第11話

 お腹に力が入らない。

 時刻は二三時半。フィットネスジム『ヨミカキ』の閉館時間だ。会員は一人もいない。ジム内も消灯して所々に間接照明が灯るのみ。

 私はフリーウエイトゾーンでスクワットをしていた。主に大腿四頭筋ふともも、さらには大臀筋おしり脊柱起立筋せなかを効果的に鍛えられる。筋力トレーニングのビッグスリーに数えられる種目だ。

「くそ……」

 まだ肩慣らしの重りでバーベルを担ぐが、屈む前からすでによろけそう。

 私はメインの重量をやる前に今日はやめることにした。

「もう終わりか? 珍しく覇気がないじゃないか」

「いつも眠そうって言ってるのは誰ですか」

「業務中は、だろ。筋トレの時だけは目を輝かせてるくせに。この前も昼休み中に自己記録を更新したそうじゃないか」

 インターバル中の畑さんが声をかけてくる。私が遅番で閉館までいる時は一緒にトレーニングをすることが多い。

「暇なら付き合え。今日の俺はキレてるぞ」

 畑さんは自分の胸を叩くと、ベンチプレスのシートに寝そべった。グリップの握る位置を入念に確かめて、薬指からバーへ掛けていく。ぱっと見では分からないくらいの重りがついており、一〇〇キロは悠に超えているだろう。

 自己ベストは私の三倍くらいは上がるらしい。

「何回ですか?」

「一〇。プラス二回。ぎりぎりまで粘ってくれ」

「うす」

 私は畑さんの顔を跨ぐように立つと「よしいこう」と上司を男らしく煽った。

 畑さんの視点だとちょうど私の股関を見上げる格好。しかしお互いに恥じらいなどない。気を抜けば大怪我にも繋がる重量。三桁とは煩悩を通り越すほどの重さなのだ。

 それに嬉しさもあった。

 プラス二回。この言葉は何気なしに私の励みとなる。

 ただでさえ厚い胸板を張ると腕が短く見える。二の腕に比べて手首が細く、腕だけ見れば幼児体型だ。

 だがその腕には私など足元にも及ばない力がこもっている。淀みなく回数を重ね、テンポもなだらかな下降線。

 フォームが悪かったりバーの軌道を間違えると、いきなり上がらなくなることがある。畑さんはで限界が訪れるか分かるほど安定していた。

「じゅう……あと二回」

 仁王立ちしていた私は前かがみになってバーへ手を添えた。触れるか触れない程度。おそらく小指一本でもこと足りるだろう。

「ラスト」

 今度はしっかりと握る。が、ほとんど力を込めることはなかった。ほぼ自力で畑さんは予定の一二回をこなした。

「ああくそ。十一回目はいけると思ったんだが」

「ほとんど上がってましたよ」

「そのほとんどがな、悔しいんだ。マチだったら悔しくないのか?」

「悔しいに決まってるじゃないですか。殴りますよ」

 畑さんは業務中の知的な雰囲気はなく、子供みたいに悔しがる。フィットネス部門のトップとして信頼されているが、人として好かれているのが上に立つ人間のゆえんだった。

「いや~モチベーションあがるわ~。もう一セットやるから補助頼む」

「同じ重さでやるんですか?」

「ああ、調子の良い時に乗らないでいつ乗るんだ。モチベーションは生物なまものだぞ」

 ふと出部がベンチプレスをやりがった時のことを思い出す。失礼かもしれないが出部も畑さんと同じように目を輝かせていた気がする。

「畑さん、ダイエットには遅筋をトレーニングするのが一番ですよね」

「ああ、そうだな」

「痩せたい人が筋肥大のトレーニングをするのは間違ってますよね」

「間違ってるとまでは言わないが効率的ではないな」

「畑さんだったらダイエットしたい人ががっつり筋トレしたいって言ったらどうしますか」

「させるよ」

「え……」

「楽しくジムに通いたいだけの人ならな」

「どういう意味ですか?」

「フィットネスジムに通う人間は大体がやせたいか格好良くなりたいかだ。だが通ううちにジムの居心地が良くなったり、運動するのが純粋に楽しくなる人もいる。目的や目標なんてものは流動的だ。アスリートでもない限りな」

