第12話
花小金井駅のロータリーは広々としている。
西武新宿線のちょうど中間あたり。東京都に位置するが雰囲気はのどかでお世辞にも都会とは言えない。
五月晴れの空は心地よく、待ちぼうけも苦ではなかった。
「今日中に謝る」
私は出部をデートに誘った。デートと言っても多摩湖までのサイクリングロードを散歩しない?」という運動の匂いもちらつかせた曖昧な誘い方。出部からしたらトレーニングの一環と思われても不思議ではない。
メールでの誘いは比較的すぐ返信があった。しかし「うん、行くー」という端的な返信。手放しに喜んでいるようには見えなかった。
しこりが残るが、いつまでもやきもきしているのも性に合わない。早く仕事にも筋トレにも集中したかった。
「変じゃないかな」
Tシャツにデニムのショートパンツ。下ろし立てのスニーカーという動きやすい格好だが『運動』という匂いは出していない。
私のほかにも何人かが駅前ロータリーで待ち合わせをしているが、おそらく私も馴染んでいるだろう。
セカンドバックからスマホを取り出し、時間を確認する。
午後一時の十五分前。
きっと今ロータリーで立っている人たちは私と同じく午後一時に待ち合わせしているのだろう。真面目な性格なのか、あるいは遊ぶのが楽しみなのか。少し早めに来ているのだ。腕時計をちらちらと見る男性や、電車が来る度にそわそわして改札の方を見る学生っぽい女の子がいる。
「マチちゃんおはよー」
出部はロータリーに停車したバス停から降りてくると、温和な口調で寄ってきた。
「おはよ。早かったね」
「うん、マチちゃんのが早かったんだね。ごめんね」
出部は特に不機嫌な様子もなく、頭を掻いてはにかんだ。
「やる気満々の格好だね。さすが」
「うん、多摩湖まで歩くって言うからジムで着る動きやすい格好で来たんだ。チノパンとかで来たら『舐めてるの?」とってマチちゃんに怒られそうだし。マチちゃんは以外と普通の格好なんだね」
「あ、うん」
「でも可愛いから良いと思う。早速行こうか。今日は良い天気だね。きっと気持ち良い散歩ができるよ~」
出部はいつもよりテキパキと歩き出し、わざとらしく腕を振ってウォーキングっぽい雰囲気を出した。
「……逃した」
出合頭という最大のチャンスは思いのほかアクティブな出部によって阻まれる。不覚にも出部の後を追う形で私も小走りで駆け寄った。
時間はまだたくさんある。景色と会話を楽しむのがウォーキングの基本。こんな簡単なミッションはない。
私は昨日の深夜にテレビで見た日本人テニスプレイヤーの話題を持ちかけて他愛のないデートをスタートさせた。
多摩湖へ続くサイクリンロードは狭い。
両車線を合わせても自転車二台分が通れる程度。自転車というよりウォーキングやジョギングをする人が多かった。遊歩道というやつだ。
「それでさ、マチちゃんがアンカーで走った時はクラスメイトが『うおぉ!』ってなったんだよ。もう大興奮」
会話は思いのほか弾んだ。
高校を卒業してから一年という月日は幼なじみだった二人の距離を遠ざけていたらしい。昔話に花が咲く。
「合唱祭ではマチちゃん一人だけ声が大きくてさ。普段は声が小さいのに」
出部は楽しそうに昔話を続けた。言われて初めて「そんなこともあった」と思い出す。この一年間は仕事に熱中し過ぎたせいか、過去を振り返ることなんてなかった。
三〇分ほど歩くと足並みもすっかり揃い、額にもじんわりと汗が滲み始める。並木道の枝葉の隙間から差し込む日差しも相まって、心地良く出部のおしゃべりに耳を傾けた。
出部は相変わらず腕を振って歩き、散歩にしてはペースが早い。会話の端が息継ぎで途切れたりする。
私はわずかに空いた間を狙った。
「出部、まだ先は長い。張り切り過ぎるとバテるよ」
「大丈夫だよ。マチちゃんと歩いてるから疲れなんて吹き飛んじゃう」
何かが違う。出部に気を使うと、その後に何を言えば良いのか分からなくなる。しばらく無言で歩く時間が続いた。
張り切って腕を振る出部。小刻みな呼吸を意識し、背筋を伸ばしている。ウォーキングとは言え、出部がてきぱく歩く姿は新鮮だった。
早足に私もペースを合わせる。気がつくと高校時代に馴染みのある小平駅を通過し、閑静な家並みに景色が見え始めた。
まだ余裕。距離もたっぷりある。お昼と言える時間帯で、私は自分にそう言い聞かせた。
ペットボトルの水がゆらゆらと揺れ、出部の口内へ流れ込んでいく。
こまめな水分補給。仕事中に私が口を酸っぱくして言い続けている言葉。室内と言えど体温が上昇して水分が飛べば熱中症になる。
出部はこの言いつけを盲目的に守っていた。
「自販機があったら止まって良い? 飲み物買う」
「マチちゃんが飲み物持ってないなんて珍しいね」
不覚にも私は水分補給用のドリンクを忘れた。すぐに買えば良かったのだが「忘れた」と言いにくく、見栄を張っていた。
さすがに五月晴れの下で一時間以上も歩き続ければ喉も渇く。
出部は大きな背中の割にこじんまりしたリュックを前へ寄せて、中をあさり始めた。
