第14話
「はぁ~」
大きなため息をつくと、鏡に映る自分の顔が曇った。
ー付き合っている人はいるんですか?ー
その問いに私は「ノー」と答えた。告白してきたのがガリさんだからではない。誰であろうと答えは同じ。出部との交際は非公式。誰にも明かしていない。コトカも例外ではなかった。
「知ってたの? ガリさんのこと」
「うーん、なんとなく行動で。本人からは聞いてないよ」
スタジオの鏡を拭く手に力がこもる。普段は遅番の私だが、今日は珍しくオープンからの出勤だった。
営業時間は九時からだが、掃除やマシン整備の時間を含めて一時間半前に出勤する。
「入会した時は好きな子にフラれて強くなろうって思ったみたい。で、いざ入会したらマチに一目惚れ。って感じかな?」
要は初めて運動教室の時だ。一目惚れとは何とも安易だが、いざ自分が当事者になるとこそばゆい。
「私はガリさん良いと思うよ。背も高いし。最近だと胸板も厚くなってきたから半年後にはオタク臭もなくなる気がする」
「ガリさんってオタクなの?」
「うん、アニメオタクだって言ってた。でも恥ずかしいからあんまり言わないでくれって」
「コトカには何でも話すんだね」
「やきもち? これは脈アリかな」
コトカがからかうような笑みを浮かべる。私が洗剤をつけたハンドモップで鏡を拭きながら追いかけると、コトカもケラケラと笑いながら逃げ出した。
「きっと本当にマチのことが好きなんだよ。一目惚れだけどね。だから恥ずかしいところを見せたくなかったんじゃないかな」
「別にオタクだからとかで断ったりしないし。私だってアニメくらい見る。耳をこらせばとか」
「ジプリじゃん。そんなの誰だって知ってるよ。それに私たちは超地元だし。この辺ってジプリの聖地がいっぱいある。あ、そっかー」
またコトカが意味深な笑みを浮かべる。
「耳をこらせばと言えば成績桜ヶ丘。にやにや」
「なに」
「良いんじゃない。思い出を上書きしちゃうのも」
私はモップを床へ置くと、全速力でコトカへ詰め寄った。いつも気にしてる横っ腹を揉みしだいてやる。コトカは「やめてよ~」と出部みたいに腰をくねらせた。
こうして同期で出勤時間帯が被るとくだらないことをやるのだが、さすがにふざけが過ぎた。営業時間が迫ってきたので二手に分かれて私はスレッチゾーンのマット拭きに向かう。
大窓からは朝日が差し込み、水拭きした場所がすぐに乾く。ランニングマシンの電源をつけて、一台だけしっかり稼働するか速度を上げてみる。徐々に加速するコンベアを歩き出すと、穏やかな午前のはずだが妙に落ち着かない。
「なんだろうな」
グリップを掴んで脈を測ってみると、いつもよりも数値が高かった。
「平常心……」
停止ボタンを押してコンベアを止めるも、私の胸の高鳴りが止まることはなかった。
平日の午前はゆったりしている。年配の方が多く、スロートレーニングをする人がほとんど。
中には長年通っているのに未だにマシンの使い方が覚えられない人もいる。なんとも緩い雰囲気だが私は緊張していた。
「全然顔と名前が分からない」
時間帯によって客層は違う。私が普段仕事する時間はサラリーマンや学生が多い。今日は早番の先輩が有給休暇をとっているため、私が駆り出されたのだ。
「今日は池目先生はいないのかい?」
案の定、見慣れない顔のおばあちゃんが小さな歩幅で寄ってきた。
「すみません、今日は池目コーチはお休みなんです。代わりに私が一緒でも良いですか?」
綺麗な白髪に染まったおばあちゃんは「お願いしますー」とゆっくり腰を折った。私も対面しながら「こちらこそ」と頭を下げる。
年配の方々はインストラクターやコーチのことを「先生」と呼ぶ。全くもって先に生まれていないのだが横文字に馴染みがないのだろう。
私は主に自重負荷の筋トレやチューブを使った体幹のトレーニング、乗馬マシンで骨盤運動など普段とは違った器具を駆使して現場を回した。
声を張ることもない。雑談に付き合ってるみたいな不思議な感覚。これが相手のためになっているのか少々不安にすらなる。
