第26話


 朝起きると、私の横に出部の姿はなかった。

「出部?」

 カーテンの隙間から日差しが差し込む。鳥のさえずりが眠気まなこに「まだ寝てて良いよ」と甘やかす。しかしからっぽの手がひどく寂しい。夢から覚めたような焦燥感があった。

「あ、マチちゃんおはよう」

 いつから起きていたのか、出部はパソコンと向かってカタカタとキーボードを打ち込んでいた。

「何してるの?」

「アプリを作ってるんだよー」

「サプリ?」

 寝起きの私の頭は全く働いておらず、しかも昨日サプリを飲み忘れたことを思い出して後悔した。

「マチちゃんもコーヒー飲む?」

 パソコンデスクに置かれたカップから漂ってくるコーヒー豆の香り。私は「うん」と頷き、体を起こす。

 出部は席を立つと、台所の方へ歩き、ポッドからカップへコーヒーを注ぎ始めた。

「ごめんね。砂糖を切らしてるんだ」

「大丈夫。出部ってブラック派だったっけ?」

「ううん、せっかく運動の成果も出てきたら糖質制限しようと思って。でも勉強する時とかはやっぱり砂糖入れたくなっちゃうよね」

 何も考えていないようで出部は私より頭を使う機会が多い。ダイエットを中心とした生活習慣をさせているようで罪悪感を覚えた。

「無理しない方が良い。糖質は脳にも体にもエネルギーになる。パフォーマンスを発揮する上で必要不可欠」

「うん、ありがと」

 パソコンへ向かい、前のめりのせいで少し丸まった背中だが、いつもは見られない出部を見た気がする。

「何もなかったなぁ」

 色んな意味で。心地良い眠りについたのに後味は悪かった。

「私、帰るね。ごめんね、なんか無理に泊まり込んで」

「ううん、本当にすごく嬉しかったよ。また遊びに来てね」

 出部は椅子に座ったままにこりと笑うと、再びパソコンのディスプレイへ目を向けた。作業に集中するのもあるが、きっと私への気遣いだろう。

 何も言わずに私は出部の後ろで着替えを済ませる。着替え中、出部がこちらを振り返ることはなかった。

 外に出ると、日差しが眼を刺激する。今日も快晴。まだ上がり切らない朝の気温は夏といえどちょうど良かった。


 出部の胸枕でぐっすり眠れたお陰か、午後からは小金井公園でランニングをしていた。

 フィットネスジムでランニングマシンを勧める私だが、自分が走る時は外の方が好きだ。

「はっ……はっ……はっ……」

 小刻みな呼吸を一定のリズムで繰り返す。西側の入り口からスタートし、今はすっかり緑に色づいている桜並木を通り過ぎる。芝生の広場ではシートを敷いて昼寝をしたり、木陰で読書をする青年がいた。

 午後のゆっくりした時間。

 左手に駐輪場を見ながら公園の中心部に差し掛かると小金井体育館が見えて来る。

 私と同じでランニングをする人も多く、前を走られると追い抜きたい衝動に駆られる。腕の時計をちらりと見ると、いつもよりペースが速い。特に男性が走ってるとより燃える。元陸上部の中距離ランナーだった血は今でも騒ぐ。

 アスレチックでは子供が無邪気に遊んでおり、昔はよく出部を連れ出して怪我をさせた。(自称)安全管理長も昔はやんちゃだったのだと思い出し笑いをする。

 しかし目の前の男性がなかなか抜けない。追いつてきたのだが、背中を捉えたあたりから一向に差が縮まらなくなった。これ以上は往復する体力に関わるので、付いていくことで気持ちを保つ。

 身長は一八〇センチくらい。骨格もしっかりしている。後ろからでもウエア越しに広背筋が浮き出ているのが分かる。フォームも悪くない。

 帽子のせいで髪型や顔までは見えないが、きっとスポーツマンらしい肉食系のイケメンと推測する。

「俄然やる気が出てきた」

 抜きたい衝動から顔をみたい衝動に駆られる。東側にあるテニスやストリートバスケコートを通り過ぎ、折り返し地点。一周するように走るため、彼とすれ違うことはない。

「追い抜く」

 半ば意地になって距離を詰める。しかし私の足音に気がついたのか、帽子の彼もペースを上げた。おそらくは彼も私と同じで競争心が芽生えたのだろう。

 体格の違いが歩幅の違いを生み、足音が混じり合う。自分の足音に耳を傾け、呼吸が乱れないように注意した。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 呼吸と足音だけが聞こえる。集中し始めた証拠だが、ぎりぎりいっぱいのペースを保っている。少しでも気が緩むとおいていかれそうだ。残り一キロほど。ここいらでもう一段階ペースを上げないと。と、思った矢先、

 彼の腕の振りが大きくなる。歩幅も広げて私を突き放しにかかった。慌ててペースを上げる。きつい。一気に呼吸が荒くなる。必死になって食らいつくも、抜こうという気力が生まれない。悔しいが相手のが一枚上手だった。

「しんど……」

 気がつくと往復して西の入り口まで戻っていた。

「あれ、葉花さんじゃないですか」

「あ、え。ああ、マチさんじゃないですか。まさか僕を追いかけていたのって」

息を切らしながらこたえる。

 まさか私が追いかけていたのは葉花さんだとは夢にも思わなかった。

「びっくりしましたよ。後ろで足音がずっと追いかけてくるんですから」

 お互いおかしくて笑い合う。

「葉花さんは今日、お休みなんですか?」

「いえ、今日も仕事ですが、営業のノルマが調子良く達成できたのでこうして気分転換をしてるんです。あ、会社には内緒ですよ」

「私、葉花さんの会社知らないですよ」

 葉花さんは「これは参った」と大笑いする。面白みに欠けるが、葉花さんなりのユーモアなのだろう。真面目な性格だから不快には思わなかった。むしろ午後のティータイムまでにノルマを達成している出来の良さのが興味が沸く。

「どうですか。この後お時間ありましたらお茶でも」

 しかも本当にティータイムに誘われる。

「良いですね。体育館でシャワーを浴びたら行きましょう。私、小金井体育館の近くでいい雰囲気のお店を知ってるんです」

「それは楽しみです」

 私と葉花さんはクールダウンがてら、公園内の体育館までジョギングをした。

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