第30話
「葉花さん、力みすぎです。手の力を抜いて腰を回してください」
「こうですか?」
四方を壁で囲まれたコートでゴムボールを打ち合う。壁打ちのテニスとイメージは近いが、左右、あるいは後ろの壁も使えるため、戦術のバリエーションは多彩。
ヨミカキでも人気の設備だ。
「難しいですね」
五メートル四方の狭いコートのため、ボールはすぐに跳ね返ってくる。一瞬でも油断すれば、ボールはツーバウンドしてしまう。
左右へ打ち分ける私のショットに葉花さんが右往左往する。ドロップショットで前後へ揺さぶっても、食らいつく一歩はさすがの一言。身体能力の高さはここでも発揮された。
「けっこう激しいんですね」
葉花さんの額から汗が滴る。これ以上は危険だ。水分を含んだ髪の毛がまとまり始めている。
「今日はこれくらいにしましょう」
「悔しいですね。今度はマチさんから一点を奪ってみせます」
「楽しみです」
紳士のスポーツとして握手をしてからコートを出る。
「マチコーチはスカッシュも上手いんですね。今度教えてください」
コートを出ると、スカッシュの常連さんが輪を作って寄ってきた。コート付近を通りかかると、必ず目にする青年の会員さんと、小柄な女性会員さん。
「まだレッスンを持てるレベルではないですよ。コトカよりは上手いですけどね」
どっと笑いが起こる。
一応、個人指導の時間のため、簡単に挨拶をしてジムへと戻る。
「マチさんは会員の方にも人気があるんですね」
「そう言ってもらえると光栄です。好き勝手やってるだけなので畑マネージャーにはいつも迷惑かけてますけど」
「あはは。きっとそれも含めて畑さんは買ってくれてると思いますよ」
談笑しながらフリースペースへ向かい、ストレッチマットを敷く。最後にストレッチをして今日の個人指導は終了。
それでも会話はしばらく続き、コトカから「いちゃつくなー」と茶々を入れられてようやく解散した。
「マチ、見てたぞ。けっこうスカッシュ上手いな」
「見てたんですか。まあ畑さんよりは上手い自信がありますよ」
個人指導を終えて控え室で休憩していると、畑さんがのそりと顔を出した。
「スカッシュの常連さんとも話をしたんだが、マチのレッスンを設けてくれって言われてな」
「全然、構いませんよ。そうすれば畑さんとの差は開く一方ですから」
畑さんが悔しそうに「ぐっ」と息をつまらせる。しかしどうやら本当に検討するようで、私は真面目に「会社が求めるのであれば」と返した。
できることの幅が広がれば、ジムはより一層楽しくなる。それは会員さんであろうと従業員であろうと同じだった。
マイラケットを購入しようと目論む。
ヨミカキは定期的にスカッシュのゲストコーチを招いている。昨年はなんと日本ランク一位の選手を招待した。その時はスカッシュ自体にあまり興味がなかったため、大してテンションも上がらなかった。軽く手合わせしてもらったがボコボコにされてもさして悔しくなかった。今にして思えばかなりもったいない。
今度招いた時は勝負を挑もうと妄想を膨らませた。
翌日、私は仕事が終わった後にスカッシュコートで壁打ちをした。まずひたすらストレート。次にバックハンド。ボレー。
一人だと運動量も多く、すぐに汗だくになる。スカッシュに関しては担当レッスンの打診があったが、基本的には素人。実際にヨミカキではランカーを呼んで特別レッスンを設けることもある。それに比べれば明らかに見劣りする。
まだまだお金を取れるレベルではない。せめて基礎だけでも固めて初心者向けの教室を持てれば御の字だ。
「よしだいぶ安定してきた。気がする」
インパクトの瞬間だけ腹筋に力を込める。
「良い感じ」
ひたすらフォームを固める。コート内に打球音が響く。けっこう激しい音を立てるため初めて見た人は何事かと思うだろう。
「なんか掴めそうな気がする」
立ち止まると、全身から汗が噴きでた。ひたすら同じ動きを繰り返して体に染み込ませる。指導しながらでも遜色のない動きができるようにしたい。
「もういっちょ……あ」
力んだせいで弾道が低くなる。大股で踏み込むが一歩及ばず、ボールが転々とする。
「しまった。葉花さんに力むなと言っておいて自分が力むとは」
まだまだ不安定なのは私も同じ。もっとラケットやグリップに馴染みたい。握った感触を確かめて、ぶつぶつと独り言を言いながら肉体へ語りかける。
「よし今度こそ……。あ、出部? おーい」
しきり直すタイミングで、ちょうど出部が階段を上っていくのが見えた。声をかけるが締め切られたコート内では届かず、中で響くのみだった。
「……まあサボらず来てるのであれば問題ないか。もう出部も何をすれば良いか分かってると思うし」
出部が死角になると、私は壁へ向き直した。熱を帯びたボールを弾ませて、壁打ちを再開する。集中力は持続したままだ。
フォアハンドがだいぶ手に馴染み、一人のラリーが心地よくなる。気がつくと、三〇分くらいずっと打ち続けていた。
「さすがにもう上がろうかな」
狭いコート内は何もなく殺風景。時間の感覚を麻痺させた。私は重いガラス扉を開けると、休憩用の椅子へ座ってペッドボトルの水を飲んだ。おいしい。
汗をかくとどうしてこうも水がおいしいのだろう。半分くらい残っていたはずなのに、すぐさま空になる。
「もう九時になってる」
時間の経過を意識すると、お腹が締め付けられるみたいに鳴りだした。
「お腹空いた。でもとりあえずプロテインを飲もう」
タオルで額の汗を拭う。誰も見ていないのを見計らって脇や背中へもタオルを忍ばせた。脈も早く、心臓がどくんどくんと脈打つが、呼吸をするのが気持ちいい。
私はおじさんみたいにタオルを肩へかけて、控え室へ戻った。
暖かいシャワーを浴びると、心地よさが倍増した。
「充実してるなぁ」
お湯が汗を流していくのが分かる。
「個人指導が始まり、トレー二ングで食事や睡眠を意識するようになった。スペシャリスト試験へ向けての知識が実践に役立つため、勉強がはかどる。スカッシュの担当も今後できるかもしれない。
仕事の歯車がうまく回り出したのが自分でも分かった。
このまま。どんどんステップアップしていきたい。
「…………あれ、出部って私にとってどういう存在なのかな」
一人でジムを出入りする出部を見かけて、特に違和感がなかった。出部もトレーニングにおいてはもう自立している。アクティブ会員だから私でなくともインストラクターの誰かに頼めばメニューも更新できる。
「…………恋愛感情はやっぱりまだ生まれてないと思う」
自分に問う。
出部を男として好きか。
答えは、否だ。
髪を洗う手によどみはない。感情もフラット。改めて自覚しても傷つくことはなかった。
「上がったらショップでラケットを見よう。プロテインもそろそろ切れそうだ。それと……」
ぼやっとした関係を続けるのは好きではない。
蛇口をひねり、シャワーを止める。お湯がぽたぽたと垂れるのを見て、もう少しきつく閉めた。緩いのはやっぱり嫌いだ。
私はひとつの結論に達したところで、シャワー室から出て、乱雑に髪を乾かした。
少し控え室でゆっくりしてから、ヨミカキを出る。やけに静かな夜で、ひとりで家に帰る夜風が気持ちいい。
あえて自転車を押して漠然と色んなことを考えながら歩いた。
翌日出勤すると、意外な場所から意外な二人が出てきた。
「あ、畑さんおはようございます」
「おうマチ。今日も頼むぞ」
畑さんが応接室から大きな図体を覗かせると、決して小さくはないはずなのに影に隠れる見慣れた体躯がのそりと出てくる。
「え、出部がなんで畑さんと応接室から出てくるのさ」
「あ、マチちゃん。ちょっと畑さんに相談に乗ってもらってたんだ」
あっさりと言いのけるが、相談することが違和感なのだ。だが今は私にとって、むしろ出部にとって重要な約束を取り付けなければならない。
「ちょうどいい。今日、夜って空いてる? 私の仕事が終わってからなんだけど」
「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」
「まあちょっと」
反対に質問されて歯切れが悪くなる。
出部はさして気にする様子もなく、畑さんへ「ありがとうございました」と人懐っこくお礼を言って、更衣室へ向かう階段を上った。トレーニングも本当に欠かさない。
最近では本当に出部への指導はノータッチ。
「出部は一人前だ」
私は一足早くジムへの敷居を跨ぐと、いつもより声を張った。
「はいりまーす」
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