第23話

 こんな光景が見られるとは夢にも思わなかった。

「レッグプレスだとやっぱり万遍なく鍛える種目なのでからここから先はさらにコアな種目が必要になってきます」

 葉花さんが美声で説く。

「レッグエクステンションとかですか?」

 興味深々のガリさん。

「はい。僕の場合はバーベルスクワットの後にやります」

「ふえ~。死んじゃうよ~」

 太ってるのになよっちい弱音を吐く出部。

 私はコトカと一緒に遠巻きから同期入会トリオを見つめていた。

「すごいね。ガリさんは出部とマチが付き合ってるの知ってるんでしょ? 男の友情ってこんなにも綺麗なの?」

「私もびっくりしてる。いつからあんなに仲良くなったのか。まあ女の友情よりははるかに清いんじゃない」

「だよね」

 女同士で女の友情を下に見るが、特に違和感はない。

 同期トリオが入会して三ヶ月が経ち、いつの間にか友情が深まっている。しかもガリさんにだけは出部と付き合っていることを明かした。

 あまり周囲には知られたくないが、本気で告白してきた相手に対するせめてもの礼儀。後悔はしていない。それ以降、出部とガリさんの関係は少しばかりぎこちなくなった。しかし私が休みの日に、葉花さんを含めた三人で一緒にトレーニングをするらしい。知らないところで仲良くなり、「いつから仲良くなったの?」と聞いても「秘密っ」と私をのけ者にして男の友情を育むほどだ。

