第22話

 休みたい。

 仕事大好きっ子の私だが全く気乗りしない。仕事モードになるべくユニフォームへ袖を通しても、ユニフォームってこんなに重たかったかと錯覚する。

「でも私は安全管理長だからぼんやりなどしていられない」

 注意力散漫でまた事故を見過ごしたら目も当てられない。姿見の前で思い切り頬を両手で叩き、気合を入れる。力を入れすぎたせいか、頬が下手くそなチークみたいに赤くなった。目は覚めたが、後悔もする。

「あ、マチ先輩、おはようございまーす!」

「チサ、相変わらず元気だけはあるね」

 ジムへの扉を開けると、忠犬みたいにチサが近寄ってくる。

「自分まだフィットネスインストラクターなのに運動指導の資格もありませんからっ。できることはしないとっ」

 初心とはキラキラしていて眩しい。二年目にして早くもフレッシュさを失いつつある私には良い薬だ。

 いつもの通り一周する習慣も、マンネリ化しないよう心がける。

「こんにちはー」

 一人一人に目を配って挨拶する。意識しているせいか、会員さんと目が合う回数が多い。声をかけられたりもする。一周するのにも時間をかけた。

「やっぱいないか」

 無意識のうちに探している。普段はいないはずのバイクゾーンにまで目を向けた。今はテレビを見ながらのんびりとペダルを回すおじさんが一人いるだけ。

「マチちゃんは今日も綺麗だねえ」

 常連のおばちゃんが気さくに話しかけてくる。会釈をしつつ、視線は奥の方まで見通してしまう。いつもの場所。フリーウエイトゾーン。

 存在感のある細身で長丈のシルエットはない。

「こんにちはー」

 トーンが落ちるのを懸命にこらえる。フィットネスジム「ヨミカキ」のメインストリート。マシンゾーン。

「こんちはー」

 私に負けず劣らずのだれた挨拶が耳に届く。誰だ。お株を奪おうとするのは。これでも頑張って声を張っているつもりだが、妙に共感できる。典型的に声を出すのが苦手なタイプ。

 私は声のする方へ目を向けた。すると、

「あ」

 悔しくも自分の目を疑ってしまう。ガリガリの痩躯。小柄のおじいちゃんが顎を上げながらチェストプレスで胸を鍛えている。他にも年配の方が数名。

「何を期待してるんだ」

 自嘲する。意識しないようにすることは意識しているのと同じ。おじいちゃん以外には脚を鍛えるレッグプレスに短髪の青年がいるだけ。典型的な昼下がりのジムの風景だ。

 …………え? 短髪?

 期待ではない。本当の意味で二度見する。失礼ながら何となく見覚えのある輪郭。

 今まで隠していた表情がはっきりと見えて、清潔感がある。表情を隠しがちだったせいか、記憶の中の彼とすぐには一致しなかった。

 しかし三角巾で腕を釣りながらジムに通う人間などそうはいない。にも関わらず何度も瞬きを繰り返した。乱雑に伸びた髪の毛はどこへ行ったのか。逆立てられるくらい切りそろえられた短髪の彼がぎこちなく足でプレートを押し上げている。

 軽い負荷でゆっくりと動作を確認する姿は、初めて訪れた時とは真逆。フォームを固める大切さを知る動きだ。

「ガリさん、どうしたんですかその髪」

 ガリさんはレッグプレスを中断すると、指で毛先を触った。自分でも違和感があるらしく、頭を掻いて何かをはぐらかす。

「その、失恋したら髪を切るって少女漫画で」

「……っぷ。あははは。なんですか乙女みたいなこと言って。そっかガリさんはアニメとか漫画とか大好きでしたもんね」

「っ⁈ どうしてそれを……っ!」

 ガリさんが顔を真っ赤にして、口を開けてたり閉じたりする。どうやら私は知らないていらしい。

「もうとっくにコトカから聞きましたよ。別に良いじゃないですか。耳をこらせばとか好きですよ」

「っ。じゃあ」

「行きません」

 ガリさんが貧血を起こしたみたいによろめく。怪我人の上に病人にまでなられたらことだ。もちろん冗談なのだが、茶目っ気を出せる人なのだと初めて知った。

 やばい。にやけそうだ。

 重かった足はいつしか笑い声に同調しながらその場で足踏みする。身勝手かもしれないが嬉しい。

「無理しないでくださいよ? 私がすっ飛んで来ますから」

 ガリさんは気恥ずかしそうにちょこんと親指を立てた。ガリさんなりの精一杯の感情表現なのだろう。

 私も力強く親指を立てて、自分なりの下手くそな笑顔を見せる。

「こらー。また勝手に無茶しようとしてー!」

 ちょうど入れ違いのタイミングで、コトカがクラス委員長みたいに慌てて駆け寄ってくる。大方私たちは掃除をサボる問題児。真面目にトレーニングをしていたのに失礼な話だ。

「コトカ、人のやる気を削ごうとするなんてインストラクター失格だね」

「ゔぇ⁈ いつも眠そうにしてるマチに言われた⁈」

 過剰に騒ぎ立てるコトカの声がジム内に響く。一見やかましく聞こえるが、コトカの声を聞くとヨミカキにいるという実感がわく。

 私とガリさんのツーショットが気に食わないのか、露骨に頬を膨らました。

「マチ、ちょっと来て」

 引っぺがすように腕を掴まれる。つかつかと連れられ、ジムの隅っこに追いやられた。当然聞かれるのはあのことだろう。

「……やっぱり断ったの?」

「うん」

「そっか」

 コトカが口を噤み、難しい表情をする。しかし「しょうがないか」と納得もしていた。ある種分かっていた結末だけに、コトカからすれば寂しいのかもしれない。

「マチはもったいないなぁ。今はまだまだだけどガリさんはきっと良い男になるよ?」

「知ってる」

「それにガリさん、まだマチのこと好きだと思うよ?」

「うん」

「ずるいなぁ。モテる女は」

「あれ? ひょっとしてコトカは本気でガリさんにお熱?」

「どだろうね」

 コトカは含み笑いを浮かべながらガリさんの元へと駆け寄った。

「マジか……」

 女の私ですら女の気持ちは分からない。しかし二人が楽しそうに笑ってる光景を見ると、悪い気はしなかった。ガリさんの方は笑顔が引きつってるけど。

 私はマシンゾーンを離れて、今はガリさんのいないフリーウエイトゾーンの会員さんへ元気な挨拶をした。

 マッチョさんたちはまだ出勤したばかりの私を捕まえて、高重量トレーニングの補助を頼んでくる。

「今日もがっつりやりますよ。覚悟してください」

 ゴム製の敷居をまたぎ、私は袖を捲った。

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