第29話
「葉花さん、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします。改めて言うと照れますね」
メディカルルームで膝を突き合わせて互いに頭を下げる。冗談で発した一言は現実となり、パーソナルトレーナーの資格を取った三日後にこうして指導をすることとなった。
インバディで体成分も測定し、これからの方針を話し合う。ことの成り行きで決まったが、実際に葉花さんが「どうなりたいか」が重要。私はその目標を達成すべくサポートをするのだ。
「それにしても理想的を超えてすばらしい数値ですね。筋肉量もアスリート並ですし、体脂肪率も一桁。左右のバランスも良いです。はっきり言って私のすることはないんじゃないですか?」
「そんなこと言わないでくださいよ。ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」
「分かりました。では葉花さんの理想はどこなのか聞かせてください。どのプロ選手になりたいんですか?」
「あはは、恐れ多いです。僕は競技者というわけではないのでそんなストイックなことはできませんよ。マチさんにはひとつだけお願いしたいことがあるんです」
「なんですか?」
「僕の健康を管理してほしいんです。運動、食事、あるいは精神的な部分も含めて」
「それだけですか? 他には?」
「それだけです。でも重要なんですよ? サラリーマンの一人暮らしほどすさんだ食生活はないです」
「なんか奥さんみたいですね。健康と精神面のケア」
「確かに。マチさんでしたら大歓迎ですね。おっと、これは男の友情に亀裂が入りかねない。失言は身を滅ぼすので気をつけます」
相変わらず面白さのセンスは欠ける。真面目にトレーニングしている人だから無理難題を言われるのかと思っただけに拍子抜けだ。
「葉花さんって自炊はする人ですか?」
「なるべくするようにはしてるんですがね。仕事が遅くなることもあるので外食も多いです。ですがマチさんが食事のメニューまで指定するのであればそれは必ず守ります」
「分かりました。半年間、葉花さんは私に縛られる日々をお過ごしください」
「覚悟しておきます」
お互いにぃっと笑みを浮かべる。悪巧みの最中みたいでちょっと楽しい。しかし同時に緊張もあった。
これまでとは違う。特別な対価。フィットネス「ヨミカキ」の会員で誰よりも葉花さんが特別な存在となる。出部よりもだ。
身が締まる思い。私はもう一度インバディの結果をこと細かに見返して、葉花さんという人を知ろうと努めた。
二五歳、サラリーマン。独身。IT企業の営業職。
「健康管理でしょ。やっぱりバランス重視だよね」
ベッドの上に寝転びながら、葉花さんのインバディの結果へ目を通す。
「本当に理想的だなぁ」
パーソナルトレーナーなのに、何をして良いのか思い浮かばない。いっそのこと欠点だらけの方がまだやりがいがある。
「筋トレは今のままで良いとして、有酸素のバリエーションを増やそう。ランニングだけだと同じ動作に偏るし。スカッシュは良いかも。私もスカッシュやりたいし……。あ、メール。葉花さんからだ」
構想を練っていると、葉花さんから「今日の献立て」というタイトルで画像が送られてきた。
「どれどれ……。今日は外食だったんだ」
画像を見ると、鳥のからあげや、ナスの一本漬けなど焼酎に合うメニューが並んでいた。グラスには透明な液体が注がれているがおそらく水ではないだろう。二枚目の画像に『小悪魔』とラベルされた一升瓶が載っている。
「葉花さんってお酒好きなんだ。それとも付き合いかな」
本文の最後に「すみません。早々にたるんだ夕食で……」と添えてある。どうやら会社の飲み会らしい。
「葉花さんらしいなぁ。私も小悪魔をちょっと飲んでみたい」
人の食事なんて気にしたことなかった。知識があっても職場では運動についてしか指導していない。
体づくりに食事は大切だと当たり前のことを実感する。
「やる気あるんですか(笑)。送信っと」
葉花さんへお叱りのメールを送って画面を消す。今までにない仕事のやり方で戸惑いもあるが、初めてのこととはなんとも楽しい。
「やりますか……」