 畑さんの言葉が刺さる。良いも悪いもないのに不安だけが胸をしめつけた。

「さてと、今日は上がるか」

「え、もう一セットやるんじゃ」

「インターバルを取りすぎた。マチが珍しくしゃべりたがるもんだからつい乗せられちまった」

「あ、すみません……」

「元々やる予定じゃなかったからな。構わん」

 トレーニングの興が削がれても、畑さんは嫌な顔せずに伸びをしてからバーベルを片した。私より先に出て行き「電気消しておけよー」とだれた声を出す。

 間接照明が灯ったジムは私一人になり、やたらと静かだ。補助もそうだがこうして何かを任されると嬉しい。その分、責任を感じた。

 信頼してくれるのだから仕事で応えなきゃ。暗がりのジムの電気を完全に消灯し、私もジムから出て行った。


 一晩考えても答えは出なかった。

 出部にこのまま痩せるためのメニューを押し付けるのか。それともやりたい種目をやらせてあげるのか。

 今日、出部は来ていない。珍しくガリさんもいない。いつもと変わらないはずのジムがやたらと静かに思える。

「そもそも出部は私のことが好きなんじゃないのか。私は出部のことが好きなんて言ってないんだから下手に出るのが基本のはずじゃん」

 週三で通う出部とは会わないことのが多いのに、今日いないことが腹ただしい。そもそも昨日だってまともにトレーニングをせずに帰っている。昨日の分を取り返すのに今日来るのが筋ってもの。

「なんかイライラする」

 幸か不幸か、私に助言を求めてくる会員さんはいない。初心者っぽい人もおらず、黙々とトレーニングに励んでいる。

 こんな時は気張らずに過ごすことができる。

「最近デートしてないなぁ」

 ゆったりした雰囲気を良いことにジム内で堂々と私的な感情を漏らすコトカ。いくら小声とは言え、大胆である。

「マチは最近どう? デートしてる? っていうか彼氏はできた?」

 何気ない会話だが私は激しく動揺する。しかしコトカも気が抜けているせいか私の動揺になど気がつかない。ポニーテールの毛先を指で回したりして慰めをする。

「してるわけないし。毎日筋トレ三昧」

「だよねー。毎日仕事してると出会いなんてないもんね。マチは良い男を逃したよ」

「別に良い男とか関係ないし。たまたますれ違いが多くなってそれで」

 何を言い訳してるのだろう。もう終わった話。

「コトカの方こそ浮いた話はないの。会員さんとか」

「会員さんはさすがにまずいでしょ。公私混同は身を滅ぼすよ」

 私はまた激しく動揺する。無自覚とは言え今日のコトカは心臓に悪い。

「まだ学生の友達がいるから今度合コン開いてもらおっと」

 コトカはけろっとした表情でまた歩き出してジム内を見回った。今にして思えば一応形式上は出部と私は付き合っている。

 しかしデートはおろか、食事だって一度たりともしたことがない。

「……デート」

 甘美な言葉を口にしても全く恥ずかしさが膨らまない。出部といちゃいちゃしている姿が全く想像できなかった。

「でもまあ、このままじゃ良くない気がする」

 出部とはまだ気まずい雰囲気になってからメールすらしていない。

 ランニングマシンの方へ向かい、ウォーキングをしている会員さんの姿を一人一人見て回った。皆、黙々と歩いている。いつもなら出部もここが主戦場。

 イヤフォンで音楽を聴く人、備え付けにテレビを見る人、娯楽を遮断し、しっかり腕を振る人。

 自分のトレーニングではあまり使わないマシン。

「たまには歩いてみようかな」

 私は空いているマシンに乗ると、動作確認をする名目で少しだけ歩いてみた。ゴム製のコンベアは摩擦が強く歩きやすい。しかし一向に景色は変わらないため、退屈をしのぐ工夫は必要だ。

 かく言う私も学生時代は陸上部の中距離選手。トラック競技だから景色が変わることはなかった。

「飽きてきちゃったのかな。でも楽しそうにスタジオレッスンも出てたし」

 ゆっくりと歩く。少し傾斜をつけてみる。

「別に私が悪いことしてるわけじゃないんだけど」

 自分に言い聞かせるも、罪悪感が心の中を埋め尽くそうとする。たまらず速度を上げてもやもやしたい気分を発散したくなるが、我慢してマシンを止める。

「不健康だ」

 私は大きく深呼吸をすると、出部のいないジム内を見渡す。物足りなさを覚えるジムはいつもより大きく感じた。

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