第10話
一〇キロの輪がふたつ増えた。
総重量は四〇キロ。ガリさんがベンチプレスで持ち上げる重さだ。
出部やガリさんが通い始めてから一ヶ月が経ち、まめに通ってる二人はジムの空気に馴染み始めていた。
「最近のガリさんすごく調子が良いんだよ」
控え室でコトカが嬉しそうに話してくる。
「相変わらずガリガリなんだけどね。しっかり胸が張れるようになったし、背中の反りがでてきたの」
「なに、コトカはガリさんみたいのがタイプなの?」
私が露骨に湿っぽい視線を送ると「やきもち?」としたり顔をする。コトカのが一枚上手だったのが面白くない。頬づえをついてそっぽを向くと、今度はけらけらと笑った。
「ガリさんね、筋トレする目標があるんだって。だからあんなに頑張ってるんだよ」
「え、コトカにはジムに通う理由を教えてくれたの?」
「うん、目標はマッチョ君だよ」
週五で通い詰め、トレーニング初心者にも関わらずベンチプレスに手を出すくらいだから体を鍛えたいのはさすがに想像がつく。
私が知りたいのはその先だ。彼をそこまで駆り立てる理由。
「知りたい?」
「別に。どうせ教えてくれないでしょ」
コトカは「ばれたか」といたずらっ子っぽく舌を出した。どこまでも人を食った返しに、机越しに頭を叩くが避けられる。
「でもマチが可哀想だからヒントをあげるね。ジムに通う前と通い始めてから目標が変わったんだよ」
「なにそれ。ヒントになってないんだけど」
コトカは「これ以上は駄目だよー」と唇を尖らして私を挑発する。完全にコトカの思うつぼ。出勤時間までまだ少し時間があるが、逃げるように少し早めにジムへの扉を開けた。
「出部さん、なにやってるんですか?」
「あ、マチちゃん。見て見て、僕もベンチプレスを始めたんだよ」
こちらが他人行儀の言葉を使っているのを台無しにするタメ語。だが問題はそこではなかった。
「ガリさんすごいよね。あんに細いのに大きな人たちに混ざって。僕も頑張らなきゃって思ったんだ」
「うん、でも出部さんの目的はダイエットだから軽い負荷で回数こなすのが効果的ですよ」
「僕も男だからね。やっぱり力強く重いものを持ち上げたいよっ」
「トレーニングの趣旨を間違えると出るはずの効果も出ませんよ」
「だって一ヶ月ちゃんとサボらず通ってるのに全然痩せないんだもん」
出部の語気にかすかな棘が見え隠れする。
「どうしてガリさんは男らしい筋トレをして良いのに僕は駄目なの?」
「ガリさんは体に筋肉をつけて逞しくなるのが目的なの。筋肥大をするために負荷をかけて速筋へアプローチするのが効果的だから」
「ゆっくりやるよりがつがつやった方が良いじゃん」
「出部は細い遅筋へアプローチだからテンポもゆっくりなの」
正論のはず。なのに出部の表情はどんどん曇っていく。というより反抗的に見えた。こんな出部を見たのは初めて。
「出部はちゃんと頑張ってる。テンポだってゆっくりのがきついのに早くならないように維持してる。筋トレで疲れてるのに有酸素運動だって欠かさない。まだ数字には出てないけど出部の体は変わってきてる。私が保証する」
事実だし自信もある。
ならどうして言い訳がましく聞こえるのだろうか。業務的な口調はあっさりと崩れ、私的な感情が漏れ出そうになる。
「出部さんには痩せてどうなりたいかという明確な目標があるじゃないですか。そのためには遅筋へのアプローチとカロリーを消費する有酸素運動が一番です。マラソン選手ががつがつ筋トレをしないのと同じですよ」
言いくるめたいんじゃない。
「今日も頑張ってトレーニングをしていきましょう」
私は話をまとめると、逃げるように出部から離れた。出勤したばかりだというのに気分は最悪。
出部はしばらくの間やりたいはずのベンチプレスも、やるべきはずのスロートレーニングもせずにずっとストレッチをしていた。硬い体は今にも転げそう。三〇分ほど続けて、結局他には何もせずにジムから出て行ってしまう
出部は初めて私の作ったメニューをやらなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます