第19話
頭がガンガンする。
今日は幸い午後三時からの出勤。冷蔵庫からミネラル水を取ってコップに注ぐと、一気に飲み干した。
「あんた昨日酷かったわよ。お酒を飲むなとは言わないけどほどほどにするのよ」
母の嫌味が頭に響く。もちろん私を心配してのことだが、今は心には響かない。
「あと久しぶりに出部くんから連絡あったわよ。あんたのこと心配してたんだから。それよりなに? あんた出部くんと付き合ってるの?」
母のトーンが急にひとつ高くなる。女はいくつになっても下世話な生き物。にやにやと私の全身をなめまわすように見た。
「うん、まあ」
「そうなの。だったらちゃんとしなさいよ。前の彼もすらっとして格好良かったけど出部くんは出部くんで優しいからお母さん的には安心だわ」
「お母さんならどっちがタイプ」
「そうね~難しい質問だわね。両方合わさったら最高なんだけど。イケメンで優しくて仕事ができて頭が良い」
「ですよね」
母が料理中のおたまを振って妄想を膨らませる。ふと父の顔を思い出すが、残念ながら母の理想とは程遠い。
「はいお弁当。今日も遅くなるの?」
「うん、ラストまで」
「ご飯は冷蔵庫に入れておくから。適当にチンして食べて」
「うん、ありがと」
私はもう一杯だけミネラル水を飲むと、洗面台で顔を洗った。お酒を飲み過ぎたせいか、こめかみのあたりがニキビで赤い。幸い前髪で隠れるので見てくれにはあまり影響はなかった。
「あ、マチ先輩おはよーございますっ。昨日のエアロバイクはすごい盛り上がってましたね。僕、ちょっと鳥肌立っちゃいましたよ」
張りのあるハイトーンが頭に響く。受付では今日もチサがジムへ入ってくる会員さんへ元気よく挨拶していた。
「チサが集客してくれたからね。でかした」
「あざます! 自分もあんな風に楽しんでもらえるように頑張ります!」
「その前に現場入りのテストが先だけどね。受付よろしく」
チサはジム全体へ届きそうな返事をして、入ってくる会員さんへさやわかな挨拶を続けた。
こんにちは。お疲れさまでした。元気な挨拶。私は持ち合わせていない声量だ。
「こんにちはー」
出勤時の挨拶回りでジム内を一周する。一番奥にいてもチサの声が聞こえてくる。ある意味どこにいるかすぐに分かって便利だ。
バイクゾーンからストレッチゾーン。ランニングゾーンからマシンゾーンを回ってフリーウエイトゾーン。
「あ、ガリさん。今日もやってるんですか?」
ガリさんは動揺したように目を丸くしたが、平静を取り繕って「はい」とだけ答えた。
「昨日もがっつりやってたので上半身は休めた方が良いですよ」
こくりとだけ頷く。やはり妙に落ち着きがない。どこか焦っているようにも見える。本来であれば筋トレは三日に一回ほどで十分。鍛える部位を変えることで毎日通うことはあっても同じ部分を毎日鍛えるのは非効率。そもそも回復しきっておらず、筋肉痛で力も入らない。
大胸筋に関して言えば、きっちり追い込むトレーニングを確立しつつある。今日はコトカも畑さんも休み。誰かが
今はアイドルタイム。シフトも最小限でジム内には私とチサしかいない。
「ベンチでーす」
ガリさんがベンチプレスのシートに寝そべる。きっとガリさんのモチベーションは私の存在なのだろう。
うぬぼれた言い方かもしれないが私に見合う男になるために頑張っている。でもちゃんと断らないと。私は出部と付き合っている。認めたくないけど。酔った勢いとはいえ昨日キスまでしてしまった。今にして思うととてつもなく恥ずかしい。
やはりガリさんのプッシュアップは不安定だ。二回目でもう軌道が上にズレてる。何気にけっこう危ない上げ方だから注意が必要だ。
きっとコトカは私が出部と付き合ってるのを知らないからガリさんに肩入れしてたんだよね。おせっかいだけどコトカにも出部のことをちゃんと話さないと。なんかまた頭痛くなってきた。でもこれは二日酔いではない気がする。甘いもの欲しいな。昨日しょっぱいものを食べ過ぎたせいだろうか。
ガリさん絶対に不調を感じてるはずなのに頑張るなぁ。愛の力って本当はすごいんだ。残念がら私は付き合っていても実感できなかった。それは元彼も今彼も同じ。あ、でも出部を痩せさせる努力はけっこうしてる。頑張らせることを頑張るって大変だ。
がしゃん。
え?
視界に映っていたはずの光景が情報として脳に伝達していない。意識をすることで初めて意味を成す。奇しくもトレーニングと同じだった。
「ガリさん!」
慌てて駆け寄る。何が起きた? しっかり見ていたはず。
ガリさんの喉元にバーベルがのしかかっている。力の入らない体勢でどうにか支えているが無呼吸状態で顔が真っ赤。私はバーベルを力づくで持ち上げて、ラックへかけた。
「ガリさん! 大丈夫ですか!」
げぼげほとむせ返しているが呼吸器官は異常なさそう。もしろ外傷。
「チサ! 救急バッグ!」
額のあたりが腫れ上がっている。見てすぐ分かる外傷。しかし、ガリさんが手で抑えているのは痛々しい額ではない。左の肩だった。
「動かさないでください。どこが痛いですか?」
顔を歪めながら「肩」とだけ答える。
「肩を打ちましたか? それとも捻りましたか?」
今度は「捻った」と懸命に言葉を漏らす。
チサが救急バッグを持ってくると「救急車呼んで」と端的に伝える。動揺した表情を浮かべ「はい!」と大きな返事をして一目散に駆け出した。
脱臼の恐れがある。こういう時は。あれ……。どうするんだっけ。頭が回らない。
そうだRICE処置だ。えっと。
「マチ先輩。救急車呼びました! あと冷却パックです!」
そうだ。アイシングだ。あと圧迫。三角巾ってどうやって吊すんだっけ。
動揺が思考回路をかき乱す。研修でやったはずなのに、いざという時に体が動かない。
「チサ、ガリさんの肩をアイシングしてて。私は総合受付と事務所に報告してくる」
こんな時に限って畑さんは休み。周囲も騒々しい雰囲気に何事かと集まり出す。脇から大量の汗が噴き出し、私まで呼吸が浅くなった。まずい。落ち着け。私が落ち着かないで誰がこの場を収めるんだ。
「ガリさん、大丈夫です。救急車がくるんでなるべく楽にしててください。痛くない程度に手を心臓より高い位置に挙げてください」
不測の事態に私はインストラクターという立場を必死に保ちながら奔走した。皆の注目が背中に刺さる。
ジムから出て顔を見られないと思うと、安心して泣きそうになった。ちんけなプライドを守るだけで精一杯。
「くそ……」
あんなに酷かった頭痛はいつの間にか消えて、息苦しさが心臓を圧迫した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます