかりと縄を掴むと、勢いよく飛び出した。周りなど気にせず「うわぁ」と大声を出す。他にも滑り台を逆走したり、つり橋を全速力で駆け抜けたりした。

「出部はしゃぎすぎ」

「だって懐かしいんだも~ん」

 出部が息を切らしながらも屈託のない笑顔を見せる。アスレチックの頂上で「マチちゃんもおいでよ~」と手を振った。

 しかし私は下から出部を見上げたまま、登ろうとはしなかった。あえて声を張って出部と会話する。

「私さ。色々と考えたんだ。仕事のこととか、出部のこととか」

「本当? 実は僕もなんだ。仕事ってわけじゃないけど。今後のこと」

 夏の夜空に二人の声が響く。雲はすっかりなくなり、東京でも夏の大三角形くらいはかろうじて見えた。

 天の川は……残念ながら見えない。私と出部との間にはアスレチックの障害物が隔っている。

「それでね、私が出した結論がさ、出部と別れるってことなんだ」

「………………え」

 物理的な二人の距離が、心の距離と一致する。こんなに冷たい表情の出部を見たのは初めてだった。

「私はさ、やっぱり根っからの仕事人間なんだなって思った。個人指導とかスカッシュの練習とかしててすごく楽しいし。勉強にも身が入る。スタジオレッスンももっと持って、もっともっとインストラクターっていう仕事を極めたい」

「良いと思う。良かったら僕もその夢に付き合いたいな」

「だから出部にはかまえない。別れよ」

 声を張るせいか、言いたいことがはっきりと言葉になる。出部はお山の大将みたいに頂上にいるが、えらく小さく見えた。

 私は折れない。出部の心をへし折るまでは。

「残念だけど出部に決定権はない。あんたは本当に頑張ったよ。私の我がままに付き合って、汗まみれになって運動して」

「僕はまだ頑張るよ。だってマチちゃんの理想に近づきたいから」

「あんたは男性として見れないんだ」

「今はまだ。だよね」

「これからも」

「……」

 出部の言葉がつまる。口元の震えが止まらない。必死に押さえつけようとしているのが痛々しかった。

「ありがとね。出部はやっぱり良いやつだって改めて思った。私の誇らしい幼なじみだ」

 出部をおいて歩き始める。後ろから「待ってマチちゃん!」と焦った声が響き、どたどたとアスレチックを降りる足音が近づいた。

 私は振り返らず走り出した。

 八割の力。持久できる速度で、生々しいほどレースを意識した手の振り。一定の呼吸。お腹を意識した直立姿勢。現役時代と今の自分が重なる。

 激しい息づかいで出部が追いかけてくるのが分かる。しかしアスレチックを降りる際にできた差を埋めようとすればするほど出部のスタミナは奪われた。私に追いつくころには乳酸がたまり、伸ばした手が背中を掠めるので精一杯。

 もうペースをあげることはできない。私は一定のリズムを保って出部を引き離すだけ。後ろから「待ってよ!」と悲痛な叫び声が聞こえるたび、逃げる足がぐ。それでも現役さながらにペースを抑え、ひたすら一定のペースで出部との差を広げた。

 何度も聞こえる。

「待ってマチちゃん!」

 徐々に遠のく。

 待ってマチちゃん。

 やがて聞こえなくなる。

 残念だがどんなに出部がトレーニングを積もうとも、体の鍛え方が違う。本気の私に出部がついてこられるはずがなかった。

 それは体力だけじゃない。人生のモチベーションにおいてもだ。

「はぁはぁはぁ……」

 一回一回の鼓動が激しい。彼氏を振るなんて初めて。私とて平常でいられるはずがない。

 まだ湿ったアスファルトが蒸気となって体にまとわりつく。空は晴れているのに、まだ乾ききらない雨の匂いが鼻についた。

 走るたびにポケットのスマホが揺れて煩わしい。握り直して手に持って張り続けた。振動しているようにも感じたが、腕を振っているせいで着信があるのかも分からない。

 私は家まで走るのをやめず、逃げるように玄関へ駆け込んだ。

 階段を駆け上がり、ベッドへ倒れ込むと、心臓の高鳴りが全身に響く。スマホを見ると、出部から何回も着信があった。その全てを乱雑に消していく。


「おしまい」

 

 スマホの電源を切り、部屋の電気も消した。

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