第20話

 二度しか入ったことのない応接室で、私はせせこましく椅子に座っていた。 

 机に一枚の紙切れが置いてある。事故報告の太字が目につき、「原因」という欄に私の下手くそな字が並ぶ。

「注意力の散漫」

 畑さんは口に出して読み上げると、深いため息をつく。仕事として最も恥ずべき理由。こんなことを自分で書いていて情けなかった。

 私から何か言い訳することはなく、しばしの沈黙が続く。普段は使うことのない応接室での面談は、机と椅子が四つあるだけで殺風景だった。館内の声もほとんど聞こえない。

 南側の窓は日当たりが良いはずだが、今日はあいにくの雨。鈍色の雲が空を覆っていた。こんな日は足を運ぶ人も減り、スタジオレッスンなんかも遅刻して駆け込む人もいたりする。

「どうして注意力が散漫だった?」

 畑さんはただの不注意では済まそうとはしない。原因を深堀りする。当然だ。畑さんには心当たりがあるのだから。

「二日酔いか?」

 私が答える前に畑さんが口にする。せっかくの助け舟。素直に乗っかって「はい」と答えればこれ以上楽なことはない。

 流れに従う。女子の得意技だ。

「いえ」

 私は流れに従うことを拒んだ。自分に素直にありたいから。などという上等な感情ではない。どうせバレる。コトカに見られた上にコトカが気にかけていたガリさんの怪我。いつかは畑さんの耳にも届くだろう。罪は自首したほうが軽くなる。

 保身が導き出した答えがたまたま正直という選択肢だっただけだ。

「私には付き合っている人がいます」

 消え入りそうな声で出部との関係を話し始める。そしてガリさんに告白されたことも。

 畑さんは相槌を打つだけで私の話に終始耳を傾けた。大人な対応のせいか、恥ずかしいことなのに私の口が軽々しく動く。

 畑さんは全て聴き終えると、背もたれに寄りかかって眉根を寄せた。言葉にはしないが「マジか」という声が漏れてきそう。

 考え込むのも無理はない。報告書の次の欄に進むのには踏み込みづらい事実だった。

「マチ、次の欄が未記入だがどうしてだ?」

 だがマネージャーの立場上、避けて通るわけにはいかない。ここを解決しなければ私が尋問から解放されることはない。

「正直、思い浮かびませんでした」

「だろうな」

 対策。私が記入できなかった項目だ。

 お酒を控える。そんな単純なことで済む問題なのだろうか。きっと少し違う。お酒を飲んでいなくても同じ場面に遭遇したら私は動揺する。

「フィットネスインストラクターはタレントと似たところがある。華やかで時には表舞台にも立つ。憧れる者や好意を抱く者も少なからず出てくる。お前だって今回が初めてじゃないだろ」

 こくんと頷く。今までは好意を寄せられたこともあった。しかし業務に支障をきたしたことなど一度もない。それくらい仕事に夢中だった。

「会員さんは俺たちにとって最も大切な存在だ。喜んでもらうために肩入れもするし感情移入もする。だが明確な線引きをしろ。それが出来ないのであれば異性として本気で向き合え。どちらかだ」

「……はい」

「以上、戻ってよし」

 畑さんは、私に退室するよう促した。特に何もすることのない応接室に自分一人だけ残る。きっとこれも線引きのひとつなのだろう。一緒に退室すれば雑談も生まれるし、馴れ合いも生まれる。

 いつも部下のことを気にかけてくれる畑さんだけに、今の振る舞いが少し冷たく思える。

 私は「失礼しました」と頭を下げて、丁寧に応接室の扉を閉めた。


 切り替えよう。

 応接室から出れば、会員さんが行き交うフィットネスジム。

「もう絶対に事故なんて起こさない」

 私はこの仕事に誇りを持っている。大好きな仕事を嫌いになんてなりたくない。怒られて無感情でいられるほど強くはないけど、久しぶりの緊張感が歩調を早くする。入社初日みたいに心臓が高鳴った。

