第21話

「あんな無理やりに締め出してあなたは責任が取れるの?」

「え、責任って」

 控え室の隅に追いやられ、私は逃げ場を失った。ポニーテールに結いだ女性インストラクターがすごい剣幕をして、今に掴みかかってきそう。着替えも済んでいないタンクトップ姿の汗が鼻につく。

「週に一度しか来られない人もいるの。ステップだって少しずつ新しいことをやっていくんだから一週休んでついていけなくなったらどうするのよ」

「えっと」

「それに私たちは集客数でギャランティが変わってくるの。あなた達みたいに入会してくれれば会員さんなんて居ても居なくても同じなんてことはないの。あなたに報酬の保証ができるの?」

 言葉を挟む暇などなく私を捲し立てる。控え室で居合わせるていどの間柄。年が八つほど離れており、私よりも断然キャリアは長い。言い返す言葉が喉のところで詰まった。 

「安全管理だって言いたいんでしょうけどこっちだって会員さんの表情を見ながら注意してやってるの。違和感があれば当然止めるわよ」

 私の言いたいことを事前に潰してくる。

「金輪際やめてもらえる? 営業妨害だわ」

「……」

「返事は?」

 私のが身長が高いのに、見下すような高圧的な口調。屈服させる気満々の開いた瞳孔が刺さる。正しいことをしたと思っていたのに、その見返りは散々なものだった。

 ここで頷けばきっと解放される。普段の私なら抵抗のひとつもしたかもしれない。なんで今日に限ってなのだ。私は一言だけ発するだけの息を吸い込みながら、改めて弱っている自分を恨んだ。

「マチ、謝らなくて良いぞ」

「……え?」

 はい。と発するために吸った空気があっさりと漏れ出る。顔を上げて扉の方を見ると、畑さんが険しい表情で立っていた。

「すみません、マチがスタジオレッスンの興を殺いだことに関してはわたくしからお詫び致します。ですが途中入場の禁止はこのジム全体のルールです。今日の会員さんが別のレッスンで途中入場をしてもあなたの目は届きますか? 今日あなたのレッスンに参加された会員さんは途中入場して良いと解釈すれば必ず蔓延します。ソーシャルネットやブログに書く方もいるかもしれません。安全管理ができていないフィットネスジムなど来たがる人はいますか? 会社全体の売り上げは数百億に登ります。あなたは従業員の生活を保証できますか?」

 いつもは聞き役の畑さんが有無を言わさず捲し立てる。私がされたことをそのまま仕返しているようにも見えた。

 反対に相手が視線を落とし、黙りこくる。

「今後は注意してください」

 畑さんは最後に外部インストラクターを睨みつけて、念を押した。外部インストラクターは「はい」と一言答えてから更衣室へ入っていく。

 控え室は私と畑さんだけになり静けさを取り戻した。

「すみません」

「おいおい、謝らせないために出張ったのに台無しだな」

 もう強面の畑さんはおらず、優しげな表情に戻っていた。

「畑さん。私は自分のしたことが間違ってるとは思いません」

「その通りだ」

「正しいことをすると人に嫌われるんですか? なんで正しいことをして怒られなきゃならないんですか?」

 助けてもらって非道い言い草。しかし論理的な思考とは別の感情を止めることができない。散々視線を泳がせていた私が畑さんを直視する。

「マチ、俺はお前のことを褒めるぞ。よく言った。嫌われるのを恐れずに自分の正しいと思うことを貫いた」

「茶化さないでください。私の今後のインストラクター人生に関わります」

「ならひとつ聞こう。俺に好かれるのとお前を罵った人間に好かれるならどっち良い? 反対でも良いぞ。どっちになら嫌われても構わない?」

「……」

「申し訳ないが万人受けはない。だからお前の正しいと思うことをすれば良い」

「それが畑さんの価値観と違ってもですか?」

「その時はどっちかが屈服するか去るかだ」

 畑さんはシリアスな雰囲気など構うことなく椅子に座って、肩肘をついた。横柄な姿勢で余裕な笑みを浮かべる。

「それにマチ。もし今日のレッスンの穴を誰かが埋めなければならないなら全くもって問題ない」

「え」

「マチが埋めれば良い。お前のレッスンは人気があるんだぞ。この前のエアロバイクも見事なもんだった。焼肉一回じゃ安いくらいだ」

「……あざす」

「俺はマネージャーだ。俺が権利を横暴しなくて誰がする」

「首切られますよ」

「俺は会社に貢献してるから大丈夫だ。多分」

 畑さんは笑い飛ばすと、ひょうひょうと明後日の方を向いた。不覚にも私まで笑い声がもれる。本当は泣きたいほど嬉しいのに、きっと顔はくしゃくしゃになって不細工に違いない。