もちろん若い人のトレーニングをさせたら比喩ではなく死にかねない。
このペースがベスト。
ゆっくりととした時間の流れは私にとってはえらく落ち着かない時間だった。
午後になるとまた客層が変わる。家事を済ませた奥様方が増え、スタジオレッスンもエアロビクス系が始まる。
基本的には来場者数も少なく、いわゆるアイドルタイムというやつだ。この時間帯はがっつりとサポートできるため、会員さんにはお勧め。もちろん誰もが通える時間帯ではないのだが。
奥様方以外には午前で講義を終わらせた学生くらいだろうか。
「あ、ガリさんこんにちはーっ」
受付の方からコトカのよく通る声が響く。思わず受付の方へ目をやった。
「新しいウエアを買ったんですね。気合い入ってますねー」
か細さを隠すダボダボのTシャツから一変、タイトな黒のロングシャツ。ヨミカキのプロショップで売っているブランドだ。
「あの時の……」
私がプロテインを買った時のことを思い出す。挙動不審に眺めていたのがウエアだったことに今更ながら気がつく。眼鏡も黒ぶちのものに変えて、別人にすら見えた。
「返事、待ってます」
ガリさんは私と面と向かうと、表情が強張った。それはそうだ。人と話すのが苦手なのに、好きな人へ話しかけるなんて緊張するに決まってる。去っていく歩調もやたらと早い。逃げるような速度だが、前と違って背筋は伸びて胸を張っている。
心なしかストレッチも入念で、いつもより気合いが入っているように見えた。
「ちゃんと返事しないとだよね……」
人の少ないジム内で、一心不乱にトレーニングに打ち込む姿は、
優劣をつけるものではないが、私がヨミカキで働き始めてから一番頑張っている会員さんだと思う。少なくとも伸び率は一番大きい。
会員さんが少ないせいか、トレーニングをしているガリさんの姿がやたらと視界に入る。昨日は記録への挑戦だけで、ほとんど休みと変わらない。体が疼くのか、今日は回数も多く、好調を維持していた。
「あれ、マチちゃんもう帰るの?」
午後五時。ちょうど出部がやってきたが、私の方は退社の時間だった。
「うん、今日はたまたま早番だったからおしまい。自分のトレーニングもオフだから出部を置いて帰る」
「マチちゃんひど」
冗談めかしな会話をするも、私はガリさんの視線を気にした。出部と話してる姿を見られたくない。
「じゃあね、サボらず頑張って」
出部が「うん」と人懐っこく返事をするのを見て、私はそそくさと受付の裏から控え室の扉を開ける。すると、私よりも早く畑さんが控え室から出てきた。なぜか少し焦っている。
「マチ、この後時間あるか?」
「え? 内容によります。ご飯なら畑さんのおごりで良ければ付き合います」
「今からエアロバイクの代行をしてくれないか?」
「今からですか?」
「ああ、シフトに抜けがあった。俺のミスだ」
「それって終わったら焼肉を奢ってくれるってことで良いんですよね?」
「ぐっ……。だったらコトカに頼むことにする」
「コトカならもう帰りましたよ。これからC大の法学部と合コンだから『シャワー浴びて美容室行って服を選ばないと。あとお化粧も直さないと』ってやる気出してました。安心してください。私がやりますから。払うもんきっちり払ってもらえれば問題ないです。ありがとうございます」
畑さんがぼそりと「男から搾取する女……」と呟いていたが無視をした。今日の夕食のことを何も考えていなかったから都合が良い。
「それじゃあ食前に軽く汗を流しますかね」
俄然エアロバイクのやる気が出てくる。
「チサ、集客よろしく」
受付業務に立っている新人のチサは「任せてください!」と元気に返事する。従順なあたりは出部と少し似ていて扱いやすい。
私が肩を回しながら控え室へ戻ると、畑さんが子分みたいに肩を落としてついてくるのが滑稽だった。
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