「はいりまーす!」

 フレッシュさを意識した挨拶。雨天のせいでジム内は人も少なく、スタジオもエアロビクスのレッスンの真っ最中。私の声がやたらと響いた。

「マチ先輩、大丈夫でしたか?」

「うん、大丈夫。心配かけたね。チサも私みたいに眠そうな顔しないよう気をつけると良い」

 堂々と振舞う。済んだことに気を病んでも仕方がない。私はいつもより胸を張ってジム内を一周した。

 やはり人が少なく、スタジオ内も参加者がまばら。雨の日に外で運動しないのと同じで来館自体をためらう人も多い。

 今いる人は意識が高いか、ジム自体が大好きな人だ。

「頑張ってる」

 スタジオ内を見ると、人が少ないお陰でより大きな動作でステップを踏んでいた。盛り上がりに欠けても、人数が少ない方がやりやすいという声もけっこう聞く。私もどちらかと言えば後者だが、自分がインストラクターの時は集客したい。予約を断るのは申し訳ないと同時に、何とも言えない満足感があった。だからこそ自分のレッスン日は天候を前の日から気にする。

「こればっかりは仕方ないか」

 入りの悪いスタジオレッスンから目を離し、挨拶周りの続きに入る。と思った矢先だった。二人組の女性が血相を変えてジムに入ってくると、スタジオの方へ一直線に走ってくる。

「すみません、館内で走るのは禁止です」

「遅れました~。スタジオに入れてください~」

 パーマをかけた中年の女性は私の注意を無視し、スタジオの扉を開けようとする。

「すみません。申し訳ないですが途中入場も禁止です。他にもレッスンがあるので是非そちらに参加してください」

「私は毎週このレッスンを楽しみにしてるのよ! ちょっとくらい良いじゃない」

 女性は急に声を荒げ、私をどかして無理やりスタジオの扉を開けた。

「駄目です。時間通り参加している方の迷惑にもなります」

「空いてるんだから迷惑になんてならないでしょ」

「運動中の集中を妨げると怪我にも繋がります。お客様も準備運動をされずに入ることはおすすめできません」

 気持ちは分かるがもう事故なんて起こしたくない。例え会員さんに嫌われても構わない。万が一を防ぐのが私の役目だ。

「申し訳ありません。ルールですので」

「あんたケチね。細いから私らみたいな中年おばちゃんの気持ちなんて分からないのよ」

 嫌味への対応は苦手だ。返す言葉につまり、口ごもってしまう。私の動揺を見透かしたのか、もう一人の女性会員さんが押し問答中にするりと中へ入っていく。

「お客様、困ります」

「私の体なんだから私が怪我しても私の勝手でしょ。それに普段から運動してるんだから怪我なんかしないわよ」

 訪問販売を断るみたいに扉を閉め切られる。そして何事もなかったように音楽に合わせてステップを踏み始めた。

 さすがに中へ入ってまで引きずり出すわけにもいかない。結局、途中入場を止めることはできず、レッスンはそのまま続けられた。

「なんで上手くいかないんだ」

 私ひとりが足掻いたところで何も変わらない。他の会員さんも多少は気が散ったみたいだが、数十秒後には普段のレッスン風景に戻っている。

 幸い事故も怪我人も出ることなく、レッスンは無事終了した。

「レッスン後は大量の汗をかいています。水分補給をお願いしまーす」

 切り替えよう。油断はできない。突発的な負傷よりも水分補給を怠って熱中症になることのが多い。

 愚直に声を張ってアナウンスする。本当に入りたての新人に戻った心持ちだ。背中の辺りがこそばゆいけど、自分でも気が引き締まるのを実感する。

「ちょっと、あなた。どういうつもり?」

「え?」

 私が口元に手を添えてアナウンスしていると、今しがたスタジオでレッスンをしていた外部の女性インストラクターが私へ詰め寄ってきた。

「ちょっと来なさい」

 かなり高圧的な態度。眉間にしわを寄せて私を睨みつける。言われるがまま控え室へ着いていく。

 ジム内はいつもと変わらず平和なはずなのに、胸騒ぎがしてならなかった。

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