 畑さんは「今日も俺の筋トレに付き合え」と最後まで和やかな雰囲気を作ってくれた。私は「焼肉一回で」と畑さんの優しさに甘えて、つんとする刺激を我慢して洟を啜る。少しだけだが、自分の存在意義を認められた気がする。

 きっと潤んでいるだろう目をこすって、再びジムへの扉を開けた。



 緊張感を持って、私は仕事に没頭した。

 ガリさんの怪我の一件から、罪滅ぼしの意味も込めて、指導に熱がこもる。

「重さに負けて腰が倒れてるので、腹筋にも力を入れましょう」

 バーベルスクワット中の学生会員さんへはっきりと伝える。高校の部活はバスケらしく、ジャンプ力と体幹を鍛えるのが目的。

「腰を倒すと膝がサボります。ももと床が平行になるところを意識してください」

 短髪の学生会員さんが息を切らしながら頷く。奇しくも元彼が学生の頃はバスケ部だったため、私もそこそこ動きには詳しい。

「まずは鏡を見てフォームを確認しましょう」

 バーベルを使わず鏡と横向きに立たせる。数回やってフォームを修正する。やはり若いと筋が良い。すぐに良くなる。

「少しの間ここから離れますがサボっちゃダメですからね。インターバルは三分です」

 煽るように釘を刺すと、学生会員さんは「はいっ」と背筋を伸ばして返事をした。良好な関係だ。

「では後ほど」

 ランニングマシンの方へ水分補給の啓もうをして、マシンを使っている人のフォームを確認する。

 戻ってくる頃には学生会員さんのインターバルも終わり、メイン重量でスクワットの再開。脳内で現場を回すイメージを確立する。

 フリーウエイトゾーンから離れ、ジム内を一周。しようとした時、

 私のXデーは思いのほか早く訪れた。

「ガリさん、来るの早くないですか?」

 ベンチプレスの事故で脱臼と診断されたガリさんが、三角巾を腕に巻いた状態でジムを訪れた。

「脚のトレーニングならできると思って」

 もはや感覚がアスリート。つい二ヶ月前までは運動のうの字も知らなかったのに。もしかしたら人生で初めての大怪我だったかもしれない。にも関わらず悲壮感もなく、痛々しい三角筋が少しばかり和らいで見える。

