第13話

 私は出部の結果に焦っていた。ジムに通わせてから二ヶ月が経過し、心なしかお腹のでっぱりが和らいだ気がする。が、「痩せたね」と言われるほどではない。

 多摩湖ウォーキング以降も献身的に通い、私が作ったメニューをきっちりとこなしている。

「もう少し有酸素を増やそうかな……。でも無理はさせたくないし」

 控え室のテーブルでペンを片手にメモ帳と睨めっこする。これまでは体づくりと称して筋力トレーニングの方を重点的にやってきた。

「マンネリ化してるのかな。種目を変えて刺激を求めてみるとか」

 停滞期のカップルみたいなことを考えるがトレーニングとは実際にそう。ある一定のところまでは順調に成果が出る。ダイエットであれば体重が落ちる。ウエイトであれば重量が上がる。

 そこを抜け出すのは多少なりの根気がいる。しかし出部に限ってはすぐには成果が出ず、今もくすぶっていた。

「マチー。もう休憩終わりの時間だよー。早く来てー」

 ジム内へ通じる扉をちょこんと開け、コトカが顔を出した。

「あ、うん。今行く」

 結局考えはまとまらず、メモ帳をハーフパンツのポケットにしまい込む。

 今にして思えばこんなにもかかりっきりでサポートをしたことがない。フィットネス「ヨミカキ」にはパーソナルトレーナーというシステムも導入しており、別料金になるが個別指導も可能。私はまだ資格を持っていないため、個別指導はできない。いち個人の全てを把握して結果を最後まで見届けたことがなかった。

 ドアノブに手をかけていつもよりも少し重く感じる扉を開けると、足までもいつもより重く感じた。


「遅いよー。休憩時間は守らないと畑さんに怒られちゃうよ」

「うん、気をつける」

「なら良いけど。これからガリさんにベンチプレスでマックスの挑戦をお願いされてるんだから」

「ガリさんはウエイトトレーニングにお熱だね」

「もうすっかりマッチョさんたちと打ち解けてるよ。細いからよく叩かれてるけどね。弟分みたいで可愛いんだと思う」

 週五で通うガリさんは常連さんにも顔を覚えられ、ちょっとした人気者となっていた。無口で人付き合いも苦手だが、一途にトレーニングに打ち込む姿は放っておけないのだろう。こぞってガリさんのサポートをする人が増えた。

「なんか嬉しいね。会員さん同士が仲良くなってくれると」

 フィットネスジム「ヨミカキ」の経営理念のひとつに地域貢献がある。運動を通じて人の輪を作るのは最も難しい。狙ってできるものではない。ましてやガリさんみたいな人が中心となるなんて誰が想像しただろう。その仕掛け人に私がなれなかったのは少しばかり悔しい。

「マックスは何キロに挑戦するの?」

「六〇キロだよ。もう私なんてすぐ追い越されちゃったよー」

 コトカはあっけらかんと答えるがどこか嬉しそう。仕事の関係上、自分のトレーニングも必要不可欠だが、コトカはがっつり系ではない。一見すると標準体型。人に教えるカリスマ的な身体能力はない。それでもコトカには人が集まる。

 心底サポーター気質なのだろう。

「そっか。上がると良いね」

 複雑な心境だった。私にとって六〇キロは簡単には流せない重さ。

「じゃあ受付お願いね」

「チサは? 今日出勤でしょ?」

知三郎ちさぶろうなら座学研修だよ。きっと今ごろ畑さんのほとんど雑談の『体のしくみ』講座を受けてると思う」

「ち、肝心な時に」

「ガリさんのベンチプレス気になる?」

「別に」

 コトカは「ふーん」とにやついた笑みを浮かべた。それ以上は何も言わずにジムの奥へ歩いていく。あえて声を張って「ガリさんやりますよー」と周囲わたしへアピールするのが鼻につく。