 釈然としないが、嬉しさのが勝った。

「良い光景だ」

 ランニングゾーンはエアコンの効いた室内とは言え、燦々と太陽の光が注がれる。

 夏は新規入会者も増え、フィットネスジムとしてはかき入れ時。特に女性の会員さんが増える。

 肌を露出する季節。女性にとっては死活問題なのだ。

「私達も同期で頑張ろうね」

「ダイエット?」

「私はこれでも標準体型だよ~」

 横っ腹を摘もうとするのをすんでのところでかわされる。

「忙しくなってくるからコトカがダイエットをする暇なんてないかも。残念だったね。ガリさんに見せる肌が無くて」

「だから標準体型だってばー。そういうマチはどうなの? もう良い加減に社内ではバレバレだよ。なのに全然いちゃついてるところ見ないんだけど」

「私は仕事人間だからね。これからはスペシャリストとパーソナルトレーナーの資格を取りにいく。そして安全管理長としてジムの秩序を守らなければならない」

「そんなこと言ってるとまた前みたいに愛想尽かされるよ?」

「……」

「あ、けっこう本気で気にした。駄目だよ。出部さんの前で元彼の話したら」

「自分からはしないし。それに」

「それに?」

「うーん。コトカには言わない」

 コトカは「気になるよ~」とわざとらしく叩いてくるが、全部手で防ぐ。頬を膨らませて悔しそうに湿っぽい視線を向けられた。

 出部とは喧嘩もせず仲良くやっている。というよりいつも通り邪険に扱っている。残念なのは掴み心地の良かったお腹が徐々に硬くなっていったこと。

 出部は体重こそ劇的には落ちないが、筋肉の上に脂肪が乗った逞しい体つきになりつつあった。

 お相撲さんやレスラーに質は似ている。間違っても本職の人には言えないが。

 正直なところ、まだ出部との付き合いに関して自分の感情が分からなかった。出部は嫌いじゃない。話しやすいし、気兼ねもない。一緒にいると割と居心地も良い。

 ならそれ以上は? と、聞かれると自分でも即答できない。

「さてと。仕事するかな。私のお腹すっきり教室を待ってるマダムがいる」

「マチは女性会員さんの憧れの的だからね。モデルみたいなスタイルうらやま」

 横っ腹を摘んでくるのを腹部へ思い切り力を入れて阻む。コトカの指が私の肌からするりと滑り落ちた。

 学生は夏休みに入り、昼間でも若者の姿がちらほらと増える。どちらかと言えばがっつり指導したい私にとってはやりやすい季節が到来した。

 それでも同期トリオが熱心にトレーニングを研究する姿は、良くも悪くも存在感がある。見た目のインパクトがあった。

「良いんだよね。これで」

 自立してジムに通う出部を眺めながら、私は受け持ちレッスンの準備のために控え室へ戻った。


 社内独自のライセンスを取得するために、覚える情報量は膨大だった。基本的な筋肉や体の動きに加え、神経系統や栄養が体にもたらす作用、あるいは組み合わせなどより深い知識が求められる。

 広辞苑みたいな参考資料を机の脇に置いて私はお気に入りの喫茶店『くすの樹』でカフェラテを啜った。

 自分のトレーニングにも役に立つため、座学も意外と苦ではない。駅から離れた五日市街道沿いのくすの樹は古城をイメージした作りで、天井が高く二階席が私のお気に入り。落ち着いた雰囲気で集中するにはもってこいだった。

「出部はもう夏休みだから暇してるんだよね」

 月曜日がフィットネスジム「ヨミカキ」の定休日。

 出部は一人暮らしの学生だが、アルバイトはしていない。両親が大学へ進学させるように貯金をしていたらしいが、国立大学に合格したため、学費が浮いたとのこと。学業に集中するため、一人暮らしを出部が自ら申し出たのだ。

 せっかくお互いの休みが合うのに私は柄にもなく勉学に勤しんでいた。

「後で遊びに行ってみようかな。出部の部屋」

 付き合い始めて早三ヶ月。まともにしたデートと言えば多摩湖へのウォーキング。同じフィットネスジムのインストラクターと会員のため会う機会は多いが、発展はなかった。

「メッセージ送ろ。えっと、後で部屋に行っても良い? 送信」

 文章だけ切り取ると恋人同士っぽい。特に恥ずかしさもない。実家にいる頃から出部の部屋へは何度も行ったことがある。

「さてと、マダムが旦那を虜にするくびれを作る知識を身につけるかな」

 参考書を目の前に寄せて、イヤホンからジプリのピアノアレンジ曲を流す。話し声などの雑音を全て遮断。より集中する環境を整えた。

 しかし参考書を読み始めて一行も経たないうちにスマートフォンが振動する。

「あ、出部からだ。早いな」

 私は小躍りして喜ぶ出部を想像しながらメッセージを開く。

『マチちゃんごめ~ん。今日はちょっと忙しいからまた今度遊びに来て~。せっかくマチちゃんから言ってくれたのに残念だよ~』

 ~という記号が多過ぎて少しイラッとする。まさか断られるとは思っておらず、ゆっくり飲んでいたカフェラテを一気に飲み干してしまった。

「出部のくせに生意気な。別に構わないし。私は私で海でナンパ待ちする女子の体づくりの知識を身につけるから」

 再び参考書へ視線を移し、速読紛いにページをめくる。しかしいつの間にか集中力は途切れ、全く頭に入ってこない。せっかくファミレスで勉強する学生とは格が違うとか勝ち誇っていた気分が台無しだ。

 そもそも出部が忙しいとは何事か。学生が夏休み入りたてで忙しくあってたまるか。むしろ遊びで忙しいという理由が一番しっくりくる。

「遊びで……まさか出部に限ってそれはない」

 ヨミカキも定休日で建物自体が閉まっている。もうこれ以上勉強する気になれず、会計を済ませて店を出た。

 外はまだ明るく、東京の夏っぽいじとりとした空気が肌に張りつく。私は母から借りたカゴ付き自転車を力任せに漕いだ。自前のクロスバイクと違い、ペダルが重い割に進まない。

 余計に汗を掻きながら家路へつく。どうせまた明日ジムで会える。デートはしてなくとも会話を交わす機会があるのだ。

 今まで通り。別にイラつく必要なんてないのだ。

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