 かと言って私の不注意が無くなるわけではない。ようやく頭を下げて謝る機会が訪れた。

 私が「すみませんでした」と腰を折ると、ガリさんは首を大きく横へ振った。しかも「これからもよろしくお願いします」と初めて頭を下げられる。思わず胸の辺りが熱くなる。

「ガリさんが言うのであればトレーニングに付き合いますよ。ガリさんは上半身に偏ったトレーニングをしてましたからね」

 図星だったらしく、目が泳ぐ。私には挙動不審の方がガリさんっぽくて安心する。むしろ今まで一番まともに会話をした気がする。思わず調子に乗って大きな態度をとってみた。

 怪我の功名。というにはまだ私自身が冗談には消化しきれない。申し訳ない気持ちが強いが、ガリさんに対してもうひとつ外せない宿題が残っていた。

「ガリさん」

 和やかな雰囲気をはっきりとした口調で締め直す。泳いでいたガリさんの視線がピタリと止まり、表情に緊張が走った。

「本当にお待たせしました。告白の返事、ちゃんと考えましたので後でお伝えします。上がる時に教えていただけますか?」

 ガリさんは顔をこわばらせながら頷いた。さすがに告白の返事を待たせながら私がトレーニングのサポートをするのも忍びない。今日に関しては同僚に任せることにした。

 私は私でジム内全体を忙しなく動き、安全管理長(自称)として目を光らせた。とにかく仕事に集中することで時間の流れを早くする。

 あっという間に二時間が経過し、トレーニングを終えたガリさんから「駐車場の裏に来てください」と告げられる。

 私は「分かりました」とはっきり答えて、ガリさんが着替え終える頃合いを見計らってジムを出た。


 外はすっかり暗くなり、ヨミカキの看板が煌々と光を放つ。

 ガリさんはだぼついた紺色のジーンズとロングTシャツ姿で立っていた。一八五センチという長身はすぐ目に止まる。

「すみません、遅れました」

 人気のない駐車場で、声を張ると反響する。ガリさんは何度も首を横へ振った。傍に置かれたスポーツバックは青色が濃く、まだ固さが残る。おそらく下ろし立てなのだろう。ガリさんは本当に見てくれも雰囲気も変わった。どんどん魅力的になっていく。

「まず最初に謝らせてください。本当にすみませんでした」

 私が頭を下げると、ガリさんは驚いたように目を丸くした。

「ガリさんの不調は気づいていたのに、不注意で補助が遅れました。今後はガリさんがベンチプレスをやってる時は絶対に見守ります」

 ガリさんはなぜか安堵の表情を浮かべた。大きく息を吐き、胸を撫で下ろす。もしかしたら告白の返事が「すみません」だと勘違いしたのかもしれない。

 道路の方から車が通り過ぎる音が定期的に響き、私はかき消されないように口調をはっきりとさせた。

「私はガリさんがこんなに頑張る人だとは最初思ってませんでした。変なのが来たと正直思いました。むしろ最近までずっと思ってました。私のことを避けるし。絶対嫌われてると思いました」

 ガリさんはまた目を見開いて、激しく首を横へ振った。私も人付き合いは苦手だがガリさんも大概である。

「でも胸板も少しずつ厚くなってきて、服装とかも変わって。何より姿勢が変わったと思います。立ち姿だけじゃありません。トレーニングに取り組む姿勢も含めて」

 照れながら俯く。この人は本当に反応が素直だ。

「でも」

 背筋を伸ばす。お互いに面と向かって目が合う。

「私には付き合ってる人がいるのでガリさんとは付き合えません。ごめんなさい。ガリさんは全力で自分の気持ちをぶつけてくれたのに、付き合っている人がいないって嘘をつきました。それだけは本当に後悔してます」

 深々と頭を下げる。ガリさんは何も言わない。遠くの方で男女の楽しそうな会話が聞こえる。おそらくトレーニングを終えた会員さんだ。

「旦那の晩ご飯を作らないと~」と明るい声が響く。

 ガリさんは今どんな表情をしているのだろう。緊張する。告白の返事の返事を待つ時間だけで心臓の音がやたらと耳に響く。

 顔を上げたら真っ先にガリさんの顔を見よう。私の意志が本物であることを告げるために。

 私が元彼に振られた時は泣いたっけか。関係が少しずつ遠くなり、何となく予想ができた頃を見計らっての呼び出し。それでも淡い期待を抱く。もしかしたらプロポーズ? とか。

 ガリさんは?

 諦める? 落胆する? あるいは全部終わって晴れやかになる?

 学校の卒業式みたいにゆっくりと体を起こし、ガリさんの顔を見上げる。

 あ。

 漏れ出そうな声を無理やり押し殺す。

 ガリさんは顔をくしゃくしゃにして泣いていた。

 躊躇いなどない。必死に堪えようとも止まらない涙が頬を伝い、何度も洟を啜る。嗚咽みたいに喉を鳴らし、鼻水だかつばだかをまとめて飲み込んでいた。

 私とは目が合わない。どうにか逃げだすのだけはこらえて、その場で泣きじゃくる。

 もしかしたらガリさんはもうジムには来ないかもしれない。通う理由をたった今失った。辞めてしまうかもしれない。それはすごく辛い。怪我しても変わらず通うような頑張り屋が諦める姿なんて見たくない。

 それでも私はガリさんに優しい言葉をかけることは決してない。

 誰に好かれたいか。

 私のその天秤にかけると決めたのだから。

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