「良かったら僕のあげるよ。実はまだあるんだ」
「ありがと、でも大丈夫。ちょうど大通りとの交差点のところにコンビニがある」
出部はしゅんと背中を丸くして、露骨に残念がった。横に大きいくせに可愛い態度をとる癖がある。
「少しちょうだい」
貴重な水分を奪われようとしているのに、出部はぱぁっと表情を明るくした。童貞くんみたいに慌ててリュックのチャックを開け直す。
未開封のミネラル水は緩くなり、爽快感はなくなっていた。しかし一口含むと待っていましたと言わんばかりに舌へ染み込む。
思わず喉を鳴らして飲むと「マチちゃん飲みすぎだよ~」と出部は眉尻を下げた。おどおどと周りをうろつくが抵抗はしない。
そのまま半分ほど飲み干してしまった。
「ごめん、けっこう喉乾いてたみたい」
「うぅ~」
「しょうがない。多摩湖の入り口付近にお茶屋さんがあるからそこで何か食べよう」
「大丈夫、せっかくたくさん歩いたんだから我慢する」
出部は胸を張り、早足で一歩前へ出る。顎を突き出して意地を張った顔を作った。やはり出部にとって今日はデートではなくトレーニングなのだろう。
日も傾き始め、ほのかに空が茜色に変わっていく。予定としている多摩湖大橋までもそう遠くないところまできた。
キャップの蓋を閉めて、ちゃぷんと音を立てながら持ち歩く。
出部はお茶屋さんには見向きもせず、相変わらず軽快に歩き続けた。
そろそろ。
小さな焦りが私の歩調を鈍くする。坂道をテンポ良く歩く出部を見て「待ってよ」と思わず小走りになる。
出部は「今日は僕が先頭だよー」と口を尖らして茶化して見せた。
「ついたー」
出部は大橋の上で万歳をして声を高らかにした。
「良い眺めだね」
全長二二キロある多摩湖は見晴らしも良く、山陰から覗く西日が哀愁的。今日の終わりみたいな雰囲気はゴールの達成感も煽り、足がじわーとしびれる感覚になった。
「なんだかんだで三時間も歩いたからね。お疲れ」
「マチちゃんもお疲れっ。ありがとね。わざわざ付き合ってくれて」
「何言ってるの。誘ったのは私の方だし」
「うん。でも最近怠けちゃってたからさ。やっぱり運動すると気持ち良いねっ。明日からまた頑張ってトレーニングするぞー」
良い汗をかいた晴れやかな表情。一週間前の険悪な雰囲気が嘘のようだった。早く言わないと。これ以上後回しにしたら出部のやる気に水を差すことになる。むしろもう手遅れかもしれない。
しかし私の中でしこりを残したままコーチングするなど不健康極まりない。フィットネスインストラクターにあるまじき精神状態だ。
「ねえ出部」
「なあに?」
「この前はごめん。出部がベンチプレスをやりがってた時に頭ごなしに否定して」
「あ、うん。僕の方こそごめんね。マチちゃんがせっかく僕のことを考えて言ってくれたのに。また明日からよろしくお願いします」
出部は深々とお辞儀をした。そのせいで表情まで隠れる。リュックがずれ落ちそうになるのを両手で支えて「うんしょ」と言いながら体を起こした。
何はともあれ、今日の目的は無事に果たした。終わってみればどうってこはない。簡単なことだ。出部も気にしてない様子だし。これで明日から私も仕事に集中できる。はずなのだ。
なのにもやもやが残るのはなぜだろう。
「じゃあ帰ろっか。気温も下がってきたし。出部は着替え持ってきた?」
「うん、上着だけだけど持ってきたよ。ようし、あと半分。頑張って歩くぞー」
「え? あと半分?」
「うん、ここから歩いて帰るから半分。もしかしたら暗くなっちゃうかもね」
あっけらかんと答える出部に、思わず口ごもった。私は最初から往復など考えていない。帰りは電車とバスを使うつもりだった。
ちゃんと伝えたわけではないが一応デートという名目。いくら散歩とは言え、疲れ果ててまで歩こうとは思わない。
「えっと、ごめん。私は電車で帰るつもりだった」
「え、あ、そっか。ごめんごめん。僕の方が早とちりしちゃったんだね。てっきり往復のウォーキングだと思ってた。マチちゃんは優しいなぁ。僕も少しきついと思ってたところなんだ」
出部が頭を掻いて照れ隠しをする。苦笑しながら「よーし、それなら駅までは張り切って歩くぞー」とまた私を先んじて歩き出した。
出部はここに来るまでの間、嫌な顔ひとつしなかった。きっとその表情に嘘はないだろう。
今になって夕日がやたらと眩しい。出部の影法師は本人よりも細長く、追いかけても決して追いつけない理想みたいに見えた。
その影法師を追って、私は罪悪感を押し殺して歩き出す。また出部のやる気を削いでしまったかもしれない。早く追いつこうと思うのに、並んで歩くことのが気まずい。
電車に乗ると、出部は疲れていたらしい。寝息を立てて、席の端にある手すりへ頭を寄りかけた。決して私の方へ寄りかかっては来ない。偶然なのだろうが、私はその偶然に寂しさを覚えた。
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