第17話

 出部は地元にも関わらず大学生で一人暮らしをしている。実家は駅を挟んで反対側だが最寄駅は同じJR中央線の武蔵小金井。

 私は出部の両親とは面識があり、優しく温和な感じの母だ。父の方は割と放任主義だが、人としての礼儀はしっかりとしつけている。

「へー、ここが出部の部屋かー。実家とあまり変わらないね」

 二階建てアパートの間取りは1K。

 寝室は八畳あるらしいが、本やら参考書やらが多く、間取りよりも狭く見えた。ぽっちゃりな体を寝かすためのベッドも幅を利かせている。

「一応、工学部だからねえ。学校の勉強は大変だよー」

 さりげなく出部は国立大学を現役で合格している。いつも能無しみたいに扱っているおつむの出来は私なんかよりずっと良い。

「あ、これ筋トレの本?」

「うん、家でできないかなーって。でも難しいね。ジムで運動した後は全然やる気になれなくて」

 本を開くと付箋ふせんやら赤ペンやらを駆使し、出部なりに重要なポイントをまとめている。

 特に腹部に関するページは折り目が強く、自然と同じページが開かれる。

「出部~。あんた頑張ってるんだね~」

 なんか泣けてくる。私はじゃれ合うように出部へ抱きつき頬を擦りつけた。

「よーし、私が筋トレの効果を倍増するご飯を作ってあげる。出部は部屋で正座して待ってて」

 私は袖を捲ると、キッチンの方へ向かった。冷蔵庫を開けると見事に何も入っていない。出部の買い物はばっちり一食分のみだった。唯一あるのが卵。きっと朝に卵かけご飯にするつもりだったのだろう。

 今ある食材できるのはひとつしかない。

 私は手を洗うと「よーし」などとわざとらしく気合を入れたが、足はおぼつかない。やっぱりお酒のせいだ。舞い上がってる。


 出部はマチ特製の親子丼をものの三分で平らげた。

「ごちそうさまー。美味しかったっ。マチちゃんありがとーっ」

「なんの。頑張ってる出部へのご褒美なのだ」

「えへへー。こうしてるとなんか恋人同士って感じがするね」

「こんな感じ?」

 私が出部のお腹を摘むと、出部は「あう」と体をよじらせる。相変わらず脂の乗った感触が気持ち良い。と、言いたいところだがいつもと何か違う。掴んだ感触に違和感を覚えた。

「出部、もしかして少し痩せた?」

「え、本当? 体重はいつも測ってるけどあんまり減ってないよ」

 ダイエットにとって減量は必要不可欠だが、もっとも大切なのは質。同じ体積でも脂肪よりも筋肉のが重い。

 同じ体重の人でも見てくれが違ったりするのは筋肉質かどうかなのだ。

「もう少し触らせろ。背中も」

「私は狭い部屋のじゅうたんへ出部を押し倒すと、肩周りから背中の感触を確かめた。柔らかい肉の感触が手に伝わる。

「うーむ、やはりまだ背中や腰周りは難しいか。広背筋だけじゃなくて脊柱起立筋にもアプローチしていこう。そうしたら見てくれも良くなるし」

「マチちゃんやめてよ~。くすぐったいよ~」

「あとストレッチはちゃんとするように。筋肉が固まってる」

 私が広背筋わきのあたりを揉みほぐすと、出部は体をよじって足をばたつかせた。そう言えば昔からわき腹が弱かったのを思い出す。我慢するよう言っても全く堪える様子はない。

 黙らせるよう少し強く揉んでやる。

「マチちゃんやめてー」

「暴れるな。私のマッサージテクを見せてやる」

 もはやマッサージではなくプロレス。私も酔っているせいでノリが強引になる。引き際を考えずに揉みまくった。

 出部もうつ伏せの状態では抵抗できない。なんとか体勢を変えようと上体を捻る。仰向けになると、両手を駆使して私のゴッドハンドを防せごうと赤ちゃんみたいな手で遮る。

 プロレスラーみたいに手を掴み合い、綺麗に言えば恋人繋ぎで思い切り押し合う。もはやマッサージの名目は消え失せ、抵抗する出部がくすぐりで悶え苦しむ様を見たい衝動に駆られた。

 いくら出部がベビー級だろうと日頃から鍛えている私。しかも馬乗りの状態。出部の両手首を掴んで床へ押し付ける。そのまま体勢を前へずらし、両膝で押さえ込む。

 完全に出部の自由を奪った。

 前傾姿勢で顔を近づけ「身動きできないでしょ」と挑発気味に笑う。今にも泣きそうな顔の出部は口を半開きにして怯えている。その口すら塞いでやりたくなる。私は自由になった両手で出部の顔を掴むと、自分の唇で出部の口を塞ぎ、出部の目を直視した。

「今日の私はどうかしてる」

 出部は驚いたように目を開き、全身が硬直する。暴れ廻っていた両手足は無抵抗になるのが分かり、緊張でほのかに震え出した。

「マチちゃん?」

 未だに状況が飲み込めていないと言った表情。ふっくらした頬。つぶらな瞳。優しい性格を象徴する福耳。以外とまつ毛が長い。髪の毛は短いけどもう癖が出始めてる。

「私酔ってるわ」

 頭の重みで出部へ顔を預ける。ぼーっとする。意識が遠のく。代謝は良い方のはずなのに、今になってお酒が頭に回ってきた。

「ここで寝て良い?」

 耳元で言葉がもれる。もうほとんど頭が回らなかった。どの道こんなよろよろの状態で帰れる気がしない。

「駄目だよ。ちゃんと帰らなきゃマチちゃんのお母さん心配する」

「なんだよ。出部は私のことが好きなんじゃないのか。チューとかしたいとか思わないのかー」

「したいよ。マチちゃんのこと大好きだもん」

「だったら良いだろー。今がチャンスだぞ。今の私はへろへろのベロベロだ。本当はチュー以上のこともしたいんだろー?」

「……そうだよ。僕だって一応男だもん」

 柔らかな出部の瞳が私と直視する。笑ってはいない。真剣な表情。口調もはっきりしており、怒ってはいないだろうが私は少しおっかなく感じた。

「でも今日は帰ろ。送ってくから」

「うぅ~」

 もはや言葉も上手く出せない。音だけがうめき声みたいにもれる。ほとんど脱力しきった私を出部が下から起こすが、首が据わらない。お腹に力が入らず、また倒れこむように出部へ体を預けた。

 しかし出部は私を無理やり立たせると「いこ」と言って腰に手を回しながら手を握る。変な体勢だが妙に落ち着く気がした。

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