ベッドから体を起こし、小さい頃から使っている勉強机へ向かう。パーソナルトレーナーの資格は取った。次はスペシャリスト試験だ。ひらっきぱなしの参考書の続きを読みながら、自分の体で動きを実験する。肩関節の回したり、首を捻ったり。勉強にも身が入った。
集中したせいか、いつの間にか日を跨ぐ。日課のスポーツニュースを見逃して少しばかり後悔するが、すぐに忘れて勉強したい衝動に駆られた。
「マチすごいね。パーソナルトレーナーの資格を取ってすぐにお客さんを掴むなんて」
「キャバクラみたいに言うな」
控え室でコトカがおにぎりを頬張りながら感心する。いつも思っていたがコトカのおにぎりは人よりもサイズが一回り大きい。
「しかも一年契約しそうだったんでしょ?」
「うん。一応ヨミカキだと半年コースが最長だから、終わった後に改めて継続するか決めてもらう」
「葉花さんだっけ? ひょっとしてマチ狙われてるんじゃないの?」
「まさか。私みたいな小娘は相手にしないでしょ」
「分からないよ~。ガリさんの件もあるし。たしか葉花さんって独身だよね? しかもエリートサラリーマンって聞いたけど」
「まあ……多分。仕事はきっとできる」
「良いなぁ。私も彼氏がほしいよ~」
「コトカはすぐにできるよ。ビッチだから」
「誰がビッチだ~。真っ白だしー」
口に含んだご飯つぶが飛ぶ。私が冷たい視線で机に転がった米を見ると、コトカは「すみません……」と平謝りした。
「そういえば出部さんが最近来てないけどどうしたのかな?」
「言われてみるとそんな気がする」
「マチも知らないの?」
葉花さんのことばかりを考えてあんまり気にしてなかった。一週間くらい見てない気がする」
「連絡してあげなよ?」
私は一応頷くが、仕事のことの方が自然と脳内を埋めつくす。今も葉花さんのメールが深夜に送られたことから、睡眠にも気を使おうと考えを巡らせた。なかなか出部の存在が脳内に入ってこない。それが日常になりつつある。しかもその日常が充実していた。
「ラスト一回!」
葉花さんは歯を食いしばりながら百キロもあるバーベルを持ち上げた。
「良いですね。葉花さんは下半身が強いからフォームが安定しますよね」
「学生の頃は野球部で投手だったんです。なのでものすごい走らされました」
葉花さんのスタミナの根元が垣間見えて納得する。感心しながら頷くと、葉花さんは遠慮がちに手を横へ振った。ちらりとシンプルなデザインの時計が目につく。
「時計を変えたんですか?」
「そうなんです。オレンジウォッチって知ってますか?」
「聞いたことあります。スマートフォンを作ってる会社のですよね」
「そうです。一応IT企業に勤めているのでこう言ったデバイスは使うようにしてるんです」
「仕事熱心ですね」
「とんでもないです」
葉花さんが時計の画面を触って何やら操作する。どこかで見たことあると思ったが葉花さんの言葉で納得した。かく言う私もオレンジ社のスマートフォンの愛用者だ。
この後もスクワットをもう一セットこなし、筋力トレーニングは終了する。葉花さんはまた時計をいじっては、納得したように頷く。
「それって何かしてるんですか?」
「はい、実はこの時計で心拍数も測れるんです。自動でスマートフォンにデータが送られるんですよ。もちろんメールとかも使えますし」
葉花さんが嬉しそうに語る。子供みたいに前のめりになる姿は微笑ましい。出部が同じようなことをしてるのとは大違いだ。
「今日はスカッシュをやりますよ。ランニングだけだとマンネリなので」
「分かりました」
「葉花さんはスカッシュをやったことありますか?」
「いえ、初めてです。廊下でスカッシュコートを見るたびに気にはなってたのですが。なかなか初心者がひとりでコートを借りる勇気は出なかったですね。緊張します」
「楽しいですよ」
受付へラケットを取りにいくと、チサがすでに用意して待っていた。さすが理想的な後輩である。
葉花さんは「思ったより軽いですね」などと物珍しそうにラケットを眺めては、感心したように頷く。
おそらくテニスやバトミントンと比較しているのだろう。サラリーマンがスカッシュに触れる機会など滅多にない。
大人の無邪気な姿は私には新鮮だった。
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