 湿っぽい視線をコトカへ向けるが、こちらを向くことはなかった。

「ガリさん、いつの間にそんな重さを……」

 六〇キロ。私の自己記録。あげるのに一年間を要した重さ。やはり私はコトカとは違う。トレーニングしている者として純粋に悔しい感情も少なからずあった。


 三〇キロを一〇回。四〇キロを八回。

 ガリさんがウォームアップにあげる重さや回数が、見なくとも手に取るように分かった。

「私と同じだ」

 私の自己記録と同じ六〇キロに挑戦するのだから準備段階がにか寄るのは当然。最後に五〇キロを一回上げて、自己記録に挑戦する流れ。

 今は四〇キロを持ち上げてる最中。

「見たい」

 受付の前に立って、奥の方へ耳を傾ける。コトカが「調子良さそうですねーっ」と明るく励ます声が聞こえた。

「チサのやつ、まだ研修してるのか。むしろ畑さんの雑談が長いのか」

 受付の目の前にあるメディカルルームを恨めしそうに見る。新人研修の座学は利用頻度の低いメディカルルームで行われることが多い。磨りガラス越しにぼんやりと見えるシルエットが妙に妬ましい。

 また少しの間をとってバーベルがラックへかける音が聞こえる。もう誰にも悟られないようにせせこましくトレーニングをしていたガリさんではない。最後のウォーミングアップが終わったようだ。

 足裏がそわそわして勝手に受付をほっぽり出しそうになる。

「いやー今日も濃い研修をしたな」

 私が疼いているとちょうどメディカルルームの扉が開いた。畑さんが満足げに眼鏡を外しながら出てくる。

 その後ろには新人らしく相槌を打つチサの姿があった。

「チサ、ちょうど良かった。受付をお願い」

「え、僕これから休憩……」

「五分だけ」

 畑さんがいる前で私は許可も取らずに受付をチサへ任せた。情けない声で「あ、ちょっとマチさん」と呼びかけられるも完全に無視。申し訳ないが新人とはパワハラを受ける定めなのだ。一応良い意味でと付け加えておく。

「それじゃー行きますよー。気張って行きましょー」

 よく通るコトカの声が響く。十数メートルの距離を急ぐ。

 ちょうど周辺視野にフリーウエイトゾーンが見える瞬間だった。きっと今頃はラックからバーベルを外し、胸へ下ろすところ。

「いけー!」

 コトカの高い声が木霊する。私もフリーウエイトゾーンの目の前にたどり着いた。コトカの掛け声に呼応し、ガリさんが歯を食いしばってバーベルを押し上げる。

 力を入れるために腹部へ巻いた皮のベルトがウエストラインを強調し、より細く見えた。

 しかし胸を大胆に張り、ブリッジみたいに反り返った腰は重量をあげるために作られた逞しいフォーム。もうガリさんは初心者とは名乗れないと私は思った。

 いつしか私が歯を食いしばり、詰まった息を漏らす。負荷が最もかかるスティッキングポイントで一瞬バーベルが止まりかける。いけ。声が漏れそうになる。と同時にコトカが「あげろー!」と檄を飛ばした。

 私ではない。ガリさんはこの声を聞きながら日々バーベルを持ち上げてきたのだ。

 それは今日も同じ。

 分厚いリングをふたつ取り付けたバーベルは躊躇うことなくガリさんの眼前がんぜんへ持ち上げられる。

 補助についていたコトカが「おおーすごいすごーい!」と声を高らかにはしゃぐ。それにも負けない腹に力が入った「はっ!」というガリさんの気合いの咆哮。

 私はガリさんが声を荒げる姿を初めて見た。

 反射的に背筋のあたりがぞわっとする。重量は関係無い。自分の全力を出し切る姿に心を奪われた。

 荒い呼吸のまま目が据わり、やってやった感を存分に出す。強気という言葉が当てはまる。

 不意にガリさんと目が合った。いつもなら絶対に目を逸らされる。なんなら逃げられる。自信なさそうにして私の視界から外れようとする。なのに、

 今日のガリさんは私を直視する。いつもは自信なさげに丸められた背中が今日に限ってはピンと伸び、凛と立ち尽くしていた。

 そして一直線に私へ近づいてくる。なんだ。日頃からねちねちとフォームを修正しようとした当て付けにでも来るのか。コトカが居れば私など不要とでも言いたいのか。事実、私の指導などなくともガリさんは立派に六〇キロのバーベルを持ち上げてみせた。

 もしかしたらベンチプレスで私へ戦線布告でもするつもりなのだろうか。

 ガリさんが目の前に立つと、一八五センチの高さを改めて感じる。見上げる格好となって対面した。そして、

「マチさん、好きです。僕と付き合ってください」

 …………え。

 私は一瞬だけ呼吸の仕方を忘れた。

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