第16話

 肉が焼ける音が食欲をそそる。

 私はエアロバイクのレッスンを終えた後、JR武蔵小金井駅の牛隅ぎゅうすみに来ていた。

「約束通りゴチになります」

「約束はしてないけどな。まあ食べろ」

 網からしたたる肉汁が炭に触れて火力が増す。私の舌が早くも牛の舌を欲してだ液を分泌し始めた。

「これからは気をつけてください。マネージャーがタイムマネージメントできないとか終わってますので」

「お前、おごってもらってもらう立場なのに容赦ないな」

 畑さんはゴリマッチョのナリに不似合いなカシスオレンジをちびちびと飲んだ。肉には手をつけず、キムチやら塩キャベツやらへせせこましく箸をつける。

 本当にこの人はいつタンパク質を摂取しているのだろうか。二人前の牛タンはあっさりと私の胃袋に収められた。

「次は特上カルビを頼んで良いですか?」

「本当に容赦ないな」

「次やらかしたら赤ワインに見合うお肉の店に連れてってもらいます」

「彼氏に連れてってもらえ」

「私に彼氏の話をしますか? 良い度胸ですね。あ、すみません。霜降りカルビと特上牛タン。あとカルピスサワー」

「そういえば別れたとか言ってたな。禁区ワードの代償が霜降りというわけか」

 正確には別れた後に、公表したくない別の男と付き合っている。もちろん畑さんにも報告していない。

「マチはプライベートに左右されずによく働いてくれてる。女性はなかなかそういかないから大したもんだよ。コトカは今日は合コンって言ってたな。結果次第じゃ明日は使い物にならないから厄介だ」

「あざす。あ、すみません。今日、鹿児島産の地鶏が入ってるって聞いたんですけどありますか?」

「褒めても容赦ないんだな」

 畑さんはカシスオレンジをぐいと飲み干すと、もう一杯同じものを頼んだ。眼鏡を外して目頭を抑える。呆れながら漏らしたため息が肉を焼く煙をほのかに揺らした。

「マチ、今後はどうしたいとかあるか?」

「マネージャーになりたいとかそういうことですか?」

「俺の地位を狙ってるのか。恐ろしいな」

「特には考えてないです。でもスペシャリストとパーソナルトレーナーの資格は欲しいと思ってます」

「二年目にしてハードル高いな。分かった。今後はそれに向けた研修も組んでく。覚えることも増えていくが頼んだぞ」

「うす。すみません、ワイン頼んでも良いですか。赤のボトル」

「お前、キープして俺を誘わないで来る気だろ」

 畑さんの了承を得ず、店員のお姉さんに注文をすると、笑顔の可愛いお姉さんは「よろこんでー!」と元気な声を響かせた。

「ほらお店の人も喜んでますよ」

「どう考えてもだたの掛け声だろ」

 私は食べたいものを一通り注文し、肉のお陰で赤ワインも進んだ。それほど飲んでるとは思わなかったがいつの間にかボトルが空になっている。

「畑さん。なんか気分が良くなってきました」

「そいつは良かった。キープもしないとはマチを甘く見ていたよ」

 締めに冷麺とアイスを食す。しばし満足感に浸り、畑さんに「トイレに行ってきます」と断りを入れた。

 もちろん「会計をお願いします」という意味を含めて。

 私がトイレから帰ってくると、畑さんはしっかりと会計を済ませていてくれた。さすがである。

 店を出ると、梅雨入り前の湿った風が頬を撫でた。火照った体には夜のひんやりした空気が気持ち良い。

 私は畑さんに一応お礼を言うと、店の前で解散した。なんだかんだかなりお酒を飲んだらしく、気分が良い。頭がほんわかした状態でJR武蔵小金井駅からバス通りへ向かって揚々と歩き出す。

 駅から出てきたスーツ姿のサラリーマンとすれ違うたびに申し訳ない気持ちが生まれるが、酔って浮かれた気分が一瞬にして罪悪感を吹き飛ばした。


 畑さんと解散し、家路へ着こうとした時だった。

「あ、マチちゃん。どうしたのこんな時間に」

 出部が駅前のゴトーヨーカドーからレジ袋を持って出てきた。

「出部じゃん。そっちこそ何してたの。私は畑さんに焼肉をご馳走になってたところ」

「そうだったんだ。今日は急にバイクレッスンをしたんだもんね。お疲れさまっ。僕は晩ご飯の買い物を済ませたところだよ」

「ふーん」

 レジ袋からわずかに見えるのは鳥のむね肉、長ネギ。あと牛乳。一人暮らしっぽい買い物だった。

「出部って自炊するの?」

「ううん。あんまりしたことなかったけど最近始めたんだ。と言っても料理って言えたものじゃないけどね。ご飯炊いてお肉を煮るやか焼くかくらい」

「そうなんだ……。仕方ない。私が作ってあげる。いこう」

「え、良いの? わーい」

 出部はレジ袋ごと万歳をした。嬉しそうな顔を見ると私も嬉しくなって「ふふん」と鼻を鳴らす。お酒のせいだろうか、やはり気分が良い。

 私の方から「いくよー」と手を繋いで小学生みたいに前後へ大きく振る。

 恥ずかしさはなく、むしろ小学生の頃を思い出してどこか懐かしい。登下校の時にこうして手を繋いだっけ。

 出部も「手を繋いで歩くなんて懐かしいねっ」と人懐っこい笑顔をみせる。可愛いじゃないか。

 小さい頃は商店街だったバス通りを下り、今は一人暮らしをしている出部の家へ向かった。

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